2009年12月
Selamat siang(スィラマッ スィアン)=こんにちは!
ジャカルタで走るオート三輪タクシー「バジャイ」。
清水さんは、高校の交換留学でオーストラリアに行った時、想像以上に近い位置にインドネシアがある事を知り、インドネシアに興味を持ちました。大学ではインドネシア語を専攻し、インドネシアについての知識と経験を更に深めるために、在インドネシア日本国大使館の派遣員に応募しました。大学を休学して、大使館で2年間働いた清水さんは、帰国後、大学卒業にあわせ外務省をインドネシア語で受験、見事合格しました。
「インドネシアは17,000もの島からなる世界最大の島嶼国家で、300以上の言語や様々な種族からなる多様性国家です。オランダからの独立の気運が高まる中、1928年、バタヴィア人、ジャワ人、スンダ人、アンボン人といった様々な種族の青年が参加した会議において、『青年の誓い』が宣言され、インドネシアが自分たちにとってひとつの祖国、ひとつの民族であることを確認し、インドネシア語を共通語とすると決議しました。そして、1945年独立後、インドネシア語は、学校教育等により加速度的に定着し、テレビやラジオを通じ全国に浸透しつつあります。インドネシア語は、交易語として広く使われていたマレー語を核としてできた言語ですが、サンスクリット語、アラビア語、オランダ語などの外来語に加えて、ジャワ語、スンダ語などの地方語の影響を受け、マレー語とは異なる進化をしています。」
「日本人にとって、インドネシア語は学びやすい言葉の一つです。発音が日本語に似ていて、アルファベットに対応する読み方のコツを覚えてしまえば、ほぼローマ字読みで通じますし、発音やアクセントも比較的容易です。特徴的なのは、同じ単語を重複させることです。『orang(人)』が『orang-orang(人々)』と複数になったり、『dalam-dalam(深々)』のように副詞化する場合があります。また、『kira-kira』は、『だいたい』、『約』という意味ですが、日本人にとって耳につきやすい印象的な単語なので、『キラキラってどういう意味ですか?かわいいですね。』とよく言われます。文法規則は少ないので楽なのですが、逆に例外が多いのでわかりにくく、語彙を豊富に習得する必要があります。次のステージにステップアップしていくのが難しい言語で、言語習熟度が如実に表れます。」
「1996年に派遣員としてインドネシアに赴任したのですが、1997年頃からアジア通貨危機の影響で経済が混乱したことをきっかけに、インドネシア国内ではスハルト政権に対する不満が表面化しました。次第に、社会全体が落ち着かなくなり、 国内の大学で毎日のようにデモが起こるようになりました。1998年3月、橋本総理は速やかな政権交代を促すためにインドネシアを訪問してスハルト大統領と会談しました。この会談を最後に、私は任期終了のため、後ろ髪を引かれる思いで帰国したのですが、その約1か月後にジャカルタ暴動が起こり、ついにスハルト政権が崩壊しました。インドネシアの専門性を高めたいと思っていた私にとって、歴史的な瞬間に立ち会えなかったことが残念でなりませんでした。」
清水さんは、外務省入省後、インドネシアなどを担当する南東アジア第二課で勤務しながら、更にインドネシア語を勉強しました。「これまでの日常会話的なインドネシア語を通訳レベルに引き上げるため、授業は、語彙と正式発音の習得が中心でした。先生はNHKラジオのアナウンサーだったので、大統領の演説等を教材にし、読む速度や息継ぎにも気を遣う等、正しいインドネシア語を身につけられるよう特訓してくださいました。インドネシアでも、『国営インドネシア・ラジオ/テレビのアナウンサーのように』というのは正しい発音・イントネーションを指しています。おかげで、日常会話と通訳の言葉を使い分けることができるようになりました。」正式な会談の通訳にはやはり、特別な訓練が必要だったのですね。
