エキスパートたちの世界

国際保健専門官 稲岡恵美さん

令和4年9月15日

 稲岡さんは、「国際保健専門官」として活躍しています。新型コロナ感染症の世界的拡大により、国際保健が国の安全保障や外交に直結する分野であることが認知されるようになりました。国際保健専門官は、このような国際保健の分野において、専門知識、経験、国内外のネットワークを活かして、各国のニーズが交錯する場で、世界の人々の健康を推進する役割を担っています。

 健康は人々の生活の質に直結し、持続可能で包摂的な経済社会の基盤です。世界の人々の健康を推進する国際保健は、保健医療サービスの提供のみならず、政治・産業・貿易などとも密接に関連するため、国際的なルールを決め、国際協力を推進することが必要です。とりわけ、脆弱な立場の人たちを保護するという視点や、多様な関係者間での利害の調整が必要な分野です。産業界や市民社会の多くの関係者も、日々議論し、意見を発信し、世界の枠組みを動かしています。

1 とても専門的な分野に感じますが、稲岡さんはなぜ「国際保健」に興味を持たれ、どのようにして外務省に入られたのですか?

 私が世界の人々の健康に関心を持ったのは、学生時代に災害支援や貧困対策などに関わる中で、人の健康というものが、持続可能で包摂的な経済社会の前提となっており、人々の生活の質に直結すると実感するようになったからです。
 実は、最初から世界の人々の健康に関心を持ったわけではありませんでした。中学生の頃には、エチオピアの飢饉や紛争が報道されていたこともあり、生徒会で使い古しの毛布を届けようと計画したりして、むしろ国際開発に興味を持っていました。その後も、国際開発の分野には引き続き興味があったのですが、大学時代には、アジアを旅して貧困の現状を目の当たりにしたこともあり、持続可能な開発について世界の学生と議論する会議を日本で開催しました。当時、世界の関心は、食料争奪や環境破壊をもたらす人口増加の問題でした。人口増加の問題を掘り下げるうちに、その背景には、家族計画が普及していないなどの事情があり、世界のあらゆる地域において保健医療のサービスを向上させることが、人口増加問題の解決ひいては持続可能な開発にとって重要だということに気づきました。そこから、私の国際保健への関心が高まったのだと思います。

 大学を卒業し社会人になるときには、どうすれば国際保健に関する仕事に就けるのか考えるようになっていました。当時、企業の社会的貢献が注目されていたため、公的セクターではなく民間の立場から開発援助に関与したいと考えて、外資系製薬企業に就職しました。しかし、製薬会社で働く中で、一企業の立場でできることの限界を認識するようになり、また同時に、そもそも自分に国際保健に取り組むための経験や専門性がないという現実を痛感するようになりました。結局、数年で退職し、大学院の医学系研究科に新たに入学し、保健医療政策を勉強することになりました。大学院で勉強する中で、中東のイエメンなどで現地の人々と病院やコミュニティーでの調査に励みました。厳しい状況下でも前向きに生きる人々を実際に目の前にして、いかに保健医療サービスが人間の生活や社会の基盤として重要であるかを実感し、国際保健分野で貢献したいと強く思うようになりました。
 その後、国際家族計画連盟(IPPF)という世界150か国以上で活動を展開する国際NGOや、国際協力機構(JICA)や国際協力銀行(JBIC)などの日本の援助機関で、アジアやアフリカの保健医療分野の事業にたずさわりました。相手国側の自助努力を尊重し、能力向上を促し、持続可能な成長を支えるようにしたい、そのためには国際協力がどうあるべきか考えました。また、どのようなアプローチが効果的なのかを知るために、アメリカの研究機関でも研究しました。
 そうする中で、世界には多数の援助機関や研究機関が現場で活動しており、そこで自らの考えを提案するなど、国際的な議論や動きに連動させていかないと、援助の成果を上げたり国際的に評価されたりはしないことを理解しました。また、人々に直接届ける協力のみならず、相手国政府と対話して政策や制度を改良していかなければ多くの人に効果をもたらすことができないと考えるにいたり、それらにたずさわれる行政機関である外務省で働くことを選びました。

