※NGO:非政府組織(Non-Governmental Organizations)
第3部 グローバル・エイズ問題 その諸相と最新動向を追う
はじめに
1.HIV/AIDSの深刻さ
HIV/AIDSの世界への登場から、すでに20余年が経過している。当初「ゲイ関連免疫障害」(GRID)と名付けられ、先進国のゲイ・コミュニティを中心に流行したこの感染症は、いまや、全世界に4200万人もの患者・感染者を持ち、年間500万人が新規に感染し、年間350万人の命を奪うという状況にまで至っている(いずれも2002年12月1日UNAIDS発表)。
HIV/AIDSとともに生きる人々の95%以上が、途上国に集中している。中でも被害が大きいのはサハラ以南アフリカで、患者・感染者の70%(2,940万人)、新規感染者の70%(500万人)、死者の77%(240万人)を数えるに至っている。とくに南部アフリカでは感染の拡大が深刻であり、成人感染率が最も高いボツワナを始めとする数カ国で、成人感染率が30%を超え、平均寿命が30代にまで低下しているのである。
サハラ以南アフリカでは、エイズ死による社会的なインパクトも極端に強まっている。サハラ以南アフリカにおいて、エイズにより両親または片親を失った孤児は合計1100万人であり、これは孤児全体の3割強、児童の数全体の4%にあたる。エイズによる孤児の数は、は、2010年には2,000万人にまで増えるだろうと予測されている。
アフリカを襲うHIV/AIDSの猛威は、他地域へも広がりつつある。UNAIDSは、インド、中国、ロシア、東欧および中央アジア地域において、HIV/AIDSの感染率が急速に拡大していると述べている。UNAIDS事務局長ピーター・ピオットは、2002年6月に開催されたバルセロナ国際エイズ会議の開会式において、以下のように述べている。
世界は、サハラ以南のアフリカがAIDSによって埋め尽くされていくのを傍観していた。
もう、たくさんだ。
私たちは、他の大陸が同じ歴史を繰り返すのを、消極的な傍観者として黙ってみていることはできない。また、私たちが、この流行病による惨害を乗り越えようとするアフリカの試みを、失敗に追い込むことは許されない。(後略)
2.HIV/AIDS克服の歴史の中で
現代保健史上未曾有の危機となったHIV/AIDSを克服するための鍵はどこにあるのか。考えるべきは、この危機は突然始まったものではなく、少なくとも、人類は20余年にわたってHIV/AIDSに直面し続けてきたということである。そして人類は、この感染症と向き合うにおいて、これまで向き合ってきた様々な感染症に対するアプローチと、少なからず異なったアプローチを行い、少なくとも部分的にはそれを克服してきたのである。
HIV/AIDSは、個性の強い感染症である。感染力が弱く、おもに性行為を通じて感染する。感染してから発症するまでの潜伏期間は十年程度と長く、その間、人はHIV検査を受けなければ感染していることに気付かない。HIVはこの個性に沿って、自らのすみかを選んだ。セックスに関わる社会的差別にさらされているコミュニティ、差別・偏見や経済的状況によって必要な情報が行き渡らないコミュニティ……HIVは世界への登場後数年にして、その疫学的状況によって社会の歪み・差別・偏見をうつす、いわば「社会の鏡」となるに至った。逆に言えば、HIV/AIDSとの闘いは、社会の歪み・差別・偏見との闘いと重なるのである。
このことを最初に学んだのが、ゲイ・コミュニティを始めとする、特にHIV感染の可能性にさらされたヴァルネラブルなコミュニティであった。そもそもの差別に加え、HIV/AIDSにかかわる差別を受け、さらにHIV/AIDSに対して取り組まなければならない状況の中で、コミュニティは自然発生的なものから、より自覚的なものへと変化した。また、HIVがセックスという、人が生きていく上で不可欠な行為を介して感染すること、AIDSによる死が、十数年という緩慢なプロセスの末に生じること、この二つの性質により、HIV/AIDSに対する取り組みは、他の感染症に対する取り組み=例えば「××病撲滅」ということばに典型的に表される=と大きく異なったものとなった。セイファー・セックスという、HIVとセックスの共存の技法、感染者と未感染者がともに生きていけるコミュニティづくり。HIV/AIDSはヒトと感染症との関わりを、これまでの「撲滅」というパラダイムから「共生」というパラダイムへと変化させた。その変化を切り開いたのは、最初にHIV/AIDSと直面したヴァルネラブルなコミュニティであった。
主流社会においても、この変化は到来した。多くの主流社会において、HIV/AIDに直面しての最初のアプローチは「撲滅」モデルであった。HIVの原因を、差別・偏見にさらされたコミュニティに転嫁し、これらのコミュニティや患者・感染者を隔離・排除する動きがどの社会にも見られた。しかし、こうした「撲滅」モデルがHIVの疫学状況のさらなる悪化を招き、さらに、ヴァルネラブル・コミュニティや患者・感染者からの抵抗を生むに及んで、主流社会に於けるHIV/AIDS対策モデルも、徐々に「共生」モデルへと変化するに至ったのである。
HIV治療の現状においても、このパラダイム・チェンジを見ることができる。1996年に多剤併用療法(HAART)がHIV治療に新たな段階を切り開いた際、推奨されたのは「強力なHAARTを、できるだけ早期に」開始することであった。しかし、HAARTによってHIVを根絶できないこと、副作用や耐性ウィルスへの対応の問題など様々な困難に直面する中で、こうした「撲滅」モデルは徐々に破棄され、現在目指されているのは、いかに長期間、無理なく治療を継続し、QOLを維持することができるかという「共生」モデルである。
HIVとの20余年の歴史において私たちが経験したのは、感染症対策における「撲滅」モデルから「共生」モデルへの転換であった。予防啓発・VCT(自発的検査・カウンセリング)、ケア、治療、エイズ・インパクトの低減、そしてそれら全てに関わる、差別・偏見の解消といった、私たちがHIVと社会との関わりの位相に沿って持ち得ているHIV対策の様々な手法のコンビネーションは、こうした歴史的な経験の中から作り出されてきたものなのである。
3.国際的なエイズ対策の陣形は整いつつある
HIVはその登場後数年間で、それぞれの社会の歪みを映す鏡となった。そして20年を経た今、HIVは世界の歪みを映す鏡となった。それが「グローバル・エイズ問題」である。冒頭に見たように、HIV/AIDSは途上国、とくに最も貧しい国々が集中するサハラ以南のアフリカにおいて、最大の被害を与えている。逆に言えば、HIV/AIDS問題の克服は、ゆがんだ世界をいかに修復していくかにかかっているということができるのである。
二つの希望がある。一つ目は、ここ数年間において、HIV/AIDSと対峙する世界の陣形が大きく整ってきたことである。
国際的なHIV/AIDS対策の陣形作りは、1990年代を端緒として、2000年の南アフリカ・ダーバンでの国際エイズ会議、2001年のナイジェリア・アブジャでのアフリカ・エイズ・サミット、同年の国連エイズ特別総会などを経て構築されてきた。国家の政治的コミットメントの重要性が叫ばれる中、現在、アフリカ諸国の多くが国家エイズ戦略を制定し、政府横断的な国家エイズ委員会を創設している。
途上国のエイズ対策のための資金拠出システムが「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」(GFATM)である。GFATMは、援助国・被援助国・非営利セクター・ビジネスセクターが構成する独立したコンソーシャムとして、本来必要な額から考えれば未だ不十分なものの、現地のエイズ対策プロジェクトに必要な資金を緊急かつ具体的に拠出するシステムとして、一定の機能を果たしつつある。こうした多国間の資金拠出とともに、日本を始め各国からのバイラテラルな援助も、現地のエイズ対策プロジェクトに対する具体的なサポートをともなう形で機能し始めている。
もう一つの希望は、これらの動きが、途上国でHIV/AIDSに直面している人々の運動と連動して行われているということである。
抗レトロウィルス薬の価格の急速な引き下げは、この面を象徴するものである。
旧来、抗レトロウィルス薬の価格は極めて高く設定されており、抗エイズ治療は高度な社会保障制度を有する先進国のみにおいて可能であり、途上国の患者・感染者のほとんどは抗エイズ治療から疎外されていた。
この「いのちの格差」は二つの方向から崩された。一つは、南アフリカ共和国で展開された薬事法裁判と、先進国の患者・感染者を中心とした「アフリカにエイズ治療薬を」の連帯運動である。TRIPS協定に従い、強制実施権と並行輸入の制度化を含む形で定められた南アの薬事法に対して、製薬企業が「特許権侵害」を主張して南ア政府を提訴したが、南ア政府は当事者NGOと連帯して持ちこたえた。先進国を含む全世界の患者・感染者のNGOが現地のNGOと連携して製薬企業への抗議運動を展開し、2001年、製薬企業は裁判を取り下げるに至った。
もう一つは、途上国の患者・感染者の治療アクセスへの要求に伴って具体化した、ブラジル・インド・タイ等におけるジェネリック薬の生産である。とくにブラジルは、1997年以降、法的に自国内生産可能な抗レトロウィルス薬の生産に踏み切り、製薬企業との交渉によって、他の抗レトロウィルス薬の大幅な値引きによる輸入を実現し、抗エイズ治療を公的医療に導入することに成功した。ブラジルはこの政策により、国内のエイズ対策を大きく前進させ、「途上国におけるエイズ対策のモデル国」と言われるに至った。これは、国内の患者・感染者の運動と、エイズ対策を進める政府との連携によって実現したものである。
こうした動きの相乗効果によって、2001年から2002年にかけて、抗レトロウィルス薬は、多国籍製薬企業が製造するブランド薬も含め、その価格の大幅な引き下げが実現することとなった。抗エイズ治療の経費は途上国で一人当たり年間300ドルを切るに至った。途上国における抗エイズ治療導入において大きな障壁となっていた、治療薬の高価格という問題は、いまや国家の政治的な意志いかんによって克服できるところにまで来つつある。
今、私たち保健分野NGOの前には、未曾有のHIV/AIDS危機が存在する。その一方で、私たちには、20年間の歴史の中で培われてきた、エイズの様々な側面に対応する対策のコンビネーションがある。その中には、「エイズ治療」もオプションとして含まれている。そして、エイズと立ち向かうための国際的な陣形が私たちを支えている。今、私たちNGOに問われているのは、この状況において、危機克服のために、どこで、誰と、何をするのか、ということである。
4.エイズとともに生きる行為者として:テーマ2のねらい
2002年度保健分野NGO研究会は、テーマ2として「専門性の向上に向けて:HIV/AIDS」を設け、とくにグローバル・エイズ問題の諸相と最新動向について、9回の講演会・ワークショップ企画と、2回の国際シンポジウムを開催した。企画に当たっては、保健分野NGOが即戦力として活用できるような、プロジェクトの技術的な側面に関する内容というよりも、むしろ、保健分野NGOがHIV/AIDSに関して中長期的な戦略を立案し、将来的にプロジェクトの案件形成に役立てていくための基礎となるような内容とすることをめざすものとした。その意図としては、以下の事項を挙げることができる。
(1)国際NGOにおけるHIV/AIDS問題認識の強化・深化
途上国での保健プロジェクトの一環としてHIV/AIDSに関わるNGO(以下、「国際NGO」とする)は、保健分野に関わる様々なプロジェクトの実践の経験を豊富に持っている。その一方で、過去20数年のエイズ対策の歴史が培ってきた対策の思想的枠組み、患者・感染者やヴァルネラブル・コミュニティなど当事者セクターとの連携のあり方などについては、必ずしも認識が十分でない部分も存在する。
先に見たように、HIV/AIDSは大きな社会的インパクトを持っており、HIV/AIDS対策も社会との関わりに配慮して、独自の形成を遂げてきた。また、患者・感染者やヴァルネラブル・コミュニティが、対策を発展させる上で大きな役割を果たしてきた。国際NGOが途上国でエイズ対策に取り組む上では、この部分について認識を深めることが重要である。
また、途上国でのHIV/AIDS対策に関しては、資金拠出メカニズムや抗エイズ治療の実現に向けた研究など、国際的な取り組みのフレームワークが急速に整備されている状況がある。これらの動きをフォローしていく上では、現象面だけを追うのでなく、これらの動きの背景にあるHIV対策の哲学や、戦略的側面を理解する必要がある。
(2)国内NGOにおける地球規模エイズ問題に関する認識の強化
国内でHIV/AIDS対策を行うNGO(以下、「国内NGO」とする)は、その活動の中で、日本のエイズ対策の変遷の経緯やその背景、当事者セクターとの連携のあり方について多くの経験を有する。その一方、国際的なエイズ問題の現状や方向性については、必ずしも認識が十分でないところも存在する。
国内のHIV/AIDS対策を進展させる上では、エイズ対策の様々な要素に関する国際的な実践的・理論的動向を把握し、国内の文脈に合う形でこれを導入・発展させることが重要である。また、在日・対日外国人のHIV/AIDS問題が深刻化する中で、国内のHIV対策も、国際的なHIV対策と連携して行われることが必要である。
上記の趣旨に基づき、本年度保健分野NGO研究会では、本テーマについて、以下の3つのシリーズを編成して企画を実施することとした。
(1)立ち上がる当事者たち:当事者セクターとNGOの連携に向けて
<ねらい>
PHA(HIV感染者・エイズ患者)やヴァルネラブル・コミュニティは、HIV/AIDSの影響を最も受ける立場から、HIV対策に大きな役割を果たしてきた。国内外における当事者の状況とその運動について知り、エイズ対策における当事者セクターとNGOの連携の道を探る。
<企画>
○第1回: |
深刻化する中国のエイズ問題:河南省の農村から(9月9日)
・リソースパーソン=チュン・トー氏(香港・智行基金会) |
○第2回: |
南部アフリカ:エイズ禍を生きる人々(9月16日)
・リソースパーソン=根本昭雄氏(南アフリカ・聖フランシスケアセンター)、林達雄氏(アフリカ日本協議会代表) |
○第3回: |
日本のエイズ対策をリードしたPHAたち(10月19日)
・リソースパーソン=花井十伍氏(ネットワーク医療と人権)、長谷川博史氏(JANP+)
|
○第4回: |
国際シンポジウム「立ち上がる当事者たち:PHAとNGOの連携に向けて」
・リソースパーソン=アスンタ・ワグラ氏(ケニア・エイズとともに生きる女性たちのネットワーク)、フォロゴロ・ラモスワラ氏(南アフリカ・治療行動キャンペーン)、アラウージョ・リマ氏(ブラジル・命を励ます会)、モアシール・ピレス・ラモス氏(ブラジル・パラナ州保健委員会) |
(2)南南協力の道を開く:タイ・ブラジルのエイズ政策に学ぶ
<ねらい>
途上国の中でエイズ政策が成功していると言われるタイ・ブラジル。この二国のエイズ対策の内容と背景、歴史を学ぶことによって、途上国が自らエイズ危機を克服する道、そして途上国でNGOがどのような役割を果たすべきかを探る。
<企画>
○第1回: |
エイズと向き合うことを選んだ人々:タイのエイズ政策に学ぶ(8月31日)
・リソースパーソン=沢田貴志氏(特定非営利活動法人 シェア=国際保健協力市民の会)、枝木美香氏(特定非営利活動法人 アーユス=仏教国際協力ネットワーク) |
○第2回: |
世界の最先端を行くブラジルのエイズ政策(10月26日)
・リソースパーソン=大西真由美氏(茨城県立医療大学)、小貫大輔氏(チルドレンズ・リソース・インターナショナル) |
○第3回: |
国際シンポジウム「市民が変えるエイズ政策」
・リソースパーソン=プロンブン・パニッパク氏(タイ・エイズNGO連合)、梅田珠実氏(神戸市保健福祉局参事)、アスンタ・ワグラ氏(ケニア・エイズとともに生きる女性たちのネットワーク)、フォロゴロ・ラモスワラ氏(南アフリカ・治療行動キャンペーン)、アラウージョ・リマ氏(ブラジル・命を励ます会)、モアシール・ピレス・ラモス氏(ブラジル・パラナ州保健委員会)
|
(3)予防と医療の両立に向けて
<ねらい>
エイズ対策の具体的なコンポーネントとしてある予防啓発、VCT(自発的カウンセリングおよび検査)、ケア、治療、社会的インパクトの低減、差別・偏見の解消等について、その最新動向および各要素の効果的な連携のあり方について検討する。本年度は対策のあり方を全般的に検討する。具体的なキャパシティ・ビルディングに向けた研究は来年度以降の課題とする。
<企画>
○第1回: |
バルセロナ国際エイズ会議リポート:エイズ対策の新たな地平は切り開かれたか(8月16日)
・リソースパーソン=樽井正義氏(エイズ&ソサエティ研究会議)、堀成美氏(HIV看護研究会) |
○第2回: |
世界のモデル・ブラジルのエイズ政策(11月27日)
・リソースパーソン=マルコ・アントーニオ・ヴィトーリア氏(ブラジル保健省) |
○第3回: |
日本のHIV/AIDS分野の国際協力の方向性とNGO(2月3日)
・リソースパーソン=小松隆一氏(国立社会保障・人口問題研究所) |
○第4回: |
