エキスパートたちの世界
外務省の専門官インタビュー
中東専門官 谷本卓也さん
外務省では、総理や大臣等の要人通訳を務める高度な語学の専門性と同時に、特定の国や地域の政治・経済・社会・歴史・文化等への知見を深め、人脈構築、情報収集・分析、外交政策の立案・決定等にあたる専門性の高い人材を多く擁しています。
今回は、ペルシャ語の専門性を生かし、主にイラン及びアフガニスタンにおける長年の駐在経験や関連業務を通じて深めた知見から、令和3年度に中東専門官に認定され、現在は在アフガニスタン日本国大使館で次席を務めている谷本卓也書記官に、これまで経験してきた具体的な仕事の内容や自身の想い等について、率直に語ってもらいました。ニュース等では報じられない、外交官でしか経験できないであろう体験談の一部を紹介させていただきます。
1 中東地域への関心はいつからですか。
1999年に外務省に入省する際にペルシャ語専門職として採用されました。学生時代から、西アジア、中東の歴史やイスラムに漠然と関心があり、歴史の動きが感じられる中東地域で勤務してみたいと思ったことから、ペルシャ語を希望しました。外務省では、どこの部署や大使館にいても歴史を感じられますが、ペルシャ語を希望したおかげで、想像していた以上に歴史の変動を目にしていると思います。
2 中東専門官として、特に専門とする分野があれば教えてください。また、これまで実際にどのような業務に携わってきましたか。
主にイランの公用語であるペルシャ語を研修言語として、在外公館では主にイランとアフガニスタンに駐在し、本省勤務時にも中東第二課でイランを担当したため、両国を中心とした中東地域への専門性を高めてきました。まずイラン、次にアフガニスタンについて、自身の経験を振り返ってみたいと思います。
(1)イラン

(かつてのアケメネス朝ペルシャ帝国の都。)
ア 初赴任、改革派・保守派がせめぎ合う中での情報収集(2001年~2007年)
2001年からイランに赴任し、ペルシャ語研修期間含め6年間在勤しました。イラン勤務時には、まずその当時の在イラン日本大使に同行してイラン全土28州(当時)中、27州を訪問したことが印象に残っています。イランの面積は日本の約4.4倍、人口は約9千万、原油埋蔵量は世界第4位、天然ガス埋蔵量2位という大国ですが、それよりもその歴史の深さと文化の豊富さに圧倒されました。
当時のイランは改革派の動きが活発で、これを抑えようとする保守派の抵抗が際だった時期でした。2000年代前半は改革派を支持する学生達と保守派の衝突が首都テヘランでも度々見られました。こうした中、私は各政治グループの政策などについて情報収集を行っていましたが、幾人かの政治家等と面談した後、強硬保守系新聞のコラム欄に「最近、東アジアの大使館がイラン国内の政治的差異をついて対立を煽ろうとしている。気をつけなければならない。」という趣旨の小さな記事が掲載されました。このように、改革派が選挙を通じて存在感を示しつつも、保守派が司法・治安分野に大きな影響力を維持し続ける情勢下での情報収集には大変気をつかいました。そして、このような状況だからこそ、大使館は改革派、保守派双方との人脈形成に努めていました。

