1 情勢認識
冷戦終焉(えん)以降の国際情勢を俯瞰(ふかん)すると、現在、国際社会は再び歴史の大きな転換点にあるといえる。冷戦後の一定期間、安定的な国際秩序が世界に拡大した。圧倒的な国力を有する米国と、日本を含む先進民主主義国が自由、民主主義、基本的人権の尊重、法の支配などの価値や原則に基づく国際秩序の維持・発展をリードし、国際関係の公平性、透明性、予見可能性を高めようという国際協調の潮流が強まった。また、こうした国際秩序を前提として、経済のグローバル化と相互依存が進み、開発途上国を含む国際社会に一定の安定と経済成長をもたらした。
グローバル化により、国家間の格差が全体としては縮まった一方で、後発開発途上国(LDC)諸国などその恩恵を十分に受けられていない国もある。また、先進国を中心に、国内の格差がむしろ拡大し、それが政治・社会的な緊張と分断を招き、民主的政治体制の不安定化を招く事例も出てきている。加えて、前述の国際秩序の下で発展した途上国・新興国の台頭により、近年、国際社会の多様化が進んでいる。「グローバル・サウス」とも呼ばれるこれら諸国の一部は、この変化を自覚し、国力に見合うより大きな影響力を求め、発言力を強めている。
さらに、一部の国家は、急速かつ不透明な軍事力の強化を進め、独自の歴史観に基づき既存の国際秩序に対する挑戦的姿勢と自己主張を強めているほか、経済的な依存関係を自らの政治的目的の実現のために「武器化」するといった動向も見せている。また、安全保障の裾野は半導体や重要鉱物などのサプライチェーンの強靱(じん)性確保、重要・新興技術の育成と保護、サイバーセキュリティ、偽情報対策などにまで広がりを見せている。こうしたパワーバランスと安全保障環境の変化を背景に、国家間競争は激しさと複雑さを増している。
翻って、国際社会全体を見渡すと、気候変動、環境、感染症、核軍縮・不拡散、テロ・国際組織犯罪といった地球規模課題への対処は引き続き極めて重要な課題である。近年、社会の情報化・デジタル化により、こうした課題が世界中で可視化され、その認識が広く広まったものの、これらはどのような大国でも一国のみでは解決できる問題ではなく、国際社会の協調がかつてないほど必要となっている。また、冷戦後の世界で進んだ経済のグローバル化と相互依存は国家間競争の中でも依然として強く存在しており、完全なデカップリング(分離)が可能な状況にはない。このように、国際関係は、対立や競争と協力の様相が複雑に絡み合う状況となっている。
このような中、2022年2月、ロシアがウクライナ侵略を開始し、ポスト冷戦期の平和と安定、繁栄を支えた国際秩序は、根幹から揺るがされた。さらに、2023年には10月に発生したハマスなどによるイスラエルに対するテロ攻撃以降、イスラエル・パレスチナをめぐる情勢が悪化し、国際社会の対立構造はより複雑化している。紛争の継続によってより深刻化する人道危機を含め、国際社会が喫緊の対応を迫られている危機に対し、国連が本来期待される機能を十分に果たしているとは言い難く、グローバル・サウスを含む一部の国々からは、既存のグローバル・ガバナンス1の在り方などに対する不信感が募っているとの指摘もある。
国際関係が複雑に絡み合う今日、欧州と中東の二つの地域で生じた紛争は、それ自体のみならず、サイバー攻撃や偽情報拡散などの新たな脅威を顕在化させ、地球規模課題の解決に向けた国際協力を阻害し、日本を含む世界各地域の安定と繁栄に影響をもたらす問題となっている。このような状況において、2024年には世界各地で重要な選挙が控えており、各国の内政と国際関係が相互に影響を及ぼすという観点からも国際情勢は重要な局面を迎える。
以上を踏まえた上で、国際社会が直面する主要課題について述べていくこととしたい。
(1)法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序に対する挑戦
歴史的に見て世界の安定にとり重要な欧州、中東、東アジアの三つの地域のうち二つで戦火が上がっている現状に鑑みれば、東アジアを含むインド太平洋地域の安定は未(いま)だかつてなく重要である。
