特別展示「日中戦争と日本外交」
昭和12年7月7日,北京郊外で日中間に軍事衝突(盧溝橋事件)が発生しました。日中外交当局は南京で善後処理交渉を行いましたが,事件の責任の所在をめぐって双方の主張は平行線をたどりました。現地では両軍の間に停戦合意が成立しましたが,中国政府は関東軍の山海関集結に対抗して華北方面へ中央軍を北上させたため,17日,日本は中国政府に対して,挑戦的言動を即時停止し,現地解決を妨害しないよう要求しました。これに対し中国側は19日,日中同時撤兵と,現地ではなく中央での解決交渉を求めました。その後,北京周辺で日中間の軍事衝突事件が相次いで発生したため,27日,日本政府は自衛行動をとるのやむなきに至った旨を声明,翌28日,華北駐屯の日本軍は総攻撃を開始し,31日までに北京・天津方面をほぼ制圧しました。
盧溝橋事件の発生直後に,善後措置をめぐる日高信六郎(ひだか・しんろくろう)参事官と王寵恵(おう・ちょうけい)外交部長との会談内容を南京の日本大使館から東京の広田弘毅(ひろた・こうき)外相に報告した電報です。当時,川越茂(かわごえ・しげる)大使は天津に出張中のため,日高参事官が交渉に当たりました。会談において双方は事態不拡大では意見の一致を見ました。しかし,王部長が個人的見解としながら,日本軍が盧溝橋で夜間に実弾演習を行ったことが事件の原因であるかのような発言を行うと,日高参事官は当時の状況に鑑み,日本軍の実弾使用は断定しがたく,演習は条約所定の権利に基づき実施されたものであると応酬しました。
本電報と展示史料2の電報は,川越大使が南京不在のため,日高参事官が川越大使の名義で発電したものです。
関東軍司令部「情勢判断」
沢田参事官送付状
関東軍は,以前より対ソ作戦準備や満州国防衛の観点から,華北地方に中央政府から分離した独立性の高い地方政権が樹立されることを望んでいました。その意味で盧溝橋事件を契機とする事態の推移は好機であるととらえ,この際,断固として華北問題の根本的解決を図るべきとの「情勢判断」を作成し,陸軍中央などに積極的な働きかけを行いました。在満州国大使館に勤務する沢田廉三(さわだ・れんぞう)参事官は,この「情勢判断」を入手して東京の石射猪太郎(いしい・いたろう)東亜局長に私信とともに送りましたが,その日付は8月3日で,華北駐屯の日本軍が軍事行動を起こして北京・天津方面を制圧した後のことでした。