世界一周「何でもレポート」

英語の専門家 黒澤さん

令和4年3月8日

英語の好きなフレーズ

 日本で英語を学ぶと、「どういたしまして」は「You’re welcome」と習うことが多いと思いますが、英語にはたくさんの表現があります。私が特に気に入っているのは、「My pleasure!」という言い方です。「こちらこそお役に立てて嬉しいです」というニュアンスが伝わり、とても素敵な表現だと思います。

英語の専門家になった理由

 大学で英国へ留学した経験をお持ちということで、英語を研修言語に希望されたのでしょうか。
 実は、英語は私にとって、研修希望言語の中では必ずしも上位でない言語でした。広く世界を知るために学生時代に勉強してきた英語以外の(特にアジアの)言語を学んでみたいと思っていました。また、研修言語が英語に決まった後、学生時代に留学経験のあった英国を研修地の第一希望にしましたが、結果としては第二希望の米国になりました。
 なるほど。英語研修の場合には、英国、米国、豪州等の研修地を指定されますが、黒澤さんは、米国研修になったということですね。
 はい。しかし、共通点としては、英語が研修言語になると、入省2年目からの在外研修では、語学学校ではなく現地の大学院に進むことが期待されます。入省1年目は慣れない仕事を覚えながら出願プロセスもこなす日々でしたが、英語は学生時代から学んできたので、そこまで不安な気持ちはありませんでした。

研修中のエピソード

(写真1)アカデミックガウンと角帽子を着た卒業生たち ボストン大学院卒業式

 米国の大学院ではどのような学生生活でしたか。
 研修はボストンにある大学院で行いました。普通の日常生活を送るだけの語学レベルは既にありましたので、生活面において困ることはありませんでしたが、とにかく学校の勉強が大変でした。国際関係専門のコースでしたが、授業前の課題図書(リーディング)の量が尋常ではなく、毎週10冊以上を読破する必要があり、毎日深夜まで学校の図書館等で授業の準備をする日々でした。また授業についていくためのリーディングだけでなく、小論文などの課題も課されましたので、アカデミックな環境で英語を使うことに最初は慣れず、余計に時間がかかりました。その時には、ネイティブスピーカーである同級生がとてもうらやましく思え、韓国やタイなどの他国からの留学生と慰め合った思い出があります。

勤務地でのエピソード

(写真2)真っ青な空と海 パラオの空と海

 米国での研修を終えてから最初の赴任地はいかがでしたか。
 最初に勤務した国は、公用言語の一つが英語であるパラオでした。
 アジアの言語を研修言語に希望していた黒澤さんですが、英語を武器に職務に就くことになりました。米国からは日本を経由せずに直接赴任したそうですね。
 はい。研修地の米国・ボストンから飛行機を3回乗り換え、24時間かけて移動しました。夜中にパラオの空港に到着し、街灯などもないため、宿舎に着くまでの間、真っ暗でほとんど何も周りが見えなかったのを覚えています。だからこそ、次の日の朝、出勤する際に、パラオの真っ青な空と海を見た時にはとても感動しました。

(写真3)ビルのネオンが輝く夜景 タイに到着した日の夜景

 ボストンとは一転して熱帯の国パラオはどのような所なのでしょうか。
 一番驚いたのは、日本の委任統治を経験したパラオでは、年配のパラオの人たちが日本語を流暢に話すことです。また、パラオ語にたくさんの日本語由来の言葉が残っているため、時に、「ダイジョーブ」という言葉などが聞こえてきたりしますが、パラオの人々のおおらかな性格をよく表しているようで、とても印象に残っています。
 パラオの人達も主食として米を食べますし、また、刺身を食べる文化もあるので、言葉だけでなく食の面でも外国にいながらどこか懐かしい気持ちになることがありました。
 なるほど。屋久島とほぼ同じくらいの大きさのパラオですが、広大な排他的経済水域を持ち、漁業も盛んなんですね。赴任地によっては海がない国もありますので、うらやましいですね。
 パラオについては、国土も小さく、また小規模公館である職場では、パラオ人の職員やパラオに長く住んでいる日本人職員の結束が強く、お昼に職員の人たちが週末に釣った魚や庭でとれたフルーツなどを持ち寄ってくれたのも良い思い出です。
 パラオの仕事で一番印象に残ったものは何ですか。
 2015年に当時の天皇皇后両陛下のパラオ御訪問に携われたことです。大使館の数少ない外務省職員の一人として、パラオ政府との調整や、東京からの事前視察への対応など、半年以上にわたり準備に関わりました。第二次世界大戦で戦地となったペリリュー島にも何度も視察に行きましたが、その度に当時のまま残っている戦車の前で歴史を学ぶことの重要さを身に沁みて感じました。