(写真1)地域での保健指導で、食べ物を渡されている少女と保健指導を見に来た人たち 地域での保健指導(地元の食材を使った栄養教育:ザンビア)

2 外務省や外交と聞くと、保健とどのように関係しているのかが、すぐに理解できない部分もあるのですが、外務省の保健分野での取組や具体的なお仕事について教えてください。

 私が外務省に入省した頃は、外務省内で国際保健という言葉はあまり知られていませんでした。その後、外務省に「国際保健政策室」が新設され、私も最初のメンバーの一人となりました。少しずつ日本政府内で体制が強化され、日本の外交においても国際保健の分野が認識されるようになりました。
 しかし、歴史的に見れば、日本は戦後、世界の国々に対して母子保健や感染症対策などの保健協力を行い、1990年代頃から国際社会に対して常に新しい視点を提示するなど、外交を通じて国際保健の分野をリードしてきています。今では、日本の外交の重要な柱のひとつが国際保健であり、世界の保健関係者は日本がどう考え何を打ち出すかを注視しています。感染症対策などの保健医療の分野において、国際社会から必要な情報や技術を迅速に入手し、国際的な枠組みやルールづくりに参加することは、日本の国民を守るために、つまり国家安全保障の観点からも重要です。
 外務省の国際保健分野の業務は多岐にわたりダイナミックです。国内の政策と関連づけつつ、世界的な保健の課題を議論し、予算を確保して具体的に施策を推進していきます。保健医療に関する世界のルールをつくり、世界の人々の健康を向上させることにつなげられる、やりがいのある業務です。具体的には、例えば、日本の国際保健の政策を決めること、G7、G20や国連などの国際的な場で保健について議論し日本の立場を提起すること、国際的な目標を達成するために支援を検討し予算を確保すること、保健分野の国際機関に対し出資者として運営に携わること、国際会議を開催するなどして世界的な取組を促進させることなどです。
 これらを達成するために、国際保健政策室では、毎日電話やメール、打合せを通じて情報収集し、計画を考案し、関係者や幹部と調整し方針を固め、説明資料や段取りを準備し、息をつく間もないですが、充実した毎日です。

