2008年10月
Dag(ダッハ)!=こんにちは!
凍った運河でスケート。橋も架かっていますね。
野村さんは、外務省における専門語学を選択する際、ヨーロッパの歴史・文化への関心から、ヨーロッパ圏の語学を希望しました。野村さんが入省した年には、ヨーロッパ言語としてはオランダ語の採用枠があり、希望どおりオランダ語を専門語とすることになりました。1年間の本省勤務を終えた野村さんは、その後、オランダのライデン大学で2年間学ぶこととなります。
ライデンの町に到着した野村さんは、大学が斡旋する住居物件の中から、煉瓦造りのアパートを選びました。そのアパートは2階建ての一軒家が何軒も繋がっている作りになっていて、車庫の代わりに自転車倉庫が完備されていたそうです。自転車はオランダ家庭の必需品なのですか?「ライデン大学のキャンパスは旧市街にあるのですが、旧市街は道路が狭く入り組んでいるので、幅のある自動車では不便なんです。しかも、旧市街は平らなので、自転車が一番便利という訳です。」
「ライデンの町はライン川の支流にあるので、町中に運河が張り巡らされています。町の周りも運河が取り囲んでおり、運河は町のお堀としても機能していました。いわば、水を利用した要塞都市ですね。冬場に運河が凍れば、みんなスケートを楽しみます。」 スケートは、自然のままの氷で滑り、製氷はしないそうです。水が緩やかに流れるから、表面のきれいな氷が出来るのかもしれませんね。
野村さんのアパートから大学までは自転車で10分ほど。ほとんどの時間を大学構内で過ごし、昼夜の食事をとる学食は、オランダ語を上達させる上でも、オランダを知る上でも最も有効な交流の場だったそうです。野村さんの話によれば、鎖国時代の日本に医師として滞在したシーボルトは、オランダに戻った後ライデンに居を構え、日本から持ち帰ったコレクションを一般公開し、ライデンがオランダにおける日本学の中心地となる礎を築いたそうです。「ライデン大学には日本学を学ぶ学生が多く、彼らともオランダ語で交流し、日本を紹介しました。オランダ語を学ぶためにもとても良い環境を作り出せたと思います。」自らをオランダ語の中にどっぷりつける、これが野村流の上達術かもしれません。
「鎖国時代の日本にとって、オランダは唯一の西洋の国。そのため、黒船が来航した時、日本側代表者が米側に発した最初の言葉は、"I can speak Dutch."だったそうですよ。米側は日本人がオランダ語しか話せないことを知っていたので、ちゃんとオランダ語の通訳を連れてきていたんですけどね。」と野村さん。なるほど、日米和親条約の交渉は、当時日米間の共通言語であったオランダ語で行われたんですね。
「オランダ語に由来する日本語がたくさんあるので一部ご紹介しましょう。」
ontembaar(オンテムバール、(動物など)飼い慣らすことができない、の意味の形容詞)→おてんば
Jantje(ヤンチェ、一般的な男の子の名前)→やんちゃ
rugzak(リュッフザック)→リュックサック
ransel(ランセル、兵士の背嚢の意味)→ランドセル
pincet(ピンセット)→ピンセット
mes(メス、オランダ語では「ナイフ」の意味)→(手術用の)メス
草原に並ぶたくさんの風車
オランダ語の特徴はなんですか?「オランダ語は発音がとても難しいので、最初の段階で正しい発音をしっかりと身につけることが大切ですね。ちなみに、ドイツ語とオランダ語はよく似ていると言われますが、外国人が同時に学ぼうとするとかなり混乱するようです。」隣国同士なのに、ドイツ語とオランダ語は近くて遠い存在なんですね。
オランダ人は、英語の他にフランス語やドイツ語など、1人で何か国語も話せる人が多いそうです。特に、英語はとても多くの人が話せるとのこと。「まだオランダ語を学び始めて間もない頃のことですが、オランダ人とオランダ語で話していて、一言英語を使った途端に会話が英語に切り替わってしまう、といったことがよくありました。ですので、研修中は一切英語を話さないよう気を遣いました。日本人にとって入り口の敷居が高い言葉だと言えますが、その敷居を乗り越えて一旦中に入れば、便利きわまりないのは言うまでもありません。そして何より、重要な情報源である新聞、テレビ、ラジオ、公文書等はすべてオランダ語ですから、オランダを知る上でオランダ語を学ぶことは必要不可欠です。」
野村さんは研修終了後、ハーグにある在オランダ日本大使館に勤務しました。「ある文化関係行事に招待された時、即興でスピーチを頼まれたので、オランダ語でご挨拶をしたのですが、翌日、大使館に出勤するとオランダ人の同僚達が口々に、『昨日テレビ見ましたよ』と言うのです。いつの間にか私のスピーチを含め行事が取材されていて、それが夜のプライムタイムに全国放送されたらしいのです。驚くと同時に、オランダ語での情報発信は有利だということをあらためて実感しました。大使館勤務中は、皇族や閣僚等の方々の通訳の機会もあり、貴重な体験として思い出に残っています。」
大使館での勤務を終え帰国した野村さんは、蘭和辞典の編纂に協力する機会を得ました。「実は、私がオランダ語を学んでいた頃は、蘭和辞典はまだなかったのです。江戸時代に稲村三伯ら数名の蘭学者が編纂した日本最初の蘭和辞典である「ハルマ和解」は有名ですが、戦後、本格的な蘭和辞典が作られたのは、90年代に入ってからです。ですから、留学中は、蘭英・英蘭辞典で勉強していました。オランダ語を学びながら、同時に英語の語彙も増えましたね。」歴史的な一歩を印す編纂に携わるなんて、めったにないことですよね。
野村さんのオランダ研修時代は、外国人は英語で十分と言われていたのですが、「最近では、経済的理由でオランダにやってきた移民が閉鎖的なコミュニティーを作る傾向が社会問題化しています。そのため、オランダ当局は移民の社会統合政策を推進しており、『オランダに住む外国人はオランダ語を話せなければならない』との方向に、180度雰囲気が変わってきました。」 野村さん、これからもオランダ語の活躍の場はどんどん広がっていきますね。
オランダといえば、チューリップ畑ですね。
「オランダ人の国民性をあえて一言で言えば、質素、倹約、勤勉。また、スペインとの戦争を経て独立したお国柄もあってか、何事にも批判的精神が旺盛です。このような国民性は、次のような英語の慣用句にも表れています。英蘭戦争でイギリスがオランダと不仲だった時代にできたものですが。」
- go Dutch 割り勘にする
- Dutch treat 費用自弁の会食等
- Dutch uncle 何事も遠慮なく批判する人
water in de wijn doen.(ヴァーター イン デ ヴァイン ドゥーン)
:ワインを水で割る(譲歩する)。
de kat uit de boom kijken.(デ カット アイト デ ボーム カイケン)
:木に隠れた猫が出てくるのを見守る(事態の推移を見守る)。
Door schade en schande wordt men wijs.(ドール スハーデ エン スハンデ ヴォルト メン ヴァイス)
:損をして恥をかきながら人は賢くなる。
Hoge bomen vangen veel wind.(ホーヘ ボーメン ファンゲン フェール ヴィント)
:高い木は強風を受ける(高位の人は非難されやすい)。
Eigen haard is goud waard.(エイヘン ハールト イス ハウト ヴァールト)
:我が家の暖炉は黄金の価値(我が家に勝るものはなし)。
★オランダ語を主要言語とする国: オランダ王国