2008年5月
Bună ziua!(ブナ・ズィウア)=こんにちは!
7月になると一面にヒマワリが咲き乱れる。
雨上がりの一コマ
近代的なビルや看板が立ち並び、今日では先進ヨーロッパ諸国にひけをとらない発展を遂げたルーマニア。2007年にはEUにも加盟しました。しかし、飛林(とびばやし)さんが語学研修に向かった2000年頃は、1989年の社会主義体制崩壊時に壊された建物や看板などがそのまま残っている状況でした。
そもそも、旅行や留学を通じ、外国人との付き合いに慣れ親しんでいた飛林さんが外務省に入ろうと考えたのは学生時代です。
「“外交官はジェネラリスト”という言葉を偶然見つけてから気になって仕方ありませんでした。それに大好きなヨーロッパに関係する仕事もできると思い、入省試験を受けたんです。」
専門語学を選択する際は、第1志望から第5志望までヨーロッパの言語で埋めました。軽い気持ちで第5志望にルーマニア語を入れたところ、見事(?)決まってしまいます。
「専門がルーマニア語、という通知を見たとき “まさか…”と思いました。僕の中でルーマニアは“暗い”というイメージばかりが膨らんで落ち込みましたね。今でこそ大好きな国ですが。」
チプリアン・ポルンベスク(バイオリニスト)の銅像の前で
あの「ドラキュラ公」が実際に居城とした宮殿跡
こうして専門語学がルーマニア語に決定した飛林さん。研修場所を選ぶにあたり、先輩達は首都のブカレストを選んできましたが、飛林さんは首都から400キロ北に位置するモルドバ地方の町ヤシを選びます。ルーマニアで最古の大学がある町ですが、選んだ理由とは…?
「仮に在ルーマニア大使館で勤務になったとき、“こんなところにいられない”と思わないよう、ブカレストよりもっと田舎で住み慣れていれば、“ブカレストって住みやすい!”と心の準備ができるかなと思ったんです(笑)。」
当時のルーマニアは、外で食事をする店がほとんどなく、またお湯の出る時間も限られていて、住むには大変な苦労でした。そう思ったからこそ、あえて首都のブカレストでなく、ヤシを選んだのです。しかし「住めば都」という言葉があるように、歴史的な街並みの美しさ、そして何より、人の温かさ、素朴さを感じるルーマニアに、飛林さんは魅力を覚えていきました。
ルーマニア語の文法は、中・東欧の言葉の中でも相当に難しいと言われ、飛林さんも、文法には本当に悩まされたといいます。「ルーマニア人でも文法的に正しくない人がいっぱいいるから大丈夫!」と、現地の人に慰められたことも一度や二度ではなかったそうです。しかし、苦労して身に付けたルーマニア語で、現地の人々との会話が弾むようになるにつれ、ルーマニアでの生活に溶け込んでいくのを肌で感じました。
ちなみに、ルーマニア語はラテン語系なのでイタリア語の発音に似ていますが、実際に飛林さんのルーマニア語を聞いてみると、日本の東北弁のような印象も受けます。「寒い地方特有の、口を大きく開けずに発音をする」ことが影響しているかも、と思いました。
コリンダ。
クリスマスや正月に踊るルーマニアの民族舞踊
ピアッツァ(市場)のおばさん。
季節には山盛りのサクランボが並ぶ
ルーマニアには美しい自然をはじめ、世界遺産などに登録されている数々の古城や修道院など、歴史的価値のある建造物も多く残されています。
飛林さんがこれらを車で巡っていると、よくヒッチハイクに遭遇したそうです。ルーマニアでは、ヒッチハイクはわりと多いのです。
「それまでも何度か人を乗せたことはありましたが、強烈だったのが1つあります。踏切で列車通過のために止まっていたとき、突然、荷物を抱えた年配の女性がドアをバンと開けて僕の助手席に乗ってきました。そして自分の車のように何事もなく座りました。そして手慣れた手つきでシートベルトをつけ、早く行けって指図するんです(笑)。一連の行動があまりにも自然すぎて、降りてくれとも言えず、彼女の言われるままに走りましたよ(笑)。運転している人が外国人だろうが、ヒッチハイクには関係ないんだなぁと思いました。」
さて研修が終わり、ルーマニア語の専門家として在ルーマニア大使館に赴任、いよいよ通訳業務も行うことになります。
「はじめての通訳は、本当に緊張しっぱなし(汗)。先輩からは“とりあえず黙らないこと”とアドバイスされました。結局のところ、数をこなして自分で体得していくのが一番上達しましたね。」
通訳としての悩みのひとつは、日本のことわざや、たとえ話だったといいます。
「日本の政府要人の会話にいつ出てくるか分からない。とっさにうまく訳すのは大変でした。例えば『同じ釜の飯を食った仲』という日本語があります。もちろん、ルーマニア語にこれに相当することわざはないわけですね。僕はこれを『同じかまどで焼いたパンを一緒に食べた仲』と直訳したんです。まあ、あちら側も納得した顔をしていたので、大丈夫だったと信じていますけれど…。」
町の外では今でも普通に馬車が道を通ります。
イースター・エッグ
5,500人の外務省員の中で、ルーマニア語の専門職員は現在15名。人数が少ない分、大統領や首相など要人の通訳を行う頻度も多くなります。
「2007年2月のタリチャーヌ首相夫妻訪日の際は、夫人と皇后陛下の通訳を務める機会に恵まれました。ルーマニア側の要人や政府の人たちに会う機会が多いと顔を覚えられ、少しずつ気心も知れ、信頼も厚くなります。ルーマニア語をやっていて良かったと思うことの1つですね。」
Asta e (ste).アスタ・イェ(イェステ)しょうがないさ、そんなもんさ
「大国に支配され続け、自分たちの思うように物ごとが運ばなかったルーマニアの人々が現実を受け入れるために編み出した言葉なのでしょう。僕も研修中に壁にぶち当たると、よくこの言葉を思い出しました。」
Nici o problemă!(ニーチョ・プロブレマ)問題ありません!
Mulţumesc!(ムルツメスク)ありがとう!
Aşa şi aşa.(アシャシャシャ)まあまあです。
Foarte bine!(フォアルテ・ビーネ)とてもいいです!
Cu plăcere!(ク・プラチェーレ)どういたしまして!