特別展示「日中戦争と日本外交」
外務省は昭和12年8月初旬,早期の時局収拾を目指して,船津辰一郎元上海総領事を上海へ派遣し,停戦に向けた準備交渉を試みました。しかし,8月9日に上海で大山事件(日本海軍の大山中尉らが中国保安隊に殺害された事件)が発生すると,情勢は緊迫の度を高めました。戦闘回避を求める英米諸国の説得も実らず,13日には上海での交戦が始まり,翌14日には全面的な軍事衝突に発展しました。日本政府は15日未明,中国政府の反省を促すため断固たる措置をとる旨の声明を発表しました。その後,戦況は激しさを増し,事態は全面戦争へと拡大しました。
船津辰一郎(ふなつ・たついちろう)元総領事は8月7日,上海に到着すると,9日に高宗武(こう・そうぶ)外交部亜州司長と会談し,華北問題を迅速かつ局部的に解決することが得策であると説得しました。高司長は同日午後,川越大使とも会談し,交渉は順調に進んでいくかに見えました。しかし同日夕刻,上海で大山事件が発生すると,事態はにわかに緊迫の度を高めました。船津は各方面を奔走し,平和的解決に向けて中国側の説得に努めましたが,13日には上海で日中両軍間に交戦が始まり,14日には全面衝突に発展しました。船津は8月29日に工作の経緯を記した日記を東京の堀内謙介(ほりのうち・けんすけ)外務次官らに送りましたが,送り状には「死児の齢を算ふる如き感」と遺憾の気持ちを記しました。
日中間の戦闘が激化する中,日本はソ連の動向に強い関心を示しました。中ソ両国は8月21日,不侵略条約を秘密裏に締結しました。中国外交部は26日,この旨を東京の中国大使館に通報し,もし日本が国策を変更して日中間に同様の条約を締結するならば中国は歓迎するので,日本政府の意向を打診するよう電報で命じました。この電報は日本軍によって傍受され,写が外務省にも回付されました(電報写には広田外相や東郷茂徳(とうごう・しげのり)欧亜局長の閲了サインがあります)。しかし日中間に不侵略条約をめぐる話し合いが進められることはなく,29日,中ソ両国は不侵略条約締結を公表しました。