※NGO:非政府組織(Non-Governmental Organizations)
第3部 グローバル・エイズ問題 その諸相と最新動向を追う
第4章 「エイズとともに生きる地球」をめざして
~東京・神戸の二つの国際シンポジウム~
1.はじめに
2002年度保健分野NGO研究会では、テーマ2「専門性の向上に向けて:HIV/AIDS」の中心的な企画として、2002年11月18日に東京で国際シンポジウム「立ち上がる当事者たち:PHAとNGOの連携に向けて」、11月22日に神戸で国際シンポジウム「市民が変えるエイズ政策:ブラジル・タイ・南アの経験に学ぶ」の二つの企画を実施した。
この二つのシンポジウム開催の概要および趣旨は、以下の通りである。
(1)国際シンポジウム「立ち上がる当事者たち」
○日時 |
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2002年11月18日 午後4時~9時 |
○場所 |
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全水道会館大会議室(東京都文京区) |
○趣旨 |
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アフリカを中心に、地球規模のエイズ問題が深刻化している。しかし、とくにアフリカのHIV/AIDS問題については、感染者数や感染率などの数字が紹介されるばかりで、アフリカの人々、とくにPHA(People living with HIV/AIDS:HIV感染者・AIDS患者)の主張が紹介されることはなかった。また、80年代から90年代にかけて形成されてきた先進国のPHAの運動との運動的・思想的なつながりなどについても取り上げられてこなかった。
結果として、地球規模のエイズ問題は、日本の市民社会において広い関心を喚起することができず、一部の専門家のみが扱う開発援助マターとしてしか位置付いていない。また、日本でHIV/AIDSに取り組むNGOなども、地球規模のエイズ問題に対する十分な認識を持ち得ない状況になってしまっている。
こうした状況を変え、地球規模のエイズ問題に対して日本の市民社会から十分な応答を作り出していくためには、アフリカを始め、途上国でエイズ問題の当事者として活動するPHAの活動家たちを招へいし、日本の市民社会が彼・彼女らの主張に耳を傾ける機会を作ることが必要である。
エイズ対策においては、当事者セクターを始め、各種の社会セクターが幅広く参加していくプロセスが不可欠であることが以前から強調されており、保健分野の開発NGOも、当事者セクターを始めとする各種の社会セクターと積極的にアクセスしていく必要がある。当事者を招へいし、彼・彼女らと対話し、彼・彼女らの要求やその社会的・思想的なバックグラウンドを知ることは、保健分野の開発NGOが現地でプロジェクトを実施していく上でも前提として必要なことである。
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(2)市民が変えるエイズ政策:ブラジル・タイ・南アに学ぶ
○日時 |
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2002年11月22日 午後3時30分~7時 |
○場所 |
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コミスタこうべ(神戸市生涯学習支援センター)セミナー室 |
○備考 |
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アジア太平洋国際エイズ会議プレイベント「PRECAAP2002」企画 |
○趣旨 |
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地球規模に拡大するエイズ問題への応答はいかにあるべきか。エイズ禍がアフリカからインド、中国、ロシアへと広がっていく中、2002年に実施されたバルセロナ国際エイズ会議では、「国家の政治的コミットメント」と、「エイズ対策への全面的な市民参加」の重要性が強調された。
南アフリカ共和国では、エイズ対策に向けた国家の政治的コミットメントが欠如しており、市民側、とくにエイズ問題の当事者であるPHAが声を上げ、適切な政策の実現を要求している。また、南アフリカのエイズ問題に関しては、エイズ治療薬の高価格という問題についてどう取り組むかという、「国際社会の政治的コミットメント」も問われている。
一方、ブラジルとタイでは、エイズに対する国家政策と、草の根からのエイズへの取り組みのアプローチがうまく整合性を持つことができ、また、国家が国際社会に対して、エイズ政策の実現のために適切なアプローチをとったことによって、エイズ対策が一定程度成功する形となっている。
これらの国々を例に、当事者、NGO、行政機関というそれぞれの立場から国のエイズ対策を検証することによって、エイズ問題に対するより適切な応答のあり方について検討する。
国家のエイズ対策のあり方は、保健分野NGOにとって、途上国現地でのプロジェクトの形成・運営・評価それぞれに関連する非常に重要なトピックであり、その背景や政策の形成のされ方、プロジェクト形成における社会の各セクターの機能について知っておくことは、プロジェクト開発の前提として重要である。
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これらの趣旨に基づいて開催したシンポジウムに招へいしたパネリストは、以下の6人である。
(1) |
アスンタ・ワグラさん Asunta Wagura(ケニア共和国)=18・22日
「ケニア・エイズと共に生きる女性たちのネットワーク」執行責任者
Executive Director, Kenya Network of Women with AIDS (KENWA)
1965年生まれ。1988年にHIV感染が判明した。その後、ナイロビのスラム街を中心に、エイズと共に生きる女性たちのサポートグループを組織している。学校におけるエイズ予防啓発なども実践し、現在、ケニア国家エイズ委員会委員を務めている。2000年には、ケニア大戦士勲章(OGW)を受章した。
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(2) |
フォロゴロ・ラモスワラさん Pholokgolo Ramothwala (南アフリカ共和国)=18日・22日
「治療行動キャンペーン」ハウテン州地域コーディネイター
Gauteng provincial Coodinator, Treatment Action Campaign (TAC)
1978年生まれ。1998年に感染が判明した。その後、TACのリーダー、ザッキー・アハマットと出会い、抗エイズ薬の供給を求めるPHAの運動に参加する。抗エイズ薬の特許権をめぐる多国籍企業との裁判である「南ア特許権裁判」と、母子感染予防に関わる政府の抗エイズ薬政策をめぐる「ネビラピン裁判」などに関わり、現在TACの主要なアクティヴィストの一人である。
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(3) |
ジョゼ・アラウージョ・リマ・フィーリョさん Jose Araujo Lima Filho(ブラジル)=18日・22日
命を励ます会 Grupo Incentivo a Vida
1957年生まれ。サンパウロ市在住。1987年にHIV感染の事実を知る。現在、GIV(HIV感染者が運営する相互扶助組織)の役員、Francois Xavier Bagnoud協会(HIV孤児のためのホームを運営)の理事長、保健大臣の諮問委員会である国家エイズ委員会委員を務める。1990年よりGIVの活動に参加し、感染者運動の人材育成、若年層への予防啓発、行政・医療者・マスコミ等への提言など、積極的に取り組んできた。また1997年に感染者として初めて国家エイズ対策委員会の委員に選出され、当事者の立場から提言しエイズ行政の改善に大きく貢献している。1994年以来、毎年来日し、各地の在日ブラジル人コミュニティとその他一般市民などを対象に、自身の経験に基づくメッセージを発し続けている。
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(4) |