ロシアは、2022年2月以来、ウクライナ侵略を継続している。国連安全保障理事会(以下「安保理」という。)の常任理事国が、主権・領土一体性、武力行使の一般的禁止といった国連憲章の原則をあからさまな形で踏みにじる行為は、国際社会が長きにわたる懸命な努力と多くの犠牲の上に築き上げてきた既存の国際秩序の根幹を揺るがす暴挙であり、国際社会はこれを決して許してはならない。また、ロシアはウクライナに対し核兵器による威嚇を繰り返しているが、ロシアが行っているような核兵器による威嚇、ましてやその使用はあってはならず、国際社会は断固として拒否する必要がある。
2023年、日本が主催したG7広島サミットでは、ゼレンスキー・ウクライナ大統領も交え、厳しい対露制裁と強力なウクライナ支援を継続していくことを確認するとともに、ロシア軍の撤退なくして平和の実現はあり得ないことを強調し、ウクライナに平和をもたらすため、あらゆる努力を行うことを確認した。また、国際社会に向けて、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序を維持・強化し、平和と繁栄を守り抜く決意や、「核兵器のない世界」の実現に向けた決意を発信した。国際的にはウクライナへの支援疲れが指摘され、中東情勢の悪化も相まってウクライナ情勢への相対的な関心低下を指摘する向きもあるが、ロシア軍の完全かつ無条件の撤退を前提とした、ウクライナにおける公正かつ永続的な平和の実現は、国際社会における法の支配を守り抜く上で不可欠である。
国際関係が複雑に絡み合う現代の国際社会においては、ロシアによるウクライナ侵略と東アジアにおける力による一方的な現状変更の試みは、地理的に隔絶された別個の事象ではない。欧州・大西洋とインド太平洋の安全保障は不可分であり、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序の維持・強化に向けて、欧州諸国、欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)などを含む幅広い同志国との連携が重要となる。
現実に、日本周辺を含む東アジアにおいては、北朝鮮が大陸間弾道ミサイル(ICBM)級弾道ミサイルなどの発射を含め核・ミサイル開発を進展させている。また中国は、尖閣諸島周辺を含む東シナ海や南シナ海における力による一方的な現状変更の試みや、日本周辺での一連の軍事活動を継続・強化しており、日本周辺の安全保障環境は戦後最も厳しく複雑な状況にある。台湾海峡の平和と安定も重要である。G7広島サミットでは、中国にG7共通の懸念を伝え、国際社会の責任ある一員として行動を求めつつ、気候変動などのグローバルな課題や共通の関心分野については中国と協働し、対話を通じて建設的かつ安定的な関係を構築することが重要であるという点で一致した。
このような中、日中間では、11月に行われた日中首脳会談において、「戦略的互恵関係」を包括的に推進することを再確認し、「建設的かつ安定的な日中関係」の構築という大きな方向性を確認した。インド太平洋の安定においては、基本的価値を共有する同志国であるオーストラリアやインド、韓国、東南アジア諸国連合(ASEAN)、太平洋島嶼(しょ)国などとの連携の重要性も増している。
(2)パワーバランスの変化がグローバル・ガバナンスに突きつける課題
ポスト冷戦期を通じて発展した安定的な国際秩序の下で、多くの開発途上国が経済発展を遂げたことにより、国際社会は歴史的なパワーバランスの変化を目の当たりにしている。近年、世界経済の規模における途上国・新興国のシェアが急速に増し、2023年にはインドの国内総生産(GDP)が英国を抜いて世界第5位になるなど、象徴的な変化が現れている。
グローバル・サウスとも呼ばれる途上国・新興国は、この変化に自覚を強めており、経済のみならず外交安全保障の領域において、存在感を強める傾向にある。2023年には、G20議長国のインドが「グローバル・サウスの声サミット」を主催し、南アフリカ議長下のBRICS2首脳会合ではBRICS加盟国の拡大が発表されるなど、グローバル・サウスの結束を高める動きも見られた。
