第 I 部 ODA60周年ー日本のODAの成果とこれからの方向性

ドミニカ共和国の国立職業技術訓練庁で、機械のメンテナンスや修理の指導をする永田正樹シニア海外ボランティア(写真:佐藤浩治/JICA)
第1章 日本のODAが築いてきたもの

ベトナム・ハノイ市内の交通の便を改善し、渋滞の解消に役立つ環状3号線(写真:高橋智史/JICA)
第1節 日本のODAの軌跡
日本が1954年にコロンボ・プラン(注1)に加盟し、アジア諸国に対して技術協力を開始してから、60年の時が過ぎました。この60年間、戦後間もない時期から高度成長期を経て現在に至るまで、日本のODAは、日本が国際社会の責任あるメンバーとして地域や世界の様々な課題への取組に貢献し、それを通じて、日本自身の平和と繁栄を築いていく上でも大きな役割を果たしてきました。ここでは、日本のODA60年のこれまでの歩みを振り返ります。
1.日本のODAのはじまり(50年代〜60年代)

1962年、東海道新幹線用試作電車(1000系)が完成し、埼玉県川口市の国鉄施設内で公開された(写真:共同通信社)
初期の日本のODAは、主として戦後処理としての賠償支払いと並行して行われました。1954年のビルマ連邦(現ミャンマー)との賠償・経済協力協定を皮切りに、フィリピン、インドネシア、ベトナム共和国(南ベトナム)との間で賠償協定が結ばれたほか、同じく戦後処理の一環として、対日賠償請求権を放棄したカンボジアとラオス、さらに、タイ、マレーシア、シンガポール、韓国およびミクロネシア連邦に対しても、経済協力等が行われました。その一方で、冒頭のコロンボ・プランを通じた技術協力や、1958年にインドを最初の供与先として開始された円借款など、戦後賠償とは切り離された形での経済協力も開始されています。このような賠償と、それに並行する経済協力は、戦後処理を進め、近隣のアジア諸国との関係改善や日本の国際的地位の向上につながるだけでなく、輸出市場の拡大を通じた日本経済の復興と発展に寄与することも期待されていました。
一方、当時の日本は、まだ援助の受取国でした。日本は終戦後の占領下にあった時期から米国の支援を受け、さらに、1950年代から1960年代にかけては、鉄鋼、自動車、造船、電力開発、道路など多岐にわたる分野で世界銀行から資金を借り入れました。日本の人々にとっておなじみの東海道新幹線、東名・名神高速道路、「黒四ダム」などもこのような国際社会の支援によって整備されたものです。こうした国際社会の支援が戦後の日本の高度成長の基盤を築きました。
2.日本のODAの拡充と多様化(60年代~80年代)
1960年代後半から1970年代にかけて、日本の経済力と国際的地位の向上に伴い、日本のODAに対する世界の期待も高まっていきました。そのような中で、日本のODAは、量的に拡大するとともに、その目的や内容も、当初の戦後処理を中心とするものから徐々に転換していきます。1968年に食糧援助(注2)が、1969年には「一般プロジェクト無償資金協力(注3)」が開始されるなど、協力の仕組みも多様化しました。1972年に規模にして世界第4位の援助国となった日本は、その後も着実に量的な拡充を進めていきました。また、対象地域も、従来のアジア集中に変化が見られるようになり、中東、アフリカ、中南米、大洋州の各地域の占める割合が増えていきました。
この間、開発援助の効果や評価に対する国際的な関心の高まりを受け、日本でもODAの評価の制度が整えられるようになりました。1975年に当時の海外経済協力基金(OECF)、1981年に外務省、翌年にはJICA(当時の国際協力事業団、現在は国際協力機構)で、個別プロジェクトの事後評価の制度が設けられ、国民への説明責任の一環として評価結果が広く公表されるようになりました。
1980年代に入っても、日本経済の好調と並行して、日本のODAは拡充を続けました。1989年にはODAの支出純額(注4)が89億7,000万ドルに達し、米国を抜いて世界最大の援助国となりました。1990年代に入り、冷戦体制が終わりを迎えると、主要援助国のODAは軒並み減少に転じます。その間も着実にODA予算を伸ばしていた日本は、1990年代を通じてほぼ一貫して、規模の面で世界一の援助供与国としてDAC(ダック)諸国のODA供給量の約2割を支え続けました。支援の内容も農業や保健、教育などの分野を中心に多様化していきました。1989年には、草の根レベルの、住民に直接役立つ、比較的小規模な事業に必要な資金を供与する「草の根・人間の安全保障無償資金協力」(導入当時の名称は「小規模無償資金協力」)が創設されるなど、国内外のNGOを含む様々なパートナーとの連携も広がっていきました。
3.トップドナーとしての取組(90年代)