エイズ危機克服に何が必要か:世界経済から見たグローバル・エイズ対策(3月7日)
・リソースパーソン=加藤隆俊氏(WHO「マクロ経済と保健委員会」委員) |
以下、2002年8月から2003年3月までの8ヶ月間にわたって実施してきた、これらの企画の記録を紹介する。グローバル・エイズ問題の諸相と最新動向をめぐるこの旅を、ぜひ追体験してほしい。
なお、本報告書では、まずグローバル・エイズ問題の諸相を、患者・感染者やヴァルネラブル・コミュニティという、HIV/AIDSに最も影響を受けている人々の観点から紹介するために、第1章として「エイズ・立ち上がる当事者たち」を配置した。次に、これらエイズ問題に関して、途上国の中で先進的な対策を行っている各国を紹介する「南南協力の道を開く」、さらに現状のエイズ問題の分析と対策の方向性を追求する「医療と予防の両立に向けて」と進み、最後に、これらを総合したものとして、2002年11月18日および22日に実施したシンポジウムについて取り上げることとする。
第1章 エイズ・立ち上がる当事者たち
1. 南部アフリカ:エイズ禍を生きる人々
<はじめに>
本年度保健分野NGO研究会は、グローバル・エイズ問題のリアリティを私たちがつかんでいくために、世界のPHA(
People Living with HIV/AIDS:HIV感染者・AIDS患者)の声、およびエイズに関するヴァルネラブルなコミュニティの存在と、その主張についてとりあげるシリーズとして「エイズ・立ち上がる当事者たち」を設けることとした。
このシリーズの第1弾として開催したのが、シンポジウム「南部アフリカ:エイズ禍を生きる人々」(2002年9月16日実施)である。
南部アフリカは、HIV/AIDSが世界で最も深刻な状況にあり、ボツワナ、スワジランド、ジンバブウェなどでは、成人感染率(15~49歳)が軒並み30%に達している。しかし、こうした数字からは、具体的な深刻さは見えてこない。実際、アフリカのエイズ問題のリアリティは、私たちにとってなかなかつかみにくい。その原因の一つは、数字だけが一人歩きして、南部アフリカにおいてエイズをめぐって人々がどう生き、どんな声をあげ、どのようにエイズと闘っているのか、そういったことが、日本にいる私たちの耳になかなか入ってこないことにある。
このシンポジウムで、私たちはまず、南アフリカ共和国・ジョハネスバーグ近郊で終末医療に係わっているカトリックの神父、根本昭雄さんから、南アフリカのPHAたちが直面する厳しい現実についてのお話を頂いた、つぎに、同年8月~9月に南アフリカ共和国ジョハネスバーグで開催された「世界環境開発サミット」に政府代表団顧問として出席したアフリカ日本協議会代表・林達雄さんより、エイズ治療薬問題をはじめ、南アフリカで活動するPHAたちの最先端の運動に迫った経験についてのお話を頂いた。
<企画概要>
(テーマ)シンポジウム「南部アフリカ:エイズ禍を生きる人々」
(日時)2002年9月16日(月曜日・敬老の日)午後2時~5時
(場所)文京シビックセンター5階 シルバーセンターB会議室
(パネリスト)根本昭雄氏(聖ヨゼフ修道院)、林達雄氏(アフリカ日本協議会)
(参加人数)31名
(企画構成)
○まず、南アフリカの患者・感染者の置かれた立場について、ホスピスで死を看取る活動を続けてきた「聖フランシス・ケアセンター」神父の根本昭雄氏より報告を受けた。次に、ジョハネスバーグ環境サミットに参加し、南アの患者・感染者運動と交流を持ったアフリカ日本協議会の林達雄氏より、南アにおける農村と都市の患者・感染者の状況やエイズへの取り組みについて報告を受けた。
○その上で、ワークショップ企画として、参加者を6つの小グループに分け、南部アフリカのある国の首都でホーム・ベイスド・ケアを展開するNGOのスタッフになったという仮定で、VCT(自発的カウンセリング・検査)の啓発活動に関する簡単なグループワークを行った。(グループワーク課題については資料参照)
南アフリカ・ホスピスからの報告
根本昭雄氏
(根本昭雄氏略歴:現・聖ヨゼフ修道院(東京・六本木)神父。南アフリカ共和国・ジョハネスバーグ近郊にある、エイズの終末医療をになうホスピス「聖フランシス・ケアセンター」にて11年間にわたってHIV感染者・AIDS患者の死を看取る活動を続けている。)
○南アフリカでの活動に関わった理由
私は、1991年に南アフリカに入りました。日本にいた時に、たまたまハンセン病の人々と出会い、共に過ごす機会がありました。一緒にお祈りをしたり、礼拝をしたり、ミサを捧げたり、色々な人たちの悩みや苦しみなどをきいてきました。その後、80年代になって、ベトナム難民の人々がボートピープルとして入って来て、彼らとの出会いがありました。ボートピープルの問題に触れて、私なりに教えられたことが沢山ありました。その後私は、東京の神学校に行き、神学生の養成に従事することになりました。そこで出会ったのは、若い活きのいい神学生達、こういう人達から受けた鋭い眼差しや、新しい考え方に触れ、大きな変化を経験しました。その後、神学校のほうの仕事を終えまして、これから普通ならば教会の仕事のほうになるというわけですけれども、私は南アフリカ行きを志願しました。
私がどうしてもこの南アフリカの問題、アパルトヘイトの生々しい時代、風が吹いていた時代の南アフリカを、この目で確かめてみたいと思い、アパルトヘイト廃絶が決まりかけた91年に行ってみますと、現地はまだまだ大変な状況で、あちこちで小競り合い、殺し合いがありました。様々な混乱した時代の中で、私が最初に出会った貧しい人というのがいわゆるエイズの方たちだったのです。
○変化の中で置き去りにされたエイズ
それらの人々は、見ればすぐにエイズを発症しているとわかるのですが、実際には、彼らは自分たちがエイズを患っているとは言いませんでした。残念なことに、エイズの問題が、マスコミで大きく取り上げられることは91年から94年くらいの間には全くありませんでした。94年といえば、ネルソン・マンデラ氏が黒人として初めて大統領に選ばれたという時期です。その時期まで、このエイズのことに関してほとんどマスコミのうえで大きくとりあげられませんでした。私は、こんなに病気の人たちがいるのに何故?と思いました。
今振り返って私なりに感じることは、南アフリカには、アパルトヘイトが未だに大きなガンのようなものとして残っているのです。アパルトヘイトは法の上で大きく崩れ去り、問題が解決したかのように思われております。でも、まだアパルトヘイトの亡霊はさまよっているのです。現在の南アフリカの問題を考える時、その歴史や、あの美しい国の中に、あの恐ろしい体制が存在していたということを抜きにして今日のエイズの問題を考えることができないように私は思うのです。
○アパルトヘイトとの戦争後、音のない戦争が始まった
南アフリカの歴史の中で、その流れを変えようとする魅力的な人物が次々と登場したことは皆さんもご存知かと思います。ネルソン・マンデラ氏が27年間牢獄につながれていた時期に、若くてはつらつとしたリーダーが次から次へと生まれ、殺され、凶弾に倒れ、病気に侵されて去って行ったこともご存知でしょう。
アパルトヘイトを揺るがした大きな事件として最初に触れるべきなのは、1960年のシャープビル事件だと思います。当時南アの黒人たちは、パスを持たなければ国の中を自由に歩くことができませんでした。自分の国にいながらパスを持たされていたのです。このパス法に反対するデモに声をあげて立ち上がったのが、ロバート・ソブクウェをリーダーとするパン・アフリカニスト会議
Pan Africanist Congress (PAC)です。このとき、70名近い人々が虐殺されたことは、誰にも忘れることのできない悲しい事件です。
そして、61年に黒人解放運動の武装組織「民族の槍」(ウムコント・ウェ=シズウェ)を結成したのが現大統領のネルソン・マンデラ氏でした。マンデラ氏はその後'62年に捕らえられまして、アフリカ民族会議
African National Congress(ANC、現与党)やPACのリーダー、メンバ一たちは皆、終身刑を言い渡されたわけです。
その後に起きた大きな事件が、76年のソウェト蜂起事件です。スティーブ・ビコ(60~70年代の「黒人意識運動」の指導者で南ア当局により虐殺。映画「遠い夜明け」の主人公)などに励まされて育った子どもたちが立ち上がったのです。子どもに対する大人の戦争、国家の戦争というようなことばで言われる、悲しい事件です。今は、その子どもたちについての大変きれいなメモリアル・スクエアがソウェトに造られています。このことを私たちは忘れることができません。
アパルトヘイト廃止直前にも、いろいろな悲しい事件がありました。選挙前、ズールー人とコーサ人(いずれも、南アの主要な民族)が選挙をめぐって互いに争い、1992年ボイパトンという場所で沢山の人たちが虐殺されたわけです。このような事件を通して、色々な人たちが立ち上がり、色々な人たちがこの世を去っていきました。
非常に悲しい歴史が南アフリカの中にあります。何故、歴史の話をしたかというと、先ほど申しましたように、私が南アフリカに初めて行った時には、エイズの問題、底辺にある非常に貧しい人たちの問題よりも、まず政治の問題、子供たちまで立ち上がりアパルトヘイトに抵抗しこの国を革新することがこの国の大事な使命であったのです。やっと選挙が行われ、マンデラさんが選ばれて何とかなるだろうという時にも、事件は続いていたし、最後には、マンデラさんの右腕になるだろう、と言われていたクリス・ハニという若々しいリーダーが1993年ポーランド系白人の暗殺者によって虐殺されました。新しい国に生まれ変わって力強く前進しようという時にこのような事件が起こったのです。南アフリカの歴史をこのようにみていきますと、大きな困難、政治的混乱を乗り越えなければならなかったということが一方ではあった、それゆえに、エイズ問題が余り注目されなかった、ということがあると私は思うのです。犠牲を忍んで、やっと新しい、美しい国が生まれましたが、そこでまたもう一度、恐ろしい戦争、音のない戦争:エイズ問題が浮かびあがってきたのです。
○「虹の国」をむしばむエイズ問題
今まではっきりと知らされておらず、資料もつくられていなかったエイズ問題。しかし、実際に見てみますと、それは恐ろしい数になっていたわけです。エイズ孤児の人口の資料を見てください。サハラ以南のアフリカでは、エイズ孤児が1,210万人にも達しています。
この国は、「虹の国」と呼ばれています。76年のソウェト蜂起のメモリアル・スクエアで、この子どもたちは帰ってこない、と多くの人々が嘆き悲しみました。マンデラ氏はこの人たちの悲しみをよく理解しながら、しかしこう言いました。「こんなことをした白人たちにも、それなりの理由があった。政治的理由の下でこうした事件を起こさざるを得なかったのだ。だから、その関係者たちがもし、本当に心から事実を認めて許しを請うならば、または進んで事実を明らかにするならば、この人たちに恩赦を与えるべきだ」そして「真実と和解の委員会」、真実を述べ、理解し合い、互いに和解するための、どこの国にも見ることのできないすばらしい理想的な委員会が生まれました。そこに持ち込まれた問題は一万件以上あり、まだ全部が解決したわけではありませんが、徐々に解決に向かっています。マンデラ氏は、「この国はもう黒人だけの国ではないんだ。白人も、黒人も、インド人も、東洋人も、皆が一緒になってこの国を救い、支えあっていくんだ。」といいます。この国は「虹の国」と呼ばれ、国旗も、いろんな色が虹のようになっています。色んな人種が一緒になって、皆が一緒に国造りをしようというのが、この国の発想でした。このように、理想的な国が生まれていく一方で、ものすごい勢いでエイズの人たちが増えていったというのはどうしてなのでしょうか。
南アフリカは人口が4,000万くらいですが、この中でエイズの人たちがどのくらいいると思いますか?500万人です。そして、1日1,600人の割合で増加している。アフリカ全体で見ても、アフリカの人口は世界の1割、約6億人しかいないのに、世界の7割を越えるエイズ患者・感染者が集中するのは、この感染が広がるしくみに貧困が深く絡んでいるということをどうしても見逃すことができません。
2000年に、ダーバンで国際エイズ会議がありました。そのとき、南アの第2代大統領であるタ一ボ・ムベキ氏が発言した「貧困」という言葉も、見逃すことができない大変な事実です。感染しても適切な医療機関が少なく、高額の医療費が払えない。貧しさは教育の機会をますます狭めていく。若者がエイズの予防知識を身につけるのもままならない。一夫多妻の地域も多いし、妻子を養うために出稼ぎが多くなっています。また、婚外性交渉や売春が増えたことも影響しています。
南アフリカのエイズ裁判ということを耳にした方があるかと思います。南ア政府は1997年、多国籍製薬企業の代理店を通さずに、ジェネリック薬を製造したり安い値段で薬を輸入することを認める、「薬事法」という法律を可決しました。これに対して、多国籍製薬企業39社が、特許を脅かすものとして、南ア政府をプレトリアの高等裁判所に訴えたわけです。裁判により法律の執行が停止され、その法律が施行されないままに4年が流れて、その中で40万の人々が命を落としました。年間120万円~180万円もするエイズ治療薬を、1日の収入が約200円足らずで生活している貧しい人たちが、どうやって手に入れられるというのでしょうか。非常に残念ながら、エイズ治療薬が、患者・感染者の手の届かない幻の薬になっていることは言うまでもありません。
これらの製薬会社は、2001年3月19日、無条件でこの裁判を取り下げました。「このエイズがあるところに薬がない、エイズがないところには薬がある」という大変皮肉な現実があります。2000年の国際エイズ会議で、「貧しいからといって殺さないで下さい」という大きな叫びが、世界中に訴えられたわけであります。この人たちは非常に苦しい中、貧しい中、エイズの苦しみで過ごしているわけです。
○エイズ患者の死を看取る:聖フランシス・ケアセンター
ここでスライドを見ながら、私の関わっている聖フランシス・ケアセンターを見ていきたいと思います。
ここには30人の子供たちが収容されています。この子どもたちは全部、孤児になっています。この子は亡くなって、もういません。別のこの子どもたちは、今も生きているかどうか、私が南アに帰国するまで、わからないのですが、この子どもたちはみんな、お母さんのおっぱいからエイズになってしまっているわけです。
この沢山の子供たち、ほとんどこの世の人ではありません。熱が出て、下痢が始まり、吐き気をもよおしたり、様々な病状で変化していきます。この子はこんなに太って元気そうなんですが、こういう子でも亡くなっていきます。
これは、外務副大臣がここを訪れた時の写真です。この子は白人の家に里子として連れて行かれましたが、まだ生きているかどうか私にはわかりません。
これは、大人の病棟で、つい最近まで、27人の人々が収容されていました。今は、東京のNGOのおかげで施設を増築することができ、もう少し多くの人々が収容されています。これは21歳の、ソウェトから来た方で、子どもの洗礼を望んでいました。私はこの親の望みにしたがって洗礼をしました。それが大変嬉しかったようです。涙を流しながら次の日静かに息を引きとりました。
この写真の人は、元は警察官でした。この方は割合と長くこちらで過ごしていました。2週間くらいいたでしょうか。だいたいほとんどこういう人たちは長くて1週間、末期症状の方々を受け入れておりますのでその日に亡くなる人、あるいは2日~3日後に亡くなる人がいます。この子は7歳で、良くなったり悪くなったりして、白人の家に引き取られて行きましたがそこで亡くなりました。
このお子さんは、お母さんと一緒に来所しました。お母さんが先に亡くなり、子どもはお母さんを毎日さがしていました。ついに自分のお母さんが亡くなったのだということを感じ取ったのだと思います。この子はいつもニコニコ笑っていましたが、それを感じ取って、もう二度と笑うことができないほど硬直した顔で毎日過ごしています。白人の家に連れて行かれましたが、どんな風に生活しているのでしょう。もう、亡くなっているかもしれません。
ここの収容者の方の多くが、支払い能力を持っていません。ですから、ここの施設は色々な人たちの善意の寄付によってまかなわれております。
この施設はジョハネスバーグにありますが、ジンバブウェとか、別の国から来る人たちもいます。
これは26歳の女性です。向こうの兵隊さんと仲良しになりました。兵隊さんは、エイズを患って先に亡くなりました。この女性は、来てから1週間くらいして下痢、吐き気が始まり、蒼白になって静かに息を引き取りました。
これはジンバブウェから来た人ですね。グ一グ一さんですね。大変明るい方で、よくお祈りをしました。そしてこの人も、僅かな短い期間を過ごして亡くなっていきました。
この写真は、みんなが少し元気なときに外に連れ出して、車であちこち観光に行こうと、ちょっとしたミニバスを私が運転しているのですが、今は、この人たちはもう亡くなって、誰もいません。
この写真は、毎週来て子供達の面倒を見てくれる学生です。この方も、ボランティアで遊戯を教えたり、ダンスを教えたり、歌を教えたりしてこちらに奉仕してくださっています。皆これはボランティアの方々ですが、このように患者と身近に接してみてスキンシップを互いに分かち合いながら過ごしています。これは絵を教えているところですが、この絵を習っている人たちが色々な自分たちの思いをこめた作品を残します。でも、この人たちももう亡くなりました。
