外交史料館

『日本外交文書』占領期全3巻

平成30年5月30日

 『日本外交文書』では,占領期(昭和20~27(1945~52)年)について既に「サンフランシスコ平和条約」全3巻を刊行しています。そのため「占領期」全3巻では,平和条約関連を除く,当該期の諸問題に関する主要な文書を3巻に分けて事項ごとに収録することとし,平成29年1月に第1巻と第2巻を,平成30年2月に第3巻を刊行しました。

 「占領期」全3巻の採録文書数は計872文書,本文2364頁,日付索引を含めた総ページ数は2517頁です。この3冊の刊行により『日本外交文書』の通算刊行冊数は219冊となりました。

「占領期」全3巻の構成

 本巻の掲載事項(目次)は次のとおりです。

  • 一 占領政策への対応
    • 1 降伏文書調印と初期占領政策への対応(昭和20年9月~10月)
    • 2 民主化・非軍事化政策への対応(昭和20年10月~21年5月)
    • 3 経済諸施策への対応(昭和21年5月~24年4月)
    • 4 制限緩和に向けた対応(昭和24年5月~27年4月)

(以上,第1巻)

  • 二 外交権の停止
  • 三 日本国憲法の制定
  • 四 中間賠償
    • 1 対象施設の決定と撤去に向けた対応
    • 2 賠償の緩和から中止までの対応
  • 五 「マッカーサー・ライン」をめぐる漁業問題
  • 六 極東国際軍事裁判開廷までの対応
  • 日本外交文書 占領期 第1巻~第2巻 日付索引

(以上,第2巻)

  • 七 邦人の引揚げ問題
    • 1 一般問題
    • 2 ソ連軍占領地域
    • 3 中国
    • 4 南方地域
  • 日本外交文書 占領期 第1巻~第3巻 日付索引

(以上,第3巻)

「占領期」全3巻の概要

一 占領政策への対応

 本項目では,GHQからの指令を中心に,日本側と連合国側要人との会談記録や,日本の対処方針など,GHQ占領政策の具体的な内容と,それに対する日本側の対応ぶりを示す関係文書を採録しています。なお,本項目は時系列による4つの時期区分(小項目)を設定して関係文書を採録しています。

1 降伏文書調印と初期占領政策への対応(昭和20年9月~10月)

 本小項目は,昭和20年9月2日調印の降伏文書と,同時に手交された指令第一号(一般命令第一号)から始まります。指令第一号は主として軍の降伏・武装解除等を指示したものですが,日本政府は統帥関係以外の事項についても,行政上の措置によって目的達成に努めることを閣議了解で決定しました(9月2日)。
 また,9月2日の夕方には,いわゆる三布告が手交されました。同布告第1号が直接軍政の方針を示したため,翌9月3日,重光外相はマッカーサー司令官と会談して三布告の中止を申し入れ,直接統治の危機を回避しました。
 指令第一号と第二号(9月3日手交)は,日本の降伏によって生じた各種の軍事事項に関する命令ですが,指令第三号(9月22日手交)は日本経済を管理する基本原則で,経済統制・生産・輸出入などに関する基本的な基準を示していました。以後,日本経済はこの指令第三号とその後に出された個別具体的な指令によって非軍事化・民主化の方向へ進んでいくこととなりました。
 9月27日には,昭和天皇とマッカーサー司令官との会談が実現しました。マッカーサーは,日本再建の途は困難と苦痛に満ちていると思うが,日本が戦争を継続することによって被るべき惨害に比べれば何でもないと述べ,昭和天皇の終戦の決断を英断であったと評しました。昭和天皇は,自身も日本国民も敗戦の事実を十分認識しており,今後は平和の基礎の上に新日本を建設するため,自分としてもできる限りの力を尽くしたいと述べました。
 本小項目では,このほか,大本営廃止の指令(9月10日),新聞・放送の検閲方針に関する指令(9月10日),プレスコードに関する指令(9月19日),ラジオコードに関する指令(9月22日),金・銀等の輸出入統制に関する指令(9月22日),金融取引統制に関する指令(9月22日)などを採録しています。

(採録文書数58文書)

2 民主化・非軍事化政策への対応(昭和20年10月~21年5月)

