ODAとは? ODAちょっといい話

「東ティモール便り~国造りの現場から」

(在東ティモール政府代表事務所 福島秀夫)

第一話 雨あがりに咲く花

 4月に入ったディリはまだ夕暮れ時にまとまった夕立が降ることがあり、長かった雨期の名残を感じさせます。後背地が少ない首都のすぐ間近に迫った中級の山々はまだ緑のみずみずしさを残していますが、少しずつ赤茶けた山肌が広がっているようにも見えます。大洋州とアジアの狭間にあって、季節感の乏しいチモール島においても、こうしたわずかな自然の移ろいが感じられることがあります。そんな緩やかな時の流れの中で、ここではやや似つかわしくないほど急ピッチで槌音が街中に響いています。あと一ヶ月半で東ティモールは独立を迎えます。今世紀最初の独立国となるわけです。表玄関であるコモロ空港は今、独立式典に向けてVIP棟を改修中。空港からの道路や、ロータリーも化粧直しをしています。また、中央市場跡には、豪州政府が万博会場を建設しており、式典期間中の万博開催に向けて準備が進められています。もちろん5月20日の独立式典の会場となる、空港近くのタシトル湖(かつてローマ法王が訪問、滞在したとされる)の敷地も整地作業が行われています。

 一方でディリの街には依然として、あちこちに落書きだらけの廃墟や焼き討ちの跡が無惨な姿をさらしています。99年の独立を決める住民投票の後に全国各地で起こった、暴動の生々しい傷跡を示すものです。建物や道路を直すには、お金と時間がかかります。日本もこれまで緊急無償協力を行い、道路、水道、港湾など重要なインフラの復旧に力を貸してきました。しかし同様に大事なのは、心の傷を治し、国民が一つになること。独立という目標に向かって、一丸となって国造りを進めることです。人口わずか80万人の四国ほどの小国なのに、これがなかなか難しい。76年のインドネシアによる併合とそれ以来の独立闘争の重い歴史が国民各層に複雑な影を落としています。国際社会の全面支援の下での国造りという、今世紀初の壮大な実験を目の当たりにして、その難しさと機微とをあらためて実感します。

 私の着任した3月22日には先般議会で採択された、東ティモール国憲法の署名式が議会で行われ、私も空港から直接、式典に駆けつけました。外国政府の支援により美しく改修された国会議事堂の中には、13県それぞれの模様が綴り織られたタイスという当地特産織物がずらりと飾られ、目を奪います。ここはまさに東ティモールにおいて歩み始めた民主主義と、国民団結の牙城です。しかし各党からの代表演説が始まると、議場は徐々に騒然となります。野党陣営は、彼らが今回の憲法案の内容が完全ではないと考えている旨、公然と主張し始めます。最大与党であるフレティリン(東ティモール独立革命戦線)が議会での多数を恃んで、与党に有利な憲法案としたことに不満がくすぶっています。一方で、独立の英雄でありカリスマ的指導者である、シャナナ=グスマン大統領候補と、与党勢力との政治的確執も深まっています。独立の精神的支柱である、ノーベル平和賞受賞者のベロ司教も、この式典には欠席しました。国内政局は流動的であり、独立に向けて挙国一致体制を組もうという求心力に乏しいところが心配されます。

海上自衛隊
 ディリの街は至る所、制服の人だらけです。レストランに行ってもスーパーに行っても。その多くは、国連PKFの兵士と、国連文民警察の警官です。なかには東ティモール自前の警察官もときどき見られますが、まだ制服に着られているようでいかにも新入りお巡りさんといった感じです。この制服軍団に、最近アジア系がぐんと増えました。日本の自衛隊です。3月末までに約半数が到着し、4月半ばには残りが来て、総勢680名余の当地PKFにおける一大勢力となります。自衛隊としては初の婦人自衛官も7名参加することとなっています。当面、前任のパキスタン部隊やバングラデシュ部隊が現宿舎から移動しないので、天幕生活をしています。宿営地におじゃましましたが、かなり住居に工夫しているものの、やはりキャンプ生活だけに狭さや暑さなど相当大変ではないかとお見受けしました。最初はまず荒れ地の草刈から始めたとのこと。その際は、近所の住民が1日3ドルで大勢手伝ってくれたようです。子供達が行水をのぞきに来たり(?)、サッカーの試合をしたり、もう草の根交流を始めておられる様子。東ティモールの人々は、日本の施設部隊が道路や橋を直しに来てくれたことを喜んでいます。日本の制服組が以前この島に立ったのは、半世紀も前のことですが、今は新しい国造りにふさわしい友情が育ちつつあります。

 東ティモールの一人あたりGNPは約300ドル。これは最貧国に近い水準です。もともとコーヒー、バナナなど農業くらいしか見るべき産業はなく、加えて独立闘争の過程で国土は荒れ、復興開発にはまだまだ資金と時間がかかります。日本はこれまで、緊急的な復旧支援を含め、インフラ構築、農業、人材育成の3つの分野を柱にして支援を進めてきました。現在、世銀と東ティモール政府が共同作業をして、来年度以降のこの国の中期的な国家開発計画、つまりマスタープランを策定しています。これはまさに国造りの全体像策定とも言える興味深い作業ですが、ここでも、東ティモール政府がどの程度現実的な開発計画を建て、これにどの程度、主要ドナーが支援を行うかが鍵となります。この国は、独立後も、国際社会からの相応の支援なくしてはテイクオフできないことは明白です。憲法、行政府、議会など国家制度作りは、独立までの短期間でなんとか体裁を整えたに過ぎず、法律にせよシステムにせよ、スカスカに見えます。国連が手を離したとたんにぱたんと倒れそうな部分が幾つも見受けられます。きめ細かくかつ地道な国際社会の支援が必須と思われます。ジャーナリズムは熱しやすく冷めやすいですが、国と国とのつきあいはそうはいきません。