○泥棒に入られて考えたこと
エイズに取り組むNGOが犯罪の対象になることがあります。まさかここに泥棒が入るなんて思わなかったのですが、ついに泥棒が入ってしまいました。大きな車を持ってきて、塀を乗り越えて、車に乗せて持っていってしまったんです。大使館から寄付された冷蔵庫、子供たちのために持ってきてくれたテレビも盗まれてしまいました。
始めはずいぶんひどいなと私は思ったのですけれども、長く生活をしていくうちに考えさせられたのは、盗む人たちも貧しいんだということです。この人たちも、何かの糧を得なければやっていけない状況にあるわけです。貧しさという問題は、色々な意味で考えていかなければならないものだ。私はこうやって色々なものを盗まれたりしたことがあるのですけれども、今考えてみますと、彼らはアフリカという大地に育ち、自分たちの国を持ち、貧しいながらもお互いに分かち合って、許しあって、支えあって慰めあって生きてきた。ところが、何者かが土足で入りこんで来てこの国を変えていった。貧しい差をますます貧しくしていったその植民地支配というものが、やはり大きな原因となっている。貧しくても豊かな平和な心を持っていた人々が、すさんだ心に変わっていったのはなぜか、考える必要があると思います。
○貧しさについて
この写真は、パークヴィルというスクウォッター・キャンプです。このような非常に貧しい地域に、エイズ患者・感染者の人々が増え始めています。こういうところに行って、エイズの方達を連れてきて、施設に入れるということは大変大事なことなのですが、施設はいつも満杯です。苦しんでいる人達を見つけても、全部引き取って連れてくることはできません。ベッドが満床で、空いたときには本人は死んでしまっている。子供たちの中に、エイズが増え始めている。働いているお母さんたちも3日も食事をしていない、お腹をすかして苦しんでいる人たちが多いし、栄養失調みたいになっているわけです。でも、こういうところを訪れてお話をすると、何もないのに、一生懸命自分たちの持っているものを全部引っ張り出してご馳走してくれるというのも非常にアフリカの人ならではと思います。
スクウォッター・キャンプの写真を見せたのは、ここに私たちのもう一つのプロジェクトがあるからです。この学校は、月謝を安く抑えており、子どもたちは喜んでここに来ています。しかし、残念ながら、2年半くらい前から国からの援助金が止まってしまいました。学校を続けるには授業料を上げなければならないが、貧しい地域から来る人々の授業料を上げても、払う力はありません。じゃあ、学校を閉めたらどうなるか。この人たちがスクウォッター・キャンプに戻っても、何もすることがありません。
将来の希望もない。学校も行けないような状況になってしまいました。やっとマンデラ政権になって、黒人にも教育を受けさせようというその矢先に、学校が閉鎖されたりしてしまいました。そこで何が起こったのか。犯罪が起こりました、アルコ一ル依存症になった人もいますし、体を売る若い女性も出てきました。そこでやはり、またエイズという問題になると、貧しさとエイズということは、どうしても切り離して考えることができないと思うのです。南アフリカは貧富の差が大きく、条件の良い人たちは大学に行き、学位を取っていきます。貧しい人と豊かな人がいます。この状況の中でこの南アフリカの貧しさの問題をどのように考えていくかということは非常に大事なことだと感じております。
○私たちはどう変わるべきか
この貧しさを一挙に変えていくことはできないでしょう。はっきり言えることは何だろうか?豊かな国と貧しい国、さらにいえば、貧しくされた国と今なお豊かになっていく国。南北問題、これを考えてみたいのです。そして、南北問題の中で、ますます貧しくなっていく人々が苦しんでいるとすれば、この人たちのためにどう考え、支え、助けていくのかということが大切だと思います。気の毒だとも言えるし、何か考えて対策を練ってということも言える。しかし、大事なことは現場に行って問題を見て、その人たちの立場から問題を考え、痛みを支え、一緒に苦しんでいく、そういうことが問われているのだと思います。問題を全部は解決できないにしても、大きな改善ができるのは北の国々の一人一人の両親だと思います。極端に言うならば、南の人を生かすも殺すも、北の人たちの考え次第だというところまで来てしまっています。私たちの挑戦は、今、このエイズの問題を通して問われていると思います。もうどうしようもないかもしれない、しかしそれでも、何かしなければならないのです。何をすればよいのか。本当に難しいことです。「改心」ということばがあります。今、私たちは何か新しい良いことをしなければならない、しかし、なんとなくどこか自分にしがみついています。完全に変わることができるかが問われていると思います。音のない戦争、エイズの問題に直面して、私たちがどう「改心」しなければならないか、北と南の問題を含めて考えていかなければならないと思います。
再びの南アフリカ・患者感染者の運動を訪ねて
林達雄氏
○ケニアとウガンダから
稲場 |
: |
(聞き手)この発題はインタビュー形式で行われた)最初に南アフリカに行かれたのはいつ頃になりますか? |
林 |
: |
南アフリカは1993年が最初で、アパルトヘイトがまだ続いている時期に訪問しました。厳しい時期でしたけれども、歌と踊りで迎えられました。私はアフリカの音楽というものは本当に素晴らしい、世界の音楽の半分くらいはアフリカが原産という気がしていますが、アフリカ音楽の中でも、歌声においては南部アフリカにまさるものありません。一人が歌いだすと別の人がはもり、そしてまたはもるという形であっという間にアカペラのコ一ラスが完成する。そのひと時によって、アフリカ南部の喜びを教えてもらったのです。
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稲場 |
: |
そうですか。当時はエイズの問題に関しては、あまり注目されていなかったようですね。
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林 |
: |
そうですね。当時はエイズの問題は注目されてないですね。アフリカではまず、ウガンダでエイズの問題が随分出てきていたんですけれど、ウガンダの人たちも何故自分たちがエイズになるのかわからなかった。我々アフリカに暮らす者たちが何故エイズにかかるのかさっぱりわからないと言っておりました。 |
稲場 |
: |
少し東アフリカの話をお願いします。 |
林 |
: |
(スライドを見ながら)これはウガンダのエイズ感染者の方々の写真です。ウガンダは、世界で最もエイズ感染者の顔が明るいと言われています。先にケニアを見てしまいましょう。この写真はケニアのスラムです。この人たちも踊って私を迎え入れてくれたんですけれども、このケニアの女性たちもみな感染者で、ちょうど1年前にこの写真を撮ったのですけれども、この人たちのほとんどが、もうこの世を去っているということです。
これは、ケニアの女性の感染者グル一プで、感染者同士がお互いにケアしあっています。体が弱った人たちのところにホーム・ベースド・ケア(在宅看護)に行くのですが、実際にできることは、心理的なケアと、食糧を少し持っていくといったことです。ところが、体が弱ると働くこともできなくなる。エイズにかかるというだけで、会社をクビになったりし、食べるのも困ってしまう。彼女が亡くなると、子どもたちが取り残されてしまう。孤児はアフリカ全体で1,000万人以上、未だに増えつつあります。
これは、末期のエイズ患者さんです。都会に働きにきたものの仕事がなかった。彼は2週間後に亡くなります。彼のお父さんがこの写真です。なんとか息子の写真を残してくれと言われたので、写真に撮りました。
これはウガンダの写真です。、ウガンダはアフリカの中で最も最初にエイズが増えたとも言われ、対策も一生懸命にやりました。例えばこのお医者さん、当時は治療とかはできないのですけれども、まずは心理的ケア、カウンセリングをしようとしました。エイズの人たちというのは、病気だけではなくて様々な差別を受けるために心の問題があり、そこをなんとかしようということです。
この写真は軍人さんで、彼も感染者の一人です。彼もまた、自分がエイズだということがわかり、自分はどうエイズと闘ったらいいのか、という中でカウンセリングの勉強に行き、皆の心をケアしていこうということをやっています。ウガンダでは、1986年に新しい政府が設立され、エイズのNGOもできはじめました。彼らのグループは、ちょうど病院のすぐそばにあります。ウガンダは、皆がエイズについて話せる国になったのですが、女性の地位が低いため、女性にとってはまだ、なかなかそうもいかないところがあります。この写真は、ウガンダのエイズNGOの活動家、ミリー・カタナさん。今は、世界エイズ・結核・マラリア対策基金(GFATM)の理事の一人となっています。
この写真の彼は、TASO(The AIDS Service Organization)というNGOで活動しています。歌と踊りでエイズ啓発活動を行うという趣旨で、感染者のグループが形成されています。
これは、地方の診療所なんですけれども、こういう風に笑顔で写真を撮らせてくれるところは世界中にウガンダただ一国というくらいです。ウガンダはなぜこれだけエイズに関してオープンなのか。政府がエイズ問題を大きく扱ったことに加え、当時、国民的に人気のあった歌手が「私はエイズに感染している」ということをテレビの前で語り、「こんな人もエイズにかかっている」ということを理解する中で、エイズが肯定的に語られる雰囲気が出てきたんだということです。
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○エイズが深刻化する南ア農村部
稲場 |
: |
ウガンダの場合、'80年代後半から政府が積極的に政策を展開したということで、エイズ対策のモデル国家になっているかと思いますが、南アフリカ共和国でエイズの問題が大きく表面化したのはだいたいいつ頃のことになりますか? |
林 |
: |
私が聞いた話では、本格的になったのは'98年以降だということです。 |
稲場 |
: |
南アフリカ共和国の場合は、アパルトヘイト廃止後、新しい国をどうつくるかということに追われており、エイズの問題に必ずしも注目がいかなかったのではないでしょうか。
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林 |
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ふつう、エイズ対策がうまくいっている国というのは、ウガンダも含め、タイ、ブラジルなど、これまでの政府に替わって新しい政府ができる段階でエイズ問題も同時に扱うかどうか、それがほぼ全ての決め手になっているような気がします。残念ながら、南アの場合は、解放の時期に前後して、実はエイズが増えていたのですけれど、それを同時に扱わなかった。ということで、ある意味で時期を失ってしまったのです。
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稲場 |
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南アフリカ共和国のエイズのデータを見ると、成人のHIV感染率が20.1%で、患者・感染者の数が生きている方で500万人、エイズ孤児の数が66万人です。非常に深刻だということがわかるのですが、南アフリカの患者・感染者の人たちや、NGOがこれにどう立ち向かっているのかお話を聞かせて下さい。 |
林 |
: |
まず農村から紹介しましょう。私は、ジョハネスバーグの環境開発サミットでエイズがあまり争点とならなかったその後、農村にまず行きました。この写真は、南アの東ケープ州の山村です。以前、この村を訪ねたときは、歌声で迎えてくれたのですが、今回はそういうシーンはなかなかみられません。教会で皆が楽しく歌うということが減ってきています。エイズの問題が影を落としている。ただ、エイズの問題が単独にあるというわけではなくて、エイズ以前に10年前に比べて失業者が増えてきた、あるいは、そのために暴力も増えてきました。この写真には、ちょうどお墓が見えていますけれど、この村の中でも週末になると少なくとも2~3件お葬式が出ます。この翌日、私たちもお葬式に遭遇しました。
ここで、女性たちが中心になって、エイズや保健に関わるトレ一ニングをしています。各村に、保健ボランティアという人たちがいて、保健についてのケアをしている。水の問題だとか、あるいは衛生の問題、それに加えて結局エイズに対してのことをやっています。この写真の人は、もともと看護婦さんでお年は62歳。退職した後にこのグル一プに入ってこの保健の運動をリ一ドしています。
一方、男たちはエイズに関してあまり強くありません。この写真の彼は、NGOスタッフとして農業の問題とかをやっているのですが、人にエイズ検査を進める啓発はしているのですが、実は自分がエイズの検査を受けるかどうかとても迷っていました。また、エイズの感染がわかっている人の家を訪ねたときに彼は、怖がって家に入りませんでした。エイズに対しての恐怖感というのは非常に強いのです。中年以上の女性たちは非常に頑張っているんですけれども、若者も男達もそういう意味では非常に弱いです。我々も含めてそうかもしれないですが。
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○エイズは来る、病院は来ない
この写真は、ある村を訪ねたところです。この一家は、60歳になるお父さんの年金で一家15人、子どもが10人孫が5人暮らしています。彼女は24歳で、家計を助けるために、大都市であるダーバンに仕事に行きました。そこで結核にかかり、その後妊娠がわかり、妊婦検診の時にHIV感染を宣告されたそうです。
この村には、10年前にエイズはほとんどありませんでした。出稼ぎから帰ってきた人がHIVを村に持って来たわけですね。しかし、この村の保健指導員の方が行っていたのですが、エイズは来るが、病院は来ないんだということです。
この10年、アパルトヘイトが廃止されたわけですが、水や食糧、失業の問題を考えても、決して生活が良くなったわけではありません。さらに、エイズや結核などの感染症が増えました。保健指導員さんは、一生懸命、村の女性たちにエイズの問題について話をしています。やっぱり検査を受けたほうがいいと勧めています。どうして検査を受けたほうがいいかというと、エイズだという証明書があると、少なくとも子どもに対しての扶養年金が出るなどのメリットがあります。だから、絶対に検査を受けて証明書を取っておくのよというようなことをここでは話をしているようです。
エイズの問題は、暴力と結びついています。実は、この小さい村のすぐそば、国道沿いに、今までにはなかったようなスラムが形成されています。奥の山村には暮らせなくなって人が出てきています。ここの近くでは良質のマリファナが採れるということもあってその関係者も集まります。中学、高校を卒業してもなかなか就職先が無い中で、女の子たちは売春に走ります。男の子たちはどうかというと、仕事がない苛立ちの中で、もともと家庭内暴力が多かったのです。最近はそれに加えて、子どもや成功未経験の女性とセックスをすると、エイズが治るという迷信があり、子どもに対するレイプなども広がっています。これにどう対応すればよいか、女性たちは村で話し合いを重ねています。有志でビレッジポリス(自警団)のようなものを作ろうじゃないかと言う提案もあるようですが、若い男には力でかなわないので、それもままなりません。非常に深刻な状況です。
○「治療行動キャンペーン」(TAC)とザッキー・アハマット氏
稲場 |
: |
次は、都会での取り組みをお願いします。 |
林 |
: |
この写真に写っているのは、「治療行動キャンペーン」Treatment Action Campaign(TAC)という団体のフォロゴロ・ラモスワラさんです。この団体は、感染者自身によるアドボカシー団体です。先進国では、エイズ治療薬は手に入ります。ところが、途上国ではなかなか入りづらいのです。そういう中で、貿易の仕組み、あるいは世界の特許の仕組みが問題になってきています。2年前にダ一バンで開催された国際エイズ会議に私は行ったのですが、その会議を外から取り囲むような形で運動をしていたグル一プがありました。この人はその一員です。まだ24歳の男性なんですが、ちょうど2年前にエイズだということが自分でわかりました。彼は芸術大学の学生だったのですが、どうしようかと考えているうちに、ちょうどTACのリ一ダ一のザッキー・アハマットさんと会ったのです。ザッキーさんと話す中で、自分が感染者だということをだまっているようではこういった状況は改善できない、自分がエイズを語る側に回ろうじゃないかということでここに参加するんですね。彼はもともとジャ一ナリストを志望で、今ではこの団体の広報を担当しています。非常に気さくないい男で一緒に話をしていても非常に楽しかったです。