 本小項目は,昭和20年10月4日発出の政治的民事的および宗教的自由に対する制限撤廃に関する指令から始まります。同指令は言論の自由や政治犯の釈放とともに,治安維持法などの廃止,特高警察の解体,山崎内相をはじめ多数の警察関係者の罷免・解雇を求めました。この指令に衝撃を受けた東久邇宮内閣は10月4日に総辞職し,幣原内閣が成立しました(10月9日)。外務省では「自主的即決的施策の緊急樹立に関する件」という文書が作成され,「対米相互信頼感ヲ鞏化シツツ我方ノ自主的発意ニ依リ日本ノ変革更生ヲ具體的ニ実現スルコト焦眉ノ急務ナリ」との認識が示されました(10月9日)。
 10月11日に幣原首相と会談したマッカーサーは,憲法改正の必要を示唆するとともに,五大改革指令(婦人参政権の付与,労働組合の育成,教育の民主化,経済機構の民主化,秘密機構の廃止)を伝えました。GHQはその後,金融および工業企業の解体整理に関する指令(10月20日),日本教育制度の管理に関する指令(10月22日),農地改革プログラム提出に関する指令(12月9日),神道の国家管理廃止に関する指令(12月15日),修身・歴史・地理の教科停止に関する指令(12月31日)などを矢継ぎ早に発出し,民主化・非軍事化政策を推し進めました。
 21年1月1日には,昭和天皇の詔書が発布されました。そこには「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ,終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ,単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ,且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ,延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」とあり,マッカーサーは詔書を評価する旨の声明を出しました。
 1月4日には,極端な国家主義団体の解散に関する指令と公職追放に関する指令が出されました。同年4月の総選挙により自由党が第一党となると,同党の鳩山一郎に大命が降下するはずでしたが,5月3日,鳩山に公職追放令が適用されたため,幣原の後継首相には吉田茂が就任することとなりました(5月16日)。
 本小項目では,このほか,日本政府の行政権が停止する区域を定めた,若干の外郭地域の日本からの政治上および行政上の分離に関する指令(1月29日)をはじめ,政府借入金および歳出削減に関する指令(1月21日),交易営団等の解散に関する指令(3月14日),貿易庁設置に関する指令(4月3日)や,経済問題・食糧問題に関する日本側と総司令部側との会談記録などを採録しています。

(採録文書数92文書)

3 経済諸施策への対応(昭和21年5月~24年4月)

 本小項目は,経済安定本部の設置を承認する旨のGHQ覚書(昭和21年5月17日)から始まります。同覚書に基づき,8月12日には経済安定本部が設置され,物資需給計画の総合調整,監督および推進がなされることとなりました。
 一方で,民主化施策の一つとして推進された労働運動が,インフレと食糧事情の逼迫から先鋭化すると,マッカーサーは大衆による示威運動および無秩序な行動に対する警告の声明を発し(5月20日),共産主義への反対を表明しました。この頃から米国は,日本への経済的救済に積極的となり,食糧,肥料,医薬品などの供給を行うようになりました。
 吉田首相はGHQに対し8月30日,賠償のための産業設備撤去や戦時補償の打ち切りを理由とする失業の深刻な状況を訴え,その解決策は平和産業の復活以外にないと説き,産業復興に資するため,ゴム,棉花,木材など基礎資材の輸入拡大が急務であると要望しました。しかし,米国側の対応としては,22年2月のストライク調査団派遣などによって対日賠償の緩和は図られたものの,貿易制限を緩和し,日本経済の自立化を目指す方向に政策を転換するまでには,さらなる時間が必要でした。
 政策転換の契機となったのは,昭和23年1月6日に行われたロイヤル陸軍長官の演説です。ロイヤルは日本を極東における全体主義戦争の脅威に対する防壁とするため,経済的に自立・安定させる必要があると説きました。極東委員会のマッコイ議長も対日経済援助の方針を明らかにしました(1月21日)。これに伴って貿易制限の緩和が進み,5月28日には貿易庁と外国商社等との間の直接交渉の許可に関する指令が,8月9日には輸出手続きの簡素化に関する指令が発出されました。
 他方,日本経済の自立のためには財政の健全化が求められ,7月15日,米国から経済十原則が提示されました。さらに12月には経済九原則と経済安定計画が示されました。これにより単一為替レートの早期設定を梃子として日本経済の安定を図り,インフレを一挙に収束させる方針が明確にされました。昭和24年2月に来日したドッジ経済顧問は,日本経済の安定を最優先課題とし,強力なインフレ収束策を打ち出しました。また4月23日には,単一為替レートの設定に関する指令が出されました。
 本小項目では,このほか,農地改革の促進に関する指令(23年2月4日),ヤミ物資問題の解決を図った,重要物資明細書の作成に関する指令(23年2月21日)と,それに対する日本政府の対応ぶり,ガリオア・エロア輸入物資に伴う見返資金の特別会計を日本銀行内に設定するよう命じた指令(24年4月1日)などを採録しています。

