2011年3月
Добар дан!/Dobar dan!(ドバル・ダン!) = こんにちは!
外務省に入る以前には,留学の経験どころか,日本から出たことさえなかったという坪田さん。「恐らく誰もが一度は思うように,外国に留学してみたいなあと思ったことはありましたが…。」
ベオグラード市の新市街から旧市街を望む
だからこそ,外国に出て見聞を広めたい,との思いが強かったのでしょう。それが,外交官を志す一番大きな理由だったと思います。もちろん,外交というのは,国と国との関係を作るというスケールの大きな,やりがいのある仕事ですので,そのような仕事に就きたいという思いもありました。
私が外務省に入省したのは,ソ連が崩壊した1991年です。その前には,東欧諸国の民主化があり,この地域に激動が訪れていた時でした。ですので,この地域に関心を持ったのです。研修語として決まったセルビア語は,東欧の社会主義国でもソ連圏の国々とは一線を画していた旧ユーゴスラビア連邦で全般的に話されていた言葉なので,それなりに関心はありました。しかし,ソ連崩壊と同年の1991年に,旧ユーゴスラビア連邦を構成していたスロベニアとクロアチアが独立宣言をするなど,民族紛争や連邦崩壊への道を辿り始めたので,「この先,ユーゴはどうなるのだろう。」と非常に不安な気持ちを持ったことを覚えています。
事実,1990年代前半,セルビアは,クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナ との間で紛争状態に陥り,その結果,20万人の死者と200万人の難民・国内避難民が発生しました。私は,1992年に語学研修のためセルビアに赴任するはずでしたが,クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナでの紛争が激しさを増し,セルビアはその責任を問われる形で国連による包括的経済制裁が課され,情勢が流動的になったため,とりあえずロンドン大学のスラブ・東欧研究所というところで研修することになりました。セルビアで2年間研修するはずのところが,ロンドンということになり,「これでは十分セルビア語をマスターすることはできないのではないか。」と不安に駆られた私は,全く偶然に知り合ったロンドン在住のセルビア系一家に頼み込んで下宿させてもらいました。この一家とは今でも親交が続いています。
翌1993年夏には,無事にセルビアに赴任することができました。経済制裁のため,首都ベオグラードへの国際航空便が全面的にストップしていたので,ウィーンから陸路での赴任となりました。語学研修は,ベオグラード語学専門学院の外国人用セルビア語コース,ベオグラード大学政治学部大学院での聴講及び家庭教師の3本立てで進めることとし,とりあえずは研修体制を整えることができました。
しかし,生活面は,正直なところ厳しかったです。経済制裁下での物資不足,物価の高騰,闇市場の横行など,市民生活が直撃を受けていました。特に,物価の高騰は,いわゆるハイパー・インフレの状態で,セルビアの通貨であるディナールが,当時の中央銀行によって濫発されていた関係で暴落が激しく,レストランで食事をしている最中にも値段が変わるので,店員がその度に値段の書き換えにやってきました。スーパーマーケットでも,値段の書き換えのために店を閉めてしまい,その間は買い物ができないということが1日に複数回ありました。
セルビア北部のひまわり畑
中央銀行は,週に一度はゼロを6つ省くというようなデノミをしていたような状況で,日常会話ではゼロを6つ省いて値段を言っていました(例えば,1億ディナールであれば,100ディナールと言うなど)。当時発行されたディナールの最高額は,5千億ディナール札で,数字を聞く限りではお金持ちになったような気分になりますが,それでも新聞が10部買える程度の価値で,数日すると5千億ディナールの束がないとパンも買えないという有様でした。
そんな中にあっても,セルビアの人々はおおらかで親切だったことが印象深く残っています。一応,大使館付きの研修生だった私などより,セルビアの人々が被った苦労は何倍も大きかったことでしょうが,物資が不足する中でも頻繁に食事を作ってくれた大家さんや,ベオグラードその他を案内してくれた友人。殺伐とした中にあって,非常に温かみのある心に触れることができ,その点はセルビアの人々の人間性を垣間見ることができた貴重な体験だったと思っています。
セルビアの人々は,素朴で,仲良くなりやすい面はあります。仲良くなると,まず,自宅にお呼ばれとなり,ラキヤ責め,食べ物責めの洗礼を受けることになります。ラキヤとは,セルビアを含むバルカン地域で広く醸造されているブランデーで,ぶどう,プラム,あんず,カリン,薬草などから作られます。アルコール分は40~50度もあり,自家製も多くあります。これをまず,空きっ腹に飲んで,食欲を増進させるのですが,その後に出てくる料理の量が尋常ではなく,とても食べきれるものではありません。セルビアは農業が盛んで,肉や野菜は非常に安くて新鮮で美味しいのですが,小食の私にとって,あの量だけは苦手です。そのことをセルビアの人に言うと,「それだからこそセルビアなのさ!」とのこと。もてなし好きのセルビアの人々にとっては,かえって残してくれる位の方が,「それだけもてなすことができたのだ。」というように,もてなし感が高くなるようです。
セルビア南部でのパプリカ乾燥風景