その話が出たところで、次はザッキーさんの写真をちょっとお見せしたいと思います。彼はマレーシア系南ア人として、中学時代からアパルトヘイト反対運動を続けてきた人です。彼に色々話しを聞いてみたのですが、彼は、皆に薬が行き渡るまでは私は薬を飲まないんだという決意のもとに運動を続けています。
彼がリーダーをしているTACは、98年末に結成されました。さっきのフォロゴロさんのように、主に若い人たちがその中核になって運動をしています。ザッキーさんは私にあったときに、次のようなことを聞きました。日本の政府というのはどんな政府なのか?日本の政党にはどういう勢力があるのか?日本の人たちは何を考えているのか?そういうことを聞いてきたんです。
何故、そんなことを聞いてきたかと言うと、実は、南アフリカ政府は、エイズ問題というものを正面から受け止めていません。エイズは何が原因なのかなどと言い出しています。エイズ治療薬を皆に普及することについて、ゴーサインを出しません。そういう政府の姿勢に対して、彼らも今まではわりと平和的な運動をしていたのですけれど、この12月からはもう少し本格的な運動、いわば、第二の反アパルトヘイト運動とも言えるような運動を展開したいというのです。そういう意味で、南ア政府にプレッシャ一をかけられないかということで日本政府の姿勢、可能性を聞いてきたのです。
日本ではエイズには無関心ですし、世界のエイズをよく知りません。議員にも、わかっている人はそれほどいません。NGOも、まだそんなに大きくはありません。なかなか彼の期待に十分答えられなかったんですけれど、彼自身は、それはそれということで、例えば、治療のパイロットプロジェクトができないかというようなことも言っていました。
彼に今回のジョハネスバーグサミットの結果について少し聞きました。彼は、エイズが故意に無視されたと言いました。貧困削減という中で、アフリカではエイズを含む病気の問題というのは非常に大きな問題なのですが、本会議の中でエイズのことはほとんど話されませんでした。議長国の南アフリカが故意に隠ぺいし、それに応じる形で先進諸国が対応したのではないかと彼は言っていました。彼は環境問題に関しても非常に熱心で、エネルギ一政策等に対しての議論というものも出てきました。こうやって彼の顔をみて欲しいのですが、彼の表情が非常に豊かなんですね。ある時は怒った表情、ある時は笑った表情。ある時は話している途中は貧乏ゆすりをしながらといった感じで、なかなか面白い人なんですけれど、これがザキさんの話です。
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○南アにおけるエイズ患者・HIV感染者の運動
稲場 |
: |
このザッキー・アハマットさんとかTACは具体的にはこれまでどんな運動をされてきたのですか? |
林 |
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そうですね、彼らの最初の大きな運動が、2000年にダ一バンで開催された国際エイズ会議です。エイズ会議というのは'85年くらいから世界的にも医療関係者だけではなく感染者を含めたコミュニティ一を含むという意味で大きなニュアンスを持った会議です。治療という技術が今は必要だということでTACのメンバ一が中心となってその会場を取り囲むような大きな集会を開き、デモをしたのです。それが一番最初。
次に、二番目の大きな動きというのが、その翌年のエイズ裁判。安い薬を輸入できる法律を制定した南ア政府に対して製薬会社39社が訴訟を起こした。その問題に対しての運動です。
そして、三番目が、南ア政府の姿勢に対する運動です。南ア政府は治療薬にシビアな政策をとってきました。せめて母から子どもに対しての感染は防ぎたいという運動が南アの中では全国的に広がる契機を作ってきたのが、この団体の非常に大きな役割です。 |
稲場 |
: |
最後にジョハネスバ一グで行われた環境サミットをめぐって、南アの感染者団体がどのような形でむきあったのか、私たちが彼・彼女らにどういう支援ができるのか聞かせて下さい。 |
林 |
: |
環境サミットは、環境と貧困の問題を扱った大きな会議です。ジョハネスバーグのサントン地区というところで行われました。この会議に向けて、ふたつの大きなデモがありました。
まず最初のデモ。これは民営化に対する反対運動にかかわるものです。水とか電気とか、今まで公共セクターで行われてきたもの、医療もそうなんですけれど、それがどんどん民営化されていく。そうすると、ただで供給されてきたものが、ただでなくなってしまう。これに対する運動が行われました。これは、この会議に対する最も大きな運動の一つでした。アメリカの評判が非常に悪かったんですけれども、アメリカと非常にタイトに結びついた日本も、今回また少し評判が悪くなったのではないかと思います。
こういう中で実は、エイズのグル一プは一緒に行動しなかったんですね。ザッキーさんは、今までの闘いで疲れ果てて、本当はやらなきゃいけないのに参加できなかったということを言っていました。
この写真がもう一つのデモ。「全国PHA連合」National Alliance of People Living with AIDS(NAPWA)によるものです。南アでは、なかなか自分が感染者だと言いづらいわけですけれど、この人たちは自分が感染者だと名乗ってこういった運動をしている。このデモは、保険会社に対する運動の一環として行われました。何故保険会社に対して運動するかというと、南アで家を買うためには、家を買う条件として生命保険に入らないと家が買えないんです。ところが感染者だということがわかると保険に加入できない。その状況を変えるために、運動を行っているということです。彼らは環境サミットに対して、会場の中でエイズの問題をしっかり受け止めて欲しい、アフリカで貧困を語るためには、エイズについて語ることが必要ではないか、と言っていました。
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稲場 |
: |
どうもありがとうございました。 |
【参照資料】
第1弾企画「南部アフリカ・エイズ禍を生きる人々」
グループ・ワーク企画
このグループ・ワークは、エイズの問題について、参加して考えるために設けるものです。ポイントを押さえるために、大づかみかつ単純なストーリーを作っています。設定の細部に、実際と違う点があるかもしれませんが、その点はご容赦下さい。ぜひとも積極的にご参加いただければ幸いです。
<ばっくぐらうんど>
ここは南部アフリカのある国の首都。大都市で、各地域にクリニックがあり、市内に大きな病院がいくつかあるなど、医療インフラのハード面は整備されています。しかし、必要な薬や医療器具などがそろっていないことが多くあります。抗エイズ薬を貧しい人々にも供給する仕組みは、まだできていません。HIV感染率は増大し、現在この都市の推定感染率は20%と言われています。
<しちゅえーしょん>
各班の皆さんは、この都市の貧しい地域で家庭訪問をし、患者・感染者へのサポートを行うホーム・ベイスド・ケアのNGOで家庭訪問員をしています。
<おはなし>
この班では、Xさんの家を家庭訪問先に加えました。別に家庭訪問していたYさんの家で、「Xさんの体調がおかしいらしい、最近、姿を見かけない」と聞いたからです。Xさんは奥さんと子ども4人とともに住み、バイクタクシーの整備工を営んでいました。訪問してみたところ、やはり体調を崩して寝込んでいました。吐き気やめまい、下痢などが続いていて、あまり動けないとのことです。
私たちは、Xさん宅を毎日家庭訪問してご機嫌伺いをし、信頼関係ができたころに「HIV検査を受けてみたら」と勧めてみました。するとXさんは「検査なんか受けてどうなる」と急に不機嫌に。私たちとしては、検査を受けて欲しいのですが……。
<はなしあってほしいこと>
さて、この場は家庭訪問員同士で、お互いに自分の担当している人たちの問題を話し合うミーティングです。プライバシー保護のため、具体的な個人名は出さないでミーティングします。どこの地域にも、XさんのようにHIV検査を受けたがらない人がかなりいるようです。そうした人たちに対して、どう働きかけるかを話し合っています。
(1) |
議論の進行役(コーディネイター)を一人選んでください。 |
(2) |
それぞれの家庭訪問員が、HIV検査を受けたがらない人たちが言っていた「受けたくない理由」を報告します。○皆さん、それぞれ考えて報告してみてください。 |
(3) |
そういう人たちに対してどう対応するかについて、方針を決めなければなりません。皆さんで意見を出し合ってください。 |
(4) |
説得して受けてもらう、という方針の場合には、それぞれの人たちをどのように説得するか、議論してみてください。 |
<しぇありんぐ>
討論が終わったら、シェアリングの時間を設けます。各班から報告者を一人選んでください。
2.深刻化する中国のエイズ問題・中国中央部の農村から
<はじめに>
グローバル・エイズ問題の「震源地」はアフリカであるが、現在、最も危惧されているのが、アジア、とくにインドや中国などの人口大国におけるHIVの急速な感染拡大である。UNAIDSのピーター・ピオット事務局長が言うように、アフリカでの急速な感染拡大になすすべのなかった私たちが、他の大陸で同じことを許すわけには行かないのである。
「立ち上がる当事者たち」で南部アフリカに続いて取り上げるのが、中国におけるエイズの状況である。ウイグル自治区やチベット自治区、雲南省などの国境地帯において、エイズの問題が深刻化していることは伝えられているが、ここで取り上げる問題は、中国中央部農村の問題である。
中国中央部の農村部においては、売血によるHIV感染が増大し、村落によっては、成人の半分以上が感染していると伝えられる。しかし、その実態はこれまで明らかにされてこなかった。
保健分野NGO研究会では、香港のエイズNGO、智行基金会(
Chi-Heng Foundation)の事務局長、チュン・トー氏の来日にあわせて、トー氏の緊急講演会を開催した。智行基金会はHIV感染が深刻な中国中央部の農村を訪問し、とくにエイズによる孤児の就学サポートや、村民のドロップ・イン・センターの設立などを中心とする、HIV/AIDSの緊急援助を行っている。
トー氏は、「HIV大量感染という洪水が襲ったあとの中国中央部での取り組みは、これから洪水が襲うかも知れない中国の他の地域での取り組みを考える上での貴重な経験である」と述べる。トー氏の講演に耳を傾けたい。
<企画概要>
(テーマ)緊急講演会「深刻化する中国のHIV/AIDS問題:中国中央部の農村から」
(日時)2002年9月7日(月曜日)午後7時~9時
(場所)文京シビックセンター5階 シルバーセンター実習室
(参加人数)18名
(企画構成)
○まず、中国中央部で活動を続ける香港のNGO「智行基金会」のチュン・トー氏から、中国のエイズの状況、とくに中国中央部の深刻な状況について講演を行った。続いて参加者から質疑応答がなされた。
深刻化する中国のエイズ問題
○売血によるHIV感染の構造
こんばんは。今晩は招いていただき誠にありがとうございます。本日は、中国におけるエイズの状況についての報告を行いたいと思います。
最初に、概要を簡単に説明した後、私の中国中央部での経験を述べ、何が出来るか考えたいと思います。
1990年代の初頭、中国中央部のいくつかの省で売血が行われていました。中国では、売血は生活の糧を稼ぐ方法として長い歴史を持っています。多くの人々、とりわけ農民たちが、生活の収入を得るために、売血を行っています。中国の海岸部では、非常に大きな経済発展がありました。いっぽう内陸部では、貧困の問題が深刻で、売血が行われるようになりました。理由は、海岸側の都市では、人々はより豊かになり、売血をしなくなったからです。
農村部では、牛や豚、動物などはたくさんいますが、現金をたくさん得ることはできません。そこで、現金を得るために、血を売ることになったのです。その現金は、子どもの学費を出したり、家を建てたり、二人以上の子供を持った場合にはその罰金を払う(注:一人っ子政策によるもの)ために使われました。しかし、血を売ることによって、HIVに感染してしまうことを彼らは知りませんでした。
二日前ですけれども、中国政府は公式に、100万人以上のエイズ感染者がいることを認めました。しかし、この数は、専門家、また国連のエイズ問題対策から見ると、とても低い数であります。エイズ問題に取り組むガオ博士の推測によると、中国中央部のとある省だけでも、100万人以上の患者がいると推定されます。
中国中央部で何が起こったのでしょうか。売血をするために、同じ村にいる人々のほとんどが、献血所に行き、売血を行いました。例えば、ここにいる全ての人たちが、同じ日に献血所に行ったとしましょう。私たちの血液が、一つのプールの中に注がれます。その環境は、医学的に清潔なものではありませんでした。例えば、同じ注射針を使い回したり、汚れたはさみなどが使われました。献血者の体調をすぐに元に戻すために、集められた血液から血漿を取り除いた後に、再びその血液を、献血者の体に戻すことが行われました。二つのやり方を私は聞きました。一つは、本人から採取された血液から血漿を取り除いて、再注入するというものでした。もう一つは、同じプールに入れられた血液、つまり、誰の血か分からない血液を、血液型が合えば、その人に戻すという、二つのやり方です。
ということは、もしその中に、誰か、肝炎ウィルスやHIVを持っている人がいれば、再注入された人全員に広がってしまうということになります。
90年代には、政府による売血、献血には、基準が定められていましたが、同時に、ブラックマーケットもあり、医学的に危険な状況で売血が行われていました。献血を通じてHIVに感染した人に加えて、より多くの人が、闇のマーケットによる売血を通じて感染している可能性があります。現在、献血を通して、多くの人々が感染したということが判明しています。1994年に、省政府が、採血された血液の中で、血液銀行に保管されていたものを検査したところ、その中から、HIVにかかった血液がたくさん発見されました。そのため、1994年の終わりに、省の政府が、採血所の閉鎖を命令しました。しかし、地方レベルでは、献血が終わるまでにはしばらく時間がかかりました。
一方、より悪いことに、闇のマーケットでの売血は続きました。農民たちは、政府による献血所が閉鎖されたので、闇のマーケットに通い続けざるを得ませんでした。政府がやめさせようと思っても、売血は続きました。なぜなら、農民たちが必要とする現金はますます多くなっていったからです。実際、農民たちは、警察が違法な売血所を閉鎖するためにやってきたとき、それに抗議して警察を追い出すということもありました。警察がすべての売血所を閉鎖したのは1997年でした。それから5~7年が経った現在、何が起こっているのか、見えるようになりました。売血は中国中央部の各地で行われており、いくつもの省でHIV感染が確認されています。
○中国中央部:貧困と結びつくエイズ
私がこれからするお話は、中国中央部のある村の話ですが、この省のエイズ問題はこの53倍ある、と考えてください。ガオ博士によると、私が話すような状況におかれている村々はこの省だけで53あると言われるからです。
この省は中国の中央部に位置する省で、中国で最も貧しい省の一つです。人口は9300万人、他の多くの場所と同じように、エイズは貧困と結びついています。同じ省の中でも、売血が盛んだったのは、貧困の大きな村々でした。比較的裕福な都市や町では、売血は行われませんでした。
いくつかの医療報告書は、売血が行われた村の深刻な状況を報告しています。ある報告書では、村の40~60%の人々がHIVに感染していると述べています。これは私の訪問した村とは別の村ですが、私の経験と同じようなものです。感染している人たちの世代は、30~50代です。アフリカでもエイズは猛威を振るっていますが、アフリカでは、感染する人の年齢や感染時期、感染状況には幅があります。ところが、中国中央部の村の場合、感染時期、感染している年齢層はほとんど同じです。そうすると、次のようなことが起こります。年をとった人々と子どもだけが残り、その間の世代の人々が感染して死んでいくのです。つまり、子どもの面倒を見る人が全くいなくなります。
運のいいことですが、私は中国の中央政府によって中国中央部の村に招かれ、入ることができました。通常、ジャーナリストなどは村の中に入っていくことはできません。秘密の内に入るしかなく、滞在期間も限られています。これでは、本当の状況を知ることができません。幸運なことに、私はその場所に3回行き、何日もそこで過ごしました。村人から、また中央政府から、いろいろなことを学びました。私は6つの村に滞在し、50以上の家族と会いました。その人々は深刻にエイズに冒されていました。ある村の一つの地区では、90%以上の家庭で、エイズ患者がいました。60世帯の家庭があれば、57の世帯でエイズ患者がいるわけです。私は、昨年から中国中央部の状況に関わることになりました。いくつものルートを通じて、地方政府とコンタクトをとろうと努力した結果、今年の初めに、その機会が来ました。
○政府とメディア、二つの圧力
