特別展示「日中戦争と日本外交」
蒋介石政権との直接的な和平交渉が「対手トセズ」声明により事実上打ち切りとなった状況において,中国側から対日和平の担い手を引き出すべく,昭和13年はじめ頃から陸軍関係者および民間レベルで接触が行なわれました。この工作に呼応した元行政院長の汪兆銘は,12月18日,重慶を離脱してハノイに到着しました。昭和14年4月,ハノイから上海に脱出した汪兆銘は6月に来日し,平沼首相,有田外相,板垣陸相らに対して中央政権樹立による時局収拾案を提示しました。日本側もまた汪訪日に際して,汪兆銘をはじめ日本軍の占領地域で成立した既成政権(臨時・維新両政府)や抗日容共政策を転換すれば重慶政権なども加えて構成する新中央政府の樹立方針を五相会議で決定しました。
汪派による重慶政権の切崩し工作が一向に進展を見せない中,上海に戻った汪は,新政府樹立に向けた動きを活発にしました。11月から12月にかけて日本は汪派との間に日本側要望を承諾させるための内約交渉を行いました。
昭和15年3月30日,汪兆銘を首班とする南京国民政府が成立しました。しかし日本は同政府の即時承認を行わず,さらに阿部信行大使を南京に派遣して条約交渉を行いました。その結果,11月30日に日華基本条約が成立し,日本は正式に南京政府を承認しました。また同時に日満華共同宣言も成立し,三国間の相互承認および提携関係が定められました。
外務省から汪兆銘(おう・ちょうめい)工作にかかわった矢野征記(やの・せいき)領事による報告書です。
昭和13年12月下旬に重慶を離脱した汪兆銘はハノイに潜伏していましたが,昭和14年3月に側近の曾仲鳴(そ・ちゅうめい)が暗殺される事件が起こると,身の危険を感じた汪兆銘はハノイ脱出を希望し日本側に協力を求めました。これを受けて陸軍の影佐禎昭(かげさ・さだあき)大佐ら一行は4月中旬にハノイで汪と会見し,汪の希望により上海へと脱出させました(5月7日上海入港)。矢野領事は影佐一行に合流して汪の脱出工作に加わり,汪とは別の船で一足先に上海に到着しました。本報告書は上海到着後の影佐らから聴き取った記録であり,主にハノイから上海に向かう洋上で行なわれた汪と影佐との会談内容を詳細に記録しています。報告書によると汪は影佐に対して新中央政府樹立による時局収拾方式を提案したとされ,その内容は5月14日,帰国した矢野から有田八郎(ありた・はちろう)外相に伝えられました。
なお,「竹内」は「汪兆銘」を意味した符牒として使用されたものです。また,本報告書の作成日付には「昭和15年」とありますが,これは「昭和14年」の誤りと考えられます。
昭和15年3月30日,汪兆銘を首班とする南京国民政府が成立しましたが,日本政府はこれを即時承認はせず,新政府と新たに国交調整交渉を行うため,阿部信行(あべ・のぶゆき)元首相を特命全権大使に任命して南京に派遣しました。南京政府要人が早期承認を督促する中,交渉は7月に開始され,16回の正式会議と23回にわたる非公式会談を経て,8月末には概ね合意に達しました。しかし,松岡洋右(まつおか・ようすけ)外相のもとで行なわれていた対重慶和平工作の成り行きを見極めるため,条約署名の時期はさらに遅れることとなり,日華基本条約および日満華共同宣言が署名されたのは11月30日のことでした。これにより日本政府は南京政府を正式に承認するところとなり,また日本・満州国・南京政府間の相互承認および提携関係が定められました。