イ 入省直後に携わった国会副議長の訪日、まさか後の大統領に
1999年に本省中近東第二課で入省1年目の勤務をしていた際、最初に関わったイラン関連の業務は、ローハニ国会副議長(当時)の訪日でした。当時の上司が作った資料には「保守派の有力者。将来の大統領候補の一人」と書いてありましたが、政治改革を掲げるハタミ大統領(当時)が西側諸国との関係改善も進め、イラン国会も改革派が多数を占める中、果たして「保守派」であるローハニ氏が大統領になる時が来るのだろうかと不思議に思っていました。それから約15年後、2013年に高村総理特使に同行してイランを訪問し、ローハニ大統領との会談に同席した際には感慨深いものがありました。ただし、その時に私が作成した資料には、ローハニ大統領について「穏健・現実派」と記載していたところ、イラン情勢に詳しい日本のある関係者から、「保守派だと言われたローハニ氏がいつから穏健派になったのだろう」と冗談めいてご指摘を受けました。ローハニ氏の心変わりではなく、イラン政治の潮流が変化した結果かもしれません。
ウ イスラムと共和制、カレンダーは3つ
イランの現在の体制は、1979年のイスラム革命により成立したイラン・イスラム共和国です。イスラムの国というだけではなく、単なる共和国でもありません。つまり、イランはイスラムと共和制という二つの柱で支えられています。選挙で選ばれる国会議員、大統領などの行政府と最高指導者により指名される司法権や治安当局は時に激しく対立します。しかし、イラン指導部は国民の不満が高まれば体制が不安定化すると理解しており、大統領選挙や議会選挙の結果により政策が変更することがあります。こうした点も含め、イランという国は外から見ると分かりづらいと思います。先日(2024年7月)、イラン大統領選挙が行われ、改革派候補者が大統領に選出されましたが、保守派の抵抗に遭い、外交政策に変化をもたらすことは困難という見方が大勢を占めますが、国民の多数が変化を求めて票を投じたのであり、これを単に無視することもイラン体制にとって容易ではないだろうとも思います。
イランは複雑な国です。たとえばイランにはカレンダーが3つあり、普段はイラン暦を用いていますが、イスラムの宗教的行事はイスラム暦に基づきます。また外国とのやりとりにおいては西暦を用います。これはイランに民族主義、イスラム主義、そして国際主義が存在することを表しているのではないかと思いますが、イランにこれら3種類の人々がいるというわけではなく、イラン人の中にこれら3種類の文化が混ざり合っているのだと思います。そしてその時々の状況により、いずれかの考えや立場が強く出ます。ペルシャ語を専門言語とした時から、このような複雑なイランの考え、政策を理解するよう努めてきました。
エ 本省での担当官時代(2012年~2016年)、2015年核合意の舞台裏
2012年からは本省でイラン担当を務めました。当時のイランは核問題を巡り、国連安保理決議が採択されるなど、国際社会と厳しく対立している状況であり、最初はイランに対する国連安保理決議(制裁)や米国の制裁について対応する日々でした。米国の制裁は当然、米国人や米国企業に対する措置ですが、外国の企業や金融機関にも影響をもたらすものです。そのため、日本企業からは米国の法律・措置について相談を受け、イラン側からはなぜ日本が米国の措置に従うのかと指摘されてばかりでした。イランを担当しながら常に手元においていたのは米国の措置・法律でした。特に米国のイラン産原油に対する措置は日本のエネルギー安全保障にも直結する大きな問題です。
当時の米オバマ政権はイランの政策を変更させるために、圧力(制裁)と同時に対話にも注力していました。後から分かったことですが、米国は欧州、中国やロシアを含めた多国間協議を進めつつ、オマーンを舞台に極秘裏にイランと直接交渉をしていたようです。2012年後半から交渉が変化を見せ始め、2013年イラン大統領選挙によって「穏健・現実主義」を掲げるローハニ政権になった後、交渉は一気に進みました。日本は交渉メンバーではありませんでしたが、欧米諸国と異なり、イランから原油を輸入し、経済関係を有していたため、米国との間で議論したこともありました。またイランも欧米とは異なる西側諸国として日本との関係を重視していました。日本はイランの核問題を巡る多国間協議の枠組みに入らない形で、同交渉を支援していました。2015年7月14日に合意されたイラン核合意に日本の名前は出てこなくとも、この交渉の過程において日本が様々なやりとりに関与し、日本の協力が交渉を後押ししたことは間違いありません。私にとっては歴史の動きを目の前で見られたと感じた貴重な瞬間でした。
オ 日・イラン首脳会談の通訳へ
その後、中東第二課を異動となる2016年3月まで忙しい毎日でした。NYでの日・イラン首脳会談(2014年9月)では通訳を行い、その後、岸田外務大臣(当時)が日本企業を率いてイランを訪問(2015年10月)するなど立て続けにイベントが行われました。

そのような中、1978年以来行われていない日本国総理のイラン訪問に携わりたいという思いを持っていました。私の任期中に実現しませんでしたが、2019年9月、安倍総理大臣が日本国総理大臣として40年ぶりにイランを訪問され、私も僅かではありますが同訪問に関わることができました。それは日・イラン間の歴史に記される大きな出来事でした。
(2)アフガニスタン