(採録文書数79文書)

4 制限緩和に向けた対応(昭和24年5月~27年4月)

 本小項目は,昭和24年5月25日に外務省総務局が作成した文書「対日管理緩和に関する米国の提案について」から始まります。同文書は,米国政府が対日管理を緩和し,外交と通商政策の面で自由を与える旨の勧告を発表したとの外電報道を受け,本件につきGHQ外交部から聴取した内容をまとめたものです。その際,GHQ側は,領事官的な代表者と貿易官の在外への派遣につき,派遣場所・人数・費用概算を通報してほしいと日本側に非公式な照会を行いました。その後,日米間で協議の結果,翌25年2月9日,米国に在外事務所設置を許可する旨の指令が発出され,先ずニューヨーク,サンフランシスコ,ロサンゼルス,ホノルルに在外事務所が設置され,以降,米国以外へも漸次設置されることとなりました。
 また25年2月26日の総司令部発表で,国際会議またはこれに関連する国際協定に対するわが国の参加が認められました。これは相手国が日本の参加を認めることが前提条件となり,会議や協定が「専門的」なものであって,政治的な内容は含まない点で制限的なものではありましたが,外交機能の回復に一定の進展が見られました。さらに26年2月13日には,各国が連合国最高司令官に対して派遣した在日外交代表との直接連絡を日本政府に許可する旨の指令が発出され,英・仏・中など20か国の代表との直接折衝が可能となりました。
 一方,不振に陥っていた対外貿易については,24年秋に米国商務省のフリールを団長とする使節団などが来日し,振興策を検討の結果,対外貿易を民間に移して手続きを簡素化し,銀行事務を日本側銀行に移して外国為替の集中を図り,フロア・プライス(輸出最低価格)制を撤廃するなど,次々と具体策が実施されました。これによって,24年10月21日には民間輸入に関する指令が,同年12月1日には自由輸出貿易の許可に関する指令が出され,民間貿易の正常化が進みました。
 また,邦人の海外渡航手続きについても,25年1月5日の指令で,海外渡航申請の受理事務が日本政府に移管され,さらに26年6月2日の指令で日本政府に旅券発給権限が与えられました。そして平和条約調印後の26年11月16日には,海外渡航許可権の日本側への移譲に関する指令が発出されました。
 本小項目では,このほか,地方軍政部の廃止をめぐる関係文書や,25年6月6日付の吉田総理宛マッカーサー書簡(日本共産党の中央委員全員の公職追放指令,いわゆる「レッド・パージ」),25年7月8日付の吉田総理宛マッカーサー書簡(朝鮮戦争の勃発に伴い,警察予備隊設置・海上保安庁増強を要請),26年12月5日の若干の外郭地域の日本からの政治上および行政上の分離に関する指令の一部改正についての覚書(日本の行政権が及ぶ範囲を北緯30度から29度へ拡大)などを採録しています。

(採録文書数78文書)

二 外交権の停止

 日本政府は終戦後も中立国(スイス,スウェーデン,ポルトガル,バチカン,アフガニスタン,アイルランド)との外交・領事関係は維持されるものと考えていました。しかし,昭和20年10月25日の指令で,在中立国日本公館の財産・文書の連合国への引渡しと,外交官の退去を命じられ,次いで11月4日の指令によって,日本国と中立国との外交関係を停止するよう命じられました。この指令について日本側はGHQに説明を求めましたが,GHQの回答は,現在の日本国に対する軍事占領ならびに最高司令官の権限と相容れないので,中立国政府の意向にかかわらず,外交関係を停止すべしという一方的なものでした(11月18日)。日本側はやむなく本件指令を実施するよう,関係公館へ訓令しました。
 また,12月10日の指令で,日本政府は外国に駐在する日本側の外交官・領事官とのあらゆる通信連絡を禁止されました。こうして日本の外交機能は全面的に停止し,外国との交渉はすべてGHQを通じて行うか,またはGHQが日本に代わって行うこととなりました。
 本項目では,在中立国公館の対応ぶりを含め,これら関係文書を採録しています。

