2009年3月
Selamat tengah hari(スラマッ・トゥンガハリ)=こんにちは!
大学でマレーシア語を専攻していた川端さんは、外務省に入省してマレー語を第一希望にした結果、見事希望通りに! たくさんの言語がある中で、なぜ大学でマレーシア語を選択しようと思ったのでしょうか。(マレー語は、東南アジア島嶼部一体の共通語。マレーシア語は、マレーシア、シンガポール、ブルネイで国語として話される言語。言葉自体にほとんど違いはない。インドネシア語の元になった言葉でもある。)
マレーシア最大級のモスク スランゴール州のシャー・アラム・モスク(通称ブルーモスク)
「外国語大学への進学を考えていた時に、募集定員が少ない言語の方が希少価値があるだろうと単純に考え、当時、大学の募集定員が15名と最も少なかった言語の中から、アジアの言語で親しみを感じたマレーシア語の専攻課程を受験しました。早速、大学一年生から週6コマのマレーシア語の授業を受け、マレーシアを中心とした東南アジアについて、政治・経済や文学など様々な角度から学びました。マレーシアという特定の国ではありましたが、一つの国をあらゆる角度から観察するという姿勢が身に付き、外務省で仕上事をするでも、他の国や分野を担当する時に応用がきいています。」一つの事を見据えてじっくりと研究したんですね。
川端さんによれば、マレー語の文法はシンプルで、欧米諸言語にあるような格変化や時制、女性・男性名詞等の複雑な規則はないそうです。発音も、中国語のような声調(音の高低)はないので、マレーシア語は学びやすいと感じたそうです。 「母音が6つあり、少し変則的な発音変化があることを除けば、マレー語は日本語のカタカナ発音でもそれなりに通じます。マレー語らしい語調(文章中の音の高低や流れ)が一番重要なのです。」マレー語の教材は充実していましたか?「当時は教科書らしい教科書がなかったので、大学一年の夏には、マレー語の新聞や雑誌を教材として使用していました。大学の先生の手製資料も使いましたね。」
マレーシアの主要言語はマレー語と英語。川端さんの研修先、クアラルンプールから少し離れたところにあるマレーシア国民大学での授業や普段の会話は、マレー語を主体としながらも、気が付けば、英語に切り替わっていて、またマレー語にもどるということも珍しくなかったそうです。「大学でのマレー語や英語の会話に苦労はしなかったのですが、大変だったのは現地の人たちが話す英語でした。」 川端さんは、水しか出ない共同シャワーと洗濯機のない大学寮生活を3か月間経験した後、中国系不動産屋でアパート探しをはじめたそうです。「不動産屋さんが何を言っているのか全く聞き取れなかったので、仕方なく『マレー語か英語で話して欲しい』と頼んだところ、『さっきから英語で話していますよ。』との返答が・・・。てっきり中国語を話していると思い込んでいたのですが、そう言われてよく聴いてみると、中国語のような抑揚がついているものの、確かに英語でした(笑)。」
マレーシアはマレー系、中国系、インド系、その他少数民族から成る多民族国家なので、家庭内でも英語を含めた複数言語で会話されることも珍しくないそうです。「マレーシア政府は、ブミプトラ政策(マレー人を中心とした『ブミプトラ』の経済的地位向上のための優遇制度。『ブミプトラ』とは、マレー語で「土地の子」を意味する)を実施していますが、それによって他の民族が迫害されている訳ではありません。各民族は、お互いの違いや権利を認め、侵害しないようにしているのです。例えば、教育においては、小学校までは、主要3民族(マレー語、中国語、タミール語)の学校を選んで進学することができます。また、政治においては、与党連合は、各民族を支持基盤とする複数の政党で構成されていますし、毎年の政党大会では各民族の言語で演説を行うことができるのです。そのため、表だった民族的な軋轢も生じないのです。こうしたマレーシアの民族共存のあり方は、実に様々なことを教えてくれました。」
チャイニーズ・ニューイヤーで寺院に参拝する仏教徒
ヒンドゥーの祭り「タイプーサム」。
体に針や鉄串を指して飾る奇祭。インドでは禁止