3 ご苦労された経験、面白さややりがいを感じた瞬間など、印象に残る経験を教えてください

 保健を取り巻く世界の状況が大きく変化する中、たくさんの苦労や面白さもあり語りつくせませんが、2019年のG20大阪サミット、2021年の東京栄養サミットが特に印象に残っています。
 G20大阪サミットは、日本が初めて議長国を務めたG20サミットでした。多様なメンバー国が参加する中で、どのようにして新しく前向きな動きを取り入れられるか、どのように交渉して質の高い成果文書に仕上げるかが焦点となりました。
 会議の議長国は、今後の方向性をまとめた基本文書を作成し、皆が賛同する宣言文にまとめあげる役割を担います。私は、これまで発表された文書や、国連やWHOなどでの議論を改めて見直し、世界的に共通認識にすべきだと考える方向性を盛り込んで合意案を作成しました。それに対し、メンバー国や国際機関からたくさんの意見や修正案が提出されます。企業や市民社会などからの要請などもあります。中には全く異なる提案を行う国や、メンバー国の間で相反する意見も少なくなく、各国に個別に連絡して、趣旨を説明し納得してもらうという膨大で困難な作業でした。
 その結果、関係者の主張を可能な範囲で反映しつつも、議長国として発信すべき点や、従来合意できなかった新しい要素を盛り込むことができました。議長国は、最終決定者になれるという強みも知りました。日本政府が掲げてきたユニバーサル・ヘルス・カバレッジという概念、それに向けた具体的な取組として、保健と財務の当局間の対話の促進、高齢化対策、パンデミックへの備えを含めることができました。連日の深夜に及ぶ文言交渉を終え、文章に大枠合意した夜明けの青い空を見上げた時は、安堵の瞬間でした。
 また、2021年12月に日本政府は東京栄養サミット2021を開催しました。この会議では、どうすれば実践的で実効性のある国際会議が開催できるかにこだわりました。そして、政府の関係者のみを対象とした会議にするのではなく、民間、市民社会、学術界といった幅広い分野の関係者に会議の立案段階から参加を呼びかけました。また、保健の観点から栄養を考えるのみならず、農業、教育、開発、産業、財政などの分野との関連に着目しました。さらに、会議の成果文書の交渉に時間をかけるのではなく、参加した関係者が具体的な行動計画を発表し、その取組の進捗状況を確認するための体制をつくりました。このサミットのこだわり、つまり、多様な立場の人を巻き込んで、関連する多様な分野を扱い、行動を重視したことは、出席者から国際栄養分野における画期的で歴史的な機会であったとして、日本政府が評価されることにつながりました。このように、新しい発想でオープンな会議運営ができたのは、国内外の関係者の協力を得ることができたためです。世界の栄養関係者から構成される国際諮問グループを設置し、その定期会合で関係者の知見を得ながら進めました。
 新型コロナに伴う延期を乗り越えて開催にいたることができたのは関係者との信頼関係が構築できたからでした。アフリカのことわざ、If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together(もしも、あなたが早く行きたいなら一人で行きなさい。もしも、遠くへ行きたいなら一緒に行きなさい。)の言葉の意味を知りました。

(写真2)大阪サミットで保健に関する議論をしている各国の代表たちの様子 G20大阪サミットでの保健に関する議論(官邸HPより)
(写真3)壇上で、スピーチをする岸田総理の様子 東京栄養サミット2021での岸田総理による開会スピーチ(官邸HPより)

4 そうした矢先、新型コロナ感染症のパンデミックが発生しました。国際保健専門官として世界的パンデミックにどう立ち向かわれたのでしょうか。

 新型コロナ感染症の世界的な感染拡大は、グローバル化が進む現代では日本から離れた国で発生した感染症がすぐに伝播し、人々の生活や世界経済に大きな影響を与えることを示しました。また、未知の感染症について、関連する情報を世界中に迅速に共有したり、英知を集めてワクチンなどの医薬品を共同開発したり、効果的な対策を一貫して実施することが重要であることも示しました。
 今回の新型コロナ感染症対策でも、世界に点在する影響力を有するオピニオンリーダーと情報交換し、方向性をすり合わせておくことが重要でした。また、過去の新興感染症対策(エボラ、SARS、エイズ他)の教訓を踏まえて国際的な枠組みを検討することが求められました。
 新型コロナの感染拡大は、これまで以上に、世界が一致団結して大規模にスピード感をもって危機に対応することを求めています。その中で、日本政府は、外交を通じて発生直後から現場での医療サービスの提供支援、加えて、国際的な枠組づくりに知恵を出し、経済的にも知的にも多大でスピード感ある支援を行っています(PDF)別ウィンドウで開く。例えば、日本は2021年春には、ワクチンへの公平なアクセスの確保(PDF)別ウィンドウで開くに必要となる資金を集めるためにCOVAXワクチン・サミットを開催し、COVAXファシリティ(手頃な価格でワクチンを迅速に供給する国際的な仕組み)に対する資金を確保し、国内で製造するワクチンを現物供給してきました。また、日本政府は、各国・地域における輸送・接種体制を強化するラスト・ワン・マイル支援や、アフリカにおけるワクチンを含む医薬品や医療品の現地生産能力の強化支援などを約束しており、2022年春時点で、総額約50億ドルの途上国支援を実施していくことを表明しています。