インド洋に臨むタンザニアの大都市、ダルエスサラームの魚市場。2002年日本の無償資金協力によって建設された(写真:久野真一/JICA)
冷戦の終焉(しゅうえん)とグローバル化の進展の結果、1990年代に入って、国際社会において新たな課題が顕在化するようになり、開発援助のあり方についても様々な問題提起がなされるようになりました。特に、平和構築や民主化、ガバナンスが新たな課題として浮上するとともに、各国の国内や国際的な格差拡大の中で取り残される人々について貧困の削減の重要性も謳(うた)われるようになりました。さらに、環境をはじめとするグローバルな課題に対して一層の対応も求められるようになりました。
そのような中で、日本は、1992年、中長期的な援助政策を包括的にとりまとめた「政府開発援助(ODA)大綱」を初めて策定しました。ODA大綱は、日本の援助の基本理念として、①人道的考慮、②相互依存関係の認識、③環境の保全、④開発途上国の離陸に向けての自助努力の支援、の4点を掲げるとともに、ODAの実施に当たっては開発途上国の軍事支出や民主化、基本的人権の保障の状況等に十分に注意を払うとの指針を確認しました。
規模の面でトップドナーとなった日本のODAは、世界の様々な地域の取組において存在感を示すようになりました。1991年の和平達成以降のカンボジアの復旧・復興や民主化に対する支援、1993年の「アフリカ開発会議(TICAD(ティカッド))」の開催を契機とするアフリカ開発に関するTICADプロセスは、そのような日本のイニシアティブの代表例です。また、1997年のアジア通貨危機に際して、日本は、新宮澤構想に基づく支援や特別円借款を含め、ODAやそれ以外の政府の資金も活用して、関係国で最大の約800億ドルの支援を表明するなど、国際社会によるアジア地域に対する支援を主導しました。
日本のODAは、環境、人口、感染症などの地球規模の課題への国際的な取組も主導しました。1997年に京都で開催された気候変動枠組条約第3回締約国会議(COP3)の際に温暖化対策分野での開発途上国支援策である「京都イニシアティブ」や1995年の北京での第4回世界女性会議で表明した「開発途上国の女性支援(WID)イニシアティブ」、2000年のG8九州・沖縄サミットにおいて発表された5年間で総額30億ドルを目途とする感染症対策支援を内容とする「沖縄感染症対策イニシアティブ」などはその代表例です。
このころ、NGOや大学、地方自治体など様々なパートナーと日本のODAの連携もさらに広がりました。2000年には、NGO、経済界および政府が連携協力して、より効率的かつ迅速な緊急人道支援を行うためのシステムとして「ジャパン・プラットフォーム」が設立されました。
また、日本は、開発分野における国際社会の目標設定の取組も主導しました。1996年に経済開発協力機構の開発援助委員会(OECD-DAC(ダック))が策定した「新開発戦略」には、日本の主導によって、日本のODAがこれまで重視してきた開発途上国側の主体性を前提とした「オーナーシップ」と「パートナーシップ」の原則(こちらを参照)、制度構築や能力構築、包括的なアプローチの重要性などが盛り込まれました。また、この戦略の策定過程で、日本は貧困削減やBHN(基礎生活分野)にかかわる数値目標(国際開発目標IDGs)の導入を提案し、これがその後のミレニアム開発目標(MDGs)(開発協力トピックスを参照)につながることになりました。
その一方、厳しさを増す財政状況の中で、ODA予算は、1998年度以降、当初予算ベースで減少傾向に転じます。2001年には日本は援助規模世界一の座を米国に譲ります。こうして、日本のODAは以前にも増して効率的、効果的な実施が求められるようになっていきます。
4.21世紀の新たな開発課題への対応(2000年代以降)

