前在イラク日本大使館公使
山田 彰
奥大使、井ノ上書記官がイラクのティクリートで殺害されてから9か月、日本で彼らの活動を受けていた立場の自分が、在イラク日本大使館公使として発令を受けて、バグダッドに勤務することになった。ヨルダンのアンマンから約2時間をかけて、エア・サーブという非営利団体が運航する飛行機でバグダッド国際空港に到着する。着陸する際に、武装勢力からの地対空の攻撃を回避するために空港の上空で何度も旋回して降りていくスパイラル飛行を約5分間行う。ちょっと目眩がするが、バグダッドの洗礼である。
前年の11月にバグダッド訪問時に比べて治安は悪化しており、一層の緊張の中で車列を組んで、市内に向かう。大使館に向かう前に、首相府などイラク暫定政府主要な建物や米、英の大使館などが集まるバグダッドの中枢部、グリーンゾーンに向かう。ここには、たった一人で勤務する日本大使館の分館がある。迫撃砲対策のため土嚢が高く積まれているのが、バグダッドらしさを感じさせる。
この日、鈴木大使らと米国大使館を訪問する。ここは、かってのサダム・フセインの大統領宮殿、さらに一時はCPA本部と移り変わり、今は米国大使館の別館となっている。この地を訪問するのもやはり昨年11月以来だ。米国大使館の政務軍事部長と会談し、その後、グリーンゾーンを出てようやく日本大使館に落ち着く。大使館で初めて食べる夕食は、出前で取ったクージという羊肉入りのご飯の料理であった。イラクらしさを感じるお祭りの日の料理だ。
今日は、イラク外務省を訪問する。外務省の近くでピカピカの日本車のパトカーを数台見かける。これは、日本が無償資金協力で供与した車である。イラク復興支援の最初の段階の大規模な援助で、自分も関与した支援の成果を目の当たりにすると、嬉しく、感慨深い。
午後、日本大使館周辺を歩いて巡回する。大使館は、土嚢やコンクリートブロックで守られているが、そうしたハードよりさらに重要なのは訓練された警備員を含むソフト面の対応である。
在イラク大使館とその館員には、大きく分けて三つくらいの脅威がある。
一つは、迫撃砲やロケット砲による大使館に対する攻撃である。迫撃砲は、精度が低く、住宅・商店街の中にある大使館をピンポイントで狙うことは難しい。むしろ、はるか遠くのグリーンゾーンを狙った砲弾がまかり間違ってやってくる確率の方が高いであろう。土嚢などを積んで防御はしているが、自分の居場所が悪ければ対応しようがない。ただ、これはバグダッドのどこにいても同じである。ロケット攻撃は、迫撃砲より射程が短く、より正確な攻撃が可能だが、これは狙撃地点をマークすることによってある程度対応できる。二つ目は、大小の火器による武装勢力のグループによる攻撃である。自動車爆弾による攻撃と複合して行われる例もある。一番危険性が高いのは、移動中の館員に対する攻撃である。銃やロケット砲による攻撃、さらには仕掛け爆弾(IED:improvised explosive devices)による待ち伏せ攻撃などもリスクのうちである。
バグダッドの外国大使館やイラクの行政機関は、軒並みこうした脅威にさらされているのであって、日本大使館が狙われているのではない。これらの脅威に対しては色々な手段を講じて対抗するわけだが、重要なのは情報である。これはテロリストの攻撃についての情報を収集することももちろん含むが、それ以上に重要なのは自分たちの行動の情報を管理することだ。相手にこちらの動きや手の内を知らせないことが対策の第一歩というわけだ。
今日は、市内の盲学校の校長先生が大使館にやってきた。草の根無償資金協力の契約の署名式のためである。日本は、イラク復興のため、発電所や病院のリハビリ、警察車両や浄水設備の供与などかなり大規模な援助を無償資金協力により行っているが、草の根無償は大使館のイニシアティブを使って小規模な援助を学校や病院などに行うものである。戦争の中で一番苦しむのがイラクでは障害者のような社会的弱者だろう。治安情勢のために、支援の実施には大きな制約があるが、こうした障害者の施設を支援するのは、大使館の活動の重要なテーマになっている。
夕食後、館員と大駒落ちで将棋を指す。私は将棋を世界に広める会というNPOの理事にもなっていて、このNPOの目的は文字通り日本の将棋を世界中にひろめようということだが、残念ながらイラクではイラク人に将棋を広めることなどは夢のまた夢である。しかし、イラクの新聞にはこのようなご時勢ながらチェスの地方大会が開催されたなどという記事も載っている。いつの日かイラクに平和と安定が訪れたときにイラク人が将棋を指して王手と叫ぶ時がくるかもしれない。大使館員は、ある意味で職住一体、週7日、24時間勤務をしているようなものだが、自由な時間はそれなりにある。しかし、外出はできないし、余暇にできることは極めて限られている。最も多いのがDVDで映画やテレビドラマを見ることで、後は読書をするか、テレビゲームで遊ぶか、といったくらいだ。ただ、インターネットはスピードが遅いが安定して使えるようになってきたので、日本の情報を入手するにはそれほど苦労しない。ネットサーフィンも大使館では大きな楽しみなのだ。
