外交史料館

令和7年4月10日

 戦後期の『日本外交文書』は、「サンフランシスコ平和条約」(全3巻)、「占領期」(全3巻及び関係調書集)、「国際連合への加盟」、「日華平和条約」及び「GATTへの加入」を特集として刊行済みです。また、これと並行して編年方式の「昭和期IV」(昭和20-35年)シリーズについても「日米関係 第一巻(昭和27-29年)」を刊行しました。

 本巻は、外交史料館が所蔵する「特定歴史公文書等」から、1951(昭和26)年の第三次吉田内閣期から1964年の池田内閣期までの、沖縄をはじめとする南西諸島に関する諸問題及びその施政権返還をめぐる外交経緯についての主要な文書を選定して、「沖縄返還 第一巻」として特集方式で編纂・刊行したものです。本書の採録文書数は388文書、本文937頁、日付索引を含めた総ページ数は971頁です。本書の刊行で、『日本外交文書』の通算刊行冊数は227冊となりました。

本巻の構成

 本巻の掲載事項(目次)は次のとおりです。

I
吉田内閣期(第三~五次)
南西諸島の法的地位をめぐる初期の議論
II
鳩山内閣期
「潜在主権」の確認と軍用地問題への対応
III
岸内閣期
日米安全保障条約の改定と沖縄問題
IV
池田内閣期
自治権拡大要求の高まりと沖縄経済援助をめぐる交渉
日本外交文書 沖縄返還 第一巻 日付索引

本巻の概要

I 吉田内閣期(第三~五次) 南西諸島の法的地位をめぐる初期の議論

 沖縄を含む南西諸島及び南方諸島は、サンフランシスコ平和条約第3条によって米国の施政権下に置かれることとなりました。吉田茂総理は第11国会において、同第3条が融通性のある規定であり、米国の戦略的管理を条件としつつも、南西諸島・南方諸島住民の希望に沿うための「実際的な措置」を希望する余地があるものと説明しました。

 1951(昭和26)年12月10日、吉田総理はダレス特使に手交した文書の中で、その「実際的な措置」として、これら諸島が日本の主権下に残ること、住民の国籍に変化なきこと、経済・社会・文化上の条約締結にあたってこれら諸島を日本領土の一部として取扱うこと、現地住民間の民事・刑事事件に対する裁判権や教育権を認めることなどにつき、好意ある考慮を得たいと要請しました。

 また、1952年4月4日、平和条約の発効を目前に控え、沖縄や小笠原に関する懸案事項が整理され、本省から在ワシントン武内龍次在外事務所長に宛てて公信が発出されました。この中では、平和条約発効後に米国側と交渉すべき問題として、南西諸島の法的地位の問題をはじめ、南西諸島住民の国籍と外交的保護、本土南西諸島間の渡航・貿易などが挙げられました。また、同諸島に日本政府のリエゾン・オフィスを設置する案が検討され、同年4月14日、GHQより外務省宛に、日本国連絡事務所を琉球諸島に設置するよう招請する覚書が発出されました。7月1日、沖縄の那覇に南方連絡事務所が、奄美大島の名瀬に同事務所出張所が設置されました。

 1952年11月、南西諸島における軍用地確保のため、一般民家及び農地の立ち退きを命じる権限を平和条約発効後も米国側が維持することが明らかとなり、いわゆる「軍用地問題」が顕在化しました。これを契機として、それまで「急進的」な奄美に比して「低調且つ複雑」だといわれていた沖縄における祖国復帰運動も、より組織化していくこととなりました。

 こうした沖縄の祖国復帰に向けた新気運を背景として、1953年に入ると、吉田政権は米国側に対して「南西諸島の行政権返還」に向けた働きかけをより積極的に行うようになりました。外務省内でも様々な検討が行われ、6月、条約局とアジア局が南西諸島の日本復帰方式に関する検討文書を相次いで提出しました。条約局第三課案は、南西諸島復帰を「(復帰というよりも)日本の潜在主権の顕在化」とし、当時行われていた「事実上の処理」に代わり、状況を法的に整理して米国が権利を部分的に放棄するための諸方式を提示しました。また、アジア局第五課は、条約局案に検討を加え、純軍事部門を除く事項については実施面を日本側に移譲させ、最終決定権のみを米国側に留保させるという案(間接管理方式)を提案しました。翌7月のアジア局第五課案では、朝鮮戦争休戦会談の成立状況を睨みつつ、奄美大島施政権の返還を要求するとともに、沖縄については教育行政権のみならず施政権の部分的放棄を要求する方針を一案として示し、条約局もこの方針が現実的であるとしました。