2014年9月、第69回国連総会において、人間を中心に据えた社会の発展、人間の安全保障の増進について述べる安倍晋三総理大臣(写真:内閣広報室)
冷戦終了から10年が経過し、世紀の変わり目を迎える中で、残念ながら世界各地で紛争がますます多発するようになりました。2001年には米国同時多発テロが発生し、その後対アフガニスタン武力行使や対イラク武力行使が行われる中で、国際社会は、テロ対策や平和構築、ガバナンスの分野で、広範で複雑な課題に直面するようになりました。紛争や極度の貧困などの様々な脅威に晒(さら)されている一人ひとりをいかにして守っていけるかという、人間の安全保障もその中で浮上してきた重要な課題です。環境、保健、防災などのグローバルな課題もさらに多様化しています。その一方で、より多くの民間資金が新たな投資先を求めて開発途上国に向かうようになり、中国、ブラジルといった新興援助国の果たす役割が大きなものになってきました。
このように国際環境が大きく変化する中で、日本は、もはや規模において世界一のODAの供与国ではなくなりましたが、引き続き米国、英国、ドイツ、フランスといった国と共に、主要ドナーの一員として、アジア太平洋地域や国際社会における開発にかかわる様々な課題への対応を主導してきました。2003年に11年ぶりに改定されたODA大綱では、「人間の安全保障」の視点が新たな記述として加わり、「貧困削減」、「持続的成長」、「地球的規模の問題への取組」、「平和の構築」がODAの取り組むべき重点課題として掲げられました。
(1)国際的な開発協力の潮流への貢献

エチオピアで、残留農薬検出のための作業をする助手と、指導する農作物残留農薬検査体制能力強化・支援プロジェクト担当の伊澤義郎さん(写真:久野武志/JICA)
日本は、このような国際環境の変化に対応しつつ、国際的なODAの潮流の形成に積極的に貢献してきました。先に述べたように冷戦後の国際的な重要課題の一つとして認識されるようになった人間の安全保障の概念は、1994年のUNDP(注13)の人間開発報告書で初めて取り上げられたものですが、日本は、様々な場面で積極的に提唱し、国際社会における定着を推進してきました。たとえば、日本は、1999年に国連の「人間の安全保障基金」設置を主導し、2013年12月までに約428億円を拠出して、この基金を通じ、紛争後のコソボの学校や病院の修復、アフガニスタン地方都市の非正規居住区の再建、南アフリカの女性に対する暴力対策センター設立など、多くのプロジェクトを実施しています(2013年12月までに計223件の案件を支援)。こうして、紛争や災害などによって一人ひとりの人間の安全保障が脅かされている国や地域での取組を具体的な行動をもって主導してきました。
日本自身の復興やその後の経済成長の経験、さらに、日本によるアジア諸国への援助の経験を通じて培われ、ODA大綱などにも基本的な理念や方針として掲げられてきた援助に対する考え方も徐々に国際社会に浸透していきました。たとえば、日本は、一貫して、国の成長にとって何よりも重要なのは、その国自身による自助努力や「オーナーシップ」(主体的に取り組む姿勢)であり、これを「パートナーシップ」を通じて支えるのが援助国や国際機関の役割であるとの基本的な考え方に基づいて援助を行ってきました。そして、1990年代より、先に述べたTICADのプロセスなどを含め、様々な国際的な場面で「オーナーシップ」と「パートナーシップ」の重要性を積極的に提唱してきました。また、日本は、開発途上国の持続的な経済成長を支えるための経済インフラ整備や能力構築のための協力を、その国における雇用機会や所得の創出等を通じて貧困削減にも大きな効果をもたらすものとして、一貫して重視してきています。こうした考え方は、近年になって様々な国際会議や他の援助国の開発に関する考え方にもより顕著に反映されるようになっています。
ミレニアム開発目標(MDGs)の策定に当たっても、日本は重要な役割を果たしてきました。先に述べたとおり、日本は、MDGsの前身となったOECD-DACの国際開発目標(IDGs)の策定を主導しましたが、MDGsを構成する貧困削減などの様々な目標のベースとなったのは、日本の提唱してきた人間の安全保障や開発途上国の「オーナーシップ」の考え方です。2000年代には、2005年に「援助効果向上に関するパリ宣言」が採択されるなど、先進国や開発途上国、さらには、国際機関や市民社会も参加した「援助効果」の向上に向けた国際的な取組が進展しましたが、その根本的な原則の一つに開発途上国の「オーナーシップ」があることは繰り返し確認されています。また、世界銀行やIMFなどの国際機関や日本以外の援助国の政策においても、貧困削減のために持続的な経済成長を重視するとの姿勢が見られるようになってきています(注5)。日本が1970年代から一貫して実施してきたいわゆる「三角協力」、つまり、先進国が開発途上国と協力し、他の開発途上国を支援する協力は、開発途上国側の「オーナーシップ」と強みを最大限活かしながら効果的な援助を実現する方策として、援助効果に関する一連の国際会議の場などでも注目されるようになってきています。