モアシール・ピレス・ラモスさん Moacir Pires Ramos (ブラジル)=18日・22日
パラナ州保健委員会 Parana State Board of Health
1958年生まれ。パラナ州クリチバ市在住。1994年より、保健省国家エイズ対策局パラナ州地域部局顧問、パラナ州政府保健局感染症外来部門顧問、Erasto Gaertner病院院内感染問題委員会顧問などを務める。エイズ専門医としての臨床経験が長く、現在パラナ州立首都圏エイズ拠点病院においてエイズ外来を担当している。また、投薬アドヒアランスの権威でもあり、感染者グループへのワークショップなどにも熱心に取り組んでいる。今回、政策に携わる側、そして医療者としての立場から、ブラジルのエイズ対策の成功の秘密や、市民・患者サイドの連携による政策改善について語る。
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(5) |
プロンブン・パニックパクさん Promboon Panitchpakdi (タイ)=22日のみ
「タイ・エイズNGO連合会」議長 Chairperson, Thai NGO Coalition on AIDS
1952年生まれ。国際協力NGO「ケア・インターナショナル」のタイのディレクターとして、20年近くにわたり家族計画の分野で活躍してきた。エイズ問題に関しては、予防啓発やケアの分野を中心に活躍している。現在、タイの数多くのエイズNGOが参加する「タイ・エイズNGO連合会」で議長を務める
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(6) |
梅田珠美さん(日本)=22日のみ
神戸市保健福祉局参事。厚生省エイズ疾病対策課、WHO勤務等を経て現職。
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本報告書では、以下、各パネリストが18日および22日に行った発言を総合・再構成した上、以下掲載することとする。
2.アスンタ・ワグラさん(ケニア・エイズとともに生きる女性たちのネットワーク)
(1)バックグラウンド
アスンタ・ワグラさんが執行責任者を務める「ケニア・エイズとともに生きる女性たちのネットワーク」(以下、KENWA)は、ケニアの首都ナイロビのスラム街を中心に、HIVとともに生きる女性たち約二千人を会員として有する当事者NGOである。1993年にHIVに感染した女性たち5名によって結成され、現在は、HIVとともに生きる女性の生活の質の改善とケア・サポート、およびエイズによる孤児のケア・サポートを中心に活動している。ケニアは1998年以降、ようやく本格的なエイズ対策に乗り出した。アスンタさんは、エイズに関する長年の活動が評価され、現在、国家エイズ委員会の委員等も務めている。
(2)スピーチ:私たちに生きるチャンスを~ケニアでエイズと共に生きる女性として~
○毎日700人の死:これは単なる数字ではない
おはようございます。私はアスンタ・ワグラと申します。本日こうしてみなさんに話を聞いていただけることをとても感謝しております。
ケニアでは毎日700人がエイズで関連した病気で亡くなっています。こうした数字をお聞きになって、ただの数字と感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、実際に家族の方を訪ねたりして個人的なつきあいを持つと、これがただの数字ではないことに気がつきます。家族によっては父を失い、母を失い、兄弟姉妹を失った人たちがいます。こうした人たちが受けたショックや心の傷は一生残ってしまうものです。
○宣告:拒絶と孤立から、ふたたび社会へ
本日は、ケニアでエイズに感染している200万人の人たちの代表として少々お話させていただきたいと思います。私自身が感染のことを知ったのは、1988年8月のことでした。このとき私が受けたショックは、私の人生の中で最大のものでした。たった一言の感染の宣告で、私の人生はまったく変わってしまいました。私はそれまで勉強していたのですが、学校から追い出されてしまいました。そしてあと六ヶ月しか生きられないと告げられたのです。そして家族からも拒絶されました。家族から、「お前がこの病気で死ぬのなら、この家の中ではなく、どこかよそで死んでくれ。」と言われたのです。私はその六ヶ月の間、トラウマや偏見、拒絶、そしてそこから生まれる痛みに苦しみました。六ヶ月たってから自殺を試みましたが死ぬことはできませんでした。
六ヶ月がたって「何かしなければならない」という気持ちが起きました。とはいえ、私は今後どのように社会に立ち向かって行けばよいのか分かりませんでした。この病気というのは非常にはずかしいものだという社会的な雰囲気がありましたし、また反社会的な行動によって感染した病気だと考えられていたからです。
私には、二つの道がありました。一つの道は、社会に出て、他の人たちをこの病気に感染させてしまうということです。そしてもう一つの道は、社会に出て、他の人たちを感染から守るということです。私の選んだ道は、社会を守ることでした。同時に、HIVに感染した他の人たちを助けよう、そういう風に思いました。こうして私は語り始めました。自分をよいサンプルとして使ってもらおうと思いました。エイズに感染した私がどんな経験をし、どんな情報を持っているか、エイズに感染した人たちがどのようなものを必要としているか、そしてエイズに感染することがどのような現実であるか、ということを他の人たちと分かち合うために。
○2,600人の仲間たちでつくる様々なプログラム
こうして活動しているうちに、私は他の三人のHIVに感染した女性たちと出会いました。この人たちと私たちは、のちに「ケニア・エイズと共に生きるネットワーク」(KENWA)と呼ばれることになる会を持つことになりました。しかしこの創設メンバーのうち、今生き残っているのは二人です。
設立当初の目的というのは、だれか一人が病気になったときに他の三人がその人を看病するということ、そしてだれか死んでしまった時には他の三人がその人の葬式を出してあげるということでした。というのも、当時のケニアでは、家族はエイズで死んだ人の葬式を出してくれなかったからです。
時とともに会員の数は増えました。現在では2,600人の女性の人たちが会員になっています。現在はエイズに感染している人たちの苦痛を和らげるためのサービスをいろいろと行っております。そしてまたこの病気を防ぐための重要な役割を担ってもらうために、人々を励まし、力を与えるためのプログラムを始めています。その一例としてカウンセリングがあります。主な活動は、HIV感染がわかった直後に、感染者に対して心のケアを提供していくことと、感染者同士でお互いに助け合っていくということです。
また、私たちは、非常に状態が悪くなって、ベッドに寝ている人の在宅ケアを行っています。在宅ケアの中には、食べる物を持っていくことや、生活環境を清潔にする、子供たちのケアを行うということが含まれます。こうした家族の中には、食べ物どころか、薬を飲むための水さえないという状況のところもあります。
それ以外に、私たちはドロップ・イン・センターを作っています。この場所で、感染者は自由に来てお茶を飲んだり、グループで話をしたり、ビデオを見たり、一緒に何かをするときに準備の話し合いを持ったりすることができます。
ドロップインセンターの中には小さな診療所があり、日和見感染症の症状を抑えるなどの基本的な薬を提供することができます。
もう一つ、孤児院があります。片親や両親がエイズで亡くなった孤児のケアをします。
情報提供やコミュニケーション、啓発キャンペーンを行うときに、子どもたちがそれに参加することがあります。私の息子であるピーターも、キャンペーンに参加し、メッセージを読み上げました。彼は、母親がHIVに感染していることについて、自分がどう考えているか、また、そのことで自分が体験したこと、自分の痛みなどについて話しました。
子どもたちは、ダンスや歌、人形劇などを通じて、エイズに関するメッセージを伝えるメッセンジャーになることがあります。また、コミュニティの集まりで、子どもたちが詩を朗読するなどのイベントを行うことがあります。私たちは、この子どもたちを「孤児」ではなく「KENWAの子どもたち」と呼びます。孤児と呼ばれることで差別を受けたり、嫌な思いをすることを防ぐためです。
