外交史料館

令和7年4月10日

 戦後期の『日本外交文書』は、「サンフランシスコ平和条約」(全3巻)、「占領期」(全3巻及び関係調書集)、「国際連合への加盟」、「日華平和条約」、「GATTへの加入」及び「沖縄返還」第1巻を特集として刊行済みです。またこれと並行して編年方式の「昭和期IV」(昭和20-35年)シリーズについても「日米関係 第1巻(昭和27-29年)」を刊行しました。
 本巻は、外交史料館が所蔵する「特定歴史公文書等」を中心に、1952(昭和27)年のサンフランシスコ平和条約締結に伴うビルマ、インドネシア、フィリピン、ベトナム各国との賠償交渉等に関する主要な関係文書を選定して、「平和条約締結に伴う賠償交渉」として特集方式の上下二分冊で編纂・刊行したものです。本巻の採録文書数は計665文書、本文1387頁、日付索引を含めた総ページ数は1462頁です。本巻の刊行で『日本外交文書』の通算刊行冊数は229冊となりました。

本巻の構成

 本巻の掲載事項(目次)は次のとおりです。

  • 一 賠償関係一般
  • 二 対ビルマ賠償交渉
    • 1 二国間交渉の開始
    • 2 平和条約・賠償経済協力協定交渉
    • 3 署名・発効
    • 4 再検討条項の発動をめぐる応酬
    • 5 賠償増額交渉
    • 6 経済技術協力協定の署名・発効
  • 三 対インドネシア賠償交渉
    • 1 講和会議以後の交渉
    • 2 賠償総額と貿易債務問題の争点化
    • 3 賠償と貿易債務の一体的解決をめぐる交渉
    • 4 岸・スカルノ合意の成立
    • 5 平和条約・賠償協定の署名・発効
  • (以上、上冊)
  • 四 対フィリピン賠償交渉
    • 1 講和会議以後の交渉
    • 2 大野・ガルシア覚書をめぐる交渉
    • 3 総額八億ドルフォーミュラの原則合意
    • 4 卜部・ネリ交換公文の作成
    • 5 賠償協定・経済開発協定交渉
    • 6 署名・発効
  • 五 対ベトナム賠償交渉
    • 1 沈船引揚協定交渉の開始
    • 2 沈船引揚協定の棚上げ
    • 3 植村特使による総額交渉
    • 4 賠償協定・借款協定交渉
    • 5 署名・発効
  • 日本外交文書 平和条約締結に伴う賠償交渉 日付索引
  • (以上、下冊)

本巻の概要

一 賠償関係一般

 本項目では、賠償交渉や賠償支払に関する基本方針の検討・策定や、東南アジア諸国との間の経済協力と賠償問題の関係等を検討した文書を採録しています。
 1951(昭和26)年9月8日に署名されたサンフランシスコ平和条約は第14条(a)において、戦争中に生じさせた損害及び苦痛について、日本国が連合国に対して賠償を支払うべきこと、同時に存立可能な経済を維持しつつ、完全な賠償を履行するには日本の資源が十分でないことを確認しました。また同条(a)1は、現在の領域がかつて日本軍によって占領され、且つ、日本国によって損害を与えられた連合国が希望する場合には、日本国が日本人の役務による賠償を行うため、速やかに交渉を開始する義務を定めました。
 1951年9月28日、サンフランシスコ平和条約締結に伴う賠償交渉遂行に必要な諸問題の統一的処理を図るため、外務大臣の諮問に応じ賠償取極に関する方針及び処理方法を審議する機関として、閣議決定により賠償打合会が外務省に設置されました。賠償打合会は外務省、大蔵省、経済安定本部(後に経済審議庁・経済企画庁)、通商産業省の各省を代表する委員で構成されました。
 賠償打合会は同年11月7日に「賠償に関する基本方針」を決定しました。同方針は賠償義務の履行に際して予期される求償国側の膨大な要求に応酬するため定められたもので、平和条約第14条(a)1に基づく役務賠償は技術の提供と加工を意味するとの解釈に立ち、同条(a)に謳われた存立可能な経済の維持を基本原則とした上で、国際収支の均衡を保ちつつ日本人の合理的生活水準を維持しながら、対外債務(賠償以外の債務を含む)を支払い得る範囲内(役務費の総計)で賠償を行うとしました。しかしながら、以後の交渉で各求償国は例外なしに、最終的な支払額を提示せず、必要となる役務を積算する賠償方式(いわゆる積上げ方式)に強い不満を表明し、日本側の想定より巨額の賠償総額の提示や、資本財等の生産物賠償、現金賠償といった方式による支払を要求しました。
 求償国との賠償交渉は、賠償額、履行形態及び履行年限等について容易に合意に達しえない状況となったことから、遅々として進みませんでした。このため、1953年8月29日、岡崎勝男外務大臣はフィリピン、インドネシア、ビルマの在外公館長に対する訓令で、平和条約14条(a)1を拡大解釈し、種類、数量等について条件付きとしながらも資本財等による現物賠償に応じてもよいとする方針を示しました。現金賠償については、第14条(a)1をいかに拡大解釈したとしても、第26条の均霑義務(日本がいずれかの国との間で平和条約の条項より大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行ったときは、これと同一の利益を平和条約に署名した他の国にも及ぼさなければならない)の観点から認めることが困難なこと、しかし、求償国側で賠償として受け取った資本財を民間に払い下げることで現地通貨(見返資金)を積み立てることは妨げず、日本としては求償国が国内向けにこれをどのように宣伝しても関知しないとの姿勢を示しました。また、このような考えを以てしても求償国側を満足させることができない場合については、賠償とは別個に経済協力等の措置を考慮するとの方針も示唆しました。この訓令にて示された、狭義の解釈に基づく役務賠償積上げ方式から、総額及び履行年限で合意できれば生産物等の提供も認める賠償方針への転換は、1953年12月28日「アジア諸国に対する賠償に関する件」として賠償打合会で決定されました。
 一方、1954年11月9日、訪米中の吉田茂総理はダレス国務長官と会談し、東南アジア諸国の生活向上により共産主義浸透を防遏するという点で「賠償は一種の投資」であると説得し、賠償支払いのため米国に7から8億ドルの借款の協力を求めました。しかしながら、ダレス長官は第一次世界大戦中のドイツ賠償問題の教訓を理由に、米国による日本の賠償の不足額への融資(アンダーライト方式)を拒みました。
 賠償総額問題は日本国内の予算支出問題として、フィリピンへの支払金額を筆頭に、その規模やその他対外債務との優先度をめぐって調整がなされることとなりました。1955年8月5日、鳩山一郎内閣は賠償、特別円、外債その他の対日請求権につき外交上、財政上及び産業上等の総合的見地から全般的処理方針、解決の優先順位及び年間支払い予定総額等の問題につき協議するため、対日請求権問題閣僚協議会を設置しました。同協議会の設置に併せて、外務省としても総合的処理方針、解決優先順位、年間支払予定総額、各局にわたる総合的問題を審議するため、同月17日に対日請求権等処理委員会を設置してその対応に当たることとなりました。
 (採録文書数26文書)