タイ・バンコク北東部のノンタブリ県で建設中の新チャオプラヤ架橋(写真:久野真一/JICA)
(2)多様な課題に向けた国際社会の具体的な取組への貢献
日本は、21世紀の新たな国際環境の下で浮上した様々な分野の課題においてもリーダーシップを発揮してきました。

フィリピンで、小児呼吸器感染症の実態調査のため家庭訪問をする看護師と玉記雷太専門家(写真:谷本美加/JICA)
●保健

2014年9月、第69回国連総会サイドイベント「ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)の実現に向けて」においてスピーチを行う岸田文雄外務大臣
グローバル化の進展に伴い、感染症を含む様々な課題が噴出している保健分野では、日本は一貫してリーダーシップを取ってきました。先に述べたとおり、日本が議長を務めた2000年のG8九州・沖縄サミットにおいては、日本がG8サミットで初めて感染症の問題を主要議題の一つとし、「沖縄感染症対策イニシアティブ」を打ち出しましたが、このことがきっかけとなり、2002年に「世界エイズ・結核・マラリア対策基金(グローバルファンド)」(第II部保健医療部分を参照)が設立されました。日本は、グローバルファンドの設立に先導的な役割を果たしただけでなく、理事会メンバーとしてグローバルファンドの運営・管理で中心的な役割を担いながら、積極的に貢献してきています。
また、2008年のG8北海道洞爺湖サミットにおいては、ミレニアム開発目標(MDGs)の達成期限である2015年に向けた中間年として、とりわけ保健分野に重点を置いて新たな協力を打ち出すことの重要性や、世界的な食料価格の高騰を重要な問題として議論しました。そして、保健分野の行動原則を盛り込んだ「国際保健に関する洞爺湖行動指針」がまとめられ、感染症対策、母子保健、保健従事者の育成を含む保健システム強化への取組につき合意しました。さらに、日本は2013年5月、国際保健外交戦略を策定し、国際保健を日本外交の重点課題と位置付け、すべての人が基礎的な保健医療サービスを負担可能な費用で受けられる「ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)」を推進することを掲げています。
●防災