ナイロビのスラム街の一つでコロゴショというところがあります。コロゴショのドロップ・イン・センターでは、参加者がうたったりダンスをして自分たちを励ましたり、自分たちの気持ちを表現したりします。また、子どもたちがコロゴショのドロップインセンターの周りを掃除してきれいにするなどの活動を行っています。
エイズによって親を亡くした孤児たちは、地域の人々から「どうせ死ぬのだから、ケアをする必要などない」という態度をとられることがあります。私の知っているあるエイズ孤児は、KENWAのメンバーによってケアを受けるまで、食べるものもなく放置され、最初は0.8キログラムしかありませんでした。今、その子は3.2キロまで体重を増やしましたが。また、スラム街においては、自動車などが入れるような道路がないため、非常に状態の悪い患者さんの世話をする在宅ケアには、手製の手押し車を救急車代わりにして活用する、ということがあります。
私たちKENWAは、HIVに感染した人々が、もし、もう死ぬしかない、という状況だったとしても、なるべく、痛みを少なく、尊厳をもって死んでいく、そういう形で死を迎える、ということを、何とかして実現したいと思っています。また、状態の悪い患者が、人に助けを求めるとき、その場所に、助けてくれる人がいる、そういうことがとても大事だと思っています。
○女性は最も弱い立場に立たされている
私たちは特に女性に注目しています。それは女性の方がHIVに感染したときに厳しい状況に置かれるといえるからです。HIVがある家庭の中に持ち込まれたとき、一番強く非難を受けるのは女性だからです。こうした場合、女性は浮気をしたのではないか、一夜の情事をしたのではないか、そういったふうに責めたてられます。逆に、男性のほうが感染した場合は、お前がきちんと満足させなかったから夫が外へ行って他の女性と関係したんだ、お前が悪い、妻が悪いといって責めたてられるのです。ですから、私たちが活動を始める前は、エイズにかかっている女性たちは非常に苦しい立場にあり、みじめで見捨てられた状況にありました。そして、ケニアの社会では、エイズに対しては非常に強い恐れ、また根拠のない不安がありましたので、エイズにかかった女性たちは無視され、捨てられて、一人でさびしく死んでいったのです。
地域や家庭を教育することによって、家庭の中でHIVに感染した女性がいるからといって、そのことで他の家族のメンバーが感染することがないのだということをわかってもらい、女性たちがきちんと家の中でケアを受けられるようにする。そういった活動をすることができるようになっています。たとえば、同じ部屋で生活していても問題ない、毛布を一緒に使ったり、また食器を共有したりしても感染することはない、そういったことを教育しています。それまでは、同じ空気を吸ったり、同じトイレを使ったり、同じ部屋にいるというだけで感染するのではないかと恐れている人たちがいたからです。
○本来ならば助かるはずの人が死ぬ:希望を持ち続けることの困難さ
私たちは、エイズと共に生きている人たちの問題を全て解決したわけではありません。でもエイズにかかっている人々が誇りを失うことなく、穏やかな気持ちで死にのぞむことができるという状況を作れるようになってきたと思っています。しかし、こうした活動を行う中でも、毎日人々が死んでいくということはつらいことだと思っています。私たちのネットワークのメンバーの中でも毎週3人くらいずつ亡くなっています。ということは、一ヶ月に11人から12人くらいのメンバーが亡くなっているということなのです。私たちにとってこれがどうしてつらいのか。それは、この人たちが死をむかえるというのは事前に予測できることであり、本来なら助けることができたはずだからです。こうした人々の死を予防することは本来可能であったと考えられるからです。例えば、下痢を止めたり、炎症を防いだりするために必要な、一日に一ドル以下の安い薬を使えば、こうした人たちの死を防ぐことができたはずだからです。こうした人々は本来なら生きられるはずなのに早く死んでしまうということは、私にとって苦しい問題です。エイズを完全に治すことは不可能ですが、エイズにかかっていることによって生じる病気は治療可能です。こうした治療可能な病気によって多くの人が死んでいっています。また、きが飢餓で死んでいく人たちもいます。
私にとって一つ忘れられない思い出があります。ある日、ひとりの子どもが、私たちのところに来て、こう言いました。「うちのお母さんは、ここに来たいと言ってたんだけど、来る前にもう死んじゃったんだよ。本当だったら、ここでどんなことをしてもらえたんだろう。」
私自身、いつまでも希望を持ち続けることは難しいです。
○感染者に対する医療やケアなしには、エイズ予防はできない
ですから、私は今日、日本に来ることで望みを託しているわけです。私が日本の方々そして日本の政府にお願いしたいのは、エイズにかかっている人たちがより長く生きることができるような方策をとっていただきたいということです。エイズを予防するにはどうすればいいか、皆さんと考えていきたいと思います。また、みなさんご存知のこととは思いますが、エイズの予防というのは、エイズに対する医療や感染者に対する手助けなしでは行うことはできません。
また、日本の方々にもう一つお願いしたいことがあります。「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」(GFATM)にもっとお金を出していただきたいということです。バルセロナで開かれた国際エイズ会議で決められたことですが、この基金に出されたお金というのは、開発途上国のほうへより多くまわされることになっているからです。
○大切なのは、「始めること」
最後になりますが、私はマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉で終わらせていただきたいと思います。キング牧師はこのように言いました。「大切なことは、今どんなに幸せな状況にいるかということではなく、どんなに困難な状況の中でも、私たちが物事を始めていくことだ。」と。エイズは第三次世界大戦だと思っています。私は、日本が経済の発展した力のある国だということを知っています。日本という国がこの第三次世界大戦の中でどのような地位を占めるべきか、皆さんにぜひ考えてほしいと思っています。みなさん、私たちに生きるチャンスを与えてください。どうもありがとうございました。
3.フォロゴロ・ラモスワラさん(南アフリカ共和国・治療行動キャンペーン)
(1)バックグラウンド
フォロゴロ・ラモスワラさんは、南アフリカ共和国で抗HIV治療の公的医療への導入と適切なHIV/AIDS対策を求めるPHA主体のグループ「治療行動キャンペーン」(TAC:
Treatment Action Campaign)のハウテン地域コーディネイターを務める、24歳のHIV感染者である。彼は南ア最大の都市ジョハネスバーグ周辺で、PHAの医療を受ける権利にかかわるキャンペーンや、若年層のHIV/AIDS予防啓発などに中心的に関わっている。
(2)スピーチ:「一つの地球」にある大きな格差:必要な人にエイズ治療薬を!
こんにちは。南アフリカ共和国から来たポロと言います。本当の名前はフォロゴロ・ラモスワラといいますが、短くポロと呼んでください。
南アフリカ共和国でのエイズの問題は、今、アスンタ・ワグラさんが説明してくれたケニアの状態と似ています。しかし、違いがあるとすれば、南アフリカは世界中の中でも一番感染者の増加率が高いということです。これまでにすでに50万人の人がエイズで亡くなっています。これをこのままにしておくと、ますます大きな問題となってしまいます。
○必要な人に治療薬を!南アフリカ政府を応援して、法廷で製薬会社とたたかう
南アフリカのエイズの状況については、良くなってきた面と悪い面とが両方あります。良くなってきた面というのは、政府が、エイズ問題が深刻になっていることにやっと気づき始めたということです。それは、エイズ問題を無視することが難しくなってきたということにも関係しています。エイズ問題によって、たとえば病院の病室が一杯になってきてしまっていること、経済に悪い影響を与えるということ、あるいは毎週たくさんの人がエイズで死んでいき、葬式をあげなければならないということがあります。