二 対ビルマ賠償交渉 

1 二国間交渉の開始

 ビルマはサンフランシスコ平和条約草案について米国より協議を受けましたが、同草案にビルマに対する賠償支払いが規定されていないため、1951年7月23日、これに同意し得ないとの趣旨を米国へ通告し、サンフランシスコ講和会議への出席を拒否しました。そのため、1952年2月、ECAFE総会に出席のため訪緬した島重信参事官が、ビルマの外務省幹部と二国間平和条約及び外交関係の樹立について非公式に交渉を進めました。同交渉結果を踏まえて、4月18日、在ラングーン服部比左治在外事務所長は訓令に基づき、対インド交渉に倣い、まずは戦争終結を宣言して大使交換を行った後、単独平和条約を締結したい旨をビルマに申し入れました。この申入れに対して、ビルマは1952年4月30日付で戦争状態終結を宣言し、8月2日付公文にて総領事の相互交換に同意して部分的に応じました。ビルマとしては、賠償問題の解決前に二国間の平和条約を締結し、日本と正式に外交関係を開設することは時期尚早と考えていました。
 サンフランシスコ平和条約第14条に基づく役務賠償のみでは平和条約に応じられないとのウ・ヌ首相をはじめとするビルマ側の強い意向を受けて、日本はそれまでの役務賠償主義の方針を大きく転換しました。すなわち、合理的総額を条件に第14条の解釈を拡張してビルマが要望する資本財の提供を検討する旨を1953年8月4日に内示しました。これより、日本とビルマとの間に賠償の原則的問題について話合いが持たれることとなりました。8月20日からビルマとの通商交渉のためラングーンを訪れていた稲垣平太郎日本政府代表は、訓令を得て、賠償交渉の開始及び専門家会談の開催について申入れを行うと、サオ・クン・キヨ外相はこれを承諾し、日緬両国間で交渉開始に向けた態勢が整いました。10月10日、岡崎外相はラングーンを訪問すると、賠償として想定する役務と資本財及びその総額、出資先となる共同事業案、及び日本の平和条約案につき、同月12日からキヨ外相ほかビルマ側閣僚と意見を交換しました。
 1954年6月21日、交渉継続のため今度はウ・チョー・ニエン工業相兼外相代理を団長とする使節団一行が来日することに決定しました。ところが、日本側が想定する求償三国への賠償比率(フィリピン四億ドル、インドネシア二億ドル、ビルマ一億ドル)を伝えた7月30日付の日本側報道を受けて、来日を前にビルマ側の態度は硬化しました。8月19日から、岡崎外相とウ・チョー・ニエン工業相との間で賠償及び経済協力問題についての正式交渉が約一か月間にわたり行われましたが、総額の討議を避けて、賠償の具体的内容の総量を規定する方式で交渉をまとめようとする日本側に対し、ビルマ側は他の求償国との間に差をつけられては困るとして、ビルマ以外の求償国に対する賠償問題の解決後、ビルマの公正かつ衡平な待遇を再検討するとの条件付きで総額による妥結を強く要望しました。その後、交渉は漸次歩み寄りを見せ、同年9月24日の岡崎・ウ・チョー・ニエン会談において、賠償として10年間に総額2億ドルの価値を有する役務及び生産物を提供すること、経済協力として合弁事業に対する日本側出資額を5000万ドルとなるよう必要なる措置を講ずること、他の求償国に対する賠償問題が解決後、ビルマの公正かつ衡平な待遇を再検討するとの大綱で妥結しました。翌25日、同趣旨を規定した平和条約中の賠償条項案、及び同条項をさらに敷衍した賠償及び経済協力協定案に両大臣は仮署名を行いました。
 (採録文書数38文書)

2 平和条約・賠償経済協力協定交渉

 東京における日・ビルマの外務事務当局間の平和条約案に関する下交渉を経て、1954年10月11日からは、ラングーンにて平和条約並びに賠償及び経済協力に関する協定の条文について交渉が行われました。本交渉で争点となったのは、平和条約原案第4条の通商航海条約の早期締結並びに議定書案第1条の同条約締結までの通商関係における最恵国待遇の規程でした。ビルマは当時いかなる国とも通商航海条約を締結しておらず、最恵国待遇を第三国に先んじて旧敵国の日本に認めれば、賠償を得るために大きな代価を払った、と野党に好個の攻撃材料を与えかねないと懸念していました。そのため、通商航海条約を締結し得る情勢となるまではサンフランシスコ平和条約第12条の限定的相互主義の待遇に留めたいと強硬に反対しました。10月27日、交渉打開のため、日本側は最恵国待遇条文削除の代替案として最恵国待遇を明記した交換公文案をビルマ側に提示して説得に努めるも、同月29日に交換公文案をどのように字句修正をしたとしても、実質上最恵国待遇となるいかなる案にも同意できないとして、ビルマは承諾しませんでした。最終的には、日本側は折衝中の交換公文案を取り下げ、通商航海条約を締結するための交渉をできるだけすみやかに開始する旨を謳った平和条約第3条本文のみにて妥結せざるを得ませんでした。
 (採録文書数18文書)

3 署名・発効

 1954年11月5日、ラングーンにおいて日本側岡崎全権、ビルマ側ウ・チョー・ニエン全権との間に、平和条約並びに賠償及び経済協力に関する協定の署名が行われました。賠償については2億ドル相当の日本人の役務及び日本国の生産物を10年間ビルマに提供し、また経済協力として、5000万ドル相当の日本人の役務及び日本国の生産物が共同事業の形で出資されるよう、あらゆる可能な措置を執る義務が課せられました。平和条約第5条1(a)(III)には、他のすべての賠償請求国に対する賠償の最終的解決のときに、その最終的解決の結果と賠償総額の負担に向けることのできる日本の経済力に照らし、公正かつ衡平な待遇に対するビルマの要求を再検討するとの条項が盛り込まれました。これを以て正式な外交関係が樹立され、平和条約並びに賠償及び経済協力協定は、両国の国会承認を経て、1955年4月16日に発効しました。
 (採録文書数7文書)

4 再検討条項の発動をめぐる応酬

 フィリピン、インドネシアといった求償国と締結された同種の協定との不均衡が生じたとして(ビルマの賠償2億ドルに対し、フィリピンは賠償5億5000万ドル、インドネシアは賠償・債務取り消しを含め約4億ドル)、ビルマは1958年4月7日、再検討条項を援用し、総額に関する予備交渉を申し入れました。ビルマが再検討条項を援用するに至った背景には、日本のビルマ米買付縮小による貿易不均衡に対する不満や、ウ・チョー・ニエンらに対抗するウ・ヌらの政権内での勢力拡大が大きく作用していました。日本としては、ビルマの純賠償増額要求が当時国会審議中であったベトナム賠償協定の承認に悪影響が出ないよう配慮しなければなりませんでした。
 1959年9月8日、対日賠償増額要求促進決議がビルマ国会において全員一致で可決されると、ビルマは態度を硬化し、同年12月21日、対日輸入信用状取引の全面停止に踏み切りました。翌1960年2月2日、日本はやむなくビルマ米の増額買付を決定し、同月9日、対日輸入制限を撤廃させるも、両国の関係改善に向けて賠償再検討の交渉の席につかざるを得ませんでした。日本側は3月24日の岸信介とウ・ヌ首脳会談において合意した経済協力方式(低利借款)にて、事務レベルの交渉を開始したいとの意向を、同年5月13日付であらためて書面にて正式に通知しました。ところが、大蔵省内で「長期低利の借款供与は第三国への波及が防ぎきれぬとの見地から、むしろ賠償増額の方が好ましい」との意見が漸次強くなり、実際に経済協力方式にて交渉するまでには至りませんでした。
 1961年1月11日、しびれを切らしたビルマは、従来日本からの賠償増額分を引き当てに考えていた経済4ヵ年計画のプロジェクトを中華人民共和国からの経済技術協力協定(借款)で代替する意向を仄めかすなど、日本側を牽制して揺さぶりをかけ始めました。3日後の14日、日本はようやく国内での調整を終え、純賠償増額の名称を用いず無償供与方式にて交渉開始に応じる旨、在京ビルマ大使を通じてビルマ側へ通知しました。この通知に対して、同年2月28日、在京ビルマ大使から、ビルマは無償供与方式を受諾するもインドネシアの貿易債務取消分を含む総額と同程度およそ2億ドルを増額要求する旨が伝えられました。これを受けて、5月10日、日本はインドネシアとの均衡を考慮した無償供与額案として8000万ドルを在ビルマ矢口麓蔵大使を通じてタキン・ティン蔵相へ正式に提案しました。6月以降、東京において無償供与額に関する事務レベルでの下交渉が重ねられ、11月20日よりビルマよりタキン・ティン蔵相を首席代表とする代表団を東京に迎えて、小坂善太郎外務大臣との間で約2週間にわたって交渉が行われました。しかし、ビルマ側は2億ドル以下では一切合意できないとの立場を崩さず、なんら進展しませんでした。また、東京での交渉に併せて、11月23日からラングーンを訪れた池田勇人総理はウ・ヌ首相との2日間にわたる首脳会談において政治的妥結を試みましたが成果を収めることはできませんでした。
 (採録文書数37文書)