2014年9月、エジプトで開催された第2回アラブ減災会議において、日本が積極的に国際防災協力に貢献していくことを表明する城内実外務副大臣
1995年の阪神・淡路大震災や2011年の東日本大震災など、自ら度重なる自然災害を経験してきた日本は、その経験、教訓や防災技術を世界と共有しながら、国際社会における防災の取組を積極的にリードしてきました。日本は、1994年の第1回会合から国連防災世界会議を開催していますが、2005年に神戸で開催した第2回会合では、2015年までの10年間の国際的な防災指針である「兵庫行動枠組」が採択され、各国の防災対策指針となりました(開発協力トピックスを参照)。
また、日本は、2013年にフィリピンを襲った台風ハイヤン(日本名は台風30号、フィリピン名は「ヨランダ」)のように世界各地の地震や台風、洪水等の災害に対して、緊急人道支援を通じた救援活動や復旧・復興支援を行うとともに、開発途上国の防災の取組を支援しています。

エチオピア・アバイ渓谷の地すべり箇所を調査する、地すべり対策管理アドバイザーの長井義樹専門家と中澤斉専門家(写真:今村健志朗/JICA)
●アフリカの開発

2014年5月、カメルーンで開催された第1回TICAD V閣僚会合
アフリカの開発効果の向上を目指し、1993年に東京で第1回会合が開かれたTICADは、日本が独自に国際的枠組みを一からつくり上げた一つの例です。TICADは、アフリカの開発について、アフリカ諸国、開発パートナー諸国、国際機関および地域機関、民間セクターやNGOなど市民社会の代表などの幅広い担い手と議論するフォーラムの先駆となりました。第1回会合以降、5年に一度、日本政府が主導し、国連、UNDP、世界銀行およびアフリカ連合委員会(AUC)(注6)との共催の下で、これまでに日本で5回の首脳会合を開催しています。日本は、2013年のTICAD第5回会合で、ODA約1.4兆円を含む官民による最大約3.2兆円の支援の取組を打ち出すなど、紛争や貧困など多くの問題を抱えながらも成長の中で問題の克服を目指すアフリカに対する国際社会の取組を積極的に主導してきました。次回の会合は、アフリカで開催する方向で調整しています。
●小島嶼開発途上国支援

ミクロネシア連邦・ポンペイのゴミ収集システムの改善のため、廃棄物処理場で調査を行う青年海外協力隊員(観光教育)の濱川喬弘さん(写真:東海林美紀/JICA)
小島嶼(とうしょ)開発途上国とは、小さな島から国土が構成される開発途上国のことをいいます。少ない人口、国土が拡散していることによる様々な不利益、地球温暖化による海面上昇の影響を受けやすく、台風などの自然災害に被災しやすいことなどの脆弱(ぜいじゃく)性から、小島嶼国は持続的な開発が他の開発途上国に増して困難だとされます。
日本は、太平洋島嶼国と協力して、自然災害への対応、環境・気候変動対策、海洋環境保護、持続可能な開発などの課題に継続的に取り組むため、1997年から3年ごとに、太平洋島嶼国とオーストラリア、ニュージーランドの首脳等の参加を得て、太平洋・島サミット(PALM)を開催してきています。サミットはこれまで6回を数えています。
また、同じく多くの小島嶼開発途上国から成るカリブ共同体(CARICOM(カリコム))(注7)諸国との間でも、2000年の第1回以来、日・カリコム外相会合を2014年までに4回開催し、2014年7月には初となる日・カリコム首脳会合を開催しました。そうした場で、小島嶼国の抱える様々な開発課題に取り組んできています。さらに、日本は、2014年9月、サモアにおいて、小島嶼国の課題を議論する「第3回小島嶼開発途上国国際会議」が開催された際、開催経費負担など会議成功に向けた支援を行いました。
●ASEANの連結性強化に対する支援

2013年12月、日・ASEAN特別首脳会議の初日、総理夫妻主催歓迎夕食会であいさつする安倍晋三総理大臣(写真:内閣広報室)
日本とASEAN(アセアン)は、40年にわたり、地域の平和と安定、発展と繁栄の実現のために緊密な協力関係を築いてきました。長年にわたる日本の支援は、農村・地方開発や保健・医療、教育等の格差是正に貢献する支援から、大規模なインフラ整備や人・制度づくりのための支援に至るまで多岐にわたり、現在のASEAN諸国の飛躍的な成長の礎となっています。
2015年までの共同体構築を目指すASEANは、現在、域内の連結性強化を最重要の課題として掲げています。日本は、結束したASEANが地域協力のハブとなることが、地域の安定と繁栄にとって重要であるとの観点から、これまでのインフラや投資環境整備の経験を活かし、連結性強化に向けたASEANの努力を支援してきました。日・ASEAN合同協力委員会を立ち上げ、ASEAN側との対話を重視しながら、地域の連結性向上につながるハード・ソフト両面の支援を推進しています。2013年12月の日・ASEAN特別首脳会議では、連結性強化と格差是正を柱に5年間で2兆円規模の支援を行うことを表明するなど、ASEANへの協力を引き続き強化する方針です。
●平和構築