川端さんは、2002年5月から在マレーシア日本国大使館で勤務を始めたのですが、翌6月には22年間首相を務めていたマハティール氏が突然、引退宣言をしたそうです。「政権交代にあたり、情報収集・分析を行うことで非常に勉強になりました。多忙な要人から情報収集するために、夜遅くや朝食時間に会って話を聞くことも多かったです。結局、首相交代は約18か月後の2003年10月に行われたので、大使館を挙げて情報収集をした結果、新政権に対し的確に対応できたと思います。現在のアブドゥラ新政権になって初めての総選挙が行われた2004年には、各候補者の地方での選挙活動を視察しました。結果は、90%の議席をとった与党連合の歴史的大勝でした。選挙当時に知り合った人たちの一部が、現在では、閣僚や州政府の要人に就任しているので、その人の報道を見ると懐かしくまた、嬉しく思います。」
改装前のコミュニティーセンター(入口)
大使館時代、川端さんは草の根無償資金協力のため、コミュニティーセンター再建計画に携わったそうです。「2001年、首都郊外で発生したマレー系とインド系の住民衝突は死傷者まで発生する事件となり、インド系の貧困問題が浮き彫りになったのです。マレー系は、政府による優遇政策があり、中国系は民間企業や出身地域の団体が奨学金出資などで支援しています。しかし、インド系社会では、そうした仕組みが脆弱だったのです。そこで、インド系が主宰するNGOと州政府が行う事業を支援する形で、事件地域にコミュニティーセンターを再建することになりました。計画は、新築された低所得者向けのアパートの1階部分をコミュニティーセンターに改装するもので、NGOが若者の職業訓練や健全育成、シングル・マザーの自立を目指すセミナーを行うこととしていましたが、資金が十分ではありませんでした。このため、大使館はセミナー参加者の移動車両や、机・椅子等の基本的な機材を提供し、コミュニティーセンターの再建を指示しました。この支援がモデルケースになればと思います。」 このような支援は、『建ててしまえば終わり』ではないので、川端さんは、その後も何度か現地に足を運び、運営状況やセミナーを視察し、NGOや地元の住民の人たちと交流を図ったそうです。
マレーシアのことならなんでも任せろ!
「外務省では、語学専門家と同時に地域の専門家になることが求められているのです。語学は、地域理解のための道具の一つなので、『語学専門家』とだけ言われることは抵抗があります。」と話す川端さん。『地域専門家としてその国を理解するには、地元の人たち以上に地域に密着する必要がある』と考え、それを実行していたそうです。
大使館時代は、大使の公式訪問の同行や、地方政治情勢などの調査のため、マレーシア各地を訪れたり、マレーシア事情に精通する地元識者や日本人研究者とも議論を重ねたそうです。現在でも川端さんは学術論文による研究発表や、日本マレーシア研究会(JAMS)等学会活動にも積極的に参加しているそうです。「こうした場で研究者と意見交換を行い、人脈を広げていくことは、外務省の地域専門家として重要です。特に、日本のマレーシア研究はレベルが高く、世界水準に到達しており、研究者との連携はとても大切なことだと考えています。」
「外務省は、個性と特性が生かせる職場。私は、入省以来、優秀で経験豊富な上司や同僚に恵まれ、比較的自分のアイディアを出しやすい環境で仕事をさせてもらっています。また、幸運なことに、大学時代から専攻していたマレーシア研究で培った知識・理解を活かし、応用することのできるポジションを与えてもらっています。今後も、日本外交に貢献でき、自分にとっても良い経験となるポストに配置されるかどうかは、私の仕事の成果次第だと考えています。」知識と経験を深めるには終わりがないんですね。
Makan angin(マカン・アンギン)直訳:空気を食べる 意味:気分転換に出かける(マレーシアの田舎を思わせるとてもマレー語らしい表現)
Tidak apa-apa(ディダ・アパアパ)意味:気にすることはない(マレーシア人のゆったりとした気持ちが表れている)
★マレー語を主要言語とする国:マレーシア、ブルネイ・ダルサラーム国、シンガポール共和国