外務省外交史料館 特別展示
外務省では,今年(2011年)3月,『日本外交文書 日中戦争』(全4冊)を刊行しました。同書は,昭和12(1937)年7月の日中戦争発生から昭和16(1941)年12月の太平洋戦争開戦に至るまでの時期における日中戦争関係の外務省記録を編纂・採録したものです。
今回の特別展示では,同書に収録された文書の中から,日本の方針や対応を示す興味深い文書を選び,日中戦争をめぐる日本の外交活動を点描しました。日本外交の岐路とも言うべき重要局面に直面した外務当局の苦悩と対処振りを,外交文書を読むことを通じて体感していただければ幸いです。
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昭和12年7月7日,北京郊外で日中間に軍事衝突が発生しました(盧溝橋事件)。日 中外交当局は南京で善後処理交渉を行いましたが,主張は平行線をたどりました。その後,現地での軍事衝突が相次ぎ,31日までに日本軍は北京・天津方面をほぼ制圧しました。
昭和12年8月初旬,時局収拾を目指して,外務省は船津辰一郎元上海総領事を上海 へ派遣し,停戦に向けた準備交渉を試みました。しかし,そのさなかに上海で日中両軍が交戦を開始し,その後,全面戦争へと至りました。
昭和12年11月上旬,広田弘毅外務大臣は,ドイツに和平斡旋を要請し,トラウトマン駐 華大使を仲介とした和平交渉が行われました。しかし交渉はまとまらず,昭和13年1月16日,日本政府は「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との声明を発表しました。
「対手トセズ」声明により,蒋介石率いる重慶政権との和平交渉が事実上打ち切りとなり,日本は新たな和平交渉相手として,汪兆銘に接触しました。これに呼応した汪兆銘は重慶を離脱し,昭和15年3月には汪兆銘を首班とする南京国民政府が成立しました。しかし,日本政府は同政府の即時承認を行わず,11月30日になって,日華基本条約と日満華共同宣言に調印しました。これにより,日本は正式に南京政府を承認しました。
昭和15年7月,第二次近衛内閣が成立すると,外務省は南京国民政府を育成する一方で重慶政権との和平工作を妨げないことを外交方針として決定し,和平工作は秋に本格化しました。しかし,重慶側代表の来訪が遅れたため日本は先方の誠意を疑い,交渉の打ち切りを決定,南京政府との間に日華基本条約を締結しました。その後, 重慶和平工作は一向に進捗を見せず,昭和16年12月には米英との戦争に突入し,日中戦争は太平洋戦争に吸収される形で,昭和20年夏まで継続されることとなりました。
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