私は、地方政府に対して、ある省の村々を支援することはできないだろうかと、とても静かにアプローチしました。そしてついに地方政府に招かれることになりましたが、ある条件が付けられました。私の行った村についてしゃべらないでくれ、ということです。私は大きな圧力を感じました。それは、メディアと中央政府・地方政府からの圧力です。私は地方政府・中央政府とメディアの複雑な関係を理解しております。この講演についても、メディアに報道されることがないように望んでいます。
メディアは、中国中央部の村々の状況を外部に報道することはします。しかし、村々を助けることはしません。中国中央部の状況を報道することは、ともすると中国中央部の外の人々に、「エイズの問題は、中国中央部の問題だ、自分たちの問題ではない」というメッセージを伝えることになりかねません。
実際には、そうではありません。中国中央部の場合、HIV感染の波自体は、すでに去っています。これは洪水のようなもので、今の状況は、洪水が中国中央部を洗い流してしまった状況だと言えます。他の省には、まだエイズという洪水は来ていません。洪水はこれから起こる可能性があり、私たちは、その洪水を止めることができる可能性を持っています。
メディアにはもう一つの悪い側面があります。スティグマをつくり、排除を生み出す可能性があるということです。実際、この地域産のスイカが、HIVに感染した血液で汚染されているという噂が立ち、人々はこの地域のスイカを買わなくなってしまいました。天津では、中国中央部の農民たちが、人々を汚れた注射針で襲うという事件が起き、中国中央部の人々が差別される結果につながりました。「エイズがスイカで感染する」などといった、人々の無知の状況は変わっていません。また、これらの噂により、中国中央部への投資が減っています。中国中央部から企業が逃避する状況が生じています。また、中国中央部の人々が、外の省で仕事を得ることができにくくなっています。これらはメディアからくる圧力です。一方、メディアはエイズの問題についてサポーティブではありません。だから、地方政府・中央政府とも、メディアを嫌っているのです。
もう一つの圧力は、政府から来ます。政府には十分なリソースがなく、エイズの感染拡大の状況を適切に扱うことができません。例えば中国中央部の小さな郡には、一万五千人から二万人のHIV感染者・AIDS患者がいます。その数は、日本のHIV感染者・AIDS患者を全部合わせたより多いわけです。しかし政府には、それほど多くの患者・感染者をケアするお金も、医療器材もありません。また、今後、エイズを発症していく人々の数は増えていくだろうと思います。このように、問題はどんどん大きくなっており、中国政府だけでは対応できません。ですから、私たちはこれらの患者・感染者を支援することを中心に考え、政府との対立などはなるべくもたらさない方法を選択しようと考えています。
私たちは、その場に行って地方政府をサポートし、彼らを助けるために活動をしています。政府は、私たちの存在を認め、これを排除したりはしません。こうしたアプローチは政府によって適切に受け止められていました。多くのメディアが、この状況は政府によってもたらされたとして厳しく政府を批判してきました。しかし、私は、今は政府を批判する段階ではなく、そこにいる人々を助けるべき時だと思います。ちょうど火事と同じようなものです。火が燃えさかっていて、中にいる人々は殺されようとしています。私たちのすべきことは、その火の中に入り、人々を連れだし、できる限りの人々を助け出すことです。火事の原因は、あとで究明すればいいのです。私たちは、真実を究明するのに十分な時間を持っています。もう一つ、実践的なことを言えば、私がそこで働くためには、そうするよりほかに方法がないということです。
○中国中央部の現実と智行基金会の活動
エイズの被害の多かった村では、多くの家庭で、子どもたちの両親が亡くなり、祖父・祖母の世代が子どもたちを育てています。ちなみに多くの家族で、2人から3人、場合によっては4人の子どもがおり、人口政策・家族政策がうまくいっていないことがわかります。また、私は多くのHIV陽性の子どもたちに会いました。この子どもたちの年齢は7歳以下、1995年生まれ以降に多いということです。多くの家庭で、父親より母親の方が早く死ぬ傾向にあります。確かな理由はわかりません。聞いてみたところ、一つには、女性の方が男性よりも売血の頻度が高かったから。しかし、ある村では、売血に行く頻度は男性も女性も変わらないといいます。もう一つ聞いたのは、女性の方が男性よりも体が弱いからということです。しかし、本当の答えはわかりません。
いずれにせよ、彼ら・彼女らは売血によって、90年代半ばにかけて、少し、裕福になりました。しかし、今は絶対的な貧困状況にあります。売血によってお金を得た彼らは、大きな家を建てます。ですから、こうした村に行くと、立派な家が多いのを目にします。しかしその後、彼らは売血によってHIVに感染したので、日和見感染症の治療などにお金を使ってしまいました。それも、非倫理的な医者にだまされて偽薬などをつかまされた人も多かったのです。
こうした悪い状況にも関わらず、私は中国中央部の村々で、とても人間的な、やさしさというものを見てきました。多くの子どもたちが、エイズにかかった両親の面倒を見ています。その多くの子どもたちは、親の面倒を見るために、学校からドロップアウトせざるを得ません。後に説明しますが、私たちの活動は、この子どもたちを助けることです。
また、私は、多くのエイズ患者が、誰からも助けを受けることなく、尊厳を奪われて死んでいくという光景を見てきました。中国は来年度より、「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」(GFATM)の資金交付を受けます。このお金が、汚職にまみれた人々の所に行くのでなく、本当に必要な人々の所に渡るようにして欲しいと思います。こうした援助資金が、正しく使われているかの検証がないために、必要のないものへの投資に回され、汚職を増大させてしまうということがよくあります。資金をただ出すのでなく、モニターしていくためのシステム作りが大切です。また、透明性の確保も必要です。中央政府から地方の政府に、どのような手順で回り、どの段階でどうお金が使われたかをチェックすることです。
私たちはまず、ミルクパウダーを買うための資金を送りました。母乳による母子感染を防ぐためです。次に、HIV検査を受けるための資金を出しました。私たちのプロジェクトは、エイズによる孤児のための奨学金を出すことですが、そのためには、親がHIV感染者であることがわからなければならないからです。また、緊急時の援助金を拠出しています。彼・彼女らは本当に貧しく、葬儀をすることも難しいからです。
村のデイケアセンターも重要です。これは治療のための場所ではなく、カウンセリングや相互扶助のための場所です。デイケアセンターは一つの村に一つ設置されます。私たちはデイケアセンターに、人々の人間的な関わりの促進を期待しています。外で働くには病が重くても、部屋の中では、まだ仕事ができる、というときに、デイケアセンターは重要です。単にお金を渡すだけでなく、その人たちがまだ働いて、何かを生み出すことができるようにしたいのです。
私たちの基金の中心的プログラムは、エイズによる孤児に奨学金を出すということです。これも村単位に行います。私たちはまだ、これを公開でやっているわけではありません。基金も公開では集めていません。より多くの孤児をプログラムの対象とする場合には資金集めが必要です。
エイズ孤児の奨学金は、医療ではなく、教育のプロジェクトです。エイズを発症した患者さんは、数年の間に亡くなってしまいます。彼ら・彼女らには、ケア・トリートメントが必要ですが、それは私たちの基金にできることではありません。一方、私たちがエイズ孤児の面倒を見なければどうなるでしょうか。社会を支えていくのはこれらの子どもたちです。これらの子どもたちは、両親の愛やケアを受けておらず、逆に、多くの憎しみの下で育っています。彼・彼女らがいかなる教育も受けられなければ、とても不安定となり、社会的にも、犯罪に手を染めたり、社会問題を引き起こすかも知れません。一方、子どもたちに基本的な教育を施すことができれば、彼らは社会の中で自分たちを役立てることができるようになります。これができるのは、非常に短い間です。彼らはすぐに成長し、14歳にもなったらすぐに村を離れ、町に出てしまいます。ですから私たちはすぐに行動しなければならないと思っています。
子どもたちへのプロジェクトは、間接的に両親を助ける意味も持ちます。今、エイズで死ぬ世代の人々は、自分が死ぬことをわかっており、希望を見いだしていません。両親も子どもたちも、いずれにも希望がない場合、それは大きな社会不安をもたらします。しかし、もし次の世代が無事に育っていくことがわかれば、少なくとも、安心して死んでいくことができるでしょう。
○智行基金会のエイズ孤児サポートプログラム
私たちのプログラムは、両親の一人、または両方が亡くなってしまった子どもたちに焦点を当てます。もう一つは、HIV陽性の人たちです。私たちは、プログラムの対象者をはっきりさせなければならないと思っています。一つは戸籍によって、両親と子どもの関係が明確かどうかということ、もう一つは、両親がHIV陽性であるという検査記録を持っているかどうかということです。私たちのお金は、子どもたちが就学している学校に直接送られます。地方政府や、生徒たちにではありません。このプロジェクトは、貧困な人々全般を対象としたものではありません。そういうプロジェクトは、中国にはたくさんあります。また、貧困かどうかを証明するのは、難しいことです。しかし、両親がHIV陽性かどうかを確認するのは難しいことではありません。こうしたやり方を取ることによって、私たちは、どれだけの数の子どもたちがいるのか正確に把握し、どれだけの期間、子どもたちをサポートする必要があるのか、また、プログラムをいつ終わらせられるかということを明確にすることができます。
今学期、私たちは127人の生徒たちをサポートしました。この生徒たちは全て同じ村の子どもたちです。私たちは、まずこの村の人々を助け、資金に余裕があるならば、他の村の人助けたいと思います。この村の小学校では、生徒たちの半分がエイズ孤児です。これだけエイズ孤児が多ければ、村の中で、差別や排除というのは問題になりません。しかし、中学校に進学した場合には、気を付けなければならないことが起こってきます。中学校の生徒たちはいくつかの村から集まってくるからです。エイズ孤児に対する差別が生じるかも知れません。
今年、私たちはこの村に対して6,000ドルの資金を出しました。この数字は、もっと大きくなるでしょう。中学校、高校になるにつれて、お金もたくさんかかるようになるからです。高校については、まだ私たちはこの問題を取り上げていません。このプロジェクトは7年から10年は続けなければならないプロジェクトです。
○一つのいのちを救うことの大切さ
一つのことを皆さんとシェアしたいと思います。私は、多くの人から次のような質問を受けます。「あなたは100万人エイズ患者がいるという。そうすれば、100万人から200万人のエイズ孤児がいることになる」そして、こう続きます。「それだけ多くの数の子どもたちを、どうやって救おうというのですか?」
もちろん、私は全ての人を救えるとは考えていません。できるかぎり、やれることをしようというのです。ここに有名な逸話があります。ある老人が、孫娘と海岸を歩いていました。海岸にヒトデがたくさん流れ着いて死んでいました。老人は、一つのヒトデを取り上げ、海に戻しました。孫娘はそれを見て、「一匹だけ助けてどうするの?他のヒトデには何の助けにもならないじゃない?」老人は応えて言いました。「一つのヒトデの命を助けることで、そのヒトデの全てを助けることができる」。私も同じことを言います。私は100万人の子どもたちを救うことはできない。しかし、もし1,000人の子どもたちを救うことができれば、私はその子どもたちの人生を救ったことになります。それが、私がこのプロジェクトを行う動機です。
<質疑応答:中国のHIV/AIDS問題>
Q |
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中国の一つの村で、人口の50~60%がエイズに感染しているということを聞いて、なぜかと思っていたのですが、今日の話を聞いて理由がわかりました。中国中央部では、HIV感染の洪水が行き過ぎつつある。一方で中国では、今まさにHIVが増えている省もある。その区別がはっきりしているのか、また、中国中央部自体でもHIV感染は増えつつあるのかお聞きしたいです。
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A |
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中国中央部のHIV感染は、あらかじめ準備できる度合いを大きく越えて村々を襲い、駆け抜けていきました。最近の医学報告書は、ある村の500~530人の検査結果を発表しました。そのうち300人が陽性でした。このうちの200人の人が売血をしたということですから、残りの100人は性行為感染、もしくは母子感染ということになります。このように、売血による感染の後に、性行為感染や母子感染が増えたということはありました。しかし、これらの村は今は落ち着いた状況になっています。
他の中国全体の問題としては、麻薬使用や売春、男性同士の性行為による感染があります。男性同士の性行為による感染は、感染拡大の一つの要因になります。中国では、ゲイの人々の多くが結婚しており、家族の下に帰って感染を拡大させることがあり得ます。同様に売買春が感染拡大の原因となる可能性があります。売春は各都市の至る所で行われており、HIVが売春の客に広まり、それが配偶者へ、そして子どもへと広がる可能性があります。売春は中国では日常的に行われており、その広まり方は非常に早いものと考えられます。
また、長距離ドライバーや、沖合・遠洋漁業の漁民におけるHIV感染も問題になりつつあります。何日もの間、外に出て、買春を行うからです。トラックが通る高速道路に沿った村々でエイズが広がったり、漁港でHIV感染が報告されたりしています。売血による感染は、中国中央部の各地で報告されています。
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3.日本のエイズ対策をリードするPHAたち:
日本におけるエイズ・アクティヴィズムの歴史と展望
<はじめに>
エイズ対策は、検査や医療体制、社会保障の整備から予防啓発・教育まで非常に多面的な要素を含み、様々な社会セクターが絡み合っている。これらの国々へのエイズ対策分野での国際協力を考える上で、私たちの国・日本におけるエイズ対策の歩みを学び、再評価することは重要である。
とくに、日本のHIV/AIDS対策はその前半において、数多くの差別・排除事件を生み、またエイズ予防法による患者・感染者の管理統制をねらったものとして遂行された。それから十数年たった今、日本のエイズ対策の出発点がこうしたところにあったことを確認しておく必要がある。
一方、日本のエイズ対策は、主にPHA(患者・感染者)およびヴァルネラブル・コミュニティ(ゲイコミュニティや外国人労働者、およびその支援運動など)を中心に、市民社会をベースにして担われてきた。上記の差別・排外事例の克服や、他の先進国に準じるエイズ医療・社会保障体制を確保してきたのも、こうした当事者の努力に負うところが大きいと言える。
保健分野NGO研究会では10月19日、エイズ対策を中心になって進めてきた二人のPHAの方を招へいして「日本のエイズ対策をリードするPHAたち」というシンポジウムを開催した。「ネットワーク医療と人権」(MERS)の花井十伍さんは、薬害感染者として、検査・医療・社会保障体制の整備を要求する運動に中心的にかかわってきた。また、「JANP+」の長谷川博史さんは、ゲイ・コミュニティの中で、HIV/AIDSに関するコミュニティ・エンパワーメントに取り組んでいる。
<企画概要>
(テーマ)シンポジウム「日本のエイズ対策をリードするPHAたち:日本におけるエイズ・アクティヴィズムの歴史と展望」
(日時)2002年10月19日
(場所)常圓寺祖師堂地下ホール(新宿区西新宿)
(パネリスト)花井十伍氏(ネットワーク医療と人権)、長谷川博史氏(JANP+)
(参加人数)20名
ゼロからの出発:日本のHIV治療体制をリードした当事者運動
花井十伍氏
○血液行政の不透明性と薬害エイズ
私は大阪の薬害エイズ裁判に関わって、活動を続けています。日本において、エイズが患者として一つのボリュームをもって存在した最初のグループが血友病患者だったということから、主にHIVの医療体制がどのように日本で整備されてきて、何が足りないのか、というところまで話せれば、今日の話は合格です。
エイズがこの世界に登場したのは1980年初頭です。米国の疾病管理・予防センター(CDC:
Centers for Disease Control and Prevention)の週報であるMMWR(