(写真4)日米豪印首脳会議でのワクチン作業部会の立上げの発表をする各国の代表 日米豪印首脳会議でのワクチン作業部会の立上げ(官邸HPより)
(写真5)空港でワクチンを渡す日本政府代表 日本政府によるワクチン供与(フィリピン)

5 最後に、稲岡さんの今後の目標や、外交や保健に関心を持っているみなさん、これから外交官を目指すみなさんにメッセージをお願いします。

(写真6)世界エイズ・結核・マラリア対策基金(グローバル・ファンド)の人たちとの記念写真 グローバル・ファンド保健財政部の仲間と(ジュネーブ)

 皆さんもお気づきのとおり、世界の政治や経済は変化しています。途上国と呼ばれていた国は成長し、新興国は政治力を強め、多極化が進展する中、日本の位置づけも変化します。
 政治経済の不安定さが、世界全体の利益を考えようとする動きを弱める可能性も指摘されています。そうした中で、日本政府が国際保健の分野で、国際公共財に貢献し、国際的に信頼されるように、国際保健専門官として尽力したいと考えます。
 私は、2022年春から世界エイズ・結核・マラリア対策基金(グローバル・ファンド)別ウィンドウで開くという感染症対策の機関に出向しています。ここでは、今後の国際保健分野で益々重要になる、ヘルス・ファイナンス(保健財政)という分野を担当しています。現在、日本のみならず世界でも、保健医療により多くの予算が必要になっていますが、資金は無尽蔵ではありません。どのように資金を捻出し、効果的に活用するか、持続可能な保健財政のための対策が必要です。世界各国において、所得格差は広がり、疾病構造や人々の医療ニーズが変化しています。そういった変化に対応して、各国が保健予算を継続的に適切に配分していけるような仕組をつくろうとしています。加えて、国際的な議論がより専門的になる中、グローバル・ファンドのような専門機関と協力して日本の国際保健外交を展開していければと考えています。
 外交や保健に関心のある皆さん、私たちの暮らす日本という国が世界でどう評価されるかを左右する指標の1つが保健であると私は思います。日本はかつてその経済力で世界的に評価されてきましたが、もうそれだけでは通用しません。的確な判断やアイデア、支援の中身が問われています。かつて支援を受ける側であったアジアやアフリカ、国際的な議論をリードし新しいアイデアで現場に変化をもたらしています。日本人は日本ならではの更に良いアイデアを出すことが期待されています。異なる考え方を持つ様々な人たちと、一緒に考えて決定し、物事を進め責任を持つ、そういうことがグローバルにもローカルにも求められていると感じます。そして、その際に気に留めるべきことは、必ずしも全てのことに既存の正解があるわけではなく、正解を新しくつくっていくということです。例えば、リスクとイノベーション、透明性とコストなど、様々なせめぎあいがあります。関係者が議論し納得することが、良い成果につながると思います。来年5月には、日本が議長国を務めるG7サミットも予定されています。日本がどういう国際保健外交を展開していくか、ぜひ関心を持ってニュースやウェブサイトをみていただきたいです。
 私は国際保健というできたばかりの分野で、職業選択に苦労してきました。社会を良くしたいと思って外務省に入省したものの、物事を変えることがいかに大変か痛感させられることもありました。一方で、私は民間企業、NGO、国際機関などで勤務してきたので、異なる分野や立場の人たちの考え方が理解できます。また、世界の貧しい地域で保健従事者と一緒に試行錯誤してきた経験もあるので、保健医療分野のそういった現場の人々による取組の積み上げの上に世界が成り立っていることも理解しています。そういったことが、国際保健専門官として仕事をする意欲となり、生身の人間が国際保健外交を通じて将来の社会を創っていくのだという信念にもつながっています。私は、外交に興味がある人はもちろん、一見外交とは遠い分野の経験や熱意のある人も、外務省の貴重な人材としてその能力を活かして社会を動かすような活躍ができると思います。この記事がその参考になれば幸いです。


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