外務本省

特別展示「幣原外交の時代」
展示史料解説

展示史料は全部で20点です。
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ワシントン会議全権時代(1921年9月~1922年2月)

駐米大使であった幣原は全権としてワシントン会議に参加し、「四国条約」の締結など第一次大戦後のアジア太平洋地域における国際関係を規定した「ワシントン体制」の構築に深く関与しました。

第一次外相時代(1924年6月~1927年4月)

1924年6月、第一次加藤高明内閣の外務大臣に就任した幣原は、最初の議会演説でワシントン諸条約に言及し、「政府は同条約の精神によって終始せんとする次第であります」と述べるなど、外交の基本方針をワシントン諸条約の遵守・実現におきました。
東アジアの安定を図る立場から、第二次奉直戦争(1924年)や郭松齢事件(1925年)、蒋介石による北伐など、内乱の続く中国に対して一貫して「内政不干渉」の立場を堅持するとともに、北京関税特別会議(1925年)では中国の要求に理解を示すなど、安定した中国との共存共栄を目指しました。
1925年1月、ロシア革命以来国交が途絶えていたソ連と基本条約を締結し国交を回復することで、ワシントン体制の不安定要因を取り除き、体制の基盤拡充を図りました。
第一次大戦後、深刻な状況に陥っていた我が国経済に対して幣原は、その善後策として、新販路を開拓し貿易の伸長をはかるため、多様な地域を対象とした貿易会議の開催や通商条約の締結に尽力しました。

第二次外相時代(1929年7月~1931年12月)

1930年1月に開催されたロンドン海軍軍縮条約の締結に際して幣原は、「統帥権干犯」を問われながらも、浜口首相とともに、軍部の圧力に屈することなく条約批准に努めました。
欧米の強硬な対中国政策に対して柔軟な姿勢を示した幣原は、日華関税協定の締結により中国の関税自主権を認め、また中国の呼称を「支那」から「中華民国」に改めるなど、中国側の要望に理解を示しました。しかし1931年9月の満州事変勃発後、次第に幣原外交は批判を受けることとなり、同年12月、若槻内閣総辞職とともに幣原は外相の座を去りました。
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