5 賠償増額交渉

 1962年3月、ビルマにおいて、クーデタによりネ・ウィン軍事政権が新たに樹立されたことにより、増額交渉は一時中座するかに見えました。ネ・ウィン政権は外交的には非同盟中立政策を採っていましたが、政権内では中国からの援助を期待する親中派が台頭しつつありました。しかしながら、ビルマ政権内の中核的存在であり、親日派でもあるアウン・ジー准将を頼みとして最終的な交渉を行う方針を日本が決定すると交渉は大きく動き始めました。
 1963年1月14日より、アウン・ジー貿易工業相を団長とするビルマ使節団を東京に迎え入れて、大平正芳外務大臣は無償供与額及び借款額に関して7回に及ぶ交渉を行いました。大平外相と池田総理との事前協議では1億3000万ドルを13~14年をかけて供与することで妥結を試みる方針案でしたが、ビルマ側の粘り強い交渉により、日本側は譲歩を余儀なくされ、1億4000万ドルに等しい日本の生産物及び役務を現行賠償協定期間終了後の12年間に年々均等額により無償の経済協力として供与すること、並びに本協定の発効後6年間に3000万ドルに相当する商業ベースによる借款を提供することでようやく合意に達しました。1月25日の最終会談において、大平外相とアウン・ジー貿易工業相は同合意内容に加え、ビルマは再検討条項の規定に基づくいかなる要求も今後提起しないとする合意に関する覚書にイニシャルしました。
 (採録文書数16文書)

6 経済技術協力協定の署名・発効

 1963年2月、合意に関する覚書に基づき協定文作成の交渉が開始されました。政争によるアウン・ジー准将失脚の報に接して、交渉継続が危ぶまれましたが、ネ・ウィン政権はその後も合意を反故にすることなく協定作成の交渉に応じました。
 ビルマが再検討条項の規定に基づくいかなる要求も今後提起しない旨の文書は、国会の承認を得るものとすること、また日韓問題解決の際の前例となるものであることが望ましいとの観点から、協定とは別の議定書とすることになりました。1963年3月29日、ラングーンにおいて日本側全権委員飯塚定輔(外務政務次官)及び小田部謙一(在ビルマ大使)と、ビルマ側全権委員ウ・ティ・ハン(外務大臣)は、日本国とビルマ連邦との間の経済及び技術協力に関する協定に署名し、同協定は同年10月25日に発効しました。
 (採録文書数16文書)

三 対インドネシア賠償交渉

1 講和会議以後の交渉

 1951年9月のサンフランシスコ講和会議にインドネシアは全権団を派遣し、日本全権団との個別会談と交換公文によって、日本がサンフランシスコ平和条約に基づく賠償を行う意思を有すること、総額及び方式を定める二国間の賠償取極を締結する予定であることを確認しました。講和会議における演説で、インドネシア首席全権であるスバルジョ外相は、占領期間中にインドネシアの被った物質的損害は数10億ドルであると述べ、個別会談で確認された事項を日本側に再度質問した上で、対日賠償請求の意思を表明しました。
 同年12月、インドネシアはジュアンダ運輸相を代表とする交渉団を東京に派遣し、津島寿一外務省顧問を代表とする日本側交渉団との間で翌年1月まで賠償会議を開催しました。インドネシアはこの会議において、(1)戦争損害額、(2)日本の支払うべき賠償金額、(3)賠償の履行方法の3点について妥結を目指しました。各項について日本は、(1)インドネシアの提示した戦争損害額172億ドルの対象期間、内容に合意できないだけでなく、サンフランシスコ平和条約第14条(a)1に規定された通り日本の支払うべき賠償金額は存立可能な経済を維持し得る範囲で決定されるものであり、戦争損害額により規定されるものでないこと、(2)賠償総額は提供すべき役務の種類とその数量、年限によって示されるべきであり、総額を提示すべきでなく、さらに他の求償国の要求が判明しない現段階においてコミットはできないこと、(3)賠償は平和条約第14条に基づいて役務等の手段で行われるべきことの3点を主張しました。両者の主張の隔たりは大きかったものの、翌1952年1月18日に平和条約第14条に基づいた内容の中間協定案が作成されました。協定案は両国の戦争損害に関する双方の見解を併記し、また賠償総額について他の求償国の要求が不明の現段階でその内容を確定することが困難なこと、さらに支払の方法は役務によるなどの内容で両国が同意した旨を明記し、また付属交換公文によって以後の会議で懸案を継続協議することを確認しました。
 賠償交渉が進められた一方で、インドネシア政府はサンフランシスコ平和条約発効と合わせた対日外交関係樹立の準備を進めたが、条約の署名・批准に対するインドネシア国内の国論が二分されたことから、1952年5月にウィロポ新内閣は平和条約の批准、さらに東京で仮署名された中間協定案の承認を保留する方針を決定し、日本政府に通知しました。これにより通常の外交関係が開始されないこととなったため、平和条約発効後は相互に設置される総領事館が純粋な領事事務以外の事項も取り扱い得るとの了解がなされました。
 以後、日本とインドネシア間の賠償交渉は、インドネシア領海内の沈没船舶の引揚に関して交渉を進めることとなった以外は、インドネシアによるサンフランシスコ平和条約の批准、賠償総額問題、賠償としての資本財提供の可否といった諸点で双方の主張が平行線をたどったため、大きな進展を見せませんでした。
 1953年8月に成立したアリ新内閣は、サンフランシスコ平和条約に代わる二国間平和条約の締結を目指す考えを表明し、議会においてこれが承認されました。1953年10月、東南アジア諸国を歴訪した岡崎外相はジャカルタにおいてアリ首相と会談し、二国間での平和条約交渉に同意する旨を伝えるとともに、さらに具体的な賠償総額として1億2500万ドルを内示しました。アリ首相は岡崎外相の示した総額に必ずしも満足しなかったものの、両国の間で平和条約や賠償総額等の基本的な政策課題と中間賠償につき更に交渉が進められることとなり、12月16日には沈船引揚に関する中間賠償協定が署名されました。
 (採録文書数28文書)

