グローカル外交ネット

令和8年5月29日

在チリ日本国大使館

 2026年2月、曽根駐チリ共和国大使は宮城県南三陸町を訪問しました。駐チリ共和国日本国大使の同町訪問は、今回が初めてでしたが、訪問の背景には、南三陸町とチリ、そしてイースター(ラパ・ヌイ)島との長く深い絆が存在します。

1 観測史上最大規模のチリ地震と復興の証のモアイ

 チリと南三陸町との交流の歴史は、1960年5月に発生したチリ地震にまでさかのぼります。1960年5月22日午後(日本時間23日午前)、チリ中南部で観測史上最大となるマグニチュード9.5の大地震が発生(チリ地震またはバルディビア地震)。それから約22時間半後、高さ6.1メートルの津波が日本北東部の沿岸を襲います。この津波による日本各地の被害は甚大で、死者・行方不明142名、重傷者872名、家屋全壊約1,500戸、羅災世帯3万2,049戸(約16万名)に上りました(内閣府の報告書「1960 チリ地震津波」の「災害概略シート(PDF)別ウィンドウで開く」参照)。中でも最も大きな被害を受けたのが宮城県志津川町、現在の南三陸町でした。

2 「南三陸モアイ化計画」

 この悲劇から30年が経過した1990年、当時の壊滅的な被害から共に復興を目指した友好の証を後世に伝えるため、チリの国鳥コンドルの碑がチリ共和国から南三陸町に贈られ、また、1991年にはチリ人彫刻家によるモアイ像が同町に設置されました。

 2010年には、南三陸高校の生徒達が、チリとの交流のシンボル且つ町の観光の魅力の1つとなったモアイ像を活用し地域活性化を目的とする「南三陸モアイ化計画」という斬新なアイデアを発案。町内の橋の欄干、マンホールの蓋にまでモアイが設置されたり、描かれたりして観光スポットとして賑わうほか、モアイクッキーや絵はがきなど、モアイにまつわるたくさんのグッズが売られるようになりました。

3 東日本大震災と新たなモアイの到着

 しかし、2011年3月11日、東日本大震災と津波という再度の悲劇により、南三陸町は深刻な被害を受け、チリとの友好と防災の象徴であるコンドル碑やモアイ像も破壊されました。これを受け、日本と密接な関係を持つ多数のチリ企業(日智経済委員会)が「エスペランサ(希望)委員会」を結成、2012年3月にはピニェラ大統領(当時)が南三陸町を訪れ応援メッセージを贈りました。
 同時にエスペランサ委員会は、イースター島で長年モアイのレプリカ制作に携わってきたトゥキ・ファミリーに新しいモアイの制作を依頼し、彫刻家ベネディクト・トゥキ氏(故人)によりイースター島の石を使ってモアイ像が彫られました。新しいモアイ像はチリから日本まで約17,000キロメートルの距離を超えて南三陸町に到着し、2013年5月に南三陸町に贈呈されました。除幕式には、駐日チリ大使やエスペランサ委員会会長とともに、イースター島からトゥキ氏もラパ・ヌイ族出身者らと共に出席し、町民との親交を深めました。

序幕前のモアイ、トゥキ氏、南三陸町民

4 見守るモアイ

 現在、南三陸町の「うみべの広場」には、1991年に贈呈され東日本大震災で損壊したモアイ像と、2013年に新たに贈られたモアイ像が設置され、南三陸の町を見守っています。特に2013年に贈呈されたモアイは特別で、世界でも数少ない「目のあるモアイ」の一つです。ラパ・ヌイの伝統では、目が入ることで「マナ(霊的な力)」が宿り、人々を守り、希望を与えるとされています。

2体のモアイ像と曽根大使

 そして、この2体以外にも、町内のいたるところにモアイが設置されたり描かれたりしています。これらたくさんのモアイが本年2月に同町を訪問した曽根大使を出迎えました。曽根大使は、南三陸町の千葉町長や、南三陸高校の鹿野校長及び生徒たちと意見交換し、南三陸高校では、生徒たちが制作した紙芝居を鑑賞したほか、地域振興・復興のための缶バッジ作りにも一緒に取り組みました。

南三陸高校の生徒による紙芝居

 また、曽根大使は、トゥキ・ファミリーから託された同町民へのメッセージを届けました。「ラパ・ヌイ島は、太陽が沈む方角を見つめながら、もう一つの島である日本、そして、そこに暮らす皆さんを想い続けています。皆さんの地に残されたモアイ像は、その存在とエネルギーによって、私たちを今もなお、そしてこれからも、心の中で永遠につないでくれています。」

 「モアイ」とは、ラパ・ヌイの言葉で「未来に生きる」という意味です。2026年3月、東日本大震災から15年を迎えましたが、地震・津波と復興、そして希望を共有するチリと南三陸町は、モアイを通じてその絆を深め、「未来に生きる」 今後の新たな交流へ向けて歩んでいます。

グローカル外交ネットへ戻る