ア 9.11後のアフガン、タリバーンの崩壊
自分が専門とするペルシャ語はアフガニスタンの公用語のひとつであるダリー語とほぼ同じです。アフガニスタンには、まず2009年から約3年間在勤しました。アフガニスタンを中東の国と位置づけるか、南アジアや中央アジアとするかは議論が分かれます。実は多くの国ではアフガニスタンをパキスタンと一緒に南アジア部署が所管しています。またアフガニスタンには中央アジア諸国と同じ名前の民族が多く存在します。同時にイランとの関係も密接で、湾岸諸国とも深い関係を有しています。このようにアフガニスタンは中東、南アジア、中央アジアを結ぶ地点であり、同国の安定や混乱が周辺地域に大きな影響を及ぼしています。
2001年の9.11によりアル・カーイダを匿っていたタリバーンは米国を中心とする連合軍の攻撃により崩壊し、暫定行政機構を経て2004年にアフガニスタン・イスラム共和国が成立しました。しかし、米軍は2003年からイラクに注力し始め、アフガン情勢は徐々に悪化し、私が着任した2009年12月は着任数日後に日本大使館から約300メートル離れた場所で自爆テロがあり、翌週には200メートル離れた場所にロケット弾が着弾するなど治安が悪化している時期でした。
このような状況下で、政務担当書記官として赴任した私は、イランと違い国内を自由に移動できない中、アフガニスタンを理解するため特に地方選出の国会議員との面談を集中的に行うことにしました。また、タリバーンを離脱した元タリバーン有力者たちからタリバーンについての見方を聞くことに努めていました。地方にはあまり行けませんでしたが、西遊記の玄奘三蔵法師が通ったバーミヤンに出張したこともありました。電気もガスもなく、日中は自動車よりもロバのほうが多く走っていたように記憶しており、玄奘三蔵法師が通った時代とあまり変わらないような、アフガニスタンの自然と悠久の歴史を示す文化に感銘を受けました。

イ ロケット弾、日本大使館を直撃
アフガニスタンにおける仕事は興味深く、その歴史と文化は深いものですが、そこでの勤務には辛い思い出も多いです。面談をした相手がその3日後に暗殺されたこともありました。自爆テロで知人の国連職員や有識者が暗殺されるなど多くの友人、知人が命を失いました。2012年4月には日本大使館にもロケット弾が直撃しました。自分も大使館内にいましたが、強い衝撃を受け、慌てて防弾チョッキをつけ他の大使館員や現地職員などと安全な場所に避難しました。死ぬかもしれないとは考えませんでしたが、手が震えていたことを覚えています。
大使館直撃を受け、大使館を縮小すべきではないかという議論もありました。ただ、攻撃を受けたからといって直ちに撤退するべきではない、我々もこれぐらいのことは覚悟してアフガニスタンで勤務しているのだという思いは他の館員とも共有されていたと思います。日本を含め国際社会は犠牲者を出しつつも、アフガニスタンへの支援と和解への取り組みを支え続けました。
ウ 2021年8月、アフガニスタン政府の崩壊
このように国際社会が支えていたアフガニスタン政府が2021年8月に崩壊したことには強い衝撃を受けました。自分は当時、在英国日本国大使館に勤務していましたが、英国政府も端的に言えば混乱に陥っていました。米軍の撤退期限となっていた8月末を迎えた後は、どうなるか分からないという見方は聞いていましたが、まさか共和国政府がその前に自ら崩壊するとは誰も思っていませんでした。自分はヨーロッパでの夏休みを諦め、ロンドンでアフガニスタン情勢をフォローしていましたが、在アフガニスタン大使館現地職員などの退避を支援するためカタールに出張するよう命ぜられました。カタールでは昔の同僚らと連絡を取りながら久しぶりのアフガニスタン業務に懐かしさを覚えていましたが、アフガニスタンの今後については暗澹たる思いを抱いていました。
エ 2022年、再びカブールへ
2022年9月、在アフガニスタン日本国大使館への勤務を命ぜられ、カブールに戻りました。カブール国際空港にはためくタリバーンの旗を見た時は少なからずショックを受けました。カブールの街並みは大きく変わってはいないように感じましたが、10年前と比べると女性の数は少なく、活気がないような感じがしました。町中には軍服を着た兵士に加え、パシュトゥーン人の伝統的衣装を来たタリバーンが小銃を肩にかけて検問を行っていました。