人がどんどん死んでいくという中で、政府がまず始めたのは、どんな人でも治療薬を買えるようにする制度をつくるために、法律を作るということでした。ところがそれに対して、「ファイザー」や「グラクソ・スミスクライン」などの、エイズの治療薬を作っている多くの世界的な製薬会社が反対しました。「製薬会社にとって不利益になる」というのがその理由です。これらの製薬会社は、南アフリカ共和国政府に対して裁判を起こしました。裁判を起こした会社は、最終的に30社以上にのぼり、何年にも及ぶ長い戦いになりました。
南アフリカ政府は、この裁判において、勝つための十分な証拠や情報を裁判所に提出することができませんでした。しかし、実際には、南アフリカの人々の多くは一日一ドル以下の生活をしており、これらの製薬会社が作っているエイズ治療薬を、定価で買うなどということは絶対にできませんでした。そこで私たち、南アフリカのAIDS患者・HIV感染者の団体である「治療行動キャンペーン」(TAC:
Treatment Action Campaign)が、南アフリカ政府を応援し、政府に十分な情報を与えて、裁判に勝つために、運動を開始しました。
私たちは、実際に南アフリカでどんな人がどれだけ苦しんでいるか、どうやって人が死んでいるか、こういった情報を南アフリカ政府に与えました。裁判の相手である製薬会社は、国際的に、非常に強力な権力を持った大きな会社ですので、南アフリカ政府はこの裁判でこれらの会社を相手にたたかうこと自体におそれを感じていました。ですから、政府に製薬会社とたたかう姿勢をつらぬいてもらうためには、私たちエイズの当事者の団体だけが動くのではなくて、労働組合とか、その他のNGO、市民団体もデモなどの動きをすることが必要でした。また、世界各国で南アフリカ政府を応援する市民の動きができました。
ここに一枚の写真があります。これは、南アフリカ政府を応援する署名運動で集まった名前が全部でているのですが、実際は100万近くの署名を世界中から集めることができました。その中には日本の皆さんからの署名もありました。このようにして、長い間、国と製薬会社との裁判でのたたかいが続いたのですが、結局、製薬会社の方が訴訟を取り下げるということになり、南アフリカ政府は製薬会社に勝つことができたのです。
○必要な人に治療薬を!第二のたたかい
裁判に勝ったのですから、これで南アフリカ政府は、薬が必要な人みんなに治療薬を届けることができるようになるだろう、とみんなが思い、喜びました。実際、私たちは政府を応援して情報を提供したりキャンペーンをしたりしたのですから。ところが、そうはいきませんでした。
南アフリカの政府は、裁判に勝ったのに、国民を守るためにエイズ治療薬に国のお金を使うという政策をとっていません。一方で、政府は多くのお金を使って武器を買っています。南アフリカのムベキ大統領は、HIVがエイズの原因ではないのではないか、というようなことを述べ、国民に対してエイズ医療や基本的なケアを行うことを拒んでいます。そのため、私たちは、今度は南アフリカ共和国政府に対してもう一つの裁判をすることになりました。
アフリカの政府から人が来て、日本やヨーロッパなどの国々で、自分がアフリカの代表だといいます。けれども、実際このような人たちがアフリカの代表かというと、私はそうは思いません。アフリカの政府には、戦争、汚職などの問題があります。こうした問題を掲げて日本にやってくる「アフリカの代表」には気をつけていただきたいと思います。こうした「アフリカのリーダーたち」に、自分たちの責任を取るように促す必要があります。
○なぜエイズ治療薬は高いのか:先進国の責任
こうした、南アフリカ政府の問題もありますが、より根本的な問題は、エイズ治療薬がとても高いということです。そこには、世界貿易機関(WTO)など、国際的な問題が存在しています。
WTOとは、資本家がどうやって世界を牛耳るかという仕組み作りをしているところです。WTOは、私たちが薬を買えない状況をつくっています。たとえば、南アフリカでは平均の家庭の一人当たり収入は月70USドル(8,400円ぐらい)なのですが、実際に薬を買うには100USドル(12,000円くらい。訳注:これは南アフリカ共和国でのエイズ治療薬の値段である。先に述べた裁判の影響もあり、エイズ治療薬の値段は、途上国ではこれまでの百分の一くらいに下がり、この値段になった。しかし先進国では、エイズ治療薬の値段は変わっていない。)必要なんです。これでは、誰も薬を買うことはできません。
日本のみなさんにお願いしたいと思います。エイズ治療薬の中には、世界的な製薬企業が作るブランド品の薬以外に、ブラジルやインド、タイなどで作っているジェネリック薬というものがあります。このジェネリック薬というのは、もっと安いのです。しかし、WTOの取り決めによって、薬を作る能力の少ない途上国のために、他国がこのジェネリック薬を輸出することができなくなっています。途上国がジェネリック薬を手に入れることができるようにするために、日本の皆さんが圧力をかけてほしいということです。
○健康は人間にとって基本的な権利
私は、治療薬あるいは保健、自分の健康を保障されるということは誰にとっても一番基礎的な権利だと思っております。そういった権利のためにお話しております。そもそも、エイズはアフリカや貧しい人たちだけに起こるものだけでなく、世界の誰にでも、平等に影響を与えるものです。アフリカでジェネリック薬を使えるようになるように、ぜひ議論をしていただければと思います。
みなさん、ぜひ、ここの場を離れる前に、それぞれのコミュニティー、地域でどんなことができるかぜひ考えてください。私たち、アフリカの、途上国の人間が生きているのは、日本の皆さんが生きているのと同じ地球、一つの世界なのです。アフリカ人、日本人という前に、一つの地球に住んでいる同じ人間なのだ、というところから出発したいと思います。
3.プロンブン・パニックパクさん(タイ・エイズNGO連合)
(1)バックグラウンド
プロンブン・パニックパクさんは、現在タイ・エイズNGO連合(TNCA:
Thai NGO Coalition on AIDS)の議長を務めている。彼は長年、国際NGOケア・タイのリーダーを務め、リプロダクティブ・ヘルス&ライツに関わる活動を続けてきた。また、タイでのHIV/AIDSの感染拡大の中でエイズ問題への取り組みを進め、とくに90年代後半からの「
Living with AIDS」の路線を押し進めてきた。
(2)スピーチ:
○タイのエイズ・ネットワークと感染状況
タイと日本の間には、昔から長い歴史的な関係があります。
今日、私が話したいのは、タイにおけるHIV/AIDSの状況です。二つの人々のネットワークがタイ社会をどのように変えることができたのか、また、タイのHIV感染者が、どのように治療を受けているのかお話ししたいと思います。
タイには二つのエイズのネットワークがあります。一つ目が「タイ・エイズNGO連合」(TNCA)です。これはNGOが集まってつくった連合会です。もう一つのネットワークは「タイ・PHAネットワーク」(TNP+)です。こちらはタイのエイズと共に生きる人々のネットワークです。
タイでエイズが始まってから、およそ100万人の人々がHIVに感染しています。すでに30万人の人々がタイで死んでしまいました。毎年、3万人の人々が新たに感染しています。HIVに感染している人々の多くが若者です。また、例えば妻が夫から感染するといった事態が多く生じてきています。近年、毎年5万5千人の人々が、AIDSに関連した病気を発症しています。タイの全人口の中で、男性の2%、女性の1%が感染しています。
○タイのエイズ対策の変遷:予防からケア・サポートへ
少し歴史を遡ってみたいと思います。タイでエイズ患者がはじめて報告されたのは1984年でした。このころすでに、人々は病気の状態になっていました。しかし、84年から90年まではタイの政府はエイズのことを否定していました。
当時のタイの経済は非常に強い状況にありました。だから、政府の方はエイズのことが知られてしまうと、観光産業に影響を与えるのではないか、また、エイズという問題がタイの経済に打撃を与えるのではないかと心配しました。
その同じ時期にNGOはHIV/AIDSの問題にゆっくりとではありますが、取り組みをするようになりました。しかし、その時の取り組みのほとんどは、エイズの予防の方でした。またいくつかのNGOが集まって団体をつくり、エイズに伴うスティグマについて取り組みを作るようになってきました。
