前在イラク日本大使館公使
山田 彰
ラグビー大学日本選手権決勝戦・早稲田対関東学院の試合が日本衛星放送で放映される。ラグビー部OBの故・奥大使が名づけ親の「ULTIMATE CRUSH」をスローガンに掲げ、奥・井ノ上基金の代表発起人の一人である清宮監督が率いる早稲田大学が勝利した。バグダッドから祝勝メールを送ったが、奥さんも天国から見てくれていたような思いだったと、清宮監督はこのメールを喜んでくれた。
1月30日のイラク暫定国民会議選挙の最終結果がようやく発表された。選挙の実施状況は、事前に予想された範囲内だったが、予想したシナリオの中では良い方の範疇に入っていたと思う。投票率58%というのは、現在の治安情勢を考えればかなり高いものだったし、最終結果発表までしばらく時間がかかったものの、大きな混乱もなくこの日に至った。イラク人もなかなかやるではないか、という感じである。国際社会は(メディアも含めて)選挙の実施について高く評価しているが、日本のメディアの扱いがちょっと冷たいのが気になるところだ。米国の政策への評価はともかく、イラク人の努力や気概は正直に評価してあげてほしい。後々になって聞いた話だが、選挙の日に、ある投票所に自爆テロを行おうとして爆弾を身体に巻きつけた男が向かってきたという。それを見つけたイラク人警官が爆発を防ぐため、男が群集に近づく前に身体を投げ出して男を取り押さえたが、爆弾は爆発してしまい、他の人たちは無事だったが、その警官は亡くなった。もし、警官が身を投げ出して男に立ち向かわなかったら、何十人、あるいは百人以上の死者が出たかもしれなかったとのことである。投票所にいた人々は、警官の献身に感謝し、その死を悼み、地域の人々の中で警官を顕彰するモニュメントを作りたいという話もあるらしい。命がけの投票から新しい議会が生まれた。
現地職員が買い物してきたおつりに偽札が混じっていた。紙質が違い、透かしもないので、他の札と一緒に触れば違いがわかるだろうが、最近のパソコンとプリンターで作られているのかもしれず、見た目はほとんど変わらない。額面は70円程度だが、国内でも時々出回っている。イラク国内でもあまり報道されないが、一般犯罪も増えているのが気になる。
食事は、大使館生活の数少ない楽しみだが、普段は、イラク人の女性が通いでやってきて館員の食事を作ってくれる。贅沢を言ってはきりがないが、残念ながらメニューが単調だ。イラクの休日である金曜日は通いのイラク人も来ないので、本日の夕食は大使館の小さな中庭でバーベキューをすることにする。イスラムの国であるから豚は手に入らないが、牛肉、鶏肉、羊肉、ピーマン、ニンジン、タマネギ、にんにく、と材料は一通り揃う。牛肉は堅すぎて今ひとつだが、イラクの鶏肉は、味がしっかりしてなかなか旨い。炭火で焼くバーベキューの雰囲気は十分楽しむことができた。
イラクの人に小学校の教科書を買って来てもらって、写真も見せてもらいながらイラクの小学校の様子を聞く。小学校の科目では、アラビア語が週に11時間もある。イラクの子供にとってもアラビア語の読み書きはむずかしいようだ。他には、理科、図画、歌、体育、コーラン(イスラム教)などといった授業があり、5年生くらいになると社会、歴史、地理、英語などの授業も始まる。社会の授業は、昔はサダム・フセインの業績やバース党(フセイン時代の唯一政党)についての勉強などをしていたようだが、今は民主主義について勉強したりする。科目の中身がすっかり変わったのに、多くの学校で新しい教科書はまだ来ていないとか。戦争による変化を感じさせられるところだ。
2003年11月に、岡本総理補佐官、奥参事官(いずれも当時)とイラク北部の町モスルを訪問した時に会見したのが、町の復興に特別の熱意を持っていた第101空挺師団のペトレイアス師団長であった。ネグロポンテ米国大使の送別レセプションで、そのペトレイアス将軍と一年4ヶ月ぶりに再会した。将軍は、その後いったん帰国したのだが、特に乞われてイラク軍の訓練の指揮責任者としてイラクに戻ってきていたのだ。
あのモスル訪問直後に、殺害された奥克彦は私の無二の親友であった。今のイラク生活でも、仕事の中で亡き奥克彦の志に日々思いを馳せている。『ミスター奥は、本当にスペシャルな人でした。』復興支援のすべを求めて何度もモスルを訪問した彼を偲んで、将軍はそう語った。