2 賠償総額と貿易債務問題の争点化

 岡崎外相の訪問後、1954年1月に国交樹立及び賠償問題を協議する目的でジャカルタに赴任した倭島英二日本政府代表は、基本的事項と中間賠償を並行して協議する方針に基づいてインドネシア要路と接触しました。しかし、一連の接触を通じ、インドネシアが岡崎外相の内示した1億2500万ドルを中間賠償に対応するものと見なし、賠償総額については日本側想定と大きく乖離した金額での要求をなお考えていることなど、認識の隔たりが依然として大きいことが判明しました。
 この頃、オープン・アカウントによるインドネシアの対日貿易債務は約1億5000万ドルに達していました。この内、1954年6月末に支払期限を迎えた約6000万ドルについて、インドネシア政府はその支払を履行しないとの態度をとり、貿易債務問題の解決を賠償問題と関連させることを示唆しました。
 日本はインドネシアの対応を受けて、貿易債務の支払は協定上定められた義務であるためこれを履行すべきであり、賠償問題とは別箇に解決すべきとの申入れを行いましたが、インドネシアはアリ首相以下賠償問題の未解決こそが一連の問題の核心であるとの態度を崩さず、日本から賠償総額について新たな提案がなされないならば以後の交渉は行わないとの態度を示しました。
 日本は他の求償国、特に進展しつつあったビルマ、フィリピンとの交渉を優先するとの判断から、インドネシアとの賠償交渉について当面静観の態度をとることとなりました。1955年4月にはアジア・アフリカ会議(バンドン会議)に出席した高碕達之助日本政府代表とスナリオ外相の間で総額に関して新たな話合いがなされましたが、賠償総額について「ビルマ以上、フィリピン以下」という金額を示唆した高碕代表と、10億ドル(貿易債務は帳消し)と回答したスナリオ外相との見解の相違は依然大きく、それ以上の具体的な進展はありませんでした。
 (採録文書数20文書)

3  賠償と貿易債務の一体的解決をめぐる交渉

 1956年に入ると、フィリピンとの賠償交渉が妥結に向けて大きく進展していたことや、3月に安定した政治基盤を有する第2次アリ内閣が誕生し、同内閣が改めて賠償問題の解決に意欲を示したことから、対インドネシア賠償問題解決の機運が醸成されました。倭島代表は(1)日本による賠償支払、(2)インドネシアによる貿易債務返済、(3)両国間の貿易増進のための必要な措置の実施、(4)二国間平和条約の締結といった原則的事項4点について予め合意することにより、交渉上の阻害要因を取り除いた上で賠償総額の議論に入る交渉方式を意見具申し、政府内の了承を得ました。しかし、具体的な賠償金額に関する報道が日本国内で先行し、当初倭島代表の案に理解を示していたインドネシアがこれらの報道の影響で原則事項の合意よりも日本から総額回答を得ることを優先する方針に転換したことで、上記方式による交渉は挫折しました。その後倭島代表は訓令に基づき具体的に提示可能な賠償金額として2億5000万ドルをアリ首相に回答しましたが、インドネシアから応答はなく、交渉はそれ以上進展しませんでした。
 1957年1月、倭島代表は賠償、貿易債務の一部帳消し、フィリピンと同一条件での民間による経済開発借款を組み合わせた合計5億5000万ドルの独自の賠償解決フォーミュラを構想し、アブドルガニ外相及びスバンドリオ外務次官に提案しました。この提案にアリ首相がフォーミュラの合計金額をフィリピン同等の8億ドルまで引き上げられるならば検討の余地があるとの態度を示したことから、本省は倭島代表の交渉を追認しました。そして、アリ首相の意向を踏まえ、賠償支払2億ドル(支払期間10年)、貿易債務帳消し1億ドル、経済協力5億ドルを組み合わせた総額8億ドルのフォーミュラ案を提示することを決定し、これを妥結金額とするためアリ首相のコミットメントを得るよう倭島代表に訓令しました。
 日本の回答に対してアリ首相がコミットメントを留保したため、その後も倭島・アリ間で折衝が続けられましたが、3月にアリ首相はインドネシアが受諾可能な最終回答として、賠償2億5000万ドル(支払期間10年)、貿易債務帳消し1億1000万ドル、経済協力4億5000万ドルの合計8億1000万ドルを提示しました。両国の想定する総額は大きく近づいたものの、対ビルマ賠償協定の再検討条項を考慮し、賠償金額は同国と同じ2億ドル以上にできないとする日本と、それ以上を求めるインドネシアの要求が折り合わず、その後アリ内閣が内政要因により倒れたことで、日本はアリ最終案を政府方針として継承したジュアンダ新内閣との交渉に臨むこととなりました。
 (採録文書数27文書)

4 岸・スカルノ合意の成立

 1957年7月2日、ジュアンダ首相は岸総理に宛てた親書で賠償4億ドル、経済協力4億ドル(貿易債務1億7000万ドルは帳消しとし、相当額を借款の返済として支払う)の組み合わせによる賠償問題解決を提案しました。日本はジュアンダ提案を受けて対応策を検討しましたが、賠償金額を2億ドル以上とすることは認められないとの従来の方針を維持したことにより、交渉は再度難航しました。
 9月後半に経済外交の総合的施策立案を目的としてインドネシアを訪問した小林中大使は、個人的アイデアとして賠償2億ドル(支払期間10年)、経済協力を目的とする贈与2億ドル(支払期間10年)、民間経済協力4億ドルの合計8億ドルを日本が提供し、インドネシアは貿易債務1億7000万ドルを有利子ローンとして返済する「小林構想(小林私案)」をジュアンダ首相に提案しました。無償の贈与を加えることにより事実上の賠償金額を4億ドルとした小林構想はインドネシア側に好感を持って受け入れられ、日本政府も10月21日、同構想を基礎に交渉を進める方針を決定し、詳細条件について両国事務レベルの折衝が進められました。
 11月27日、インドネシアを訪問した岸総理はスカルノ大統領と会談し、小林構想に基づく賠償解決案を説明しました。この説明を受けてスカルノ大統領は貿易債務を有利子返済した後、贈与に切り換える方式は将来に禍根を残すとして、貿易債務1億7700万ドルを帳消しとし、小林構想の賠償と贈与の合計金額4億ドルから上記帳消し分を差し引いた2億2300万ドルを賠償として、これと経済協力の4億ドルを組み合わせたフォーミュラを提案しました。この提案はインドネシアの利子返済が生じないなど、小林構想に比べ日本に不利なものでしたが、岸総理は即座に同意することを決断し、二国間での合意が成立しました。以後、賠償問題に関する政府代表として岸総理に同行していた小林政府代表とジュアンダ首相との間での協議で細目条件が協議され、12月8日に首脳間の合意内容に基づき、二国間平和条約は戦争状態の終結及び通商上の無差別待遇確保を規定するのみの簡単な条約とすること、賠償支払期間を12年とすることなどの条件を整理した小林・ジュアンダ覚書がイニシャルされました。
 (採録文書数22文書)

5 平和条約・賠償協定の署名・発効

 平和条約及び賠償協定に関する交渉は引き続きジャカルタで行われ、1957年12月21日、日本は平和条約、同合意議事録、貿易債務の帳消しに関する議定書等の日本案を提出しました。27日には賠償協定及び経済協力交換公文等の日本案をインドネシア側に手交し、28日より正式会議が開催されました。翌1958年1月14日に条文交渉は完了し、1月20日にジャカルタで日本側藤山愛一郎全権、インドネシア側スバンドリオ全権が平和条約並びに賠償協定に署名しました。そして、4月15日に批准書が交換されたことで一連の国際約束が発効しました。
 (採録文書数16文書)