(採録文書数50文書)

三 日本国憲法の制定

 昭和20年10月4日,マッカーサーは近衛国務相に憲法改正の必要を示唆し,さらに10月11日には幣原首相にも同様の見解を示しました。これを受けて幣原内閣では,松本国務相を主任として憲法改正の研究を進めました。一方,外務省内でも憲法改正の検討が進められていましたが,10月11日付で「憲法改正大綱案」と「帝国憲法改正問題試案」が作成されました。
 松本国務相を中心に進められた研究のうち,「憲法改正要綱」を英訳した「Gist of the revision of the constitution(「憲法改正松本案」)」が,翌21年2月8日にGHQへ提出されました。ホイットニー民政局長は2月13日,松本・吉田両大臣に対し,「松本案」を全く受諾できないと述べた上で,持参したGHQ側の憲法草案を提示して,天皇制擁護との関連性をほのめかしつつ,同案の内容・形式を押し付けるものではないが,日本国民の要望に合致するものと信じると述べました。
 松本は2月18日,「憲法改正案説明補充」を提出して,日本の国情や民情に即した改正の必要性を訴えましたが,GHQ側はこれに応じず,GHQ草案の原則を承認するかどうか,早急に回答するよう求めました。日本側は2月22日,GHQ草案を変更せずに日本式の字句表現を用いた草案を起草することを閣議決定し,作成した改正案(「3月2日案」)を3月4日にGHQに手交し,4日から5日にかけて双方で逐条審議を重ねました。その結果,「憲法改正草案要綱」が作成され, 3月6日に発表されました。
 その後,日本側では「憲法改正草案要綱」の条文化作業を進めましたが,その過程で条文の修正や解釈をめぐってGHQと協議を行い(4月2~15日),調整の結果,4月17日に日本政府は新憲法草案(「4月17日案」)を発表しました。この新憲法草案は枢密院の審査を経て,6月25日,衆議院本会議に上程されました。金森国務相は衆議院において「国体に変化なし」と答弁しましたが,GHQはこの答弁は極東委員会の誤解を生むとして,金森国務相に対して7月17日,「主権在民」を条文に明記するよう求め,数次の会談の末,前文と第1条に「主権在民」を示す文言が加えられました。その後,衆貴両院での条文修正を経て,日本国憲法は11月3日に公布されました。
 本項目では,日本国憲法制定に至るGHQとの折衝経緯を示す関係文書を採録しています。

(採録文書数43文書)

四 中間賠償

 占領期における対日賠償は,ポツダム宣言第11項に示された実物賠償主義に基づき,平和経済の維持に要する産業は残しつつ,生産設備を撤去して戦争遂行能力を削ぎ,撤去した設備をアジア諸国に移設して生活水準の向上を図るという方式がとられました。本項目では,ポーレー使節団の来日を中心とする対象施設決定に至るまでの経緯と,米国の対日政策の変化等に伴って賠償対象が緩和され,最終的に停止されるまでの経緯につき,2つの小項目を設定して関係文書を採録しています。

1 対象施設の決定と撤去に向けた対応

 昭和20年11月,賠償問題研究のため,対独賠償委員会米国代表であったポーレーを首席とする特別使節団が日本に派遣されました。日本側は同使節団との接触に努め,賠償が短期であり複数回にわたらないこと,最低程度の民需を満たすための施設維持が認められることなどを確認しました。12月7日,ポーレーは中間報告を発表し,撤去すべき産業の枠組みを示しました。日本側は日本経済に大きな打撃を与える内容であるとして改善を要望しましたが,軍需産業に転用可能な部門については,日本側要請を全く受けつけない厳しい態度が示されました。日本側は賠償能力に関する調書を提出して日本側の限界を示す一方で,賠償協議会を設立して賠償実施に備えました。
 21年1月のGHQ指令に基づき,各産業部門において賠償対象の予定物件が管理下に置かれ,5月13日の極東委員会声明を皮切りに,11部門にわたる賠償対象施設が順次決定されていきました。21年11月に提出されたポーレーの最終報告は,日本産業にとって基礎産業の縮小による輸入拡大,輸出能力の削減,雇用環境の悪化などが予見される,極めて憂慮すべき内容でした。また賠償の基準となる日本国民の生活水準については,22年1月,極東委員会が「1930~34年の水準」を許可すると声明しました。
 本項目では,このような賠償対象施設の決定に至る経緯と日本側の対応を示す関係文書を採録しています。

