ODAとは? ODAちょっといい話

「東ティモール便り~国造りの現場から」

(在東ティモール日本大使館 福島秀夫)

第七話 紅炎の燃える果て

東チモール便り
 紅い炎が白壁をなめた後は、邪悪な暗雲が湧くような黒い煤の跡が残ります。そんな焦げ跡が生々しい、ほぼ全焼したスーパーマーケットの焼け跡を私は見ていました。3年前に焦土の騒乱を経験したこの街に来てから、そんな廃墟は至る所で見てきました。だけど数日前の焼き討ちから間もない生々しい傷跡を目の当たりにするのは初めてです。暴力の爪痕の酷さに息を呑みながら、静かな虚しさと寂しさがこみ上げてくるようです。こういうことは独立とともにもう終わりにしようとこの国の人たちは誓ったはずでした。民主主義とは対話であり暴力からは何も生まれないと。どうすれば心に燻る怨嗟の炎を鎮めることができるのでしょうか。「インドネシアも出ていったのに、何でまだ同じチモール人同士で争ってるんだ。」そう言って泣いていた大使館の年輩運転手が哀れです。

 12月4日の首都ディリでの暴動は時間的には1日と短いものでしたが、我々関係者にとっては少なからぬ衝撃でした。元々わずか500人ほどの学生の抗議行動が発端でしたが、これらの群衆は数時間で2000人以上に膨れ上がって暴徒化しました。まだ経験の浅い警官隊の威嚇射撃は暴徒を興奮させるのみで、さらに商店・ホテルの焼き討ち、投石、略奪などが行われました。あろうことか首相の私邸やモスクまで焼かれてしまいました。死者が2人で済んだのは幸運だったかもしれません。一度燃え上がると感情を抑えきれず暴力に走ってしまう人たち。どさくさに紛れ、騒ぎに便乗して持てる者を食い物にする人たち。チモール人にまだまだそういう性根が残されていると分かったのが一番の衝撃と言えるかも知れません。

東チモール便り
 同時になぜこういう事態に至ったのかという根因に思いを馳せざるを得ません。反体制派による現政権に対する政治的な策動が絡んでいるという見方もあります。人々にもいろいろな意味での不満や怒り、閉塞感が腹の底に澱のように溜まっているのでしょうか。学校や病院に行けない不満、職に就けない不満、未来が見えない不満。貧しさが暴力の原因であるといいます。我々ドナーが清く正しく美しく生きろと言うのは奢りでしかありません。しかし少なくとも人々の懊悩にもっと耳を傾ける姿勢、開かれた対話や透明性といった要素がこの国の指導層にはまだ不足しているように思えます。対話なきところに指導力は生まれません。独立を巡る英雄主義は、独裁や国粋主義と紙一重の危うげな政治ゲームに映ります。

 一方、地道ではありますが対話と国民和解のプロセスを着実に積み重ねているチモール人たちもいます。その一つが、本年初頭から活動している「真実和解委員会」です。その名の通り、かつてのインドネシア支配時代、そしてとくに1999年の騒乱の時期に各地で引き起こされた、旧統合派による暴力・破壊事件について、関係者から真相を語ってもらい、対話と謝罪によって加害者と被害者の和解を目指す独立組織です(もちろん殺人、レイプなど重罪は別途訴追されます)。日本政府は、シャナナ・グスマン大統領が進める同委員会の大義に賛同し、本年初頭に100万ドルの支援を表明し、そのうち既に53万ドルを拠出しています。先日、東ティモールを来訪された矢野外務副大臣に同行し、この援助により建設中の委員会本部事務所を視察させてもらいました。

 本部事務所といっても、実はそこは元政治犯収容所でした。かつてインドネシア国軍当局が、チモール人政治犯、つまり独立解放運動支援者を片っ端から独房に押し込み、水責めなどの拷問を繰り返した血塗られた抑圧の象徴です。我々の案内をしてくれたアルベス委員は、ここで1年間独房生活に耐えた人です。91年のサンタクルズ虐殺事件の際に逮捕され、以来7年間政治犯生活を送ってきたとのこと。改築中の元刑務所内の奥に入ると、かつて彼が収監されていた独房がありました。「いつの日かきっと自由になる」と彼が書いた壁の落書きが今でも残っているのを見せてくれました。ここはチモールの人権侵害の牙城だったのです。「こうしたことは2度と繰り返されてはならない。それを忘れないためにも、この建物は、2004年の委員会活動終了後は人権擁護資料センターとして啓発の拠点としたいと思います」とアルベスさんは語りました。毎週のように山村に出かけ、対話と和解促進活動に励む彼の原点は、この塀のなかにあるように思われました。

東チモール便り
 またそんな中で、チモールの若い人たちの未来に光明がさすような嬉しい出来事もありました。日本政府が支援している、東ティモール大学工学部キャンパス復旧プロジェクトが開始され、その起工式が行われたのです。貧しさからの脱却のためには、まず何をおいても人造り。とくに国造りに直接貢献できるような、若い技術者やエンジニアがこの国には決定的に不足しています。これら各層は、かつてはインドネシア人が支配的でしたが、独立を前にその殆どがチモールを出て行ってしまいました。これからの国の発展は、国内唯一の工学部学生たちの腕にかかっています。自分たちの技術と腕で国のインフラを、製品を、そして未来を文字通り造っていくのです。

東チモール便り
 式典会場から辺りを見渡すと、かつての騒乱で焼け跡となった学部ビルと教室棟、学生寮などが夏色の青空の下で無惨な姿を晒しています。日本の援助は、これに無償資金470万ドルを投入し、とくに実験棟など授業の中心となる機能を再生させるもの。またソフト面でも、JICA専門家や青年海外協力隊によりきめ細かな指導を行うため、すでに調査団が準備を進めています。マイア教育大臣からは「チモールの未来を担う若者たちを支援する日本の援助に御礼を言いたい」と挨拶。また私からは、「日本の戦後の灰燼の中からの奇跡の復興は、日本のエンジニアの情熱あってこそ。その気概を諸君も持ってほしい」と激励しました。休講日にもかかわらず多数集まってくれた学生さん達が歌を唱って応えてくれたのが心地よく耳に残りました。

東チモール便り
 半ば廃墟のキャンパスにはあちこちに燃えるような紅の花が咲き乱れています。火焔樹(かえんじゅ)の花です。洋風にはフラムボワイヤンときらびやかな名前ですが、地元民は皆、アイカシと呼びます。毎年クリスマスの頃に咲いて街や村に彩りを添えますが、すでに散り始めた花びらが風に遊び、空をちらちらと舞う火の粉のようです。かつてここにいた旧軍の兵士達はその見事な咲き振りからこれを南洋桜と呼び、日本の最南端戦線から故郷を懐かしんだと聞きます。いずこにあっても桜吹雪は若い人たちの門出に似つかわしいようです。憎しみや怒りの炎ではなく情熱の炎がそこに宿り、花が実を結んでほしいものです。

このページのトップへ戻る
前のページへ戻る次のページへ進む目次へ戻る