 1953年8月8日、ダレス国務長官が奄美群島の返還に関する声明を発表しました。同月13日、新木栄吉駐米大使との会談においてダレスは、8日の声明は米国が不必要に日本人住民を統治下に置く意図がないことを示すものだとしてその意義を強調しました。他方で、沖縄や小笠原への将来的配慮を求める日本側申し入れに対しては、奄美返還に強く反対する国防省を説得した経緯にもかんがみて、「この問題には今は触れないこととしたい」と回答しました。

 1953年12月24日、奄美返還協定が調印され、岡崎勝男外務大臣は談話を発表、その中で「沖縄及び小笠原等に関しても一般国民殊に在住者の要望についてはできるだけ善処する」と述べました。しかし、同日ダレスが発表した声明においては、「極東の脅威と緊張状態が引き続き存在する限り(so long as conditions of threat and tension exist in the Far East)、沖縄は米国に関する現在の施政権を継続する」ことがあらためて強調されました(いわゆる「ブルー・スカイ・ポジション」)。

 その後、1954年11月の吉田総理訪米の際のダレス国務長官との会談においては、沖縄と小笠原についての地位や、小笠原旧住民の帰島問題について検討が行われ、共同声明にもその旨が明記されたものの、これによって沖縄問題が明確な進展をみるには至りませんでした。

(採録文書数31文書)

II 鳩山内閣期 「潜在主権」の確認と軍用地問題への対応

 米軍は平和条約発効後も土地収用を継続し、支払われる賃借料の安さと理不尽な立ち退き要求に沖縄の地主の不満が募ったことから、軍用地問題は深刻化しました。特に米国民政府が1954年3月に発表した地代一括払いの方針は、土地の永久使用につながるとして沖縄住民に強い反発を喚起しました。日本政府も、この方式が「領土権を無期限に拘束する事態」を招き、「残存主権を実質的に失わしめる」との懸念をもっていました。こうした状況を打開するため、琉球政府から比嘉秀平行政主席をはじめとする代表団が5月下旬に渡米して問題解決を訴えることとなりました。代表団は米本国政府や連邦議会に対し、地代一括払い反対・賃貸借料の適正化・土地の新規収用中止といった原則に基づく土地問題の取り扱いを主張しました。その結果、米国下院軍事委員会は、1955年秋頃に沖縄に調査団を派遣することなどを決定しました。

 他方、1955年に入る頃から、日本政府は日米安保条約に代わる対等な防衛体制の検討を始めました。1955年6月に外務省内で検討された新しい相互防衛条約案では、沖縄・小笠原に関する防衛義務が自衛権の範囲であるとの解釈を確立することが基本方針とされました。この方針のもと、同年8月6日、下田武三条約局長はパーソンズ駐日米国大使館公使と会談し、日本側の「日米相互防衛条約」案につき非公式の意見交換を行いました。下田局長は相互防衛の地域的範囲を「米国の信託統治地域と沖縄、小笠原は含まれるが、韓国や台湾は含まれない」と説明し、日米安全保障条約の「ジャパン・エーリア」や「日本国内及びその附近」といった曖昧な用語を刷新したいと述べました。下田局長はその二日後にもパーソンズ公使と会談し、日本が沖縄・小笠原に潜在主権を持っていることと、これら地域への侵略を排除することは日本にとっても自衛であることを強調しました。

 こうした事務方の頭出しを行った後、1955年8月下旬には重光葵外相が訪米してダレス国務長官と会談しました。8月29日の第一回会談で重光は、沖縄・小笠原の施政権返還が日本国民全体の強い念願であると述べ、まずは小笠原旧住民の帰島を要請しました。続いて翌30日の第二回会談では、重光から日米相互防衛条約を提案しましたが、それに対してダレスは、新条約への切り換えは時期尚早であると述べて否定的反応を示しました。8月31日の第三回会談においても、重光は再び沖縄・小笠原問題に言及しました。重光は、日本が琉球諸島に対する潜在主権を保有すると言明した1951年9月5日のダレス発言を引用して、米国政府当局が沖縄島民の利益と安寧に考慮を払うことを希望し、軍用地問題についても、関係者に不平の種を与えないように措置することを求めました。ダレスは、潜在主権についてはサンフランシスコ講和会議での発言に反することはしないと述べつつも、現時点で琉球・小笠原のステータス変更に考慮を払う用意がないと釘を刺し、奄美返還以上のことは出来ないと断言しました。以上の会談経緯から、重光・ダレス会談の共同声明に沖縄・小笠原に関する言及が盛り込まれることはありませんでした。