その後、1991年から95年にかけてエイズの感染が大幅に拡大しました。特に北部タイにおいて、多くの人々がなくなりました。特にこれがひどかったのがチェンマイというところで、ここが流行の中心地になりました。多くの人々が急速に病気になり、そして死んでいったのです。
タイは非常に危機的な状況に面していたのですが、幸いなことにとても先見の明のある首相が政権をとりました。この首相はアナン(アナン・パンヤラチュン、1991年3月から92年4月まで首相)です。アナンは、エイズを政策の最優先課題としてとりあげ、政府の手によって、エイズ政策の様々な側面を変えていきました。その一つに、エイズNGOへの資金供給のプロジェクトがありました。
こうして、NGOがエイズに感染した人々やその家族のサポートについて、活発に活動できるような状況が生み出されました。特にこの活動は、パンコク、およびタイ北部で盛んになりました。この二つの地域はエイズの中心地でもありました。
また同時に、PHAのネットワークが組織されてきました。これは、地域単位で作られ始めました。10人から20人の感染者たちが集まって自分たちの問題について話し合うようになってきました。これらのグループの基盤は、地域の公立病院であり、医師やNGOがこれらのグループのサポートを行いました。こうしてNGOの活動の対象は、「予防」から「ケア・サポート」に移ってきました。PHAのサポートのためのグループがタイ北部とバンコクで数多くできてくるようになりました。
次に1996年から2000の段階をお話ししたいと思います。この時期には、多くの種類の活動が活発になりました。まずエイズの流行についてお話ししますと、それまで、タイ北部とバンコクを中心として広がっていたのですが、この段階になるとエイズの感染が全国で見られるようになり、エイズに関係した日和見感染症の発症が多く見られるようになってきました。「タイ・エイズNGO連合」はより多くの地域をカバーするようになり、4つの地域全てにオフィスを置くようになりました。
現在、「タイ・エイズNGO連合」には150のNGOが参加しています。もうひとつ、TNP+についてですが、こちらも「タイ・エイズNGO連合」と似たような組織をとっているのですが、二つは別のネットワークであり、TNP+には、およそ500のグループが所属しています。この2つのネットワークは、それぞれとても緊密な協力の体制をとっているのですが、別の組織です。
○治療薬の値段を下げて、抗エイズ薬を公的保険制度の中に組み入れよう
この2つの協議会は両方とも、政府の政策決定に対してアドボカシー活動を中心に行っています。その内容を3つほどお話したいのと思います。まず、抗エイズ薬に関して、特許の強制実施を行うということです。特に、ddIという抗レトロウィルス薬に対する特許の強制実施権を発動して欲しいと要求しています。
ここで1つ強調しておきたいことがあります。基本的には、タイの政府はNGOと対話することについて、非常にオープンな態度をとっています。しかし、どうしても政府というのは、NGOやPHAとは違った視点からものごとを見がちです。
そのため、NGOやPHAと政府との関係というのは、時には非常に緊張した関係になることがあります。とはいっても、この両者は結局のところ、一つの目標を達成するために、お互いに必要な存在であることは認識しています。
今年になって達成したことを話したいと思います。「タイ・エイズNGO連合」およびTNP+は、抗レトロウィルス薬を国の公的な保健政策に組み込んでほしいと要求しています。 この国の保険制度では、一回病院に通うことに30バーツ(およそ90円)かかります。これは、どんな病気でも、90円で済む、という政策です。しかし、現在のところ、抗レトロウィルス薬に関しては、本当に必要している人の5分の1しか、実際にこの薬を手にすることができない、つまり、これらの薬については、1万人分以下しか入手できないのです。 このARVの入手をより簡単にするためには、薬価を引き下げる必要があります。一つは多国籍製薬会社との交渉、もう一つは、自国内で抗レトロウィルス薬を製造することが考えられます。
○患者・感染者自らが、服薬に関する自分の経験を語る
もう1つ、タイで現在起きていることについてです。それは、これまでタイで薬を受ける側であった患者・感染者が、現在、ケアを与える側に回っているということです。
これはどういうことか。つまり、抗レトロウィルス薬の服薬の仕方や、副作用がどうなるのか、また、服薬によって社会的にどういう影響をうけるのか。そういうことを、自分の感染者の友だちに伝えたり、人々に普及したりする役割を展開しつつある、ということです。
これは、医師にとってはなかなか受け入れ難いことであるといえます。というのは、社会的に高い地位にある医師の仕事を奪ってしまい、これらの仕事をHIVに感染した人々がかわりにやる、というのは、なかなか医師たちは受け入れません。
これ以外にも「タイ・エイズNGO連合」やTNP+が関わっている、色んなことがあるのですが、今回はこの詳細についてはお話ししません。タイの現状までの経緯を見ていると、NGOやPHAの人々、また、一般の人々は、当初は予防の方に傾いていたのですが、それが徐々にケア・サポートに変わっていったことがわかると思います。PHAの人々は、現在では、より活発な役割を担っています。
また、現在、HIVに感染した人々が、NGOのリーダーとなって活動しているということは、見落とすことのできない点です。特にTNP+は、リーダーとしての役割を果たしています。そして、NGOの方が、いろいろなコンサルティングを受けたりもしています。つまり、NGOよりも、エイズに感染した人々のほうが、より活発な動きを見せているのがタイの現状です。
最後になりますが、日本の皆さんにメッセージをお伝いしたいと思います。日本という国は非常に力がある国です。そして、色んな面でリーダーになれる国です。ですから、今後はエイズへのサポート、とくに他の国々へのサポートにもっと力を果たしてほしいと思います。いろいろな人たちの声に、オープンに耳を傾けてほしいと思います。エイズの問題というのは世界的な問題ですので、貧しい国、富める国の別な句、皆さんとともにこの問題に取り組むために立ち上がって行きたいと思います。
4.梅田珠実さん(神戸市保健福祉局参事)
(1)バックグラウンド
梅田珠実さんは、厚生省入省後、WHO勤務等を経て、エイズ疾病対策課課長補佐として、96年の薬害エイズの和解以降のエイズ政策の形成、その他エイズ対策全般の形成に関与。現在は、神戸市保健福祉局の参事を務める。2003年11月に予定されているアジア太平洋国際エイズ会議に関して、神戸という地域からの参加を地元としてコーディネイトしている。
(2)スピーチ:日本のエイズ対策の歴史の流れをたどる
○はじめに
神戸市役所の梅田です。他のパネリストの方は、コミュニティの立場からお話になっていますが、私は行政の中にいました。厚生省、文部省、WHOでエイズ対策に関わってきました。日本のエイズ対策は、1983年、厚生省で「エイズ研究班」が対策を検討するというところから始まり、今年でちょうど20年にあたります。この20年を振り返り、日本がどんなエイズ対策を行ってきたのかを振り返ってみようと思います。
○スタートアップ期
まず、第1期。1983年から86年まで、スタートアップ期という風に名付けてみました。国としても対策の立ち上げを急いだ時期で、主として海外から情報収集をしたり、対策の組織づくり、ガイドラインづくりやサーベイランスを始めたという時期です。組織づくりからすれば厚生省のなかにエイズ対策専門家会議というのができまして、また枠組みづくりについては、87年の年明けになるんですけれど、エイズ対策関係閣僚会議による「エイズ問題対策大綱」の制定です。これがエイズ対策の基本ポリシーになりました。
ただ、この時期は、急いで準備していた頃であって、患者さんの数は、85年に同性間の性的接触でエイズ患者6人、また、血液製剤で感染された方々の報告があったわけですけれども、当時は政府・官主導で、一般の人から当事者の方々の顔は見えなかったし、意見を言っていただく場もなかった。ほとんどの国民にとってエイズ対策というのは「対岸の火事」という認識だったと思います。
○パニック期