四 対フィリピン賠償交渉

1 講和会議以後の交渉

 1951年9月のサンフランシスコ講和会議に参加したフィリピンは、日本全権団との個別会談で賠償を要求する意向を強く示すとともに、講和会議中の演説でロムロ首席代表が日本経済の状況は敗戦直後から大きく回復しつつあるとして、平和条約第14条の内容に不満を述べた上で、対日賠償請求の意思を表明しました。
 日・フィリピン間の賠償会議は1952年1月28日よりマニラで開催されました。フィリピン代表を務めるエリサルデ外相は日本側に対して(1)軍票、人命、財産への損害等を総計した賠償金額約80億ドル(161億5900万ペソ)の要求の承認、(2)10年以上、15年より遅からざる期間内での賠償要求の解決、(3)賠償協定の締結及びフィリピンによるサンフランシスコ平和条約批准前の、部分的ないし中間賠償の提供、この3点を要求しました。日本代表団(代表津島外務省顧問)はフィリピン側要求事項に対し、前2点は資料の不備、更に求償国が出揃わない中で回答できない、(3)は法律的義務発生以前に具体的な賠償措置の実施は不可能であると応酬しました。フィリピン代表団は前2点に関する日本側見解を了承したものの、(3)は国情から譲り得ないとして、その後両国代表団の間で交渉が行われることとなりました。
 2月10日、フィリピン代表団は新提案として日本が賠償支払を行うこと、フィリピンの主張する損害額を日本がテーク・ノートすること、日本がフィリピンの主張する損害額中1割を賠償役務として早期に提供し、残額分の措置は他の求償国の要求を決定した後、両国間で協議決定することなどを要求事項としてまとめた提案を日本代表団に示した後、記者団に対して公表しました。日本代表団は新しいフィリピン側提案には検討の上決定すべき若干の極めて重要な事項が含まれており、本交渉は本国政府に報告すべき段階にあると回答の上、同じく記者団に回答を公表し、両国は更なる議論をその後の交渉に委ねることとしました。
 フィリピンとの賠償交渉はその後しばらく進展しませんでしたが、1952年11月、エリサルデ外相は賠償交渉を進展させることで同国議会内の野党をサンフランシスコ平和条約批准に賛成させうる可能性があるとして、日本が賠償問題解決促進の動きをとるよう要請しました。日本は最終的決定には求償国全体のバランスを考慮する必要はあるものの、フィリピンの平和条約批准に寄与する点を考慮して賠償交渉の進展に同意する旨回答しました。これを受けた具体的な取組としてまず沈船引揚調査団の派遣が進められ、翌年3月12日署名の沈船引揚に関する中間賠償協定に結実しました。
 賠償交渉の早期妥結を求めたエリサルデ外相は、1952年12月、訪比中の倭島アジア局長に具体的な賠償金額として4億ドルの要求額を提示しました。この提案に倭島局長はサンフランシスコ平和条約第14条の原則に基づき役務賠償を積み上げ賠償総額を算出する方式で交渉を進めたい旨応酬し、フィリピンはこの提案を検討することを了承しました。フィリピンは1953年1月、超党派で賠償問題を検討する19人委員会を設置して倭島提案の検討を開始しましたが、同年後半の大統領選挙を控えた国内政治情勢を反映して議論は強硬論に収斂していきました。この結果、4月6日付のエード・メモワールにて、フィリピンは賠償総額等について日本の新たな回答を得られないならば倭島提案を検討しない旨回答しました。
 その後、賠償問題を担当することとなったネリ外務次官(外相代理)は、キリノ大統領の在任中に賠償問題を解決したいとの意向を述べ、日本による総額回答を繰り返し要求しました。フィリピンの意向を考慮し、1953年9月から10月にかけてフィリピンを訪問した岡崎外相は現在提示可能な総額として2億5000万ドルを内示し、帰国後この金額を政府内で正式決定した上で、12月2日にエード・メモワールでネリ次官に提出しました。しかし金額がフィリピン国内で議論されていた水準と乖離があったこと、11月の大統領選挙で野党候補マグサイサイが勝利し、新政権への移行が進みつつある時期であったことなどを受けてフィリピンの反応は乏しく、交渉は進展しませんでした。
 (採録文書数41文書)

2 大野・ガルシア覚書をめぐる交渉

 1954年1月、在マニラ大野勝巳在外事務所長はマグサイサイ新政権のガルシア外相と賠償問題をめぐって非公式交渉を開始しました。交渉は賠償総額として10億ドルを求めるガルシア外相と、既に日本側が回答済みの2億5000万ドルが上限とする大野事務所長の主張が平行線をたどりましたが、大野事務所長が賠償役務を造出するための支払経費と役務の結果に対する評価額を別個に取り扱うとの構想を提示したことで進展を見せました。交渉はガルシア外相が経費を5億ドルへ増額するよう求めたことで再度行き詰まりの様相を見せましたが、4月に入ってマグサイサイ大統領と協議したガルシア外相が4億ドルへの減額案を提示し、日本がこれを受諾したことにより、4億ドルの賠償経費を資本財及び役務で日本が支払い、10億ドルの経済的価値を造出するとした大野・ガルシア覚書が4月15日に署名されました。
 大野・ガルシア覚書の署名と前後し、日本から村田省蔵元在フィリピン大使らを全権とする全権団が派遣され、4月17日よりマニラにおいて日・フィリピン賠償会議が開催されました。しかし第1回会議の開催後、覚書の内容について政府から十分な説明を受けていないとフィリピン議会上院が強く反発したことで、第2回会議の開催は困難となりました。日・フィリピン両政府はフィリピン国内の誤解を解く目的で覚書の詳細内容を確認した交換公文を作成する作業を開始しましたが、上院の意向を受けたフィリピン政府が覚書は交渉の「出発点」であり以後の交渉はその内容に拘束されないとの公文案を示したため作業は中断しました。以後は会議自体が休会状態となりましたが、4月末には新たにフィリピン首席代表に任命されたラウレル上院議員と村田全権との間で非公式会談が行われるなど、交渉再開に向けた機運も醸成されつつありました。しかし、今後の展開を不安視した日本は冷却期間を置くことが適当であるとして、マグサイサイ大統領が賠償支払能力調査団の日本派遣を発表したことを理由に全権団の一時帰国を表明し、賠償会議は一時中断されることとなりました。
 1954年10月、フィリピン大統領府は賠償交渉に関してマグサイサイ大統領に直接責任を負う新たな首席代表にネリ元外務次官を任命することを決定し、前述の賠償調査団が提出した報告書を基礎として交渉を行う旨を日本側に通知しました。日本側はフィリピン国内にレクト上院議員ら対日強硬派とガルシア外相ら穏健派の路線対立があると観察しており、レクト議員に近いネリ代表の任命を強硬派への妥協であると見なしていました。このため、在マニラ在外事務所はネリ代表任命の通知を承認せず、通知が大野・ガルシア覚書の取扱いを明らかにしていないこと、フィリピン外務省とネリ代表の関係が不明であることなどの手続的問題を取り上げて再照会を行なったため、フィリピンがこれに強く反発し事態は紛糾することとなりました。
 11月、マグサイサイ大統領の意向を受けたラウレル議員の打診により、吉田総理とラウレル議員がニューヨークで会談し、交渉再開に向けた調整が行われました。この会談の結果、日本政府から正式にネリ代表任命のアクノレッジと総理個人特使として予備交渉にあたる永野護の派遣がフィリピン政府へ通報されると共に、交渉に向け日本側の人的体制も一新されることとなりました。
 (採録文書数57文書)