2014年11月、日本の支援により、トルコでの研修に向かう女性のアフガニスタン警察幹部候補生たち。首都カブールの国際空港にて(写真:共同通信社)
平和構築の分野でも日本は様々な貢献を行ってきています。
アフガニスタンに対しては、アフガニスタンを自立させ、再びテロの温床としないために、一貫して支援してきています。2002年に東京で開かれた最初のアフガニスタン復興支援国際会議は、日本のイニシアティブによるものです。日本は、アフガニスタン自身の治安維持能力の向上、元兵士の社会への再統合、アフガニスタンの持続的・自立的発展のための支援を行ってきており、2001年10月から2014年4月までの日本の支援額は約54億ドルに上ります。日本は、2012年7月に、「アフガニスタンに関する東京会合」をアフガニスタン政府と共催し、アフガニスタンと国際社会の新たなパートナーシップを示す東京宣言を発表しました。
長年、政府とイスラム反政府勢力との間で紛争が続いていたフィリピン、ミンダナオ島の和平プロセスにも日本は積極的にかかわってきました。ミンダナオ国際監視団にJICAの開発専門家を派遣し、紛争影響地域で必要な支援を調査し、教育、保健、農業など様々な分野でODAを通じた支援に結び付けました。2013年からは、和平成立後を見据えた新自治政府のための制度づくりや人材育成などの支援も行われており、これらの支援は、現地住民や政府から高い評価を得ています。2014年3月には、政府とイスラム勢力(モロ・イスラム解放戦線)との間で包括和平合意文書が調印されました。
これらのいくつかの代表例が示すように、21世紀に入って以降も、日本は、日本ならではの経験や知見を活かす形で、主要ドナーの一つとして世界の様々な課題への取組に積極的にリーダーシップを発揮してきています。

フィリピン、平和教育を実践する「平和の学校(School of Peace)」校舎前で微笑む生徒たち(写真:アイキャン)
案件紹介をご覧ください
- 注1 : 1950年に提案されたアジア太平洋地域の国々の経済社会の発展を支援する協力機構。日本も加盟国として1955年から研修員受入れや専門家の派遣といった技術協力を行った。
- 注2 : 食料不足にある開発途上国に対し、その国が食料を購入する資金を無償供与する援助。
- 注3 : 無償資金協力とは、途上国等に対する返済の義務を課さない資金協力。一般プロジェクト無償資金協力とは、基礎生活分野、教育分野等において実施するプロジェクト(病院や学校の施設建設や資機材の調達など)への支援。
- 注4 : ODAの支出実績は、貸付を含むことから、供与額の総計(支出総額)とそこから貸付の返済額を差し引いたもの(支出純額)を区別している。
- 注5 : 2013年4月に開催された第87回世銀・IMF合同開発委員会で採択された声明には、「(絶対貧困を減少させるという)目標の達成には、途上国全体における力強い成長とともに、低所得国において成長を貧困削減に結び付けていくことがこれまで以上に必要」と記されている。
- 注6 : アフリカ54か国・地域が加盟する地域機関であるアフリカ連合(AU)の執行機関。AUを対外的に代表し、政策・法案の提案、決定事項を執行する。
- 注7 カリブの14か国・1地域が加盟する地域共同体。域内の経済統合を目指すとともに、加盟国間の外交政策の調整、共通のサービス事業の実施、社会的、文化的、技術的発展のための協力を行う。