その次が第2期、1987年から1990年頃までです。この時期については、「パニック期」と言えるのではないかと思います。87年に、神戸と高知県で「エイズ・パニック」といわれる事件が起きました。この前年にも長野県松本市で、フィリピンからきていた女性が、日本を出国した後で、HIVに感染していた、売春に関わっていたのではないか、という噂が流れ、パニックが起こりました。神戸では、日本人の女性がはじめて感染者として報告されたり、高知では日本人の妊婦さんが感染しました。こうした時に、パニック的な形で報道が過熱し、患者、感染者が、あたかも加害者のように扱われ、排除されるというようなイメージがどんどんつくられていた。強い人権侵害などが、残念ながら多かったという時期です。
このために対策というのも、パニックを静めるような情報提供なり対策が目立ちました。今から振り返ると、このころのエイズ対策は、その後のエイズ問題にバイアスを与えるものとなっているように思います。例えば、「不特定多数を相手とする性交渉はやめましょう」、とか、「普通の生活をしていれば大丈夫です」、というようなメッセージが流れました。現在では、特定の一人の方からも感染が広がるという状況ですので、決して、不特定多数だけが問題なわけではありませんし、普通の生活というのは、当然セックスも含むわけですから、「普通の生活ではうつらない」なんてことはないわけですけれど、このようなむしろパニックを静めるためのメッセージがたくさん出され、このようなパニックを背景として、「エイズ予防法」という法律が、そのような時代背景のもとに成立した、ということがあります。
神戸・松本・高知県でのパニック事件というのは、インパクトという点では非常に大きいものがありました。例えば、特に神戸市内では、電話相談が半年間で1万五千件あったり、一ヶ月で検査を受けた人が一万人いたり、ということで、本当にパニックだったことがわかります。しかし、一部の地域を除いては、依然として多くの日本人にとっては、エイズが自分にとって身近な問題だとはあまり認識されなかったのではないかと思います。第一期の「スタートアップ期」に対岸の火事だったのが、少し近くの火事になってきた、という程度だったと思います。
○キャンペーン期
続いて第3期、1991年から1992年ですが、「キャンペーン期」と言えると思います。
まず、90年初めに感染者患者の報告が急増しました。それまでは感染者、患者あわせて、年間の報告が100人未満だったのですが、これが倍以上に増えてきまして、特に外国人の感染者や異性間性的接触での感染が増えてきた時期です。これは非常に大きな危機感をもたらし、行政側の対応としては、エイズ問題対策大綱をを改訂したり、エイズストップ作戦本部という組織を厚生省に作ったりしました。また、メディアの方も、エイズがつねに、マスコミの話題となり、危機意識を盛り上げるという役割を担ってきたと思います。
官民ともに、といっても、「民」はメディアですが、予防キャンペーンを繰り広げた時期だったと思います。しかし、予防キャンペーンといっても、その前のパニックの時期以来の「排除」というイメージを色濃く引きずっており、話題にはなったけれど、当事者や市民が主体的にどんどん関わっていくというそういう発想はあまりうまれてなかったのではなかったかと思います。
○開国期
第4期が、1993年から1994年ですが、この時期を「開国期」と名付けました。94年はちょうど、横浜国際エイズ会議があった年です。また、外務省の「人口・エイズ分野に関する地球規模問題イニシアティブ」(GII)で、とくに人口分野・保健分野の国際協力に貢献するんだ、という宣言をしたり、また同じ年にパリ・エイズサミットがあって、日本からも多くの人が参加したり、また、アジア専門家研修事業といってアジアのエイズ専門家たちを日本に呼んだり、あるいは第3国で研修をしていくプログラムを次々と立ちあがりました。また、1995年に、第3回アジア太平洋国際エイズ会議にたくさんの日本人が参加するようになった。日本人が世界に目を向け始める時期だったと思います。
この時期というのは、まだバブル経済と言われるほど、日本人も経済も活気があったわけです。海外からも、日本のリーダーシップということでおだてられていることもあって、国際社会の中で日本の役割を果たすんだ、と少し気負っていたところもあるんですが、ずいぶん、海外からいろいろなことを吸収できたのではないかと思います。また、国際エイズ会議を始めとして、会議を日本で行ったことによって、NGOやエイズ患者・HIV感染者の方々が、エイズ対策の対等なパートナーなんだ、ということを初めて経験することになったと思います。
○薬害エイズ期
続いて第5期にはまた、大きな変化がありました。1995年から1997年にわたるこの時期について、「薬害エイズ期」と名付けましたが、血液製剤によるHIV感染に関する訴訟が「和解」という形で決着します。10年前に何があったのかという真相の調査と、被害者への医療・福祉といった恒久対策が急務でした
この当時の国内のエイズの報道、国民関心というのはほとんど薬害一色といっても過言ではありません。実は、性的接触によるHIV感染は増えていたんですが、そのようなデータを提供してもほとんど取り上げられなかったし、あまり関心がなかった。むしろ、医療や福祉の充実が言われ、患者さんからのたくさんの動きがあり、エイズの治療・予防という問題を通じて、日本の医療のあり方に問題提起がなされたということができます。つまり、日本の医療一般に欠けているものが、エイズの問題を通して浮きぼりになったわけです。
○対策改編期
その次が第6期。1998年から今までになります。「対策改編期」と名付けました。
この時期、感染症新法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)という新しい法律が成立しまして、エイズ予防法は廃止されました。感染症新法では、予防と同時に患者さんの人権や医療の提供が大事だということが明確に打ち出されました。それまではエイズを単独の法律で扱っていましたが、この新法では、70以上ある感染症のワンオブゼムとして位置づけられた。この法に基づいてエイズの予防指針として国の告示が出されました。
ところがこのような対応が色々なされる中で、一般の関心はどんどん低下してきているんではないかと思います。
目を海外に転ずれば、2001年に国連エイズ特別総会があり、世界エイズ・結核・マラリア対策基金ができ、国内では九州・沖縄サミットでエイズ対策のことが重要だと話し合われたわけですが、にもかかわらず、国内的な関心は低下し、その一方で国内の感染者はいままで以上にさらに増え続けている、そういう時期だと思います。
○日本に新しい発想をもたらした「エイズ」という課題
このような振り返りからわかることは、エイズという課題が、日本にまったく新しい発想をもたらしてきたということです。例えば、NGO・CBOとの対等のパートナーシップや、患者・感染者など当事者の参加が重要という考え方、これは、エイズという課題と接することによって初めて導入されてきたのではないかと思います。
そこに大きな影響を与えたものが2つあると思います。1つは、94年の横浜国際エイズ会議です。この会議では、様々な国際的な会合を持ったのですが、その中に、私たちがシャドーミーティングと呼んでいた会合があります。主催者である日本の組織委員会と、共催者であるWTOとIAS(国際エイズ学会)、ICASO(国際エイズ・サービス組織会議)、GNP+(世界PHAネットワーク)のコアのメンバーで、会議に関するプランを立てていました。プログラムの中身からスカラシップの運営、入国のサポート、コマーシャル・セックスワーカー、ドラッグ・ユーザー、PWAのサポートをどうするか。これらの課題を、非常に早い段階からICASOやGNP+の方々と一緒にやっていく。それが非常に自然な形だったわけです。ICASOのリチャード・ブレジンスキーや、GNP+のドン・デュガニエといった人物が、非常に建設的な提案をする。行政としても、これらのNGOの方々と対等に準備をしていくことに、だんだんなじんできました。また、海外のPWAやNGOだけでなく、国内のカウンターパートであるNGOの存在にも気付いていったのです。
国内のNGOにしても、もともとはバラバラだったものが、横浜国際エイズ会議を成功させるという同じ目的を共有できたということがありました。会議の本番では、様々な文化的・社会的背景を持つ人々が集まり、PWAや様々なマイノリティの方々の貢献がエイズ対策に不可欠だということを、かたく心に刻んだのではないかと思います。