これら諸国の地政学的立場、経済情勢などは国ごとに様々であり、G20にも名前を連ねる新興国がある一方、貧困、紛争、テロ・国際組織犯罪、自然災害、気候変動などの諸課題に苦しむ脆(ぜい)弱性を抱える国も存在する。各国の利害や思惑は多様である。このことは近年、特にロシアによるウクライナ侵略への対応をめぐって、一部の国々による国連総会決議での投票態度や、対露制裁への消極的な態度などに表れている。「グローバル・サウス」と一括(くく)りに捉えることは必ずしも適切ではなく、これら諸国が直面する様々なニーズに応じてきめ細かに対応することが重要である。
国際社会の価値観が多様化し、地政学的な国家間競争が激化する中、国連は試練の時にある。国際社会の平和と安全に主要な責任を有する安保理は、常任理事国の拒否権行使により、ウクライナ情勢やイスラエル・パレスチナ情勢に対し必ずしも有効に機能しているとは言えず、安保理改革を含む国連の機能強化を求める声が高まっている。総会は様々な努力を重ねているが、イスラエル・パレスチナ情勢の悪化以降は、対立構造が更に複雑化しているとの見方もある。
国連を中心とする多国間枠組みが困難に直面する中、G7、日米豪印、日米韓といった同盟国・同志国などの連携の重要性は相対的に増している。特にG7はロシアによるウクライナ侵略開始以降、幅広いウクライナ支援と厳しい対露制裁を継続的に実施してきている。また、G7広島サミットでは、グローバル・サウスを含むG7を超えた国際的なパートナーへの関与の強化を打ち出し、多くのグローバル・サウス諸国も参加するG20にその成果をつなげるよう取り組んできた。国際社会が一つの価値観や主義に収れんすることが困難となる中、価値観や利害の対立を乗り越える包摂的なアプローチと、多様な国との間で相手が真に必要とする協力を模索するきめ細かな外交姿勢が求められている。
(3)経済のグローバル化と相互依存の継続がもたらす影響
このような中にあっても、ポスト冷戦期に発展した世界経済のネットワークは引き続き国際社会の共通基盤として成長を支え、新興国の経済発展や技術革新、人的交流の増加などを背景に国際社会の相互依存は一層深まっている。
とりわけ、近年、新型コロナウイルス感染症やロシアによるウクライナ侵略により、食料・エネルギー不足などが最も脆弱な国々を中心に世界中を直撃し、世界のサプライチェーンが持つ脆弱性が顕在化した。これに加え、一部の国が、経済的依存関係や自国の強大な市場を利用した脅威を通じて自国の利益や勢力拡大を試みる向きもある。このことは、もはや完全なデカップリング(分離)が不可能な時代に、経済のグローバル化と相互依存が、成長や繁栄というプラスの面のみならず、安全保障上の脅威をももたらし得ることを示している。知的財産や機微技術の窃取、他国の債務の持続可能性を無視した開発金融などの課題も指摘されており、安全保障の裾野は経済や重要・新興技術にまで拡大している。
このような時代の要請を踏まえて、G7広島サミットでは、G7サミットの議題としては初めて経済安全保障についての独立したセッションを設けた。この中で、サプライチェーンや基幹インフラの強靱化、非市場的政策及び慣行や経済的威圧への対応の強化、重要・新興技術の適切な管理を含め、結束して対応していくことを確認した。
経済的威圧や不公正な貿易慣行に対抗し、自由で公正な国際経済秩序の拡大を目指すため、世界貿易機関(WTO)を中核とする多角的貿易体制の維持・強化や、時代に即した新たなルール作りもますます重要になっている。また、社会・環境の持続可能性と経済の連結、一体化を統合的に目指すことも時代の要請であり、経済成長を目指しながら、持続可能な開発目標(SDGs)の達成も念頭に、環境や人権、ジェンダー平等といった取組を進めることが求められている。こうした地球規模の課題に対応するため、グローバル・サウス諸国を中心に世界銀行を始めとする国際開発金融機関(MDBs)3の改革を求める声も上がっている。
(4)地球規模課題の複雑化と科学技術がもたらす新しい課題