朝から迫撃砲の音がしきりに聞こえる。迫撃砲は、遠くに落ちても音と振動がかなり大きいのが特徴だ。バグダッドの中の地理関係を東京にたとえると、品川(=南部のドゥーラ地区)あたりから(日本大使館のある)麻布十番辺りを越えて、永田町、霞ヶ関(=首相府や米国大使館のあるグリーンゾーン)に迫撃砲が打ち込まれ、銀座や錦糸町では市街戦が起きているという状況だ。後から考えても、この週は、戦後最もバグダッドの治安が悪化した週であったような気がする。
NHKの出川記者が大使館を訪問する。彼は、イラク戦争前から何度もイラクに入って取材をしており、戦争後もNHKの中でも最も長くバグダッドに入ってきている。戦後のイラクを最もよく知る日本人と言っても過言ではない。出川記者は大学の軟式野球サークルの後輩に当たり、バグダッドでの思わぬ再会をお互い大いに喜び、現下のイラク情勢について話し合った。(出川記者は、この時以後も何度もバグダッドで勤務しているが、バグダッドで会うのは難しくなった。こうした外出はお互いリスクが高すぎるからだ。)
午後3時、大使館の中にいると、身体を揺るがす衝撃を伴ったとても強い爆発音が聞こえた。これほど強いものは赴任以来初めてだ。大使館から数百メートルの財務大臣宅に対する自動車爆弾であった。米軍・イラク軍によるファルージャでの作戦が本格的になろうとしているようで、ヘリコプターの飛ぶ音もいつになく多い。そして、午後60日間の非常事態宣言が布告される。日本の国会での議論も予想され、東京の外務省関係者と情勢について電話で協議するが、日本の国会の関心は、まずサマーワのようである。
この秋までは、バグダッドには、NHK、共同通信、朝日新聞、毎日新聞の記者の方々が駐在していた。しかし、治安が改善しない中で、朝日、毎日に続き、共同通信の記者もついにバグダッドを離れることになった。この日、他の邦人一人とともに無事にアンマンに抜けたとの連絡が共同通信の支局長から入り、ほっとする。空港が閉鎖されたりして、バグダッド脱出が延びていたのだ。これで、バグダッドに常駐する日本のメディアはNHKだけになった。
外務省の公式の立場は、いかなる理由であっても邦人のイラク渡航は避けていただきたい、というものだが、個人的には別の気持ちもある。湾岸戦争の時にバグダッドに日本のメディアがいなかったのには寂しい思いがした。今、NHKまでバグダッドからいなくなってしまえば、日本に伝えられる情報は質・量ともに格段に落ちてしまうだろう。特に映像による報道は極端に少なくなるであろう。それは、日本のためには良くないと思う。安全対策に万全の注意を払わない者はイラクで活動する資格はないと思うが、イラクに残る人は何よりも安全に気をつけて、報道を続けて欲しいと念じる。
米国大使館の政務部長Newman大使と会談する。本国からなかなか難しい注文が来るといったような話になった時、Newman大使が"Nothing is impossible in Iraq, but everything is very difficult." という警句を吐く。イラクでは普通の国のように何でもできると思う人と、イラクのような国では全く何もできないと思っている人が、ワシントンにも東京にもいるらしい。その後も、イラクで色々な事態に出くわすたびに、この名文句を思い出すことになった。
大使館付近の巡回を行っている米軍部隊の指揮所を訪問し、治安情勢などについて意見交換する。イラクの治安部隊が徐々に育っているとはいえ、この時期のバグダッドの治安維持の中核はまだまだ米軍であった。大使館としても万一の時には頼りにするわけだが、米軍の中には日本勤務経験者もいて親日家が結構いる。日本のカレンダーなどちょっとしたプレゼントも喜んでくれた。しかし、イラクの米軍兵士というのは本当にタフな仕事だ。バグダッド陥落直後はある意味で解放軍として迎えられたが、駐留が長引いた今はどちらかといえば敵意に囲まれ、武装勢力やテロリストの攻撃の最大のターゲットとなり、緊張が絶える間がない。イラクの平和と民主化のために、と思っている兵士は多いが、同時にいつその献身が報われる日が来るのか、との思いもあるようだ。
日本大使館から程近いオーストラリア大使館を訪問した。途中で、自動車爆弾の跡なのか、真っ黒にこげた車の残骸を路上で発見する。オーストラリアの女性の臨時代理大使と治安情勢について意見交換する。大使館は豪州軍によって警備されているが、ロケットによる攻撃を受けたこともあり、館員の行動は日本以上に制限されている。したがって、当方の訪問は珍客到来という感じで大いに歓迎された。
バグダッドの大晦日は、昼過ぎから衛星放送で紅白歌合戦が中継されており、今日はゆっくり紅白を楽しむことにする。日本からおせち料理などの荷物も送られてきた。バグダッドでは大晦日だが、日本ではもう年が明けているという理屈で、大晦日の夕食からおせち料理を出すことにした。日本からそば粉を持ち込んだ館員もいたので、何と年越し手打ち蕎麦まで食べることができた。夜の10時過ぎくらいから、しきりに銃声がする。幸い、武力攻撃ではなくて新年が来るのを祝うための発砲のようだ。ちょうど新年の瞬間には、銃声、爆発音が街に限りなく響く。何千、何万という音が20分ほどバグダッドの街に響きわたった。
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