セルビア語はスラブ系言語に属し,スラブ系言語の専門家の方々が指摘しているとおり,格変化が複雑で,まず,これを覚えるのに難儀することになります。男性,中性,女性の3種類ある名詞がそれぞれ7格を持ち,さらに単数形と複数形があるので,なかなか一朝一夕に身につくものではありません。しかし,日本語の「~は」,「~の」,「~に」,「~を」などの助詞に相当するものなので,各変化の比較的少ない言語を話す欧米人よりは,日本人の方が比較的イメージはつかみやすいのではないでしょうか。 (格変化の多いスラブ系言語の勉強法については,これまでご紹介した ロシア語,クロアチア語,ポーランド語 スロバキア語,チェコ語 の専門家インタビューをご覧下さい。)
セルビア語の最大の特徴は,キリル文字とラテン文字を併用していることです。公式の文字はキリル文字なので,学校の教科書や公文書はキリル文字が圧倒的に多く使用されていますが,実際に街中に出ると両方が混在しており,むしろラテン文字の方が多く使われているのではないかと思います。道路標識は,キリル文字とラテン文字が併記,新聞についてはキリル文字しか使っていない新聞もあれば,ラテン文字の新聞もあります。つまり,セルビアの人々は,両方の文字を自由自在に使えるわけで,それはまさに東西文化のはざまに生きてきたという証であり,この国の貴重な財産でもあるのだと思います。
私は,2004年に在セルビア日本国大使館に赴任し,当初は広報・文化を担当していました。ちょうどその頃,日本の地方自治体と姉妹都市関係を結んでいたセルビア唯一の自治体であるシャバツ(ベオグラードから西へ80km程)という都市に対日友好協会が設立され,姉妹都市交流が活発になってきました。私も色々とお手伝いをさせていただき,現在では,毎年のように自治体間での相互訪問が行われるまでになりました。このシャバツでは,合気道,剣道,柔術などといった日本の武道が盛んに行われており,友好協会会長の計らいで,毎年10月にシャバツで行われる柔術大会を「坪田杯」とし,毎年,私が開会の挨拶を行っています。私はあまり武道をたしなまないので,僭越な思いで一杯なのですが,とても嬉しく思っています。
通訳でのエピソードには事欠きませんが,日本語で「武士は食わねど高楊枝」ときた時には困りました。「困難の中でも堂々とする精神が大切」というような訳をしましたが,果たしてそれで良かったのかどうか,今でも不安です。また,日本語での洒落や笑い話も,そのまま通訳しても通じないことが多いので,そんな時は背景説明からやらなければならず,通訳というよりもいつの間にか解説者になっていたというようなことも少なくありませんでした。その逆,つまり,セルビアの笑い話も同じです。とにかく,最後に笑ってもらえるか否かが鍵なので,笑い話系には要注意です。
やはり,国と国との関係から,民間レベルの交流のお手伝いまで,様々な分野で様々な人と知り合うことができることが魅力というか,大きなやりがいにつながります。特に,在外公館では,「日本の顔」として,現地の方々の生活に溶け込み,彼等の思いを共有することができ,その分だけ自分の人間性も広くなるような気がします。
セルビアは,親日的な国です。まず,旧ユーゴ紛争の時に欧米諸国が反セルビア的立場をとっていたのに対し,日本は比較的中立的な立場をとってくれたという意識が一般的です。また,明石康氏が旧ユーゴ国連事務総長特別代表として紛争の解決に努めたことや,緒方貞子氏が国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)代表として難民や国内避難民の問題の解決に当たったという記憶が強く残っています,さらに,第二次世界大戦後の日本の経済成長に対する尊敬の念や日本文化や武道への関心が高いこともあいまって,非常に親日的感情が強い国です。
日本がベオグラード市に供与したバス
日本の対セルビア経済協力への感謝の印として
設置された「日本への感謝の泉」
特に2000年のセルビア民主化以降,日本はセルビアの生活水準向上(医療,教育,環境保護等の分野),インフラ整備その他の改革努力を支援してきており,その支援額は約231億円に上ります。また,今般,「ニコラ・テスラ火力発電所排煙脱硫装置建設計画」に対し,初の円借款として,約282億円の供与が決定しました。セルビアの人々からは,「日本は真に必要な時に,真の支援をしてくれる。」との声が聞かれることが多く,多くの国民から感謝されています。日本の経済協力により,公共輸送力の改善のため,93台のバスの供与を受け,上水道施設の整備に与ったベオグラード市は,2010年9月,日本国民に対する感謝の印として,市内有数の観光スポットであるカレメグダン公園に「日本に対する感謝の泉」を設置しました。その除幕式の際に,ベオグラード市長が,「日本はベオグラード市のために本当に色々なことをしてくれた。我々がお返しとしてできることは少ないが,せめてこの「泉」を設置することで謝意を表したい。」と述べていたのが印象的でした。
セルビアの各界では,是非ともそのような日本との関係をより強くしたいと期待している方々が多く,現在,在セルビア日本国大使館に勤務している坪田さんは,「大使館としてもそのような期待に応えるべく努力しています。そうした努力の結果が実り,この3月にタディッチ大統領が,セルビアの国家元首として初めて訪日することとなりました。」と語ってくれました。来日したタディッチ大統領と菅総理は,首脳会談において,旧ユーゴ地域の平和と安定の強化や二国間関係の強化などについて意見交換をし,政治,経済,文化の面で,二国間関係がさらに増進するまたとない機会となりました。
(別れ際や電話を切る時に使って)それじゃあ,また。
(食事を始める時に,相手に向かって)召し上がれ!
もともとは「快い」という意味の形容詞。セルビアではとにかく頻繁に使うので,最初に覚えた単語の1つ。
セルビア共和国, コソボ共和国, ボスニア・ヘルツェゴビナ, モンテネグロ
ヒンディー語 < セルビア語