Morbidity and Mortality Weekly Report)に1981年から82年にかけて、免疫不全により、通常ではほとんどあり得ない感染症で亡くなった人がいるという報道がなされました。日本で初めての報道は、1982年7月20日の毎日新聞で、これはMMWRのレポートに関するワシントンポストの報道の追いかけ記事でした。日本国民としては、「変な病気があるな」という程度の話だっただろうと思いますが、私たち血友病患者にとってはそれだけではすみませんでした。血友病患者に広がるという文字に驚いたのです。これまで新聞に自分の病名が載るということ自体、あまりなかったことなので、その時点でこの病気に注目していたのですね。
血友病について説明しますと、先天性の凝固因子欠乏で、二万人に一人といわれる病気です。根治療法は今のところなく、補充治療といって、新鮮血や血漿分画製剤の輸血療法によって、補充的にこの凝固因子を補うという治療法をすることになります。少し話の本筋と外れますが、1975年にベトナム戦争が終わり、軍需物資としての血液だったものを、米国が商品として扱うことになり、日本にもアメリカから大量の売血が輸入されました。ピークとしては、1985年には血漿ベースで約380万リットルもの大量なアルブミン製剤使って、「吸血鬼・ニッポン」という批判を受けた、こういう血液行政のゆがみがバックグラウンドにあるということが、薬害エイズの本質的原因の一つとしてあげられます。
その例がここにあります。エイズがウィルス性疾患であると認識されるのは、1980年代の半ば以降ですが、これが血液由来で伝染するという疫学的認識は、ちょうど1982年12月頃までには共有されています。これを受けて欧米など各国が、血液をどうするかということに焦点を絞って、行動を起こしたのが1982年の末、その政策は1983年の半ばには実行され、初期のエイズ対策の勝負がつくんですね。ヨーロッパの一部の国では、国内の血液については、一つの大きなプールに一万人とか二万人というドナーの血液を大量に集めて、血液製剤として輸出するという方法のリスクに気が付いて、ドナーを少しでも少なくしようということになりました。もし、大きな血漿プールでやっていたら、ドナーの中に感染している人がいた場合、混ぜてしまえばプール全体に広まるわけですからもうどうにもならないわけです。例えば、オランダの例でいうと、1983年の3月、オランダの血友病の患者団体とゲイ・コミュニティと保健省、それにオランダの赤十字の血漿分画部門に当たる団体、CLBとの間で、侃々諤々の議論があったわけです。血友病患者は、感染者の血液が混じるほどリスキーなことはない、同性愛者は献血できないという法律を制定しろと主張する。同性愛者のグループは、献血は匿名で行うべきもの、同性愛者だろうが関係ない。そんな法律ができたら、それこそ同性愛者差別だ、容認できないという。保健省が間に入って、これから血液をどうするのかという議論になりました。最も利害関係のある四者が集まってそこで激しい議論をした訳です。結論としては、ゲイの団体は、法制化には反対だが、我々もできるだけ献血を控えるように努力するということになり、保健省と血友病患者と赤十字は、血漿プールを拡大するのはやめよう、ということを決めたわけです。オランダは、83年の6月には、これらの対策を実行してしまいました。小さな国だからできると言えばそうなのですが、何か訳が分からないことが起きたときに、行政が情報を抱え込まずに、最も利害関係のある人たちを直接・対等に起用して、知恵を出し合ってやるというやり方、これはオランダでは当たり前だったのでしょうが、まさに画期的な対応だったというように思います。
○一号患者問題(1985年)「一号患者をどこでどういう形で出すかが問題だ」
日本ではどうだったのでしょうか。血友病の話ばかりになってしまうのですが、エイズに取り組むグループが1987年に京都から始まって、87年から88年にかけてだいたい生まれています。この時点で、エイズ予防法というものも出てきました。この年代にグループができてきたことの意味というのは、やはり、現実に周りに患者がいて、ばたばたと死んでいくという状況を僕らは目の当たりにしていたということです。しかも血友病患者はもともとある程度グループになっていますので、日本にHIVの感染者が1000人くらいしかいない時期に、目の前でエイズを発症して死んでいく人が周りにごろごろいるというのは、米国で言えばサンフランシスコのゲイ・コミュニティの状況とちょっと近いのではないかと思います。向こうはアーティスティックな人が多いのに対して、こっちは引きこもりがちでおしゃれでもないという違いはありますが、同じなのは、日本も米国も、患者が、自分の周りの大切な人たちが次々と死んでいくということに対して、何とかしなくちゃ行けないというせっぱ詰まったところから出発したということです。京都の団体というのは、京都の石田吉明という人物、もう亡くなったのですが、私の先々代の(大阪HIV薬害原告団の)代表だった人です。また、「HIVと人権・情報センター」を設立したのも血友病患者でした。
もうひとつ、このころ患者・感染者の団体が出てきた背景には、社会情勢が大きく関係しています。1985年3月、日本のエイズ第1号患者が発表になります。1983年6月に日本政府が、欧米に大きく遅れて、初めてのエイズ対策としてエイズ研究班というものを立ち上げるわけです。この研究班は班長が安部英(たけし)という血友病の専門家の医師だったわけです。つまり、行政は、血友病が先にあって、日本のエイズの病原体の伝播のおおもとは血友病患者だということを的確につかんでいたわけです。血友病患者がそこら中に病原体をばらまいてくれたらえらいことだ、と。で調べてみると、血友病患者というのは、小さい頃から医者とべったりつきあって固まっている。じゃあ、医者を押さえれば、血友病は押さえられる、とこう考えた。これがエイズ研究班です。安倍氏は帝京大学で血友病の治療にあたっていましたから、彼は自分の患者がけっこうエイズで亡くなっていくのをすでに見ていました。だから、帝京大学の患者を日本の第一号患者にするのかどうかが最大の論点。もう一つ、血液の輸入をどうするか、この問題に尽きたわけです。
結果的に、この研究班は何もせずに解散しますが、その後、第1号患者が発表されます。ところが、この一号患者は、血友病患者ではなかったんです。同性愛者の男性の方で、アメリカに在住していた方なんですね。これは、血友病という話を出さずに、エイズというのは、わけのわからん、まあ、同性愛、いわゆる『「ホモ」、または「薬中」(薬物中毒者の意)、そういう連中の病気だ』、という印象を植え付けるための一つの戦略です。実際、当時の野崎という本省の課長(注:野崎貞彦・厚生省感染症対策課長(当時))は、のちにテレビ(NHKスペシャル『埋もれたエイズ報告』1994年2月6日放映)で、「日本に第一号患者が、誰が見つけて、どこで出るか、ということが最大関心事だったわけですので、対応が出来た段階で軟着陸した状態で、第一号患者が見つかるというのが一番いい形ではないかというふうに考えておりました。」と言っています。行政が、具体的に調査された客観的事実を伝えるのではなくて、どのような形で一号患者を出すのかが問題だということを、公の場で堂々と発言する。日本の全くダメなところです。
○神戸事件・高知事件から「エイズ予防法」へ
一号患者が出た後のマスコミの関心は、「じゃあ、日本のエイズ患者はどこに」という点に移っていきました。そこで、1987年に「神戸事件」が起きるのです。1987年、神戸で一人の女性がエイズで亡くなります。これを行政がリークしました。当時は写真週刊誌が大流行で、この女性がソープ嬢だったとか、まことしやかな噂が流れました。プライバシーへの配慮もなく、女性の顔写真や遺影を、お葬式に参列するふりをして撮影してきて掲載する。ある女性週刊誌は、家族の写真や実名も載せる。そうするとパニック状態になります。結局、女性がソープ嬢だったとかいうことは全部デマでした。当時のマスコミが報道に際してどんなことを言っていたか伝えておきましょう。「善良な国民の皆様が、この恐怖の病、エイズにかからないように、感染した人間が誰であるかということをお知らせすることは、当然皆さんの生命を守るために必要な情報であって、それを伝えるのがマスコミの責務である」。本当にけしからん話です。
さらに高知事件が起きました。これは、血友病患者である男性のHIV感染者から二次感染した女性が妊娠して、それがリークされた。子供を産む気か?というすごい嫌がらせがありました。写真週刊誌のみならず、4大紙、たとえば毎日新聞までが「救えるか、罪なき胎児」と書いてしまいます。4大紙すら筆を滑らせるという厳しい状況がありました。「おまえ、エイズちゃうかー」というギャグが使われるようになったのも1987年以降。エイズということばが日本語の中に、いろんな記号性を持ったものとして浸透していくわけです。このタイミングをはかったように、当時の神戸市長は、HIV感染者・エイズ患者を規制する罰則付の法律を速やかにつくって欲しい、という要望を国に出したんです。今となっては信じられないことですが。そして、1987年の3月に、国は「らい予防法」をお手本とした、エイズ予防法案を発表することになります。
すでにおわかりと思いますが、当時のエイズ政策は患者に対する視点など全くなく、当然、患者への偏見がどんどん拡大する政策だったわけです。私たち血友病患者としては、世間で血友病だと知れたらえらいことだ、パニック状況あるいは、ふるえながら、息を潜めて様子を見守る、という状況でした。エイズだってことがばれたらどうなるんだろう、とおびえていたわけです。患者の視点では、良い治療を早く導入して欲しい、死にたくない、と考えているわけです。しかし、それどころではないという状況になってしまったわけです。もちろん、私たちも、エイズ患者に罰則規定など論外だ、と思っていて、いろいろな団体と連携して反対します。一度は余りの反発に法案を引っ込めるわけですが、その後、HIV感染して、いろいろな人間と性交渉をもって、そして死んだというエイズ患者の例をわざわざリークして、それを追い風に、強行採決してしまうんです。エイズを理解していない人たちの過剰な評価の方が、受け入れられてしまったんです。
HIV感染者というのは、病気に掛かっているわけですから、治療を受けるのが当たり前なのですが、こんな状況になると、医療現場で問題が出てくる。心ある医師が病院内でHIV感染者を診療しようとすると、「おまえそんな患者を診ると病院に患者が来なくなるよ」ということが起きてくる。医療関係者は、HIVの感染防止が容易であるということはわかっているはずなのに、もう体に触れようとしなくなるんです。孤立させられて、来てくれない。投薬もしてくれない。私も点滴をするときは新聞一枚をベッドにしかれて、病院を歩き回るときはマスクをさせられました。空気感染なんてありえないと、やるせなかったんですが、その時代には、雰囲気からして、仕方がない、診てもらっているだけありがたい、という所があったんです。
○90年代:煮え切らない転機
厚生省が医療政策に本腰を入れ始めるようになるのが90年代です。予防法以降、厚生省は「エイズ撲滅キャンペーン」を展開して、むしろ差別を助長したという状況がありました。あともう一つ、これはNGOに対する批判なんですが、ストップ・エイズ・キャンペーンの中で、いろんなNGOがいろいろやり出す。サンフランシスコなどでは、患者・感染者の仲間にアーティスティックな人がたくさんいて、ネームズ・プロジェクト(注:Names Project:エイズ・メモリアル・キルトを実践するプロジェクトのこと)とか洗練されたアクティヴィズムが展開されるわけですが、日本の場合、その洗練されたおしゃれな部分だけを導入して、ほとんど患者を見たこともない人が予防キャンペーンだけをしていたわけです。でも、それはある程度仕方がないというか、周りに患者がいないところから始まっているのだから、患者主体という視点が生まれにくかったことも無理もないかも知れません。
厚生省のエイズ対策は、まず最初に、拠点病院を選定して、そこでエイズを診るということでした。しかし、拠点病院の選定作業がうまくいきませんでした。どこも引き受けたくないのです。行政はそれでもお願いするしかないと言っていろいろと頑張りはしましたが、「非公開なら引き受ける」などと消極的な返事をもらったりで、なかなかうまくいいきませんでした。
もう一つは、ホスピス構想です。行政としては良いアイデアだと思ったのかも知れませんが、私たちとしては、ますます信用できなくなりました。もしこんな構想が通ったら、「ホスピス的な設備がない」とか、「隔離病棟がないから受け入れられない」とか、医療拒否の格好の口実になったでしょう。ましてや、最初からホスピスとは?死ね、ということか?というのが私たちの受け止め方でした。それで、当然、猛反対するわけです。「そういう問題とちゃう、近くの医療機関で診て欲しいだけや」ということです。この時代というのは、日本のHIV診療の暗黒の時代です。
ところが、私たちがやっていた薬害エイズの裁判で1995年に和解勧告が出たんです。勧告が出た時点で、和解に向かって、水面下で裁判所がイニシアティブを取って、当時の連立与党が、与党全体として薬害エイズを解決していくという方向性になった中で、医療だけは待ったなしで進めていく、次から次へと死んでいく状況に対応する、ということで、協議に入っていくわけです。
もう一つ、地方の状況です。東京では、都立駒込病院など、大きな病院はたくさんあり、ある程度患者の数を持っているところは医療レベルもあるのですが、地方は暗澹たる状況でした。また、医療費については、血友病に関しては、エイズ予防法の段階で、血友病の医療費を無料化する枠組みを使う、何とか医療費を無料化する、と約束をしていたわけです。ところが、医療機関の側としては、HIV感染者など大部屋に入院させたらえらいことになる、と、とりあえず個室に放り込む。そうすると、個室料を請求されるわけです。延々と個室にいて、個室料を請求される、経済的にも悲惨な状況でした。
○1996年:薬害裁判の和解と三剤併用療法の導入=大きな変わり目
1996年の3月29日、この時点が、日本のHIV医療の本格的なスタート地点であるといっても過言ではありません。薬害エイズ訴訟の和解の確認書が原告団、国、製薬会社の間で締結され、恒久対策のために医療体制を整備することになります。具体的には、ブロック拠点病院とエイズ治療研究開発センター(ACC)の設置です。ブロック拠点病院の整備というのは、地方の患者もが多かったために、「有名無実の拠点病院をなんとかせえ」ということで盛り込みました。もう一つ、患者・感染者を身体障害者として認定する方向性を追求しました。基本的には、ACCの設置と拠点病院の問題については、一応やる方向は見えていたのですが、身体障害者認定について国は協議には応じましたが、この時点で国が主張していたのは、例えばサイトメガロウィルス網膜炎(注:AIDS発症に伴う日和見感染症の一つ)で失明したあとに身体障害者手帳を申請したら、交付される頃には亡くなっているので、その場合、手帳を交付しないとかわいそうだから、早めに交付するくらいの措置はとってやる、というようなものでした。この問題は後に解決します。
この96年というタイミングは、ちょうど、バンクーバー・国際エイズ会議(注:この国際エイズ会議が、プロテアーゼ阻害剤の導入と多剤併用療法が一般化するきっかけとなった)と重なりますね。
ここで初めて、多剤併用療法の効果がいわれ、今まで患者が死んでいくのを為すすべもなくみているしかなかった医師たちにとって、治療!のガイドラインというのが示されていきます。ですから、1996年というのが一つの転換期なんです。
ちょっと前に戻りますが、エイズ治療薬は最初に、1988年にAZT(ジドブジン/アジトチミジン)が出てきます。もともとこれは、フランスやアメリカで開発され、あまりの副作用の強さにお蔵入りになっていたガンの治療薬ですが、これがエイズで復活したのです。さらに、1992年にddI(ジダノシン)が出ました。しかし、その後は遅々として出なかったんですね。そしてアメリカで95年に、AZTにかわるD4Tや、ガンシクロビル(AIDSの日和見感染症であるサイトメガロウィルス網膜炎の治療薬の一つ)にかわるフォスカーネットなどが出てきたのですが、当時はそうしたものが日本に入りませんでした。
そこで署名活動を95年に始めました。この時面白かったのは、血友病の若い有志が動き出して、僕はそのときにはカムアウトっていうことばは好きじゃなかったんですが、ただ、顔を隠してという発想もなかったんでごく普通に顔を出していたんですが、彼らは「覆面記者会見だ」とか言い始めて、署名を集めて、3人は異様な覆面をして(笑)記者会見と厚生省への交渉をしたのです。それでも厚生省はうんと言いませんでした。1992年に薬事法を改正してオーファンドラッグ制度を導入したので法的には可能だったのですが、厚生省は、「まあ待ちなさい」としか言いませんでした。私たちはその時に机をたたいて、「今死にかけとんねん、アメリカには薬があってここにはないんや、だから明日にも持って来い」と言ったんですが、和解前のことですから、もうどうにもなりませんでした。あのときの行政官の顔は今でも忘れられませんね。
○和解以降の治療薬導入制度
和解以降、薬剤については、「拡大治験」というのができました。これは、治験薬として、手を挙げた患者には、実質上薬を提供しましょうと言うものです。また、「熱帯病の治療薬研究班」にならって、エイズ治療薬研究班というのを設置して、研究として薬を使用する制度も創りました。こうした二つの制度によって薬の早期導入を図りました。