3 総額八億ドルフォーミュラの原則合意

 吉田政権から鳩山政権への政権交代や、永野の健康状態といった諸事情により総理特使派遣が遅延しましたため、1955年1月、マニラに着任した卜部敏男在外事務所長代理が今後の交渉に向けてネリ代表と接触を開始しました。ネリ代表は個人的考えとして賠償事業の積上方式による解決を構想している旨を卜部所長代理に伝え、日本もこれに前向きに応じる態度を示しました。この結果、2月末の衆議院総選挙後に日比双方で賠償専門家会議の開催が合意され、3月29日より同会議が東京において開催されました。
 専門家会議は賠償品目の検討を純技術的見地から行う目的で開催されていましたため、日本は今後の課題として総額問題の解決などが浮上する点に関してネリ代表に注意を喚起しました。これを受けたネリ代表はマグサイサイ大統領の判断を仰いだものであるとして、賠償と経済協力を組み合わせた総額八億ドルで賠償問題を解決する方式を提案し、さらに専門家会議の進行促進を名目として自らが訪日し総額問題等について日本の要路と直接交渉することとなりました。
 5月に訪日したネリ代表は、谷正之大使(外務省顧問)他と総額問題等について会談し、資本財による賠償6億ドル(支払期間10年)、寡婦・孤児向け現金賠償2000万ドル、経済協力借款1億8000万ドルという具体的な総額フォーミュラを書簡で提示しました。複数回の折衝を経て、まず同内訳中借款の性質を明確にすべきとの日本側の示唆により、5月23日、経済協力借款を純粋な商業借款とすること、日本政府はこの借款実現に向けて必要な措置をとるなどの諸点を整理した谷・ネリ交換公文が作成され、交渉の焦点は総額フォーミュラに移りました。
 総額フォーミュラをめぐる交渉の中心的争点は金額と賠償支払期間でした。フィリピンは賠償・経済協力の総額を8億ドルとし、そのうち賠償を5億5000万ドル、支払期間15年とすることを主張しましたが、日本は年間支払可能な賠償金額は2500万ドルであると主張して折り合わず、最終的に5月30日夜、谷・ネリ間で支払期間を20年とし、当初10年の賠償支払額を2500万ドル、その後10年の支払額は日本の経済成長を見越して3000万ドルとする案がまとめられました。この案は翌31日にネリ代表より鳩山総理に対して、フィリピン側の最終提案フォーミュラとして示されることとなりました。
 5月31日朝、鳩山・ネリ会談に先だって重光葵外務大臣、高碕経済審議庁長官以下日本側関係者間でネリ代表最終提案に対する鳩山総理の回答案が協議されました。その結果、フィリピン側より同国内の合意取付けがなされたとの通知を受けた後に、日本政府内部を固める考えである旨をネリ代表に回答する方針が決定されました。しかし、実際の会談で鳩山総理はネリ代表の提案に対し「マグサイサイ大統領が本提案に同意するのであれば、自分は賛成する」とより踏み込んだ回答を行い、両者のやりとりを記した書簡が鳩山・ネリ間で交換されました。
 翌6月、ネリ代表は自らの最終提案フォーミュラがマグサイサイ大統領及び議会領袖の了承を得た旨を卜部所長代理に伝達し、両国間で正式提案として発出する大統領書簡の文言調整が行われました。しかし、フィリピン側の動きが活発化しているとの報道を受けて、鳩山総理がフィリピン側に既に金額等について言質を与えているのではないかとの憶測が日本国内で広がりましたため、日本は正式書簡発出まで期間を置くよう求めました。このため、マグサイサイ大統領から鳩山総理宛の正式提案を記した書簡は二か月後の8月12日に発出されました。その内容はネリ代表が鳩山総理に提示したものと同内容の資本財5億ドル、役務3000万ドル、現金2000万ドルを内訳とする賠償5億5000万ドル、経済開発借款2億5000万ドルからなる総額8億ドルの賠償解決フォーミュラでした。
 日本側は正式提案への回答の検討を開始しましたが、この時期与党民主党と野党自由党との間で進展しつつあった保守合同が日本側の交渉方針に影響を及ぼすこととなりました。自由党は正式提案の内容について(1)賠償内容が資本財を主としており、役務賠償を基本とするサンフランシスコ平和条約の原則と合致しない、(2)平和条約で認められていない現金賠償は他求償国との交渉に悪影響を及ぼす懸念がある、(3)借款が予定額に達しない場合、政府に義務違反が生じる懸念が谷・ネリ交換公文では払拭されないという3点を問題視し、その是正を求めました。日本政府は自由党の意向を踏まえ、9月の閣僚協議会で(1)賠償を5億5000万ドルに一本化し、内訳を明示しない、(2)谷・ネリ交換公文の合意内容を修正する、(3)賠償と借款を別協定とするといった諸点の修正についてフィリピン側の同意を得るという交渉方針を決定し、交渉者を派遣する形での再交渉を打診しました。日本から打診を受けたネリ代表は総額表示については妥協の可能性を示唆しましたものの、フォーミュラ再修正の印象を公然と与えることには難色を示し、交渉は卜部・ネリの間で進められることとなりました。
 (採録文書数57文書)

4 卜部・ネリ交換公文の作成

 再修正交渉の中でネリ代表は、賠償内訳や支払方式等の課題を覚書等の文書によって整理する考えを示しました。しかし、内訳を明示した8月の正式提案に条件を付さず受諾することを求めるマグサイサイ大統領の意向や、保守合同が自国に有利な状況をもたらすことを期待したとみられるフィリピン側動静を受けて、しばらく交渉は停滞しました。
 自由民主党結成後の1955年11月、関係閣僚は新たな交渉方針として(1)賠償と経済協力を別協定とする、(2)現金賠償は実質的に生産物または役務であるため、協定文には独立した項目として記載しない、(3)借款は民間商業借款として政府の保証の義務も期間も定めないとした「日比賠償解決要領」を決定し、再度の交渉に臨むこととなりました。
 先述のマグサイサイ大統領の意向や、日本側の交渉態度に不信感を抱いたネリ代表の反発などを受けて交渉は引き続き難航の様子を見せましたため、高碕経済企画庁長官は日本の考えを直接大統領に伝達すべく、エリサルデ商会のマヌエル・エリサルデ社長を通じて現金賠償に関する日本側考えを説明することを試みました。このアプローチは必ずしも奏功しませんでしたが、現金賠償に関する日本側関係者の真意を理解したネリ代表が日本の正式提案受諾に向けて双方の合意事項を交換公文により取りまとめる方針を固め、マグサイサイ大統領の説得についても合わせて尽力することとなりました。
 交換公文をめぐる交渉は1955年12月後半から本格化しました。借款と賠償の関係の表現(借款を賠償と一体の義務と記載するか否か)、日本からの輸入品に対する支払いの際、一部金額を賠償に充当する金額として差し引き、ペソ貨による現金賠償に充当する「オーバー・ザ・カウンター・レシオ」方式の具体的発動条件、借款への日本政府の関与の文言上の表現といった諸点について交渉が行われました。
 案文交渉の長期化によりフィリピン側が日本は遷延策に出ているとの印象を抱きつつあるとの判断から、日本は公文の交換後迅速に鳩山総理が正式提案受諾の書簡を発出する旨を伝達し、1956年3月1日に、(1)将来結ばれる賠償協定において、賠償に関する記載を「役務及び資本財による賠償」に一本化する、(2)民間ベースで供与される借款については、独立した協定として、日本政府はこの借款供与に便宜を与え、且つ促進するに留まる、(3)ペソ貨による現金賠償は賠償協定中に明記しないが、賠償金額中2000万ドルについて、フィリピン政府が究極的にペソ貨を入手可能な方法により日本政府が協定発効後五年間に支払うことを明らかにするなどの諸事項を定めた公文が卜部・ネリ間で交換されました。
 (採録文書数43文書)