もう一つ、患者・感染者など当事者の参加が大事だということについて、大きな影響を与えたできごとが、いわゆる薬害エイズ事件です。日本では1985年に加熱血液製剤が承認されるのですが、不幸にして、多くの血友病患者がHIVに感染してしまった、そして長い間偏見と闘ってこられたということです。
ちょうど10年経った1995年、もっと早くから、危険情報を伝えるべきだったのではないか、安全な薬剤にもっと早く切り替えることが、なぜ日本ではできなかったのか、という、過去の政策への批判が非常に大きく取り上げられました。
1980年代のごく初期は、エイズの原因が科学的に究明されていなかったので、判断が難しいところもあったのですが、ただ、明らかに誤っていたのは、政策を専門家だけで決めてしまったことだと思います。もし、当事者の意見を聞いていれば、より安全な政策があったり、あるいは使用を控えるというような、選択肢もあったのではないかと思います。患者の立場の人が関与できていれば、薬害エイズの問題は大きく変わったのではないか。
これらの大きなインパクトがあったできごと以降に、日本の対策がどのように変わっていったかということなんですが、一つは、薬害エイズの和解を受けて、医療や福祉の体制の整備が行われました。医療体制ということでいえば、最新の医療を提供する日本の治療研究施設であるエイズ治療研究開発センターと、日本を8つのブロックに分けての地方ブロック拠点病院、全国で366カ所のエイズ拠点病院です。
医療費に関して、血液製剤で感染した方だけでなく、二次・三次感染者も、保険と公費負担によって医療費がカバーされて、自己負担がないというようなプログラムが導入されたり、身体障害者認定が導入されたり、和解以前はHIV治療薬の認可に時間がかかっていたのが、迅速に審査されるということになりました。また、パートナーシップについていえば、エイズ予防指針が当事者の参加で作られたり、文言の中にNGOとのパートナーシップということが書かれたり、というのは皆さんご承知のことと思います。日本の対応について述べてきましたが(司会の方から「止めろ」と言われましたので)、2003年に神戸で行われるアジア太平洋国際エイズ会議が、日本の対策にプラスになるものになるようにということを願って、私の話を終わりにしたいと思います。
5.ジョゼ・アラウージョ・リマ・フィーリョさん(ブラジル・命を励ます会)
(1)バックグラウンド
アラウージョさんは、ブラジルのPHAのグループ「命を励ます会」(
Grupo Incentivo a Vida)の役員を務める一方、ブラジルのPHAの代表的存在として、ブラジル国家エイズ委員会の委員も務めている。一方、毎年来日し、日本国内でHIV/AIDSの教育・啓発のための講演会・ワークショップに参加すると共に、日系ブラジル人のHIV/AIDS問題に関する取り組みも実施している。
(2)スピーチ:ブラジルに於ける実験~患者・感染者の立場から~
○はじめに
こんにちは。私は、HIVとともに16年間生きています。
私の国・ブラジルの状況は、ケニアや南アフリカとは多少違っています。しかし、私たちの国でも、以前は、ケニアや南アのような、辛い時期がありました。私は「命を励ます会」というNGOに所属しており、HIV/AIDSとともに生きる人々が約650人、参加しています。私はGIVとは別に、HIVに感染している孤児たちのホームの理事長も務めています。私はHIVとともに長い時間を過ごしているわけですが、その間たくさんの友人たちがエイズによって命を落としました。その亡くなった友人たちというのは、医薬品が感染者の手に届く前に亡くなってしまいました。間に合わなかったわけです。
○患者・感染者運動が訴訟で勝ち取った抗レトロウィルス薬の無料配布制度
ブラジルにおけるエイズに対する運動には、二つの大きな潮流がありました。一つは、保健問題について活動するグループ、もう一つは、HIVとともに生きる当事者たちのグループです。このHIV感染者たちの運動というのは、最初に登場したエイズ治療薬であるAZT(ジドブジン/アジドチミジン)が登場する以前は、誕生していませんでした。感染者運動は、AZTの登場以前には、予防啓発に関するものと、感染者の人権獲得に関するもの、それだけの分野のものしかありませんでした。
1991年に政府がAZTの無料配布制度を開始したのですが、それを機にHIV感染者の運動のなかで署名運動などを繰り広げ、治療薬を、公的医療サービスのシステムのなかで、無料で配布することを要求する運動が始まりました。
時を経るとともに、新しい治療薬がどんどん誕生してきて、それに合わせて私たちの運動も高まってきました。これらの運動は、市民社会の世論の盛り上がりとともに行ってきたわけですけれども、私たち当事者としては、感染者自身が社会に顔を出していくという運動を伴っていました。
また、医薬品を獲得していく運動が行われてきたわけですが、しかしたとえ薬があったとしても、そこへのアクセス手段がなければ意味がないわけです。そうやって社会に感染者自身が顔を出していくという運動が行われてきたわけですけれども、メディアに出たり、社会に顔を出していくだけではなくて、政府に対して強力に医薬品を求めていく運動、ロビー活動を行ってゆきました。
1996年、私たちの感染者運動の仲間の女性の1人がエイズを発症してしまいました。その当時、すでに新しく開発された「プロテアーゼ阻害剤」と呼ばれる薬があったわけですが、まだバンクーバーで開催された国際エイズ会議の直前であり、新薬が認証されるかどうかという時期でした。これは、彼女にとって、<薬はあるのにアクセスできない、高いから購入できない>という問題でした。それで私たちは彼女の薬を獲得するために、州政府を訴えるという訴訟運動を行ったのです。
その訴訟運動の足がかりとなったのは、ブラジル国憲法にある条項の一文です。その憲法の一文にはこう書かれています。「健康はすべての市民の権利であり、そしてそれを守るのは州政府の義務である。」その裁判は私たちの勝訴に終わりました。裁判官は州政府に対して、<15日以内に原告の女性に対して、彼女が必要としている医薬品を提供せよ>という判決を出しました。この訴訟運動をきっかけにして、勝訴の判決が出た一ヶ月後には、ブラジル全国で同じような訴訟が465件行われました。さらに、私たちは路上に出て、デモ行進をして世論を高めてゆきました。私たちはデモ行進を有効に行うためのデモキッドなどを作成したりもしました。そのような運動を受けて、ある上院議員が国会に新しい法案を提出しました。それは、各州政府がエイズ治療薬を無料で保障すべきだという法律案です。こうしてブラジルの治療薬無料配布制度が出来たわけですけれども、この成功は、政府、市民社会、HIV・エイズとともに生きる人々、この全ての人びとの力が合わさって獲得されたものです。
○NGOや当事者とのパートナーシップを重視するブラジル政府
財務省は、無料配布制度の導入にあたって、費用対効果の計算をしています。しかし、この無料配布制度にかかる支出は、決して、ただ単に支出を膨らませているわけではありません。出した分に見合うだけの効果があると評価されています。
また、治療薬無料配布制度は、ブラジル国籍を持つ人だけのものではありません。ブラジルに居住しているすべての人々、つまり、外国人も受益者となり得るわけです。この無料配布制度を保障している法律には、「HIV/AIDSとともに生きるすべての人々に対して、無料の治療を保障する」と書かれています。つまり、たとえ不法滞在している外国人であっても、受益者となれるのです。私たちが行ってきたのは苦しい闘いでしたが、この闘いがあったからこそ得られた大きな成功なのだと喜んでいます。
その後、財務省のほうで、医薬品を購入する国家予算が尽きてしまったという事態に陥ったことが三回ありました。しかしその度に、私たちは路上に繰り出してデモ行進を行い、医薬品のための予算を出せ、という運動を繰り広げました。それで、財務省は何とか予算を確保して、医薬品を確保するという結論にその度に達することになったのです。
私たちは、私たちが到達したこの地点を、もう完成されたものだとは思っていません。これからも、私たちはブラジル政府のエイズ政策を監視しつづけていたいと思っています。ブラジル政府は、エイズ対策のなかにおけるNGOや、HIV/AIDSとともに生きる人々、当事者の人々の存在の重要性を深く認識しています。政府が行うエイズ対策は、常にこれらNGOや当事者の人々のパートナーシップに基づいて行われています。ですから政府が政策上何か困難にぶち当たったときには、私たち当事者に相談が来るわけです。そして、それぞれの立場で知恵を出し合って、解決策を模索していきます。
