外務本省

第一次外相時代
ワシントン体制の擁護者として

〔展示史料〕

3.第49議会演説(1924年7月1日)

〔解説〕

(写真)加藤高明
加藤高明

 1924年(大正13年)6月11日、第一次加藤高明内閣が成立し、幣原は外交官領事官試験合格者出身の外交官として初めて外務大臣に就任しました。当初加藤内閣の外相には幣原ではなく駐仏大使の石井菊次郎が内定していましたが、石井が外相就任を辞退して幣原を推したこともあり、組閣間際になって幣原が外相に決まりました。

 駐米大使の任を終え待命の立場にあった幣原は、外相就任直後から自らの外交姿勢を積極的に打ち出しました。その基軸になったのが、自らが全権として深く関与した「ワシントン体制」の維持であり、「ワシントン会議の精神」の尊重でした。

 組閣当日、親任式を終えた幣原は談話を発表し、「今や権謀術数的の政略乃至侵略的政策の時代は全く去り、外交は正義平和の大道を履みて進むにあり」と述べたうえで、「日本は、巴里講和条約・華盛頓会議諸条約諸決議等に明示又は黙視せられたる崇高なる精神を遵守拡充して、帝国の使命を全ふすることに努力せんと欲するものなり」との決意を表明しました。

 幣原の外交姿勢は、7月1日に開会した第49臨時議会での外交方針演説でより明確なものとなりました。この演説は幣原自身が起草したものですが、その中で、世界平和の維持を根本方針として掲げ、外交政策の継続性により「国家ノ威信モ保タレル」と説くとともに、「(ワシントン諸条約の)規定スル政策ハ我々ノ採ラントスル政策ト全然一致スルモノテアリマスカラ政府ハ同条約ノ精神ニ依リテ終始セムトスル次第テアリマス」と弁じて、政府の方針を内外に示しました【展示史料3】。こうした「ワシントン会議の精神」を外交の基調とした幣原の外相就任は、アメリカをはじめとする欧米諸国や中国などからも好感をもって迎えられました。

(写真)【展示史料3】
【展示史料3】

 もちろん、「ワシントン会議の精神」を基調とする外交方針を唱えたのは幣原が最初というわけではありません。例えば、幣原の前任者である清浦奎吾内閣の松井慶四郎外相もまた同年1月の議会演説で「華府会議ニ於テ協定セラレタル諸条約及決議ノ精神ヲ十分ニ尊重イタシ」と述べており、ワシントン体制の維持は同会議後の日本外交にとって既定の方針であったといえます。しかし、それでもやはり幣原は、外相在任期間を通じて、「ワシントン会議の精神」の体現者として、また、「ワシントン体制の擁護者」として、常にその役割を果たすべく努力したといえるでしょう。

 ちなみに、幣原の外交姿勢のほかに、あるいはそれ以上に、この時の議会演説で注目されたのは、対米問題に言及した部分でした。アメリカでは同年5月に排日移民法が成立し、演説当日はまさに同法の施行日にあたっていました。同法に関して幣原は、対米抗議を表明する一方、日米両国間の永遠の親交を確保するため努力するとの決意を述べましたが、国内世論は同法に対して強く反発しており、同日には在京米国大使館の星条旗が窃取される事件が発生しました。これに対して幣原はすぐさまアメリカ側に陳謝し、翌日には犯人が逮捕され、星条旗も無事に返還されました。こうした日本側の敏速な対応に対してアメリカ政府は満足の意を表し、「本事件に関し日本政府は何等負ふべき責任はない」と発表しました。その後も排日問題について幣原は、執拗に反論しても「徒ニ両国ニ於ケル国民的感情ヲ刺戟スル」だけであるとして慎重な態度をとり、日米協調に努めることになります。

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