インドネシアで研修を開始した清水さんは、中部ジャワのジョグジャカルタにある国立ガジャマダ大学で学び、ジャワ語にも挑戦しました。「大学では、勉強以外にも民族や習慣の違いなどを学びました。予告なしの休講が続き、試験も中止になった時は、あまりに無責任だと教授の部屋へ抗議に乗り込んだのですが、教授は私の行動に驚愕するばかり。クラスメートは『仕方ないさ』と意に介さないので、私は一人で憤慨していました。実は、ジョグジャカルタは王宮文化と歴史ある町として名高く、そこに住むジャワ人は穏やかで遠回しな表現を好み、年上や位の高い人を重んじます。このため、学生が教授に抗議することなどありえないことだったのです。そうかと思うと、スマトラ島のバタック人は、白黒はっきりつけたがるカラッとした性格で、ジャワ人とは正反対ですし、○○人は歌がうまい、△△人は商売がうまい、××人はケチ、など民族ごとにステレオタイプがあります。更に、人種ではマレー系や中華系の他にも、オーストラリア先住民に似たメラネシア系の住民がいて、宗教ではイスラム教徒だけではなくキリスト教徒や仏教徒もいるので、バラエティの豊富さには飽きることがありません。出身地に関係なく、誰もが人なつっこく明るい性格なのはインドネシア人に共通しています。」
断食明け大祭(イドゥル・フィトリー)の初日朝に行われる合同礼拝(ソラット・アクバール)。
「研修中はインドネシア人の家に下宿していたので、インドネシア語習得には良い環境でした。しかも、大家さんがイスラム教徒だったので断食月の習慣も体験できました。断食をしている人は、日が沈んだ午後6時頃、甘い物を食べて胃を慣らし、その後、本格的に夕食をとります。更に、寝る前に食事をしたり、夜が明ける直前に起きて朝食を食べます。インドネシアでは自分だけ食事することは失礼だという習慣があるので、私にも盛んに勧めてくれるので、断り切れず、夜もたくさん食べてしまいましたね。」清水さんによれば、インドネシアでは断食を行わない非イスラム教徒が1割くらいいるので、レストランは通常営業しているそうです。「多様性、寛容性があるインドネシアでは、イスラム的中庸を重んじ、人に戒律遵守を強要せず、自分のイスラム敬虔度を高めます。教えを厳格に守る人がいる一方、お酒を飲むイスラム教徒もいますし、服装も本人の自由です。女性は、ジルバブ(女性のイスラム教徒が被るベール)を強要されず、逆におしゃれアイテムの一つになっていて、イスラムファッション誌にジルバブの結び方やアレンジ特集が掲載されるなど、色彩豊かなファッションを愉しんでいます。」
清水さんは、研修中、3か月間アメリカに留学し、ウィスコンシン大学大学院でインドネシア研究を学びました。「ここでは、インドネシア人のホスピタリティに触れ、感激する出来事がありました。アメリカ到着当時、大学寮やアパートに空きが無く困っていると、インドネシア人クラスメートが、初対面にもかかわらず、自分の部屋を私に貸してくれると言うのです。その人は友達の家に一時的に引っ越し、代わりに私が彼女の部屋に住むことになりました。また、別のインドネシア人は、私が一人でかわいそうだからと、討論会に加えてくれたり、パーティーや映画、食事に誘ってくれたり、多くの時間を一緒に過ごすことができました。アメリカでは、インドネシアのように『どうしたの?どこ行くの?手伝ってあげるよ』と近づいてくる人がいないので、インドネシア人の温かさを大変ありがたく思いました。外国人であっても、インドネシア語を話すことなどがきっかけとなって、あっという間に数年来の友人のように接してくれるのがインドネシア人です。」
ガジャマダ大学でのライブ公演では観客も大興奮。
清水さんがガジャマダ大学で研修をしていた2003年は日ASEAN交流年にあたり、日本大使館主催イベントが活発に行われていました。そこで、清水さんは、大学で日本文化発信イベントを計画しました。「『日本とインドネシアの今を交流させる』というコンセプトで、7日間かけて映画上映、展覧会とライブ公演を行いました。国際交流基金から借用した字幕付き日本映画、インドネシアのアマチュア・アニメーション映画や短編映画を上映し、展覧会では、インドネシアで活躍する日本人とインドネシア人の若手アーティスト10名の絵画、彫刻などを展示しました。ライブ公演には、インドネシアのインディーズ・バンド7~8組を招待し、オリジナル曲と日本の曲を演奏してもらいました。ノイズ系バンドによる五輪真弓の歌『心の友』や、スカバンドによる『ドラえもん』の演奏が始まると、大学の中央広場に集まった3000人以上の観客は大興奮。地元ラジオ局のライブインタビューも入り、大変盛り上がりました。」インドネシアでは、他のアジア諸国と同じく『ラルク・アン・シエル』などの日本のビジュアル系バンドが人気ですが、『J-Rocks』というインドネシア・バンドがメジャーデビューするほど大人気なのだそうです。