日本はタリバーン「政権」を正統政府として認めていませんが、アフガニスタンが国際社会から孤立し、国際テロ組織が跋扈するような地帯となった90年代を繰り返してはいけないとの立場から、必要な関与を行っています。これまで反政府武装勢力としての名前しか聞いたことのなかったタリバーン達と会って話すことには複雑な感情を持ちます。また女子教育などに関し、タリバーンの政策を受け入れることはできません。しかし、アフガニスタンの安定、そして地域と国際社会の安定のためには、タリバーン自身が変わっていくしかないという想いから彼らに日本、そして国際社会の考えを伝え、働きかけています。
2022年9月にカブールに戻った後、数日後には約300メートル離れた場所で自爆テロが発生しました。久しぶりの音と衝撃にまた手が震えました。その後も何度か大使館の周辺でも事件は起き、カブール駐在の他国外交団にも死傷者が出ています。共和国時代と比べると事件数は減りました。タリバーンも治安維持能力に自信を有しています。しかし、国民の半数である女性から教育や就業の機会を奪い、大多数の国民が政治的意思を表明するメカニズムが存在しない統治が長続きするとは思えません。この問題を理解しているタリバーンも多くおり、タリバーンが変わっていく可能性もあります。同時にタリバーン内部対立は、再度アフガニスタンにおける内戦を引き起こす可能性もあります。市民が犠牲になるような事態を避けて、アフガニスタンが国際社会と協調し、発展する道を探っていくための支援と対話を続けていきたいと思っています。
3 最近の中東情勢、日本との関係について教えてください。
(1)中東の安定、日本の国益
中東では多くの戦争が生じています。自分が中東(イラン)に赴任した2001年以後主なものだけでも、アフガニスタン戦争(2001年)、イラク戦争(2003年)、シリア内戦(2011年)、イエメン紛争(2012年)、ガザ紛争(2023年)が生じています。また複数の国で革命やクーデターが発生しており、更に所謂「イスラム国」のように国際秩序に脅威を与えるテロ組織が生じるなど、中東地域は不安定な地域です。そして、日本はこの中東地域から毎年化石エネルギーの9割を輸入しています。そのため日本は中東地域の安定のために積極的貢献を行ってきました。日本の国益は、中東、ペルシャ湾の安定にあるのだと思います。
(2)イランとの対話継続の重要性
最近もイランを巡る情勢は緊迫化しています。このような時だからこそ、国際社会はイランとの対話を絶やすべきではなく、そのためには日頃からイランとの対話を行っていくことが必要だと思います。日本はイランとの間に数々の対話を有しています。首脳間や閣僚級の対話に加え、人権、領事、軍縮不拡散等の分野でも対話が行われ、また保守改革問わず、人的交流を続けています。こうした対話を続けることが地域の緊張緩和、また欧米諸国とイランとの対話の手助けにもなると思っています。
(3)タリバーンとの対話、アフガニスタンの安定のために
欧米諸国はアフガニスタンに大使館を有しておらず(EU代表部は存在)、日本大使館の存在は極めてユニークです。私たちがタリバーンと対話する時、人権や女子教育などの問題について必ず言及します。また日本大使館はタリバーンだけではなく、女性や少数派の人々の意見を聞くように努めています。タリバーンも日本がこれまで共和国時代にも行ってきた経済協力を認識し、感謝しています。今に続く人的交流や支援を通じた対話や働きかけを続けていくことがタリバーンの変化とアフガニスタンの安定につながると信じています。
(4)現地テヘラン、カブールにいる外交的意義、日本の役割
現地大使館で働いていると、対話がどこまで有効なのか、私たちがテヘランやカブールの現地にいることがどれほどの効果をもたらすのかと迷う時もあります。特に、治安が安定せず、政府を承認していないカブールに駐在することは、治安上の不安もありますし、タリバーンを「自分たちは認められた」と勘違いさせるのではないかという不安もあります。しかし、現地で直接人々と話し、情勢への理解を深め、「イランの中東地域での不安定化活動」や「タリバーンによる過激派支援」など漠然とした不安、懸念などについてしっかりとした情報収集により精査することが、本国における適切な政策決定につながると思っています。そして、欧米諸国とは厳しい関係を有するイランやアフガニスタンのような国において直接対話を続けることは、日本外交の挑戦であり、国際社会における日本独自の役割を果たすことになると考えます。
4 中東専門官としての今後のさらなる目標を教えてください。
(1)英国勤務時代がプラスの経験に

中東専門官になりたいと思ったのは在英国日本国大使館に勤務している時(2019年~2022年)でした。英国には様々なシンクタンクや大学などに所属する研究者・専門家が多くおり、彼らとの交流を通じて、私の見方が偏っており、また情報収集・分析も未熟であると痛感しました。同時に、彼ら専門家との意見交換を通じて、国際社会において中東地域がいかに重要な地域であり、また危機を抱えた地域であることを改めて考えさせられました。
(2)中東地域の安定のために
現在、中東はイスラエル・パレスチナ情勢やイラン・イスラエル情勢などに加え、米国や中国の対中東関与の変化なども含め、変化しつつあります。そしてアフガニスタンは地域安定の要であるにもかかわらず、国際社会との関係改善が見通せず、国民が貧困にあえいでいます。ペルシャ湾岸地域は日本にとってはエネルギー安全保障や市場としての重要性を有しており、アフガニスタンは日本の平和構築外交にとって挑戦の場でもあります。日本からは少し離れたこの地域の事情に関する情報収集を丁寧に行い、これら地域の安定のために政策提言をしていきたいと考えています。それが日本の国益につながると信じています。