 軍用地問題に関しては、1956年6月、前年の比嘉琉球主席一行の訪米を受けて派遣された米国調査団による報告書(「プライス報告」)が発表されました。しかしその内容は、沖縄住民の求める土地問題取り扱い原則をかなえるものではなかったため、沖縄での反対運動のさらなる激化を招きました。これによって沖縄の軍用地問題は本土でも政治問題となり、沖縄住民の法的地位をめぐる議論を喚起しました。法務省は、プライス報告が沖縄住民の要望と対立していることは国民の生存権の侵害であり、在外国民の保護権に基づき、日本は米国の政策に干渉する権利を保有するとの見解を示しました。他方外務省においては、沖縄住民が外交保護権の対象にならないとの立場をとり、問題解決は権利問題ではなく政治的主張によるべきだとして、現実的な対米折衝による軍用地問題の解決が模索されました。具体的には本省と在米国大使館との連絡を緊密にするとともに、重光外務大臣とアリソン駐日米国大使など、ハイレベルでの会談で沖縄住民の要望を繰り返し伝え、問題解決に向けた善処を米国側に申し入れました。

(採録文書数70文書)

III 岸内閣期 日米安全保障条約の改定と沖縄問題

 1957年2月、短命に終わった石橋湛山内閣を継いで岸信介内閣が成立しました。翌3月、岸総理就任の表敬に訪れたマッカーサー駐日米国大使は、岸総理をワシントンに招待したいとのアイゼンハワー大統領の意向を伝え、岸はそれを了承しました。岸訪米に先立ち、日米の重要問題につき岸・マッカーサー間で週1~2回の予備会談を行うこととなりました。4月から開始された一連の会談では沖縄・小笠原問題も議題となり、その中でマッカーサーは、米国による沖縄・小笠原の施政権行使に期限をつけることは不可能で、また施政権と軍事的要請を分離することも困難であると述べました。

 在米国日本大使館でも国務省から随時情報収集しながら調整が行われました。しかし沖縄については、一部といえども施政権の問題を今すぐ動かすことには国防部の強い反対があり、極東の平和と安全が確保されるまでは維持するという従来のラインを出ないとの見方が専らであり、究極的返還を訪米時の共同宣言に盛り込めるかどうかが焦点となりました。

 岸総理訪米中に行われた1957年6月19日のアイゼンハワー大統領との会談において岸は、沖縄の施政権が無期限であることに懸念を示し、沖縄の住民は日本人であり沖縄の問題は全日本国民に及ぶことや、沖縄の軍用地問題を放置すれば日米間のパートナーシップ確立に寄与しないことに注意喚起しました。それに対しアイゼンハワーは、米国は侵略に対して迅速に行動できることが必要だが、これらの点を日本側と一緒に検討するにやぶさかでないと返答しました。しかし、引き続いて行われた岸総理とダレス国務長官との会談でダレスは、現状で沖縄の施政権を手放す可能性はないと断言しました。日米共同声明においては、日本がこれらの諸島に潜在的主権を有するという米国側立場の再確認が行われたものの、沖縄・小笠原の返還については、脅威と緊張の状態が極東に存在するかぎり現状は維持されるとの米国従来の立場が示されるにとどまりました。

 沖縄における米国の施政権行使に関連した措置としては、岸総理訪米に先立つ1957年6月5日に「琉球列島の管理に関する行政命令」(大統領行政命令10713号)が発表され、強大な権限を有する高等弁務官が置かれました。他方、岸帰国後の7月には、軍用地問題に関し、一括払い方式を取り止めて賃貸方式に切り替えることが米国の方針として伝えられました。また、軍用地をめぐる協議の一応の決着を待って、それまで日本側が発表の延期を求めていた沖縄の通貨切り替え(軍票からドルへ)が発表され、9月16日より実施されました。