ところが治験の場合、費用は全部製薬会社が出すんですね。すぐ認可してやるから、といって治験をやらせる訳なんですが、メーカーとしては、どんどん無料で薬は出させられ、検査費用もは払わされ、認可はされない、認可されてももうからない、ということで、他の点でどんなに優遇されようが、こんなもんは嫌や、ということで薬が止まってしまいました。そこで導入されたのが超迅速承認制度です。これは、もう日本では治験はしないで、日本人固有の薬物動態検査とかが必要なら行うが、それ以上はしないというものです。たとえば、FDA(米国食品医薬品局)が認可し、その書類が全部出たら、日本でも3カ月で認可するという、いわば正式導入を速める事にした訳です。米国との治療格差を取り払う制度を整備して、これ以降、米国で使われる薬は日本でほぼ全て使うことができるようになっています。
96年の和解、そしてプロテアーゼ阻害剤の導入、拡大治験によって、この期間に、死亡者数は大きく減りました。アメリカでは、エイズによる死亡者数のグラフを書くと、日本よりもこの変わり目が一年早いんです。一年遅れですが、日本のエイズ死亡者数も半減している。このグラフは、亡くなった患者の遺族にとってはとてもつらいものです。96年のギリギリ辺りでたくさん死んでいる。僕らだけでも奇跡といえます。先ほど話しましたが、「おまえ、CD4(免疫細胞の数、AIDSの病状の進行状況の指標の一つ)なんぼあったんや」「200や」「俺も……」という会話をしてました。96年以前は、CD4の数によっては、あいつはもう2度と戻ることはない、ってのがわかる。こいつと会うのは最後だなって。しかし、まさにCD4が一桁まで下がった奴が生き返るなんてことはあり得ない、という状態だったのが、そういう人たちがプロテアーゼ阻害剤によってよみがえる。奇跡に近い。それがこのグラフから現れています。
そうはいっても、まだ薬の導入について問題があります。うまくいってたんですけれども、例えばテノフォビルという治療薬については格差が出ています。製薬会社としては、あまり市場性の低いものについては、やはり申請したくない。そういうものについて、予備的な措置として治療薬研究班をつくっていたのですが、やはり研究班から供給を受ける事は自己責任であり、あくまで研究です、よほど専門知識のある医師でない限りそんなリスクを負って患者に無償供与はできません。ところが、テノフォビルの場合のように、アメリカの一ベンチャー的企業がいい薬を出していて、日本には認可申請しない、というのがある。アメリカでも医療は変わってきているのですが、これも何とか打開していかないとまずいことです。
○全ての人にエイズ治療薬を:身体障害者認定制度の活用へ
もう一つ、ここで触れたいのは、HIV感染者の医療費負担に関する大きな変化のことです。1997年から「身体障害者認定」という制度が活用されています。
当初厚生省は、この制度を活用したいとは思っていなかったのです。血友病患者のHIVに関する医療費は、血友病関係の医療ということで、裁判の和解以前から無料だったのですが、性感染したHIV感染者には高額の医療負担がありました。和解のときに、血友病の感染者を通じて二次・三次感染した人とかは、血友病ではないので、血友病の医療制度は受けられないので、HIV感染者に関しては医療費を全部無料にしたらどうか、という話を交渉にのせかけたんですが、当時、性感染は自業自得だといった、非常に差別的な定義があり、これが障害になる可能性がありました。そこで、身体障害者認定制度の活用という案が最も現実的なものになったわけです。
和解の中には、厚生大臣が毎年原告団と協議するという約束がありました。二人目の厚生大臣が現首相の小泉さんだったんですね。このとき、厚生省は審議会の場で「HIVについて障害者認定制度を適用するかどうか、専門家の目で判断する、として、患者のヒアリングを行った上で、他の難病や障害とのかねあいがあるので、感染症を障害者認定に導入するのは不適切だという報告書を出す予定だったようです。それで、この委員の中島という人物が、「納税者のお金をAIDS患者治療の医療費に充てるのは金を捨てるようなものだ。タイでは予防に財源を投入しており、感染者は死になさいと言っている」と発言したんです。想像できると思いますが、その場で患者は強く反発しました。多くの抗議にたちまちこの人物は更迭になって、その後、小泉大臣に「中島のような人物を座長にするというのは、厚生省がそういう意識だからではないのか」と追及したところ、「とんでもない、そんなことはない」って。じゃあ障害者認定を認めるのか、と言ったら、「認める!」という小泉大臣のこの一言によって障害者認定が通ったわけです。
その後、エイズ予防法の廃止と感染症予防・医療法の制定、患者・感染者も含めたエイズ予防指針の制定、と続くのですが、ここでは割愛します。日本におけるエイズの黎明期から現代に至るまでを、とくに医療・治療に視点を宛ててお話をしました。医療に関しては、たまたま血友病患者がエイズの最初の患者になったということ、裁判と和解の成立で医療の整備を行っていった結果、行政に対する関係が和解の確認書に基づいたものになった事などにより、結果として、HIV医療に関してはかなり当事者の要求を施策化して打ち出していける体制が今も一応継続しています。
コミュニティを主役に:予防啓発とコミュニティの活性化
長谷川博史氏
○HIVと共に生きて
私の感染がわかったのは、92年1月ぐらいでした。年末の検査の結果をお正月明けに聞いたわけなんです。で、東大医科研病院に受診しました。その年の性感染によるHIV感染が全国で三百数人くらい、その病院には10人いなかったと思います。感染者のほとんどは血友病の人たちでした。
当時、血友病の患者さんとそのご家族の方たちで、病院の中での患者会活動、治療などの学習会をやっていました。そこに性感染をした初めての人間として出ていったのが私だったんです。その当時は、血友病の人たちのことも理解していなかったし、何も知らなかったんですね。でも、そこで自分自身が、「あ、こういう風に生きていってるんだ」と思ったわけです。今、花井さんのお話にあったように、血友病の人たちが96年、97年と医療の体制をつくっていく、その脇で私は、応援して、支援という形で参加するしかなかったし、一緒に活動した時間は少しだったんですが、性感染の私たちが最低限、100%満足できる状況とは言い難いとはいえ、治療に対してアクセスできるという環境を作ってもらって、私たちが安心して治療を受けられることに非常に感謝しています。これは忘れてはいけないことだと思います。
あの和解の時、あのニュースを聞いて、事務所で仕事をしていてもたってもいられなくて、駆けつけたことを覚えています。本の入稿ギリギリで、その日の夜原稿をいれなきゃいけないのに、「編集長どこにいくんですか」といわれながら。実はその時、ゲイ雑誌の編集長をやっておりました。今日、当事者ということでお話しするときに、どういう当事者として話すのかということを考えています。私が当事者というとき、ゲイ・コミュニティのゲイであるということと、PHA(
People Living with HIV/AIDS)であるという、このふたつがあるんです。サンフランシスコのゲイ・コミュニティなどをみていくと、たしかにどんどん感染が広がっていった世代があって、今の50歳前後と、もう少し上くらいです。「ミッシング・ジェネレーション」と言われているんですね。サンフランシスコで非常に大きなゲイ・パレードなどゲイのお祭り、コミュニティの活動はとても活発です。しかし、そこに行くと私たちより上の世代はほとんど見かけない。そう思ったときに、サンフランシスコが一番大変だった時代には、やはり、毎日仲間が死んでいくという状況があったわけです。
○日本のゲイ・コミュニティ=否定的なアイデンティティとコミュニティの脆さ
まず、日本のゲイ・コミュニティについて理解していただく上で、二つのことを話したいと思います。HIV/AIDSというのは、ゲイ、女性、ドラッグユーザー、セックスワーカー、そして青少年など、非難されやすい人たちの病気であるとよく言われます。ヴァルネラビリティ、非難されやすいという脆弱性。ところが、ゲイ・コミュニティにはもう一つの脆弱性があるんじゃないかと思うんですね。たとえば、これはHIVの場合も同じなんですが、自分がゲイであると自覚するよりも前の段階では、ゲイであるということに対して素直に、肯定的に捉えていないということです。ところが、ゲイに対する世間の非難というのは、自分がゲイだと自覚した途端に自分に向かってくるんです。
エイズも同じで、感染者はおそらく、それまでエイズについて何も考えていなくて、「あ、エイズ怖い」と思っていた。10年前、神戸事件、高知事件、松本事件など、差別事件はいろいろあったと思うんですが、そういうマスメディアがつくった世間のルール、スティグマ、差別的な烙印という見方を、自分が感染したとわかったときに、自分自身に向けてしまうんです。自分はそういう存在になってしまったんだと、自分自身に否定的な見方をしてしまうことが起きてきてしまいます。ゲイにもまさしく同じことが言えます。
もう一つの脆さというのは、自分自身がゲイであるということを前向きに捉えられなかったり、ゲイであるということにきちんとアイデンティティ、自覚を持てなかったりということがあるんですね。
だから、日本のゲイに対する抑圧というのは、HIV/AIDSもそうかも知れませんが、非常に裏表がある。よくある話が、あるクラブでの出来事ですね。ゲイの中では、感染していることが打ち明けられる環境にある人も少しずつ増えています。しかし、若い子の中には、そのことの重大さがよくわかっていなかったり、自分たちの人間関係にそれほど強度がない場合があります。ある若い子がDJブースの前で、「俺、HIVだった」相手が「えー、大丈夫だよ、僕たち友達だからさ」ところが、本人がいなくなったとたんに、「ねえねえ、聞いた聞いた?あの子エイズだってー」ていうような。非常に残念なことだけれど、これは別にゲイだけではない。世の中自体がダブルスタンダードです。露骨に解雇などの下手なやり方をすると、ぎゃくに逆手に取れるからいいのですが、「わかった、君をちゃんと守るよ」表面では差別しないといいながら、どんどん退職に追いやっていって、窓際に追いやっちゃって窓から落とす、というような解雇の仕方も実はあります。そういうダブルスタンダードがあるから、表に出てくることがなかなかできない。ゲイの存在自体が目に見えてこないんです。
もう一つ、社会に普及している性情報の問題があります。今の社会には、商品化された性情報はたくさんあるけれども、本来必要なセクシュアリティに関する情報はない。小学校・中学校・高校の段階で、性教育はないんです。その背景には、日本の中に性に対する嫌悪、セックスが嫌いな部分が建前としてあるんじゃないかと思います。
セックスのことをきちんと語らない。セックスを語らないところでは予防の活動はできない。同性愛者と異性愛者のどこが違うかというと、セックスや恋愛の向く方向が違うわけなんですね。同性に向くか、異性に向くか、そこがちがうだけなんです。そうだとすると、セックスのことをちゃんと語らないと、ゲイの存在は見えてこない。
見えてこないこと、語らないこと、語ることが恥ずかしい、卑しいという部分があったら、社会制度、システムに反映することは難しい。そういった構造がゲイ・コミュニティの中に抱え込まれているわけです。当然、自分がゲイ・コミュニティに属しているという認識を持っているゲイはとても少ないんです。私は、ある程度自分がゲイだという認識を持っている人は、日本で全部で100万人くらいだと考えています。しかし、そういう部分が目に見えていない、自分たちがゲイ・コミュニティに属しているという認識を持っていないわけですから、ゲイとして動いていくということはなかなか難しいんです。
同じ日本の中で、異性愛者の文化とゲイの文化の二つがある。しかし、ここでは量という差で力のアンバランスがあるんですね。そういう考えをゲイ自身も取り込んでしまって、なかなか動けない。というような状況がある。ゲイ・コミュニティ自体の結びつきが非常にもろい、そういう、違う意味での脆弱性をゲイ・コミュニティは抱え込んでしまっているのではないかと思います。
○日本のゲイ・コミュニティの歴史
実は、1996年くらいまででアメリカと日本のゲイ・シーンを比較すると、日本のゲイ・シーンの方が成熟していたと思うんです。アメリカでも、以前はゲイの存在はなかなか見えてこない。黒人の公民権運動から、女性解放となってきて、ゲイもだんだん目に見えるようになってきて、ゲイのためのメディアや文化も表に見えてきて成熟した。
ところが日本はダブルスタンダードなので、柔らかい殻の中で動いている分にはいいんです。例えば、本屋に並ばないゲイ雑誌は、1954年くらいからずっと出てきています。1964年の段階で、今のゲイ雑誌の原型ができてきます。出会いのための文通欄があったり、小説、イラストがあります。イラストレーターの中には、日本のメジャーシーンでは有名ではないんだけど、世界中で有名なエロティック・アーティストがすでに登場しています。ブルース・ウェーバーというカメラマンがいます。カルヴァン・クラインの、上半身裸の男性が寄りかかったアンダーウェアの広告がありますが、それを撮ったカメラマンです。このブルース・ウェーバーに影響を与えたメールヌードのカメラマンが、実は70年代くらいに日本から出て、世界を席巻したんです。その程度には日本は成功していた。薄い柔らかい日本の殻の中で。ところが、さっと飛び立たせてはくれなかったんです。
アメリカは差別がきつくて痛かったもんだからがんがん叩いたら割れた。かたい卵だったから。日本でも、私たちゲイが何かの活動をして世の中とつながっていく、異性愛者と共同していく場合には、異文化交流を始めなければならないわけです。ゲイとヘテロセクシュアルのカルチャーの。そういう中で、日本のゲイ・コミュニティの中でも、非常にシビアな問題がある中で、アメリカのゲイ・カルチャーの権利獲得運動と類似した運動が展開されていきます。最初にそこに登場したのが南定四郎さんという、ゲイ雑誌の編集長をされていた方です。彼は日本のゲイ・エイズ・アクティヴィズムの中でも早くから動き、アメリカのゲイ・パレードやエイズ・キャンドル・ライト・メモリアル(注:毎年5月30日に全世界で行われる大きなエイズ・イベント)が日本に取り入れられた。
もう一つ、日本ではゲイ・コミュニティといえるものがなかなか存在していなかった。一つのスタンダード、柔らかい殻の中で、ゲイの産業が集積して発展していたんですね。例えば、私は1972年くらいに東京に出てきましたが、そのときすでに東京の新宿二丁目には、ゲイバーがすでに200件以上あった。セックスクラブもあった。今と比較して、ゲイに行く場所がなかったかというと、産業化されたものとしてはあったわけです。ところが、それがコミュニティという形で一緒に動いていく状況は生まれてこなかった。さっきいった様な状況の中で、自分たちが表に出て自分がゲイであると言う、というコミュニティの共同性が持てなかったわけです。
要するに、会社に行って仕事をして戻ってくると家族がいたり、奥さんがいたりする。東アジアにおける婚姻率の高さには、儒教や家族観の問題があるのではないかと思います。東京にもゲイバーは上野、浅草、新橋にも集まっています。横浜にも50軒くらい、日本中だと100万人くらい、ゲイバーに出入りする人たちはいます。ところが、そこで何かやろうとしたときには、人が集まらない。仲間自体が冷淡です。ほっといてもセックスはそこそこできるし、男もできるし、楽しいならいいじゃん、という見方が主流だったわけです。
でも、実際には自分たちの行きたいように生きられる状況はつくられていなかった。そして、80年代後半にはサンフランシスコの状況なども日本に紹介されていきます。85年に、エイズの一号患者にゲイが認定されたいきさつや、複雑な背景も影響を及ぼしていると思いますが。しかし、なかなか動き出さない。どうしても、ゲイが抑圧されている、解放しなければならない、という運動の中には、ゲイと異性愛、民と官、男と女とか、対抗主義的な発想が強くなる。実際にそういう発想がなければ運動は難しい。しかし、それで始めてみても広がりが持てない。そこは、ゲイ自体がもろい関係しかない、コミュニティを持っていないということに背景があります。
ところが、そこで90年代になるとゲイ・ブームが起こってきます。この時代までは、ゲイとして社会に求められていたのは、ある種のステレオタイプを持っている人で、社会にもそういうゲイのイメージがつくられていた。ところが、この時期になると、等身大のゲイが語りだし、それをメディアが取り上げた。あともう一つ、それまでゲイ産業というのは、遊びの場として認識されていた。自分の本当の生活があって、ゲイの世界は遊びの世界だという。そういうダブルスタンダードから離れて、自分は一つなんだ、社会生活をしている人間であり、同時にたまたまゲイである、同性に性的指向が向くだけなんだ、という考え方が生まれてきたのです。そして、ゲイも単なる「性的な指向」というだけではなくて、ライフスタイルの問題として考えよう、そうすると、自分たちが持っていた日本のゲイのカルチャーってすごいじゃん、という再発見とか、そういう動きも出てきます。