(採録文書数59文書)

2 賠償の緩和から中止までの対応

 昭和22年4月3日,極東委員会米国代表のマッコイ少将は,中国・フィリピン・オランダ・イギリスの割り当てについて即時取り立てを実施すると声明しました。これを受けてGHQは,日本の賠償能力の3割に当たる施設を移設するとの方針を示し,同年12月10日付の指令で施設撤去が開始されました。
 他方,米国陸軍省の委嘱によってストライク調査団が22年2月に来日し,ポーレー案を含む従来の取り立て案と日本経済の現状との比較研究を始めました。同年8月に再来日したストライク調査団は翌23年2月,日本経済の自主再建を重視した報告書を提出し,軍需施設を除き,有効活用が可能な施設は撤去すべきではないと勧告しました。23年3月にはドレーパー米国陸軍次官とともにジョンストン調査団が来日し,翌4月,日本経済の早急な自立を勧告する報告書が提出されました。日本政府は,賠償関係がストライク報告よりも大幅に緩和された同報告を支持し,同報告こそ日本経済の非軍事化・再建・自立と東亜経済の安定を合理的に満足させる案であるとの覚書をロイヤル米国国務長官に提出しました(24年2月)。
 やがて24年5月12日,極東委員会のマッコイ少将は,今後一切の賠償撤去を終止し,賠償指定施設の平和産業への転用を提案する声明を発表しました。これに対し,極東委員会内には中国やフィリピンからの反対がありましたが,結局,既に撤去に着手している施設を除き,賠償撤去は実質的に中止されるに至りました。その後,日本政府の申し入れにより,対日平和条約の発効をもって,すべての賠償施設について賠償のための管理保全が解除されました。
 本項目では,このような賠償施設の撤去開始から中止に至るまでの経緯を示す関係文書を採録しています。

(採録文書数50文書)

五 「マッカーサー・ライン」をめぐる漁業問題

 終戦直後,指令第一号によってすべての日本船舶の航行が制限されましたが,漁船操業については段階的に制限が緩和・拡張され,昭和20年11月,GHQにより日本漁船の操業区域(いわゆる「マッカーサー・ライン」)が設定されました。その後21年6月には,従来の漁区が約2倍に拡張となり,24年9月にはさらに拡張が許可され,東方のまぐろ漁場についてはほぼ戦前の範囲を航行できるようになりました。また,25年5月には漁業船団を派遣しての母船式まぐろ漁業の赤道水域までの操業が認可されました。なお,マッカーサー・ラインは,日本側の要望もあり,サンフランシスコ平和条約発効の直前(27年4月25日)に撤廃されました。
 本項目では,マッカーサー・ラインをめぐる漁業問題に関する関係文書を採録しています。

(採録文書数18文書)

六 極東国際軍事裁判開廷までの対応

 昭和20年9月11日,GHQは東条英機を逮捕するとの発表を行い,同日さらに東郷茂徳ほか38名を逮捕すると発表しました。9月13日,重光外相はサザーランド参謀長に面会し,戦争犯罪容疑者は日本側において裁判に付し処罰する意向を申し入れましたが,GHQ側の容認するところとはなりませんでした。その後も,11月から12月にかけて,松岡洋右,広田弘毅,近衛文麿ら70名以上の逮捕指令が出されました。
 日本側では12月,連合国側の要求に応じ,戦犯問題の資料を提供して意思疎通を図るため,外務省内に法務審議室を設置しました。同室内には外務省,第一,第二復員省,司法省の総務局長クラスで構成される委員会が設けられ,戦犯問題の対応につき連絡・打合せが行われました(法務審議室は翌21年1月に終戦連絡中央事務局の戦犯調査室に改編され,委員会も戦争裁判連絡委員会と改称)。
 マッカーサーは21年1月19日,極東国際軍事裁判所の設置命令を発しました。同裁判所は東京に置かれ,極東における重大戦争犯罪人に対して,平和に対する罪,通常の戦争犯罪,人道に関する罪の裁判を管轄するものとされました。極東国際軍事裁判は21年5月3日に開廷しますが,外務省は5月1日,外交問題に関する審理において外務省の正当な立場を明らかにするため,戦犯裁判研究委員会を設置し,訴因ごとに研究を行うこととしました。
 本項目では,極東国際軍事裁判が開廷されるまでの日本側対応ぶりを中心に,関係文書を採録しています。