 1958年6月に第二次岸内閣が発足した前後から、日本国内では日米間の安全保障関係について根本的な話合いを試みるべきとの気運が高まり、準備が開始されました。同年8月25日の岸総理・藤山愛一郎外務大臣とマッカーサー大使との会談において、新安保条約をめぐる交渉が実質的にスタートしました。岸総理はこの会談で、現行条約を根本的に改定することが望ましいとしつつ、新条約のために著しく時間を要するのであれば、補助的取極によって個々の問題を処理する他ないと発言しました。

 1958年10月4日、岸・藤山・マッカーサー会談において米国側より新条約案並びにフォーミュラ案が提示されました。新条約案は憲法手続きの留保を含みつつも「相互援助条約」の形式をとっており、その第5条第1項では、本州・四国・九州・北海道及び奄美大島が日本の条約地域に、沖縄・小笠原・太平洋地域の米領諸島が米国の条約地域(狭義の条約地域)に規定されました。また、第6条によって日本の基地供与が規定されると共に、フォーミュラには核兵器持ち込み問題及び基地の日本区域外作戦使用問題を事前協議事項とする趣旨が記されていました。同案は、条約上の権利義務の均衡を、実質的には米国の日本援助義務と米軍による日本の基地使用に求めるというもので、その後の日米間の協議においては、第5条・第6条が議論の中心となりました。とりわけ、沖縄・小笠原を米国の条約地域に含めることは、憲法の解釈上日本は集団的自衛権を行使できないとされたこととの兼ね合いで、太平洋地域の米領諸島の場合と同様に、具体的援助の内容如何の問題を招来すると共に、沖縄の施政権返還問題を刺激する可能性が懸念されました。

 11月26日、藤山・マッカーサー会談において、藤山外相が「討議の基礎案」として日本側条約案を提示し、その趣旨を説明しました。同案では、条約地域の対象から沖縄・小笠原は除かれていました。これに対してマッカーサー大使は、条約地域の範囲には理解を示しつつも、本案に「共通の利益・目的の相互性」の規定等が欠けていることを指摘、米国側として受入れ困難であるとしたため、日本側で引き続き草案の検討を行うこととなりました。

 1959年1月には新条約の目的・方向・内容についての方針や問題点をまとめた「日米安全保障新条約の大綱」が作成され、同年3月20日の藤山・マッカーサー会談においては、日本側の条約草案、フォーミュラに関する議定書案、行政協定に関する諸文書が米国側に一括手交されました。しかしマッカーサー大使は、これらの文書をそのまま米本国に伝達した場合、交渉が頓挫する可能性を示唆、まずは東京において米国政府が受入れ可能な案を策定することを提案し、藤山外相もこれに同意しました。その後、同案を基礎として、9回にわたり藤山外相とマッカーサー大使の間で会談が行われ、その結果としてまとめられた条約案等の関係文書が、4月29日に一括してワシントンに請訓されました。

 その後、沖縄・小笠原は施政権返還の暁には条約地域に入ること、及び沖縄・小笠原が攻撃を受けた場合は日本側も米国側と協議のうえ適当な措置を執り得るとの趣旨を議事録にとどめるための努力が続けられ、1960年1月6日、合意議事録の案文が確定しました。同年1月19日、新安保条約及び新行政協定並びに関係文書がワシントンにおいて署名されました。

(採録文書数154文書)

IV 池田内閣期―自治権拡大要求の高まりと沖縄経済援助をめぐる交渉

 池田勇人内閣成立(1960年7月)後、米国で1961年1月にケネディ大統領が就任すると、日米首脳会談に向けた準備が進められました。1961年4月からの池田総理訪米準備会合では、沖縄問題について、施政権返還を直截に申し出るべきではないとの意見が出るなど慎重論に傾きました。そして、施政権返還が困難な状況であるならば、沖縄住民の自治拡大(行政主席公選など)、日本国旗掲揚、社会保障と経済開発に必要な措置、教育・司法制度・労働事情の改善、日本旅券の現地交付などにつき米国側に配慮を求めるとの方針が立てられました。小笠原については補償で解決を図る方法が模索された結果、1961年6月8日に小笠原請求権問題解決(600万ドル補償支払い)の交換公文が取り交わされました。しかし、小笠原の施政権返還や住民の帰島問題に関する米国側の態度は依然として堅く、首脳会談の議題から除きたいとの意向が示されました。このように、沖縄・小笠原の施政権については触れないという雰囲気のもと、池田訪米の準備が進められました。