さらには、日常のところで同じゲイとしてのつながりが生まれ始めた。92~93年くらいから、ゲイのコーラスや吹奏楽など、セクシュアリティや性行動とは別の人間的なつながりが生まれ始めた。それが一つの共同性の発見になった、というところがあります。
○コミュニティの中からわき起こる多様なHIV/AIDS予防啓発の試み
そうした中でエイズに関しても新しい動きが出てきます。自分自身をネガティブに思っていたり、主流社会から否定的に捉えられている状況の中で、ただHIVの予防だけで介入していこうとしても、受ける側はなかなか窓口を開いてくれない。そこで、最近はUNAIDS(国連エイズ合同計画)でも、予防介入に関して、セックスに対してポジティブな視点を持つことが重要だということが指針になっているようです。
ここで最近、気になることがあるのですが、最近よくワイドショーなどで、「若い女性がクラミジアにかかる率が高い、クラミジアにかかっているとHIVに感染する可能性も高い」と言われています。若い女性がかかっているということは、若い男性もかかっているし、若い男性が相手をする男性もかかっているということです。ところが、ワイドショーで問題になるのは女性だけです。なぜ、男性は問題にならないのか。それは世の中で、女性はセックスの主体になってはいけない、という認識があるからです。男はセックスの主体でよい。「英雄、色を好む」、「性病は男の勲章」というわけですね。セックスは男のものにされているわけです。なぜ女性がエイズに関して脆弱なグループにさせられているのか、ということを考える必要があります。実際にセックスは「ある」、ところが、教育のシステムの中では「ない」とされている。ダブルスタンダードが男と女に対してもできているわけですね。
こうした状況の中で、ゲイたちは自分たちの共同性を探し始めた、それが90年代だったわけです。
その中から、以前南定四郎さんによって開かれていた東京でのレズビアン・ゲイ・パレードが2000年に復活しました。復活させたのは砂川秀樹さんです。砂川さんは私に、「エイズの予防活動は、対象に属するコミュニティをエンパワーすることなしには絶対にできませんよ」ということを教えてくれた人です。彼は「特定非営利活動法人 ぷれいす東京」の「ゲイ・フレンズ・フォー・エイズ」(
Gay Friends for AIDS)というグループの中で長年活動してきました。
2000年以降、大きく予防のあり方が変わってきたのには、一つには彼らの活動があると思います。1996年、「ゲイ・フレンズ・フォー・エイズ」が「お楽しみ演芸会」というべたべたな名前の催しを主催しました。ちょうどこれが、プロテアーゼ阻害剤の登場と相前後して出てくるわけです。私は、当時ゲイ雑誌の編集長をしていまして、行ってみました。そこで何をやっているかというと、村の学芸会なわけです。コミュニティといっても、地域社会、村なわけですね。それが翌年から「ヴォイス」(
Voice)という少しおしゃれな名前になって、その後毎年行われており、今年も12月にあります。
これは、ゲイだけを対象としています。そういう中でみんなが楽しみながら、「ここにエイズの問題があるよ」と提示していったのです。
ここで大きかったのは、同じゲイだけで集まるということです。「ヴォイス」も500人くらい集めます。ゲイナイトで1,500人くらい集めるクラブイベントもあります。こうしたイベントに出ると、自分と同じセクシャリティの人間がそれだけいるということで、大きな自己肯定感ができる。これは楽しいんだ。自分たちはゲイとして楽しく生きていけるんだ、という部分を獲得できたわけです。
そういう形でさらに、多くのエイズ予防の試みがゲイコミュニティでされていきます。例えば、2000年に「
SWITCH2000」というイベントが大阪で行われました。これは、厚生労働省エイズ疫学研究班のMSMグループ(注:MSMは
Men who have sex with menの略)、これは、以前からこの研究班で、同性愛者のHIV/AIDS予防啓発に力を入れてきた市川誠一氏(神奈川県立衛生短大助教授)と、大阪でエイズの問題に関して何とかしようと声を上げたゲイ産業の人たち、さらに、京都や大阪で個別に活動していた人たちがジョイントして、予防に入っていくなかで行われた活動です。
こうしたものをやると、いろいろな問題が起きます。例えば検査。検査は、自分で、自主的に受けるべきものです。誰かに強制されて受けるんではない。義務感とかプレッシャーをかけて検査を受けさせるのではなくて、もっと楽しい雰囲気の中で、もっと自分を肯定的に、自分の健康を維持するために検査を受けてみようという自主的な働きかけをできないか。これが最初のイベントの趣旨です。ところが、ただ検査をするだけではすまない。陽性の人を医療にどうつなぐか。検査を受けた人たちが、今度はちゃんと安全な方法に行動を変容するような環境をつくることができるか。また、検査を受ける前に、いくら楽しい雰囲気の中だとはいっても、プレッシャーを与えてはいけないわけですから、もし、あなたの意志できたんじゃなくて、ノリできちゃったんなら、帰った方がいいよ、というメッセージも発するわけです。そういう検査体制を、このイベントでつくったわけです。これは3年間トライアルして、まだ七転八倒です。
東京、大阪というのは、大きいですから、ある部分ゲイの匿名性を確保することはできます。ところが、名古屋ぐらいになると、地元の人たちが多い、だから非常にクローズドな場所だったのですが、ある一軒のお店のマスターが、常連をかき集めて、「
Angel Life NAGOYA」という予防啓発団体を立ち上げて、毎月勉強会をしていたんです。そこに名古屋大学の内海眞先生が、毎月の勉強会に手弁当でやってきてくださったという状況があったんです。それで、これだけ勉強会をやっていても広がりがないよ、と思っていたところに、大阪で「
SWITCH2000」があったことで彼らもインスパイアされて、2001年にNLGR、当時はNGR「ナゴヤ・ゲイ・レボリューション」と言っていましたがのちにレズビアンの人たちも一緒に入ってきてNLGRというものを立ち上げました。さらに、そこに内海先生の働きかけで愛知県、名古屋市という行政が入って来るという状況があります。
もう一つ、「アカー」(特定非営利活動法人 動くゲイとレズビアンの会)という、特にゲイの人権問題についてコミュニティの中で信頼を受けているグループがあります。彼らはHIV問題に関して、東京・名古屋・大阪など、ある程度コミュニティのアウトラインが見えているところよりも、さらに小さな地方都市で活動しています。地方都市の場合は、HIVであるどころか、ゲイであることを隠さざるえをえない。最近、エイズはゲイだけの病気ではないと言われるようになっていますので、地方に住んでいる私の友人は、エイズであることは家族にばれてもかまわないが、自分がゲイだってばれたら、俺はこの病院の窓から飛び降りる、とつい去年、言っていました。古い世代の、特に地方の人たちにとっては、それは非常にデリケートな問題なわけです。アカーはそういう地方都市で、「ライフガード」というゲイ・イベントをつくってそこでエイズの予防啓発をしていこうとしているわけですが、自分自身をゲイとして大事に思う気持ちがなければ、ゲイとして動いていく活動も生まれないわけですから、この活動は、エイズ予防啓発というだけでなく、コミュニティ創造という活動になっていくのではないかと思います。
地方都市の場合、非常に狭い地域になりますから、大阪や名古屋のように非当事者の行政とかとつながっていくときには、かなり微妙な問題になってくると思うんですね。
逆に、大阪などでは、検査管理会場にはゲイの当事者が入っています。専門的なドクターとか、専門的なトレーニングを受けたピア・カウンセラーとか、そういうゲイの人たちがボランティアで入っているわけです。ところが、名古屋では全く分けたんです。その中心となっているお店のマスターが、名古屋全域のお店を一軒一軒膝詰めで回って、手紙を書いてお会いして説得して協力をお願いして、まず意見をきいてまわったんですね。
地方都市に関しては、そういう手法が必要になるだろうと思います。博多も同じような感じで、ゲイ出版社がしかけたわけです。そこに私が予防についてやらせてほしいとお願いして、これをきっかけに博多の方で、福岡市セクシュアル・ヘルス対策懇談会が立ち上がり、来年度以降の戦略を立てようということで、ゲイ、学生、女性、NGO、行政、保健所、医療という形で動き始めたわけです。
○コミュニティのきめの細かいニーズを拾っていく
同じゲイの文化といっても、属性においてそれぞれ違う。そこに対してきめ細かにコミュニティのニーズを拾って対応すること、それが非常に大事なんじゃないかと考えます。
まだ東京の話がでてきてないじゃないか、という話があります。東京はもともとかなり先行していまして、ぷれいす東京のゲイ・フレンズ・フォー・エイズ、アカーとか、ゲイを対象としたコミュニティの予防活動は、80年代後半の南定四郎さんの「エイズアクション」に始まって、いろいろあるんです。ところが、ゲイの社会自体、脆さをもっていますから、ゲイだけで何かをするのは難しい。逆に、ゲイでない人、あるいは民間だけでできることにも限界があります。じゃあどうやってつながっていこうかということになります。それで、「MASH東京」(
Men And Sexual Health Tokyo)が1999年に立ち上がりました。
これは大阪でできたMASH大阪(注:
SWITCH2000の実施団体)にインスパイアされた人たちによるものなんですが、東京は状況があまりにも違いすぎる。大きすぎるんです。
今までは、複数のグループで同じことをやっていたり、グループ間の関係がなかなかできていなかった。だから、MASH東京は今までとだぶらないようにやろう、というふうにやっていくと、活動の内容がなかなか見えてこないんですね。
それが今、「レインボーリング」という動きが出始めました。いろんな立場、いろんな人たちが、とにかくセックスの現場に、セックスクラブとかにもコンドームをまいたり、コンドームのイメージをプロモーションして、コンドームに関するメッセージを積極的に伝えていこうというものです。それで、コンドームプロモーションのプロジェクトが、いろんな団体から、各自、個人の立場で入ってきた。今後、研究者や行政の人たちが入ってくる可能性もあるんじゃないか、と思いますが、私ちょっとはずれておりますので、細かい部分についてはわかりません。でも、そういう形で、コミュニティの中の資源、マンパワーをつなげていこうという動きが起こってくるわけです。こうした動きは、自分たちがゲイであること、自分たちの文化、アイデンティティを非常に大事にする中で生まれてきた動きです。そこでは、セックスに対してポジティブになることで、エイズに対して目を向けていくこともできるんじゃないかと思います。
もう一つ、ゲイのコミュニティで独立して何かをやるだけではなく、ゲイでない人たちとの連携を考えるということがあります。クラブイベントの動きをお話すると一番わかりやすいかと思います。「ゲイナイト」は、ゲイだけのクラブイベントです。でも、セクシュアリティで分かれてないイベントがある。それが最近、ゲイミックスっていうイベントがでてきました。これは、ゲイがベースで、めいいっぱい楽しくやらせてもらうけど、女の子も異性愛の人もウェルカムですよ、ざくざく楽しくやっていきましょう、というようなものです。そういう動きが、新宿二丁目というよりも、クラブなどで先に動き出した。例えば、渋谷の「ヤマンバギャル」といわれているあの子たちの目の周りの白いアイラインだとか、彼女らが付けているきらきら光るもの。あの辺のメイクは、実はゲイの中で、ドラッグクイーンという表現形態のメイクにすごい近いんです。渋谷あたりでゲイミックスのパーティが流れてった前後から数年してから彼女たちが動き出した。そこには、ゲイカルチャーの影響はあるだろう、というふうに思います。
それと「JANP+」についてお話しします。ジャンプ・プラス(英語名称:
Japan Network of PHA)。これは、病院やセクシャリティ、感染経路、全ての壁を取り除いて、みなさん一緒に、自立して生活する人間として、必要な情報をシェアしようという集まりです。私は96~7年くらいから、ゲイのHIV感染者の勉強会である「NOGAP」という活動をやっていました。さきほど花井さんが、1996年と97年の、プロテアーゼ阻害剤の登場までたどり着いた人とたどり着かなかった人という話をしましたが、他人にお任せにしてしまう人はどうしても力つきてしまう感じがします。私より古い感染者の人で、CD4がほとんどゼロに近かった人がいます。その人が、プロテアーゼ阻害剤が日本に来る、日本で使えるようになるという情報が来ると聞いて、病院で40度近い熱でうなされながら、なんとか食いついてやる、といっていたんですね。それが今、彼のCD4は700。私よりも数倍あるんですね。大切なことは、患者がいかに自立して、医療に対して積極的になれるかということです。
もう一つは、自分自身のライフスタイルを取り戻すかということです。JANP+では、予防にも一部かもうと思っています。自分の生活を取り戻した人は、セックスも取り戻す。セックスを取り戻すということによって、これまでアンセイファーなセックスをしていた人が、セイファーなセックスに行動を変容させているんですね。NOGAPで一番人気があったのは、セックスパートナーとのコミュニケーションというテーマで、5年くらい前から、60人くらいの人を集める勉強会の内容でした。こういう経験は、やはり予防活動の中にも行かしたい、と思うわけです。
治療に対して積極的な、自立した自分のスタンスを作っていくことが一番大切だと思います。実際、予防活動の中でカムアウトはしていませんが、多くの感染者が、予防活動を担っています。感染者も、社会との関わり合いの中で生きていく以上、自分たちの状況を肯定的に捉えていかなければ、積極的に生きていけない。社会の中には、病院の先生やお役人、その他いろいろな人たちがいますが、中には、他の患者さんなんかに会っちゃダメよ、ろくなことないから、というようなネガティブ・サポート、情報遮断をして、その人の自立や人間性の回復のじゃまをするようなケースもあります。もちろん、最近の患者さんはたくましくて、そういったケースにもめげずどんどん自分で情報にアクセスするように動いてくるようになっています。基本的には、当事者が本来あるべき姿で予防に関与していく、感染者の中でも予防活動というものは必要です。その中で、エンパワーメント、強さ、楽しさ、前向きさといった、みんなが共有するものを大事にしていかないと、予防をコミュニティの中で進めていくことは難しいと思います。
最後に、アジア・アフリカの状況についてですが、今、アジアの途上国ではエイズ治療に一日100円がかかります。実は、APN+(
Asia and Pacific Network of PHA)のメーリングリストに去年から参加しているのですが、APN+の活動家たちですら、一日100円のエイズ治療薬が買えず、インドやインドネシアの代表の方が亡くなるというきびしい状況になっている。こうした中で当事者が動いていけるような環境もつくっていきたい、と考えています。
4.まとめ
「立ち上がる当事者たち」の3つの企画では、HIV/AIDS問題の影響を最も深刻に受けている当事者の状況や運動を中心に、HIV/AIDSの歴史と現状について、南部アフリカ、中国、日本、とたどってみた。
南アフリカについては、アパルトヘイトとそこからの解放という歴史が南アフリカのHIV/AIDSの出発点に存在していたこと、感染率が成人の10~20%という状況においても、AIDSに貼られた死病という烙印が、厳しい差別や偏見、人々のネガティブな行動を引き起こしていること、現在、エイズ治療薬の供給を求める運動の中から、患者・感染者の肯定的なアイデンティティが形成されつつあることが理解できた。
一方、グローバル・エイズ問題がアフリカからアジアへと大きくシフトしつつある中、注目されている中国のエイズ問題については、国家の政治的コミットメントの欠如が、エイズ禍に見舞われた村々を著しく悲惨な状況に陥れていることが理解できた。しかし、その中で細々ながらも中国人自身の手による支援活動が展開され、徐々に、状況が変わってきていること、また、彼らがそこで得た教訓を、将来に向けた経験として蓄積しようとしていることが理解できた。
先進国である日本においては、感染がそれほど大きく拡大していないが、血友病患者やゲイ・コミュニティなど、HIV感染の可能性に特にさらされているコミュニティに対してまず感染が拡大した。そこで生じたのは行政を始めとする、HIV/AIDSの問題を隠蔽しようとする力であった。日本の患者・感染者運動は、一つはこうした力に対抗し、適切な医療と社会保障を獲得しようとする方向性をめざし、もう一つは、自らのアイデンティティを見直し、肯定することによって自らのコミュニティを作り直し、HIV/AIDSと社会のバイアスに対抗して自立的に生きていく方向性を探るものとして形成されてきた。こうした方向性は、日本だけでなく、程度の差こそあれ、他の先進国・途上国ともに共通するものであり、HIV/AIDSへの対策は、こうした患者・感染者の存在や運動との連携・協力なしには有効なものとならないことが、これらの企画によって確認されたと言える。