(在東ティモール政府代表事務所 福島秀夫)
第二話 赦し合う一票
この2週間ほど、ディリの街には白い歯の光る精悍なヒゲ面の笑顔が写るポスターが至る所に張り巡らされました。独立闘争の英雄、55歳のシャナナ=グスマン氏の選挙ポスターです。4月14日には、東ティモール初の大統領を選ぶ選挙が行われたのです。ポスターには「民主主義と国民の和解、団結を」と彼の信条が書かれています。再婚した豪州人の奥さんと、息子のアレクサンドル君と写った家族バージョンもあります。どのバージョンもディリ市民にはあまねく引っ張りだこで(私も一枚もらって我が事務所内に張りました)、選対に頼まれなくてもそこら中の家で、自ら自宅の壁や塀に貼っています。それに比べて、対立候補であるASDT(社会民主協会)アマラル党首のポスターはよく探してもちっとも見当たりません。かつて75年に宗主国ポルトガルからの一方的独立を宣言した6日間だけの「元大統領」も、もはや過去の人なのかもしれません。こうした選挙キャンペーンの模様からも分かるように、今回の大統領選挙はひとえにシャナナがどれだけの票を得るか、つまりどれだけ決定的な国民の信任を得るか、に関心は集まりました。13日に市内の野外競技場で行われたシャナナのラリーには約1万人の支持者が集結。民族衣装に身を包んだ元ゲリラ司令官は、「過去を振り返って憎み合うのはやめて、団結しよう」と語り、群衆はこれに気勢を上げました。
今回の大統領選挙は、東ティモールが民主国家として門出をするに当たって、大きな意義を持っています。独立前に行われてきた一連の国家制度造りの最終段階という位置づけだからです。昨年8月の憲法制定議会選挙により、88人の比例および地方選挙区における「国民の代表」が選ばれました。その後、9月に初めての東ティモール人のみによる暫定政府が樹立。また議会においては、いろいろな国家運営および開発計画に関する議論とともに、国の根幹たる憲法の策定作業が進められ、審議の上これが3月末に交付されました。そして今般の大統領選挙。東ティモールという新しい国の指導者が選ばれるのです。東ティモールの大統領は、憲法上、もちろん国家元首ですが、米国の大統領のように行政上の強大な権限を与えられているわけではなく、外交防衛以外の殆どの行政権については、行政府が握っています。議会多数党として行政府を掌握する、与党フレティリン(東ティモール独立革命戦線)とシャナナの間では、政治的な緊張関係や衝突が取りざたされてきました。与党指導層とシャナナとの路線対立や感情的対立が絡んでいます。その意味で、今回の選挙は、独立後の東ティモールが真の挙国一致を目指していけるかが問われた選挙でもありました。
ディリの夜明け時は、ジャカルタなどと違って、山裾に近いだけほんのつかの間ヒンヤリとします。毎晩熱帯夜のはずですが、不思議と早朝はそう感じます。投票日である14日の朝、我々事務所員は、白み始めた空の下、市内の第136投票所に向かいました。選挙監視のため東京から来られた水野外務政務官と、内閣府PKO選挙監視団に同行するためです。日本の監視団には、内閣府担当部局のほか、民間から選挙管理の専門家が参加されており、地方まで足を延ばして公正で円滑な選挙の実施を見守っています。投票は朝の7時から午後4時まで行われます。こぎれいに清掃された市内の小学校では、入り口に整理のテープが貼られ、校庭には国連の文民警察が警備に立っています。4つ程の教室が投票所とされており、すでに独立選挙委員会の青いポロシャツを着たスタッフが、票を書き込む台や投票箱を整えています。独立選挙委員会は、選挙管理のためにUNTAETの下で組織された委員会で、選挙監視についてはUNDP(国連開発計画)が各国からの支援の下、現地スタッフを育成、指導しながら運営しています。日本からも選挙運営支援という目的で昨年、約100万ドルのODAが拠出されており、今回の選挙にも役立っています。途上国の開発推進のためには、平和の構築が前提であり、さらには民主主義や、きちんとした国家制度が構築されることが不可欠です。いわゆるガバナンス=良い統治という分野でのODAの役割はまだ歴史が浅いですが、ポスト冷戦構造の下、ますます重要となっています。
選挙委員会スタッフは、先ず最初に投票箱が空であることを選挙立会人や、マスコミに対してその場で見せて確認させます。立会人は各政党から派遣されますが、議会での勢力分布を反映してか、聞いてみると多くが与党関係者でした。それにしても、投票開始時間となってもあまり有権者が集まらず、少し不安になります。どうも市民はほとんど日曜早朝の礼拝に参列しており、教会からしばらく出てこないとのこと。それでも昨年8月の議会選挙の際は、朝からかなりの有権者が押し寄せて混乱が見られたようですが、関係者によると、今回は2回目なので、それほど焦らなくても良いという話が広がっているようです。これも一つの成長かもしれません。とりあえずまずは地元選挙スタッフ自らが投票し、それに続いて我が事務所の運転手達も列に並びます。整然かつ粛々。何ら混乱のない、平和で流れるような投票風景です。
昨年の選挙よりもさらに運営の現地化が進んでいるということで、投票所には国連の国際スタッフはほとんど見られません。自分たちの手作りの選挙で自分たちの指導者を選ぶ。ひとつひとつ市民が票を箱に入れる姿は、国造りの、そして民主主義の原点です。投票を終えた印の青黒いインクを人差し指にたっぷりつけて、市民は明るい表情で投票所を後にします。後の発表によれば、投票率は86%。昨年の議会選挙における90%という驚異的な数字には及びませんが、立派なものです。午後からかなりの有権者が投票に来たようです。今後何年かしたら、日本のように60%とか70%まで落ちて平準化するのかもしれませんが、それ自体を民主主義の成熟と呼ぶべきなのか。やはり今の建国の情熱を忘れないで欲しい、という思いにかられます。
17日の結果発表では、有効票のうち83%の票を得て、シャナナグスマン氏の「圧勝」が報じられました。もっともこの数字については評価が分かれ、国民の9割以上が支持しているカリスマにしては数字が低く、盤石の信任を得たとは言えない、という見方もあります。しかしともあれ、与党の組織的かつ制度的な勢力基盤拡大が着々と進む中で、国民の直接の支持を広範に得た大統領が、国の行く末を見据え、この島の上でふたたび流血と戦火を繰り返さぬよう、善導していく体制はできたと言えるのでしょう。17日の結果発表直後の記者会見に姿を現したシャナナは、キャンペーンの時とは違い静かで柔和だが自信と情熱にあふれた表情で貧困対策などの公約を確認し、「大統領は国民とともにある。国民の側に立って国造りをしていく」と約束しました。その後日、彼の選挙事務所で短時間、直にお話を伺う機会を得ましたが、トレードマークの白い歯の笑顔で迎えてくれたシャナナは、指導者としての風格に満ちていました。深くたばこを吸い込んで一言、「過去は振り返らない。かさぶたをはがすより、大事なのは未来だ。」四半世紀にわたる抑圧を受けたあげく、同じ住民同士が憎しみ合い、殺し合うという最悪のトラウマを引きずっている東ティモール。敬虔なクリスチャンの多い当地住民は「汝の隣人を赦せ」という聖書の教えを知っています。かつて野山を駆けめぐった勇敢な指導者は、住民の心の赦しを求めた新たな斗いを導き、時間はかかるでしょうが、これに必ずうち克つだろうと信じます。