 この国には、99年の混乱以降、多くのNGOが入り、保健医療、教育、農村開発など住民生活の中にまで入り込み、きめ細かいニーズを拾いながら国造りの一端を担っています。緊急復旧支援活動が落ち着いた今、すでに撤退した緊急支援NGOもありますが、現在でも、2けた近い日本のNGOが各地で活動を展開しています。そのうちの一つ、保健NGOであるシェア(国際保健協力市民の会)の活動を見せてもらいに行きました。ちょうど日本の財務省から経協視察団が来られたので、同行した形です。

 首都ディリを4日の朝早く出発。潮の引いた美しい遠浅の海を横目に、海岸道路をしばらく西に走り、途中から山道に別れます。すぐに道はくねくねと九十九折りを始め、4輪駆動車は低いうなり声をあげます。この道はディリ県から隣のエルメラ県に抜ける幹線道路ですが道幅は狭く、ときどき上から車線をはみ出して地元民の車が降ってきます。かつてアジア開発銀行による補修がなされ、かなりきれいになっていますが、ところどころ雨期を経て崩れかけているところが見られます。全体の予算が限られているので、日本のように完璧に工事はできません。しかしあちこちで地元住民が草刈や側溝の掃除に汗を流しています。自分たちの道路は自分たちでできるだけ維持管理するように、その技術も含めて指導している由。自立に向けた援助のあり方だと思いました。

保健所
 2時間も走ると、周りはすっかり山の中。チモール島は南海の島ですが、実は山国であると知らされます。10m以上もある背の高い鬱蒼とした原生林の隙間を木漏れ陽が揺れます。蝉しぐれ(?)の中を抜けて高原の村に到着。エルメラ郡の中心であるエルメラ村です。下界より涼しいが、より強い直射日光が目に刺さります。広くもない目抜き通りのどんづまりに村のシンボルの教会と保健所が建っていました。笑顔で迎えてくれた日本人が2人。NGOシェアの高塚代表と野々口さんです。シェアはこの保健所を拠点として、いわゆるプライマリ=ヘルスケア、つまり初期段階の保健サービス活動を行っています。これには病気の予防や、健康促進のための広報活動なども含まれています。つまり、重い病気になってから手当するより、まずならないように指導するということ。これはなぜかというと医者や看護婦、保健所や病院が絶対的に不足しているためです。人口9万人のエルメラ県で、正規の医者はわずか2人しかおらず、保健所も一桁しかない。カバーできない山奥の地域は週一回のバイク診療で薬を配るそうです。「保健省が全国で保健水準均一化を図っており、予算を低い地方に合わされてしまう。インフラ事業の方が予算が潤沢だが、インフラばかりできても病人が死んでは何にもならない」と代表の悩みは深いようです。JICAは開発福祉支援事業の一環として、救急車購入などを通じシェアの活動を支援しています。日本のODAが毛細血管のように農村に入り込んでいます。

 保健所の中の活動を見学させてもらいました。午前中の早い時間でしたが、狭い入り口にまで若い女性達が溢れています。子連れの人も多いようです。野々口さんによれば、ちょうど妊婦検診の日である由。人なつこい子供が笑顔で写真をとらせてくれます。そこで主に対応にあたっているのは、地元の看護婦さん。東ティモールでは、高卒レベルの看護婦さんがほとんどです。医者不足から、保健所レベルでは、彼らの労力に頼らなければならないのが現実ですが、知識や技術的な問題が大きい。かといって、人口80万人の国に医学部はすぐには作れない。せめて短大卒レベルの看護士を養成できるよう、人造りを保健省に提案していると代表はいいます。抑圧への闘争にエネルギーを費消してきたこの国の最大の課題は、海外亡命組の現指導層の次世代を担っていく、若い有能な人材作りです。

エルメラ協会
 保健所を視察して外に出ると、すぐ目の前に、まぶしい山の青い空を背景に、白壁のエルメラ教会が建っていました。山肌に沿うように一段高いところに建てられた教会は、エルメラの村全体を見渡して人々に加護を与えているようです。教会の前には、花と蝋燭でこぎれいに飾られたお墓があります。郷土の、そして東ティモールの英雄として慕われる、ヒラリオ神父が眠るお墓です。99年のスアイでの大暴動の際、住民と教会を守るため、神父は身を挺して民兵に虐殺されました。彼の郷土であるエルメラに亡骸は移され、先週の復活祭においても彼を慕う人々の献花が絶えなかったといいます。白いコスモスのような花が咲き乱れる中で、自由と和解を夢見て若い命を絶たれた神父は、保健所での村人の営みと、そして独立に向けたこの国の人々の喜びを静かに見守っているようでした。

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