○様々なレベルで「ともに生き、共に働く」こと
ジェネリック薬の問題についても同様です。私たちの国、ブラジルでは、全てのセクターの人間がジェネリック薬に対して賛同の立場を示しています。WTO(世界貿易機関)において、ブラジルのジェネリック薬製造のことが問題化されたときに、私たちは仲間を募ってカナダ、スイス、日本、アメリカのそれぞれの大使館の前において、デモ活動を行いました。
ブラジルは非常に貧富の差の激しい国です。例えばHIVとともに生きる子どもにとって必要なのは、薬だけではありません。もっと必要とされているものがたくさんあります。私が行っている活動の中で、孤児院では5人の子どもたちを預かっています。またそれとは別に、3カ所のスラム地域に住んでいる21人のHIV感染者の子どもたちの支援を行っています。私たちの団体はこのスラム地域に4つの小屋を建てました。それは、このエイズをもっている子どもたちのための小屋です。なぜ小屋を建てたのか。裁判所が、この子たちの住宅環境があまりにひどいので、子どもたちを他の孤児院に移すべきだという裁定を出したからでした。しかし私たちは、子どもたちが家族と共に暮らし続けられることの方が大切だと考えました。そこで、住まいを提供するというサポートを行いました。
また、私たちは、スラムでHIVに感染している女性たちのための作業所を作りました。 彼女たちは子どもを育てながら生きています。彼女が服用しなければならない薬を保健所に取りに行くためには、バスに乗らなければなりません。しかし、彼女たちは貧しく、そのバス賃さえもないという状況にあるわけです。ですから、彼女たちが働ける場所を作りました。現在10人の女性たちが洋裁の作業場で働いています。
私たちの運動の目標について述べたいと思います。これからはブラジルにおけるエイズと共に生きている人たちのためにだけ働くのではなく、これからはアフリカや、さらに日本でHIV/AIDSと共に生きている人々と協同して働いてゆきたいと思います。例えば、偏見という問題があります。ブラジルにおいても、アフリカにおいても、日本においても、この問題は同じ側面があります。偏見、暴力的な偏見という問題はどこの国にも共通していると思います。
私は日本を9回訪問していますが、日本が担っている役割は非常に大きいと思います。日本でも、いろんな問題があると思います。例えば世間や病院などで感染者が受けている偏見、そういうものは日本ではあってはならないものではないでしょうか。日本はこのエイズ分野において、治療や研究活動、予防啓発の分野などにおいて、いろんな活躍をしています。しかし、それは決して外国への支援ということでだけ行われるべきではないと思うのです。日本国内での問題に取り組むために、もっと重要な役割があるのではないでしょうか。なぜなら、エイズには国境はなく、エイズは軽々と国境を越えて広がっていくものだからです。
6.モアシール・ピレス・ラモスさん(ブラジル:パラナ州保健委員会)
(1)バックグラウンド
モアシール・ピレス・ラモスさんは、また、ブラジル・パラナ州の保健行政担当者として、ブラジルのエイズ政策の確立に大きな力を果たしてきた。また、現在に至るまで、エイズ専門医として、患者・感染者の投薬アドヒアランスやモニタリングについて、大きな役割を果たしてきている。
(2)スピーチ:ブラジルに於ける実験~専門医、そして行政の立場から~
○患者・感染者運動の黎明期を目撃して
こんにちは。
私はエイズ専門医で、1986年以来、HIV感染者の臨床経験を持っています。この臨床経験の中で、いろんな患者を診てきました。なかには、私の幼馴染もいましたし、同じ医者の仲間もいました。また、感染者として活動している人たちもいました。
1988年のある日、女性の患者が訪れました。彼女の夫はすでにエイズで死亡していて、彼女自身も感染してしまったといいました。さらに、彼女は感染の事実が職場に知れた途端、仕事を首になってしまったと語りました。そして、彼女はいいました:何かとにかく行動を起こしたいのだと。
当時サンパウロ市やリオ=デ=ジャネイロ市では、既に感染者自身の相互扶助活動というものが誕生していました。それで私は彼女にアドバイスをしたのです。私の「相互扶助団体を作ってみてはどうか」というアドバイスを受けて、彼女はその後、パラナ州の州都クリティバ市において、初めての患者・感染者の相互扶助NGOを、マルコスという青年と一緒に立ち上げました。彼女たちの活動は、私たちパラナ州の医師たちにとっても非常に大きな示唆をもたらしてくれました。
残念ながら、彼女もマルコス青年ももうすでに亡くなってしまいました。たくさんの活動家である患者たちが亡くなっていったわけですが、彼らがいつも語ったことばがあります。「私たちを苦しめないでください。私たちのことを忘れないでください」。私は、この彼らの言葉を決して忘れません。公的医療機関に勤める医者として、常に感染者・患者たちと共にあるということを忘れたくないと思います。
○ブラジルにおけるエイズの現状
ブラジルにおけるエイズの現状についてお話しします。2001年の末までで、22万2,356人のエイズ患者が把握されています。またブラジル国内におけるHIV感染者の数は推定60万人と言われています。
以前は、感染者数が120万人に達するのではないかと見られていました。予測数と現実の数の差はどこから生じてきたのでしょうか。それは、予防啓発活動の成功、そしてHIV/AIDSと共に生きる人たちへの治療政策が成功したということによるものではないでしょうか。
ブラジル政府保健省は、1991年以来、エイズ治療薬の配布事業を行っています。
1997年以降、エイズ治療薬の無料配布制度の受益者は格段に伸びています。それに比例するように、エイズによる死亡者の数の減少が見られています。死亡者数は60%減少しました。また、この5年間で、入院にかかる費用は8分の1になりました。保健医療に対する支出の削減効果は、11億ドルに上りました。この政策の原点は、1990年代中ごろから治療薬を求める闘いという運動が繰り広げられたことにあります。現在約12万人のHIV感染者が無料で治療薬の提供を受けています。
ただ、単に治療薬があるというだけでは、ダメです。それ以前にまず確実な診断を行うこと、誰がどれだけ薬を必要としているかということを確定すること、副作用を回避すること、一方、一人一人の患者がきちんとした食事を得ること。投薬以外に、必要とされることがたくさんあります。
○ブラジルが果たすべき国際的役割
現在、サハラ以南のアフリカ諸国において、抗HIV治療を受けている人の数は、約5万人とされています。一方、抗HIV治療を実際に必要としている人の数は400万人~500万人と言われています。つまり、治療を受けられているのは、わずか1%の人にすぎないわけです。
同様に、アジアにおいて治療を受けられている人の割合はわずか4%です。
一方、ラテンアメリカ・カリブ諸国において治療を受けられている人の数は19万6000人です、それは必要としている人のうちの54%に達しています。このうち、ブラジルで治療を受けている人の人口は12万人です。このことから考えられるのは、ブラジルが果たしている役割には大きく二つあるということです。
まず一つ、ジェネリック薬の国内生産を行っているということ。治療薬のうち60%がジェネリック薬として国内で生産されています。残り40%は国際的な製薬会社が製造しているものなのですが、ブラジル政府はこの会社が持っている特許を破って国内生産するぞ、とプレッシャーをかけたわけです。その交渉の結果、これらの製薬会社は、自らがより安いジェネリック薬を生産するというような形で解決策を考え出して、医薬品の価格を40~50%下げて供給してくれるようになりました。
そして二番目の役割は、ブラジルがこの治療薬配布制度を今後続けていくこと、そしてこのブラジルが培った経験を他の国にも伝え、他の国々もこういう政策を作り出せるように手助けをしていくことです。これが、ブラジルの課題です。
私たちは、エイズという問題に立ち向かって行くために、アフリカ諸国、ラテンアメリカ諸国、そして日本、様々な国の協力を必要としています。皆が力を合わせて立ち向かってゆくこと、それは、エイズで死んでいった人たちを忘れない、そして今現在、HIV/AIDSと共に生きている人たちと共にいるんだ、ということを常に頭に置くということが必要だと思います。