選挙から約3ヶ月、首相が決まって、新政権がようやく発足する。外は35度を越えてもう夏だ。イラク人自身や国際社会の予想を超えてここまで長時間を要したのは、イラク人が初めて民主的選挙を通じて政権を作るという高揚した気分の中にあって、実際には民主的な議論・決定には全く不慣れだったという理由がまず挙げられる。フセイン政権下はもとより、従来から、イラクにおいては、決定は上の権威から降りてくるものであり、自主的な話し合いによって決めるものではなかった。「民主化された」イラクでは、自由に意見を言うことはできても、各人がばらばらの方向を向いて議論を行っているという印象が強く、イラク人は一つの方向に向かってコンセンサスを形成するという技術に欠けている。この結果、「議論は活発だが、百家争鳴で、いつまでたっても結論が出ない」という状況が、上は国民議会から下は地方の評議会にいたるまで、どこにでも見られる。今回もそんな感じだった。だが、政権発足に長期間を要したことや不安定な新政権の発足など悲観的な要素ばかりに目を向けるべきではないと思う。各政治勢力が、武力に訴えることもなく、平和的な話し合いにより、外国からの干渉なしに、相当広範な基盤を持つ新政権を樹立したこと自体、イラクの歴史にとって画期的なことだ。歩みは遅いが、政治プロセスは着実な進歩を遂げたということもできる。
新政権の発足を狙ってか、昨日からバグダッド市内をはじめとして各地でテロ活動が活発になっている。そうした中で、29日現地職員のご子息(警察官)が爆弾事件に巻き込まれていて殉職したという事件が起きていた。テロ事件は毎日起きているので、ある意味では慣れてきてしまっているのだが、身近な人の子息が亡くなるという事件が起こるというのはやはり大きなショックだった。子供に先に死なれるというのは、親にとっては最も大きな悲しみだ。館員からも香典やお見舞いのお花を贈ることとしたが、事件を知らせた私の実家の父親からも現地職員の方にお見舞いを差し上げてくれというメールが届く。見ず知らずのイラク人だけれど、他人事には思えない、という気持ちなのだろう。
朝10時非常に強い爆発音が大使館を揺るがす。窓から黒煙が立つのが見えた。大使館には直接の被害はなかったが、敷地内に爆発物の破片が降ってきた。大使館周辺の道路も封鎖される。この爆発で少なくとも近くにいた市民9人が死亡、10人以上が負傷したらしい。この日もイラク各地で爆弾を使ったテロや攻撃が8件相次ぎ、計22人が死亡した。うちバグダッドでは自爆を含む爆弾テロが4件連続した。残念ながらこれがイラクの一つの日常だ。
バグダッドにいて、こんな目にあって怖くないか、と時々聞かれる。外に出るときなど緊張はするが、不思議に怖さを感じたことはない。別に見栄を張っているわけではなく、怖さを感じるかどうかは性格によるものなのかもしれない。イラクでは「死」は日常のできごとであるし、どんなに対策を講じていても運が悪ければやられるが、「死」についても怖さは感じない。ただ、我々がここで働いている一つの大きな意味は、日本のプレゼンスをイラクで守るためである。自分たちが死んだり、大使館の退去に追い込まれるような事態になることは、いわばテロリズムに対する敗北である。ここで絶対負けたくない、負けるわけには行かないと思うから、打つべき手を打ち、取るべき策を取ろうと考えるわけだ。
首相官邸で、国連、ドナー代表とともにジャアファリー首相との会合に出席し、その後、グリーンゾーン内のレストランにいると、バグダッド西部のラマディ付近で警備会社のコンボイが襲撃され、その中の警備の人間の一人が日本人であるとの情報が入る。東京の外務本省、バグダッドの米軍関係者やイラク関係者と連絡を行って、食事どころではなくなる。襲撃された日本人は、フランスの外国人部隊を除隊した後、英国系の警備会社に勤めていた人だ。日本人のプレス関係者やNGO関係者がイラクに入ってくることは想定の範囲内であったが、警備要員としてイラクで働いている日本人がいるとは、一種の盲点だった。
この日から約3週間、アンサール・スンナという過激派組織に襲撃されたと思われる邦人の行方を追って様々な情報を集めた。しかし、5月28日にアンサール・スンナのウエブサイトに流れた映像は、襲撃直後の時点で既に彼が殺害されていたと思わせる映像であった。事件をめぐる色々な状況から生存の可能性は少ないと思っていたが、これ以上同胞の死は見たくなかった。イラク戦争後日本人の死者は6人目。本当に残念だ。