研修が終了し、清水さんは在インドネシア日本国大使館
の広報班に配属になりました。「主にインドネシア人記者との連絡を行い、報道発表等の情報を携帯電話のショートメッセージサービス(SMS)で発信していました。機能上の問題で携帯電話から一斉送信ができず、毎回約100名の記者一人ひとりに送信していたので、それぞれの記者と交流が深まり、お互い情報を共有できるようになりました。その後、経済協力担当となり、ジャワ南海岸地震やジャカルタ地震の時には、発生日に現地入りして調査をしたのですが、以前知り合った記者と現地で新着情報を交換したり、日本の緊急援助隊の取材を依頼したりしました。スマトラ沖地震の時は、日本は多額の無償資金協力を行い、道路や病院、孤児院、漁場等を整備しました。特に日米協力で道路を再建した時は、バンダアチェ~ムラボー~チャランのうち、ムラボー~チャラン間を1年で開通させることができ、地元の人々にとても喜ばれました。本当にうれしい思い出です。」
2004年12月スマトラ沖地震で支援活動を行う自衛隊員とのふれあい。この写真は全国紙の一面トップを飾りました。
2006年5月に発生したジャワ中部地震の被災地。地震発生の翌日に現地入りして情報収集しました。
日インドネシア間の交流は盛んで、日本からの訪問団も多く、通訳業務は大使館の数名が分担して行っていたそうです。「初めてハイレベルの通訳を行ったのは、日インドネシア協会会長をしていた福田総理とユドヨノ大統領の会談でした。ユドヨノ大統領と旧知の仲である福田総理の発言をそのまま訳したところ、新顔の通訳である私が、いきなり親しげな様子で話しかけたためか、ユドヨノ大統領の眉がピクリとしたのを今でも忘れることができません。また、大使館勤務の終盤には、安倍総理夫人の障害者学校訪問やJICAが支援する女性警官交番の視察等、様々な場面の通訳も経験をさせていただきました。」
「日本とインドネシアの関係は非常に良好で、各分野で深いつながりがありますが、個々に見ると発展させるべき分野や強化すべき程度に際限はありません。現在、私は外務省の専門機関室という部署で、WHOや世界基金などの国際機関を通じて国際社会での保健課題への取組を進める仕事をしています。今後は、こうした経験も生かしつつ、日インドネシア関係の発展に多角的に貢献できるよう、語学力や専門性を高めて幅広い経験を積んでいきたいと思っています。」
Masuk angin(マスック・アギン):「風邪を引く」
masukは入る、anginは風。体の中に風が入ると体調を壊すと言われていて、熱、悪寒、くしゃみなどの風邪の症状がでると、毛穴から空気を出すためとして背中にマッサージ油を塗ってコインでこする(kerok:クロック)。どうやらツボ刺激と似ているようだが、その効果は謎。
Mohon maaf lahir dan batin(モホン・マアフ・ラヒール・ダン・バティン):直訳すると「心に思ったこと(batin:心の内)と行動に移したこと(lahir:生まれる)(=全ての罪)を許して下さい。」断食明け大祭にイスラム教徒が交わす挨拶。日本語でいう「新年あけましておめでとう」にあたる。
Terima kasih(テリマカシ):ありがとう。Terimaは受け取る、kasihはあなたの気持ち。
Mudah-mudahan(ムダムダハン):「願わくば。」約束をするとこの返事が返ってくることが多い。OKと言ってくれないが、実現するかどうかは神の采配なので自分には決められないということの現れ。実現しなくても約束を破ったことにならなくてすむ。
★インドネシア語を主要言語とする国:インドネシア共和国
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