5 賠償協定・経済開発協定交渉

 卜部・ネリ交換公文の作成を受けて、日本はフィリピンの正式提案を受諾する旨の鳩山総理書簡発出に向けた作業を開始しましたが、与党内で賠償が通常貿易に与える影響を問題視する意見が出たため、その発出には遅れが生じることとなりました。1956年3月15日、総理書簡は、貿易拡大問題について意見交換を行うためフィリピンに派遣された藤山総理特使より、マグサイサイ大統領に手交されました。
 日比間の賠償協定及び経済開発協定(借款協定)の逐条討議は3月21日から日本案を基礎として開始されました。しかしフィリピン側の意向により盛り込まれた直接契約方式(フィリピンの賠償使節団が日本側業者と個別の賠償契約を結ぶ方式)に伴い発生する日本政府による契約認証行為や日本の裁判管轄権、貿易拡大義務を定めた条項につきフィリピン側が難色を示すなど、技術的な諸点で対立が生じ、経済開発協定も日本政府の義務免責の表現を中心に対立しました。
 最終的に直接契約方式に伴う諸点については、フィリピン側の負う義務を強調しない表現を文言上工夫することなどの措置で合意が成立し、また経済開発協定についても現地で作成された新協定案による交渉を進めたことでその解決を見ることとなりました。署名のための全権団派遣前にフィリピン側が妥結内容を覆すといった事態を回避すべく、4月27日、条文交渉にあたってきた藤山政府代表(協定交渉の途中で政府代表に任命)とネリ代表との間で仮署名が行われました。
 (採録文書数32文書)

6 署名・発効

 仮署名の完了後、両国では署名式に参加する全権が任命されましたが、フィリピン全権団の会議において賠償協定の直接契約方式に伴う裁判管轄権の問題や、民間借款を政府間で規定する経済開発借款協定自体を問題視する意見が噴出し、仮署名した協定の内容による署名が見通せない状況となりましたため、日本全権団の出発は一時見送られることとなりました。フィリピン全権団は最終的に(1)賠償協定は合意議事録を別途作成し、一部の条項について日比両国政府の了解を明らかにする、(2)経済開発借款協定を交換公文とするとの修正方針を決定しました。日本はこれらの修正に同意し、調整が完了した1956年5月9日、高碕全権以下日本側全権5名、ネリ全権以下フィリピン全権13名は協定に署名を行いました。
 以後両国の議会で批准に向けた審議が行われましたが、7月にフィリピン上院は日本の賠償協定義務不履行の懸念があるとして、交渉にかかわる諸文書のすべてを批准書に付属すべきことを要求しました。日本はフィリピン側申入れの時点で協定が国会での批准を終えており、批准書修正はなしえない旨応酬しました。両国の批准書及び批准書交換調書、さらに付属文書を別内容とすることで決着が図られました。これにより賠償協定は7月23日に批准書が交換され、発効しました。この時同時にフィリピンはサンフランシスコ平和条約の批准書を米国に寄託し、両国は正式に国交を回復しました。
 (採録文書数26文書)

五 対ベトナム賠償交渉

1 沈船引揚協定交渉の開始

 1952年5月9日に、ベトナム国はサンフランシスコ平和条約を批准しました。翌1953年1月下旬、プノンペン及びサイゴンを訪問した倭島アジア局長はベトナムの他、カンボジア、フランス政府の当局者と賠償問題について懇談しました。ベトナムは賠償問題の正式交渉が開始されない限りは、公使館を設置して外交関係を開設する意向はないことを表明し、加えて、(1)民間企業と商業契約で進めている、ベトナム領海内で戦争中に沈没した船舶の引揚作業は、ベトナムの賠償請求権の毀損を意味するものではなく、(2)本契約により日本側に引き渡される鉄屑が平和条約第14条にいう原材料の提供と見なすこともあり得る、とする留保事項に同意するよう要請しました。
 ベトナムが要請した二つの留保事項について、日本側は、1953年3月4日付口上書を以て、「第一の留保は外務省の記録に留めおき」、第二の留保は「将来の賠償交渉の際にこれを討議する」旨、在京仏国大使館を通じて回答しました。これを受けて、ベトナムは同月23日、沈船引揚は「対日賠償の全般に関する問題として考慮することに決定したので、交渉を中絶する」と商業契約の相手方の北川産業海運株式会社に対して一方的に通告しました。このベトナムの態度について、日本側は3月30日付口上書を以て、賠償問題と沈船引揚問題は全く別の問題であるとして、ベトナム側に再考を強く促すと共に在京仏国大使館にその斡旋方を要請しました。これに対して、ベトナムは5月19日に北川産業と契約を交わした後、同月29日には、沈船引揚協定締結に向けた賠償交渉開始を日本側に申入れ、北川産業との契約は同申入れに対する日本側の回答を得た上で実施すると口上書を以て通知してきました。このベトナムからの交渉開始の申入れに対して、日本側は沈船引揚協定交渉を6月25日より開始する用意があると回答しました。
 予定通り6月25日より東京において交渉が開始されると、次第にベトナム側の意向が明確となっていきました。すなわち、現段階ではベトナムは単独で求償しているが、その要求の一部については将来インドシナ三国共同の求償もあり得ること、7月27日の第7次会談では、ベトナムとしての求償総額は2億5000万ドル、10年間の分割払いを要求すること、8月13日の第9次会談では、沈船引揚に要する費用は200万ドル止まりであることなどが、ディエム・ベトナム代表より大野参事官らに伝えられました。このベトナム側の意向に対して、日本は9月4日の第12次会談において、ベトナムが提示した総額等に関する言明を撤回させることに成功し、沈船引揚作業の費用はいかなる場合にも225万ドルを超えないとすることで合意しました。同合意を踏まえて、1953年9月16日、日本国とベトナムとの間の沈没船舶引揚に関する賠償協定案の仮署名が行われました。
 しかしながら、ベトナムは仮署名した協定案に修正を加えることを要望して、正式署名になかなか応じようとしなかったことから交渉は中断しました。
 一方で、ベトナムは日本公使館をサイゴンに開設することに同意する旨を、1954年6月14日付で在京仏国大使館を通じて日本に伝えるとともに、1955年2月8日、サンフランシスコ平和条約批准書寄託を了したことを、ベトナム官報にて公布しました。
 (採録文書数23文書)

2 沈船引揚協定の棚上げ

 1955年4月4日、ECAFE総会にベトナム代表として来日していたグェン・ヴァン・トアイ計画相は、米国対外活動局(FOA)資金による対日買付の前提要件となっていた日・ベトナム通商協定の締結交渉に関連して、役務賠償問題の話合いを希望すると伝えてきました。6月27日に、ゴ・ディン・ジエム首相の命に基づき来日したベトナム土木相は、政府の意向として、沈船引揚費用の225万ドルは賠償の一部をなすものであり、引き揚げた鉄屑はサンフランシスコ平和条約第14条による原材料と見なすこと、あらためて賠償総額交渉を希望することを伝えました。しかしながら、ベトナム側からの交渉再開の申入れに対して、日本側は総額問題には深入りせず、ベトナムに沈船引揚以外の賠償請求権を放棄させ、コロンボ・プラン等を通じた経済協力に応じるよう説得に努めるなど慎重な姿勢を崩しませんでした。
 こうした総額交渉に対する日本側の慎重な姿勢を受けて、12月10日、ベトナムは沈船引揚協定を棚上げし、これを商業ベースで契約するとの方針を明らかにしました。また、ベトナム外務長官から「法外なことは決して要求しないから安心ありたい」と賠償金額を多少増額したい意向が伝えられると、再び役務供与による総額交渉再開の申し出がなされました。日本はこの申し出を受け入れ、沈船引揚の商議とこれ以後の総額交渉は関連させないこと、沈船引揚協定で約束した金額(225万ドル)が賠償の大部分であるとの従来の見解を重ねてベトナム側に説明した上で、総額交渉に応じました。外務省は、12月30日、在ベトナム小長谷綽大使を通じて、400万ドルを日本側賠償総額案としてベトナム側へ提示し、先方の希望総額の打診に努めました。しかしながら、この日本側総額案は受諾できないとして、1956年1月6日、ベトナムは戦時中、インドシナにおける軍費調達のために横浜正金銀行に設けられた特別勘定(仏印特別円)の未決済債務残高を、日本が掠奪した金額と解釈し、これを求償額算定の基礎とした総額2億5000万ドルを対案として提示しましたことから、1月9日、外務省は在ベトナム小長谷大使に交渉中止を命じました。
 (採録文書数11文書)

