外務本省

特別展示「日中戦争と日本外交」

V 和平工作の蹉跌

概説と主な展示史料

 昭和15年3月に汪兆銘を首班とする新中央政府が樹立されると,重慶政権との和平の機運は急速に減退し,事変処理は手詰まり感を示す状態となりました。第二次近衛内閣(松岡洋右外相)成立直後の7月30日,外務省は「帝国外交方針」を策定し,新中央政府を育成する一方で,重慶政権との全面和平を実現する施策を妨げないことを決定しました。重慶政権への和平工作は秋になると本格化し,満鉄の西義顕と浙江財閥の銭永銘とのルートで接触が行われました。重慶側から和平条件が提示されると,11月22日の四相会議において,停戦実行を条件として新政府承認を延期することを決定し,香港で停戦協議を行うこととなりました。しかし重慶側代表の香港来訪がすぐには実現せず,日本側は先方の誠意を疑い,11月28日に交渉打ち切りを決定し,30日に日華基本条約を締結して,汪兆銘の南京政府を承認しました。
 その後,独ソ開戦や仏領インドシナ進駐をめぐる日米関係の悪化といった国際情勢の推移や,南京政府への配慮もあり,日本の対重慶和平工作は一向に進捗を見ませんでした。そして昭和16年12月8日には,日本は米英との戦争に突入し,日中戦争は太平洋戦争に吸収される形で,さらに昭和20年夏まで継続されることとなりました。

展示史料19
外務省東亜局作成「南京重慶合体及和平問題」(昭和15年10月1日付)

  • (写真)外務省東亜局作成「南京重慶合体及和平問題」(昭和15年10月1日付)

 第二次近衛内閣成立直後の7月30日,外務省は「帝国外交方針」を策定し,事変処理は新政府を育成・承認し,重慶政権の崩壊を促進するとの既定方針を踏襲しつつも,これと併行して重慶政権との全面和平を実現する施策を妨げないと決定しました。南京の汪兆銘政府承認に向け,日華基本条約の締結交渉は8月末に概ね合意に達しましたが,外務省東亜局には,南京政府の正式承認は全面和平をすぐには招来せず,むしろ事態を長期化させるとの懸念があり,基本条約調印までに重慶政権を相手とする和平交渉を進め,停戦の実現をめざすこととなりました。重慶側との交渉は満鉄の西義顕(にし・よしあき)と浙江財閥の銭永銘(せん・えいめい)とのルートで接触が行われ,南京政府と重慶政権を合流して新政府を樹立し全面和平を図るというラインで基本的な合意が得られました。本史料は西と銭の合意事項について東亜局が作成したメモです。この合意を受けて,10月1日には,外務・陸軍・海軍の三大臣間において対重慶和平交渉の推進を正式な政府方針とすることが確認されました。

展示史料20
在香港矢野総領事より松岡外相宛電報 第670号(昭和15年11月29日発)

  • (写真)在香港矢野総領事より松岡外相宛電報 第670号(昭和15年11月29日発)

 西・銭の合意成立後,対重慶交渉は迅速な進展を見せませんでした。その一方で日華基本条約の調印日程が目前に迫ると,日本政府はぐずぐずと時日を先延ばしにすることは許されないとして,11月末までに和平合意に達しない場合,南京政府の承認に踏み切ることを11月13日の御前会議で決定しました。ところがその後,重慶側から和平条件 (南京政府の承認延期と日本軍の全面撤退) が提示されると,11月22日の四相会議において,12月5日までに停戦を実行することなどを条件として南京政府承認の延期を決定し,その旨を銭永銘に伝達しました。重慶側は停戦協議のための代表を香港に派遣することを承諾しましたが,代表の香港来訪はすぐには実現せず,日本側は重慶政権の誠意を疑い,11月28日,交渉打ち切りと南京政府承認を決定しました。
 香港で銭との交渉に当たっていた田尻愛義(たじり・あきよし)参事官は,対重慶交渉にはまだ望みがあるとして,日華基本条約調印の延期を汪兆銘に勧告するよう,南京政府の軍事最高顧問である影佐少将に本電報をもって要請しました。しかし田尻参事官の献言はかなわず,日華基本条約は11月30日に調印され,日本は汪兆銘の南京政府を承認しました。
 日本は南京政府承認後も対重慶和平の望みを捨てませんでしたが,南京政府は日本が南京側の了解なく重慶側に対して種々の工作を行うことに強い不満感を示しました。これを受けて日本側は,対重慶工作実施の際には南京政府に充分了解を求めるとの方針を確認し,この旨を南京政府へ伝えました。

展示史料21
在ブラジル石射大使より豊田外相宛電報 第379号(昭和15年11月29日発)

  • (写真)在ブラジル石射大使より豊田外相宛電報 第379号(昭和15年11月29日発)

 昭和16年4月13日に日ソ中立条約が締結されると,同条約の重慶政権に与えた衝撃が国共分裂へと発展し,対重慶和平の好機が到来するとの観測が生まれました。しかし,6月22日に独ソ戦が開始されると,重慶側では米英ソとの合作が唱えられ,特に米国の実力援助への期待が高まっているとの情報が流れました。その後,日本の南部仏印進駐に対して米国が対日石油禁輸を行うと(8月1日),日米関係の悪化は深刻となりました。そこで近衛首相はローズベルト米国大統領に親書を送り,日米国交調整のために首脳会談を行うことを提案しました(8月27日)。日米国交調整交渉においては,日中和平も重要議題の一つとなり,交渉の帰趨に内外が注目しました。
 事変勃発当初,東亜局長として時局収拾の任に当たっていた石射大使は,4年以上も続く事変の解決は,今や米英をも相手としなければ実現不可能の事態に陥っており,この観点から日米国交調整交渉の結実を切望する旨の意見を本電報によって東京に伝えました。
 しかし,石射の願いもむなしく,日米交渉は妥結を見ることはなく,12月8日,日本は米英との戦争に突入し,日中戦争は太平洋戦争に吸収される形で,昭和20年夏まで継続されることとなりました。

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