日本の無償資金協力によりサマーワに設置する発電所の交換公文の件で電力省を訪問することになった。イラクは、かって極端な中央集権主義であったが、戦後派かなりの見直しが起こっている。それはいいのだが、中央と地方のコミュニケーションが余りよくなく、この件でもそのあたりの調整を行わなければならなくなった。電力省は、普段あまり訪問しない市内の東部地域にあるので、いつもより緊張しながら外出する。日本で、在イラク大使館員は館内に完全に引きこもって籠城生活をしているだけと説明していた人がいたが、それは間違いである。グリーンゾーン内の政府機関や大使館を訪問することが多いが、それ以外の地域にもイラク政府関係者などに会いに外出することもある。ただ、食事や買い物で外出することはないから、実質的には籠城生活には違いないのかもしれないが。
バーレーンの臨時代理大使が武装勢力に襲撃され、パキスタン大使も襲撃されたと報道がある。この2日には、エジプト大使が誘拐されており、3日にはロシア大使館の車が空港道路で襲撃された。外交官が連続して狙われるという事態になってきて、イラクの新聞もトップニュースで報じている。バグダッドの外国大使館や外国プレスが日本の対応を照会してくる。東京とも頻繁に連絡を取るようにし、館内の警戒も高めるが、とりあえず少し大人しくせざるを得ないということだ。
イラクからの留学生受け入れは、長らく途絶えていたが、2006年留学分から受入れを再開することとなり、この日留学生選考のための英語試験を大使館で行った。このように人物交流が一つ一つ進んでいくことはとても嬉しい。書類選考でふるいにかけられて、今日の試験に臨んだのは9人(この他にサマーワでも別途選考試験を行っている。)。さすがにみんな緊張していたが、試験後は日本の広報資料などを渡して、懇談したり、記念写真を撮ったりして、日本の友人になってもらうようにした。イラクでは、戦前から英語教育が充実しておらず、こうした英語のペーパーテストは苦手のようで、全般的に成績は今ひとつであった。成績が良かったのは医学部卒の若い医師たちである。イラクでも、一番成績が良い高校生は大学の医学部に進むというのが相場になっており、来年の日本への留学生は2人ともお医者さんになった。
昼過ぎにかけて空が黄色くなり、空気がだんだん埃っぽくなり、視界がどんどん悪くなる。砂嵐の到来である。バグダッドの砂嵐と言えば春に来るのが相場だが、今年は7月になっても何度か砂嵐が起こる。嵐と言っても、風が強いわけではなく、いきなり空気が細かい砂で充満するという感じだ。砂嵐のため空の便に大きな影響が出て、この日イラクから一時帰国するために利用する予定の飛行機もキャンセルとなる。バグダッドへの出入りは、通常アンマンとの間の飛行機を使っているが、予定通りに運行される方が少ないくらいだ。5回に1回くらいはキャンセルされるし、出発の数時間の遅れは通常である。さらに、空港へと向かう道路は襲撃事件が多く、かなり危険のある道路である。このような外へのアクセスの悪さもバグダッドでのストレスの大きな要因と言える。翌日も、空港で突然オーバーブックを言い渡されるなど散々な目に会ったが、最後はどうやらバグダッドを脱出することができた。
移行国民議会では、1月の選挙をボイコットしたスンニー派の代表も交えて憲法草案作成に向けてぎりぎりの折衝が続いている。ほとんどの部分で合意ができていたが、連邦制度など一部の条文でスンニー派の同意を得られないまま議会での発表となった。これによりイラクの内部分裂、対立がさらに露わに、深刻になったととらえる報道が多くなるのだろうが、憲法草案制定全体のプロセスを見れば、真摯な議論が国民議会を中心に展開され、基本的人権の尊重を初め全体として評価できる内容の憲法草案が8月15日の期限からわずか2週間遅れ程度でまとまったこと自体、イラクの政治プロセスにとって大きな前進と評価すべきであろう。全ての勢力が満足できる完全な憲法草案というのはないものねだりであって、現在の憲法草案は大多数のイラク国民の希望にかなりの程度応えるものになっているといっても良い。物事は両面ある。ネガティブなところばかり見ていたら、イラクではやっていけない。(注:憲法草案発表後も、国民投票直前まで微修正作業が続いた。)
シーア派の宗教行事に集った群衆の中で自爆テロ犯が紛れ込んだとの噂にパニックになって、逃げ惑う人が押し寄せるエンマ橋からチグリス川に落下するなどの事故が起こって数百人が死亡したとのニュースが入る。直前に近くで迫撃砲攻撃があったことも、噂がパニックを呼ぶ原因になったようである。翌日親戚を見舞った現地職員の話では、付近の病院は大混乱であったそうだ。日本から無償資金協力で支援された消防車も救援に駆けつけたらしい。その後、死者の数は1000人を超えた。人々の心に恐怖心を植えつけ、呼び起こすのがテロリズムというのなら、直接の暴力による犠牲ではなくとも、この事件の死者はテロの被害者だ。