 1961年6月に池田総理は訪米し、6月21日の池田・ケネディ会談において、ケネディは沖縄での日本国旗掲揚について原則的な了解を与えました。池田からは、沖縄の施政権返還を要求するタイミングではないことに理解を示しつつ、さらなる措置として、沖縄の福祉向上のための諸提案を行いました。そして翌22日の日米共同声明においては、沖縄住民の安寧と福祉を増進するために米国が一層努力し、また日本もこれに協力することが記されました。日本国旗掲揚については、「特定の建物に特定の休日」との限定つきで許可され、共同声明から2日後に沖縄で発表されました。

 池田・ケネディ共同声明のフォローアップとして、1961年10月5日から、米国はケイセン大統領補佐官を長とする調査団を沖縄に派遣しました。沖縄の経済・社会事情を調査したケイセン調査団は帰国後大統領に報告書を提出し、米国ではケイセン報告に基づく沖縄への財政援助の増額等が検討されました。

 こうした中で1962年2月1日に琉球立法院で採択された日本への復帰要請決議は、第15回国連総会で採択された植民地独立宣言を引用し、「日本領土内で住民の意思に反して不当な支配がなされている」と述べていました。この決議文は国連本部及び全国連加盟国への送付が想定されたもので、沖縄における米国の施政権と植民地支配を結びつける同決議文が国連に送付されれば、ソ連など共産圏諸国の米国批判宣伝に利用されることが懸念されました。そのため外務省では、総理府特別地域連絡局や在京米国大使館と連絡して、同決議が植民地独立宣言を誤解していることを琉球政府に伝え、国連本部や関係諸国への送付阻止に努めました。また、こうした状況を打開するため、日本政府は米国政府に対しても、「前向き」な内容を含むケイセン報告に基づく協議を早期に開始するよう求めました。

 1962年3月19日に発表されたケネディ大統領の声明は、「琉球が日本本土の一部であることを認める」と述べ、沖縄への経済援助に関する取り決め協議を日本側と開始することや、米国の沖縄援助の上限を600万ドルと定めた「プライス法」の改正を議会へ要請することのほか、琉球立法院の権限拡大などを目的とする行政命令10713号の改正も宣言されました。日本側はケネディ声明を歓迎し、沖縄の民生福祉・経済援助を含む協議を近く開始したいとの官房長官談話を発表しました。

 ケネディ声明に述べられた米国との沖縄経済援助協議開始に先立ち、1962年6月から8月にかけて、総務長官・副長官をはじめ、総理府、外務、大蔵その他各省庁の職員で構成する調査団が三次にわたって沖縄に派遣されました。これら調査団は現地米国当局や琉球政府等と、沖縄の民生向上や経済開発の方途について話し合い、その結果を踏まえて同年9月、沖縄経済援助に関する米国との交渉方針が閣議で了解されました。そこでは琉球政府の施設・事業等の水準を本土並みに引き上げることを目標とし、沖縄住民の自治権拡大についても建設的提案を行うこととされました。

 沖縄への経済援助交渉は1962年11月2日に開始されました。米国側の経済援助協定案に対し、日本側は取り決めの方式を交換公文とすることを提案し、日本の潜在主権と将来の復帰、沖縄住民が日本国籍を有することを盛り込むよう要請しました。国内調整において総理府は自治権拡大協議の明文化を強く求めましたが、米国側はそうした「政治的」問題を対象外としました。さらに、米国側は施政権に抵触するおそれのある事項への拒否姿勢を見せたため調整は難航しましたが、1964年4月25日に至って、日米政府が沖縄に対する援助の供与について引き続き協力することなどを盛り込んだ「琉球諸島に対する経済援助に関する協議委員会及び技術委員会の設置に関する交換公文」が署名されました。

 沖縄では1964年以降、キャラウェイ高等弁務官の直接統治色が濃くなり、沖縄自民党の分裂や大田政作琉球政府行政主席の辞任にまで波及するなど、政情が不安定になりました。1964年6月、日本政府は米国政府に対し、沖縄の政情不安に対する善処を求めました。翌7月にキャラウェイ高等弁務官の交替が決定すると、池田総理はライシャワー駐日米国大使との会談で、これを機として状況好転への努力を要請しました。1964年7月30日にはキャラウェイの後任であるワトソン高等弁務官が赴任前に東京を訪問し、日本の首脳部と会談を行いました。池田総理はワトソンとの会談で、沖縄住民の福祉増進と民生向上に尽くして欲しいと依頼し、沖縄の自治権拡大を求めました。

(採録文書数133文書)


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