気候変動や環境汚染、感染症を含む国際保健課題、貧困など、人類を共通に脅かす地球規模課題は山積している。特に、近年激甚化・頻発化している豪雨・洪水や干ばつ・山火事などの極端な気象現象や自然災害に見られるように、気候変動による影響の深刻さは一層強く認識され、また、ロシアによるウクライナ侵略なども背景に、食料・エネルギー不足、国内避難民を含む難民の増加、人道危機などの更なる危機が生み出され、深刻化している。2023年、国際社会はSDGs達成年限の中間年を迎えたが、国際社会の分断と対立が深まる中、SDGs達成に向けた国際協力は大きな困難に直面している。
このように国際社会が複合的な危機に直面する中、世界を分断・対立ではなく、協調に導くため、人間の命、尊厳が最も重要であるという、誰もが疑いようのない、人類共通の原点として、「人間の尊厳」に改めて焦点が当たっている。また、ウクライナや中東を始めとする武力衝突においては、特に女性・女児に深刻な被害を及ぼしている。女性・女児の保護や救済に取り組みつつ、女性自身が指導的な立場に立って紛争の予防や復興・平和構築に参画することで、より持続可能な平和に近づくことができるという考え方である「女性・平和・安全保障(WPS:Women, Peace and Security)」の視点も改めて重視されている。
科学技術の進展に目を向ければ、第5世代移動通信システム(5G)、モノのインターネット(IoT)、量子技術などの技術革新は、社会や日常生活に本質的かつ不可逆的な変化をもたらし、SNSの発達により地理的に離れた場所が情報によって瞬時につながる時代が到来した。デジタル化・情報化により人類の生活の利便性が向上し、国境を越えたコミュニケーションが容易になるとともに、気候変動を始めとする地球規模課題は一層可視化された。特に、近年急速に発達する人工知能(AI)には、人類の社会をより良い方向に変革する機会がある一方で、特に生成AIを含む高度なAIシステムについて、サイバー攻撃、偽情報の拡散を含む情報操作といった安全上のリスクが指摘されている。このようなテクノロジーの進歩が国家の競争力にも直結し、軍民両用技術として軍事力を強化する動きにもつながっているほか、SNSを通じた確証バイアス4の形成などにより、正しい情報と健全な議論による国民世論の形成が困難となることで、民主主義そのものが試練に晒(さら)されている。
このような背景の下、G7広島サミットでは、生成AIの国際ガバナンスを議論するための「広島AIプロセス」を立ち上げ、12月にはAIについて世界で初めて関係者が遵守すべきルールを包括的に定めた「広島AIプロセス包括的枠組み」に合意した。また、11月には英国でAI安全性サミットが開催され、AIの安全性評価に関する国際協力などにつき議論が進められた。
今やグローバリゼーションと相互依存の進展のみによって国際社会の平和と発展は実現されないということは、長期化するロシアによるウクライナ侵略やイスラエル・パレスチナ情勢の急激な悪化を見ても明らかである。しかし同時に、人類共通の地球規模課題の克服には、国境を越えた国際協力や科学技術・イノベーションの積極的な活用が不可欠である。国際社会は価値観や利害の違いを乗り越え、民間企業や市民社会、若年層を含む幅広いステークホルダー(関係者)との連携も重視しながら、テクノロジーがもたらすリスクに適切に対処しつつ、国際協力を進める必要がある。
1 グローバル・ガバナンス:国内のように上位の統治機構が存在しない国際社会において、国家間にまたがる課題への対応に予見可能性や安定性、秩序を持たせるための機関、政策、規範、手続、イニシアティブの総体
2 BRICS:ブラジル、ロシア、インド、中国及び南アフリカを指す用語。なお、8月の首脳会合では、アルゼンチン、エジプト、エチオピア、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)の新規加盟招待を発表した(アルゼンチンはその後の政権交代により加盟申請を取り下げた。)。2024年1月には、アルゼンチンを除く5か国が加盟したことを、2024年議長国であるロシアが発表したが、その後、サウジアラビア政府がこれを否定する発言も見られる。
3 MDBs:Multilateral Development Banks
4 確証バイアス:ある仮説を検証する際に、多くの情報の中からその仮説を支持する情報を優先的に選択し、仮説を否定する情報を低く評価あるいは無視してしまう傾向のこと(出典:時事用語辞典)