 パラオの次にタイに赴任されたそうですね。アジア赴任の希望がかなったわけですね。
 現地の人々はタイ語を話していますが、外交の世界では英語が共通言語でした。英語を研修言語とする外務省員にも、英語圏以外への赴任の機会が多くあり、タイにも赴任することができました。
 バンコクも現地に着いたのは夜遅く、23時は過ぎていたと思いますが、まさに眠らない街といった印象で、ビルのネオンが輝いていたことにとても驚きました。

(写真4)プロジェクトに関わった人たちとゆるキャラを囲んで記念写真 ゆるキャラ「ムエタイシ」

 当時、日タイ修好130周年を迎えていたタイでの業務はいかがでしたか。
 大使館では、大使の秘書業務を担当したため、館内の調整が主な仕事でしたが、岸田外務大臣(当時)のバンコク訪問や、当時の国王が御逝去された際の当時の両陛下の御訪問の調整で、タイ外務省の担当者とやりとりをしました。パラオと比べると大使館の規模は10倍といったところで、外務省以外の各省庁から出向している人たちとも一緒に働ける良い経験でした。
 また、日本文化への関心が既に高いタイではありますが、日タイ修好130周年を前に、もっと日本や大使館を身近に感じてもらおうと現地の日系企業とタッグを組んで、ゆるキャラを生み出すプロジェクトに関わったことが一番の思い出です。

通訳のエピソード

(写5)右から2番目が筆者 ピーターソン・ミクロネシア連邦ポンペイ州知事及びモセス連邦議会副議長による堀井巌外務大臣政務官表敬での通訳の様子

 東京に戻ってから通訳を経験されていますが、難しさはありましたか。
 パラオやタイでは通訳の機会はほとんどなかったため、本格的に実践に挑んだのはタイでの勤務を終えて東京の外務省に戻ってからでした。配属になったのは西部・中部アフリカとの関係を担当するアフリカ第一課でしたが、その本来の業務とは別に、外務副大臣や外務大臣政務官が各国大使や各国の閣僚と会う際に通訳を任されていました。
 最初は緊張もあり、後から振り返っても恥ずかしくなるような出来で、特に英語の通訳では会談相手側がネイティブスピーカーではない場合もあり、先方の発音の癖が強く、発言内容がうまく聞き取れなかった時には焦りました。通訳では、通常の業務で担当している分野とは全く別の議題について勉強する必要があり、準備に時間がとられることも多かったですが、色々なことを学べるチャンスだと前向きにとらえるようにしていました。
 一番印象に残っている通訳体験は、2017年、当時のトランプ米国大統領が訪日した際に、安倍総理が主催した晩餐会でピコ太郎さんの通訳をしたことです。一瞬ではありましたが、トランプ大統領とのやりとりも通訳しました。普段の外交上のやりとりとはまた異なるタイプの通訳だったので緊張しましたが、日米関係の親密さを象徴するような活気溢れる晩餐会の場に居合わせることができ、とても光栄に思いました。

外交官としての仕事のやりがい

(写真6)感謝状を手にパラオの外務大臣と筆者で記念写真 クアルテイ・パラオ外務大臣(当時)

 最後に、黒澤さんにとって、外交官という仕事はどのようなものなのか教えてください。
 もちろん研修言語にもよるのですが、色々な国に赴任し、現地の人々や文化と交流できることが外交官という仕事の一番の魅力だと思います。私の場合には、英語になりましたが、英語を使って世界中で仕事ができるので、今では英語が研修言語になってよかったと感じています。
 そして、現地の政府関係者とやりとりをすることで二国間関係に直接関わる立場にあることは身が引き締まる思いです。特に、今までの外国赴任で一番感動したのは、2年間の勤務を経て離任する際に、当時のパラオの外務大臣から感謝状を頂いた時です。パラオという国が小さいからこそ、若手外交官であった私でも、パラオの外務大臣御本人と直接やりとりをすることもあり、両陛下の御訪問もあったのでパラオ外務省や政府関係者とはとても良い関係を築くことができました。赴任するごとにその国の人々との良い思い出や仕事の実績が残っていくことは、やりがいに直結する部分だと思います。


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