3 植村特使による総額交渉

 賠償総額でまったく折り合いがつかず交渉が難航したことから、ゴ・ディン・ジエム首相は解決の糸口を見いだすべく、賠償問題について隔意なき意見交換のため、日本の有力経済人の来訪を希望しました。ジエム首相の要望を外務省内で調整した結果、植村甲午郎(日本経済団体連合会副会長)に白羽の矢が立ち、1956年3月下旬から4月初旬にかけて経済親善使節団長としてベトナムを訪問することとなりました。植村とベトナム側との非公式会談では、ベトナム公共土木経済相から14業種において日本との合弁形式による経済開発を希望すること、賠償ないし経済協力協定の締結が、仏印特別円に対するベトナムの請求権に影響を及ばさないことなどの要望が伝えられました。4月4日、帰朝した植村は門脇季光外務事務次官を訪問し、今次会談結果を踏まえて賠償及び経済協力の総額4000万ドルを落着点として解決できるのではないかとの見通しを報告しました。ベトナム側が賠償方式に固執せず、借款方式にも応じるなど態度を軟化させてきたことから、日本は、賠償については、フランスが債権を主張している仏印特別円の債務残高を含めず、賠償で実現し得ない計画については政府借款を供与する方針で交渉に臨むこととしました。
 1956年8月30日、日本は新たな総額案を在ベトナム小長谷大使からベトナム外務長官へ提示しました。すなわち住民の生活向上、福祉増進、経済再建に寄与しうるダニム電源開発事業第一期計画分の所要資金3000万ドルのうち、2000万ドル分を賠償及び借款により供給し、うち800万ドル分を賠償として五年間で支払い、残り1200万ドル分については商業ベースによる借款として5年間で提供されるよう日本政府が便宜を図るというものでした。しかしながら、ベトナムは9月18日に日本側の新総額案は受諾できないと回答し、あくまで総額2億5000万ドルを要求する態度をとったことから、賠償問題は再び行き詰まりを見せました。
 こうした閉塞状況を打開し、賠償交渉を速やかに円満解決に導くため、1957年9月27日付で外務省は植村を大使に任命し、10月3日よりグエン・ゴク・トー副大統領との非公式会談にあたらせました。同会談において、植村大使が賠償はダニム発電所第一期計画に2500万ドル、機械工業センターに200万ドル、経済協力借款は3000万ないし4000万ドルとする植村私案を提示したところ、10月7日、ベトナム側はダニム発電所第2期計画及び尿素工場等その他事業までを含めた6600万ドルの賠償と4015万ドルの経済協力借款を要望しました。このベトナム側の要望を受けて、ダニム発電所の第1期・第2期計画を含む賠償4000万ドル、経済協力4000万ドルとする妥協案を植村大使は請訓し、本省は各省事務当局と協議するも、結局意見はまとまりませんでした。
 1957年12月13日、植村は新たな訓令を受けて日本政府代表として再びトー副大統領と交渉を開始しました。植村政府代表は総額4500万ドル(賠償については4000万ドルを最高限度額)を提示して妥結を試みましたが、ベトナム側は、賠償6300万ドルの線をなかなか崩そうとしませんでした。ところが、29日になり、トー副大統領はダニム第1期・第2期計画分の4450万ドル、機械工業センター200万ドルの合計4650万ドルを賠償とし、尿素工場910万ドルを借款とする総額5560万ドルまで譲歩しました。植村政府代表は、賠償額を4000万ドル以内に収めようとさらに交渉を重ねましたが、資金調達難を理由にダニム第1期計画の現地通貨分750万ドルの賠償繰入れにこだわるベトナムを最終的に説得できず、12月31日、帰国することとなりました。
 1958年1月9日、植村政府代表は賠償3900万ドル、ダニム発電所第一期計画現地通貨分750万ドル及び尿素工場910万ドルを政府借款とする総額5560万ドルを植村最終試案として在ベトナム小川臨時代理大使を介して提示しましたが、ベトナム側はやはりこれに応じませんでした。ところが、国会において本件賠償に対する厳しい論戦が繰り広げられたことを受けて、日本政府が衆議院総選挙を控えてしばらく静観する姿勢を示したことから、ベトナムは翻意し、1958年3月3日、植村最終試案をようやく受諾するに至りました。
 (採録文書数47文書)

4 賠償協定・借款協定交渉

 1958年8月14日、在ベトナム久保田貫一郎大使は、植村最終試案に基づく正式案をベトナム側に提示し、賠償・借款協定の作成に向けた交渉を開始しました。しかしながら、日本側の正式案における賠償支払期間、借款の諸条件(利率、開始時期、償還方法等)、仏印特別円に対する請求権の撤回、さらには通商航海条約を締結するまでの暫定的な最恵国待遇の保証に関する規定などに対して、ベトナムはこれを不服として、8月19日、自らが要望するところを修正した対案を示しました。
 一方、国会では南北分断の状況下において、ベトナム共和国がベトナム全領域を代表するかその正統性が論争となっていました。日本政府は将来本協定を国会で通過させるためにも、交渉で得た実利として、是が非でも法的拘束力を伴う形式で最恵国待遇についてベトナム側の了承を取付けたかったのです。そこで日本側は10月17日、最恵国待遇を明記した議定書案についてベトナムが受諾すれば、賠償及び借款条件を譲歩する意向があることを伝えました。しかしながら、ベトナムとしては、賠償協定の交換条件として諸外国に対して一切認めていない最恵国待遇を無理にのまされたとの印象を北ベトナムに与えかねないと懸念していました。それゆえ、最恵国待遇を明記した日本側の文書については通商議定書、交換公文、共同宣言等いかなる形式であっても一切応じられないと終始、強硬な態度を示し続けました。結局、日本はベトナム側の意向を汲む形で、「両国政府は、通商航海条約を締結するため、できる限りすみやかに交渉を開始する」とのみ明記した共同宣言で妥結せざるを得ませんでした。
 また仏印特別円に対する請求権の撤回については、請求権に関する書簡を賠償協定と同時に両政府間で取り交わすことを確認しました。1959年5月5日、賠償協定、借款協定に関する文書全てについてようやく合意が成立しました。
 (採録文書数41文書)

5 署名・発効

 1959年5月13日、サイゴンにおいて藤山全権以下日本側全権3名とヴ・ヴァン・マオ以下ベトナム側全権3名は、3900万ドルに等しい日本国の生産物及び日本人の役務を三年間に提供することを約束した賠償協定に署名しました。また、両政府が合意する計画の実施に必要な日本国の生産物及び日本人の役務を調達するために必要な資金750万ドルを3年以内に貸し付ける政府借款協定に署名するとともに、尿素工場の建設その他計画の実施に必要な経済開発のため、商業ベースによる910万ドル相当の借款(長期貸付またはクレジット)の供与を約束した書簡を交換しました。これら協定は1960年1月12日に発効しました。
 なお、本小項目では、賠償協定の国会審議にかかるベトナムの国家承継や政府承認に関する文書も採録しました。
 (採録文書数16文書)


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