(採録文書数25文書)

七 邦人の引揚げ問題

 本項目では,在外各地からの邦人の引揚げ問題に関し,日本政府とGHQとの交渉を中心に,現地の情勢に関する報告や,抑留・徴用への日本政府の対応ぶりに関する文書などを含め,4つの小項目を設定して関係文書を採録しています。

1 一般問題

 本小項目では,全般的な引揚げ方針に関するGHQとのやりとりを中心に関係文書を採録しています。また,米軍の進駐に伴う朝鮮南部の状況,朝鮮人および台湾人の帰還問題に関する文書も本小項目で採録しています。
 昭和20年8月14日,日本政府はポツダム宣言の受諾を連合国へ通報しましたが,これに伴い,海外に滞在する邦人に終戦を周知することが急務となりました。終戦の詔書が渙発されると,外務省は直ちに各在外公館へ詔書を通報し,その趣旨を体して行動を十分自重するよう命じ,あわせて在留邦人へもこの趣旨を十分説明して自重を促すよう訓令しました。また外務省は詔書を英訳し,赤十字国際委員会に依頼して,敵国ないし断交国に残留する邦人に対する周知を試みました。
 在外日本国軍隊の復員について日本側は8月31日,連合国最高司令官総司令部に覚書を提出し,兵員数が多く,しかも広範な地域に分布していること,治安不良の地域があること,輸送力の不足が著しいことなどから,連合国の理解と積極的援助を求め,兵力の輸送順位については,給養の逼迫した地域と傷病者を優先するよう要望して,総司令部の原則的な了解を得ました。
 在外邦人の引揚げについては8月31日の終戦処理会議において,できる限り現地での共存に努力することを第一義とし,やむを得ず引揚げる者には便宜を与えて速やかに引揚げる方途を講じることを決定しました。また9月5日の閣議で,軍隊および居留民の帰還輸送に対しては,現有稼動船腹の相当数を充当し,連合国の協力も求めることとし,居留民の輸送順序は,各地の治安・気候・自活等の諸条件を勘案し,まずは満州・朝鮮および中国方面を優先的に処理すると決定しました。
 日本政府は9月29日に日本軍隊および居留民の引揚げ実施要領案をGHQに提出し,その後GHQは10月16日,日本人の引揚げに関する基本指令を発出しました。この指令では,軍隊の移動を第一優先とし,民間人の移動は第二優先とされました。これに対し日本政府は同25日,民間人であっても傷病者や老幼婦女子などは,軍隊の引揚げ完了まで現地に留めれば一層の困窮を加えることとなるので,優先的帰還につき配慮してほしいと要望しました。GHQは29日,指令は軍事上の必要に基づくものであるから原則は変更しがたいとしつつも,連合国側の現地司令官が地方的事情に応じて措置することは妨げないと回答しました。日本側ではこの旨を中国等に駐在する外交官に伝達し,現地での善処を訓令しました。
 引揚げ者に対する内地受け入れについてGHQは,10月15日付け指令をもって,指定港に受入事務所を設置するよう指令しました。これを受けて日本側は,復員軍人,一般引揚げ邦人,帰国外国人に関する一般的措置は,厚生省が主管し関係各省がこれに協力することとし,指定港に地方引揚援護局およびその出張所を設置して,出入港における保護,収容,検疫,食料・物資の供与等の業務を行うこととしました。
 各地からの引揚げはその後漸次進捗し,昭和21年7月末には,ソ連軍の占領地域を除く各地域からの引揚げはほぼ完了する見込みとなり,これを受けて地方引揚援護局は順次廃止されることとなりました。昭和24年7月時点での統計では,軍人については約301万人が帰還し,未帰還者のほとんど全部がソ連地区に残されていました。また一般邦人は約314万人が帰還しました。
 昭和27年3月18日,日本政府はサンフランシスコ平和条約の発効を目前に控え,従来はGHQの基本指令に基づいて処理してきた海外からの邦人引揚げについて,GHQ指令が平和条約発効に伴って失効しても,政府は従前の例に倣い,その輸送と受け入れ援護等の措置に万全を期する旨を閣議決定しました。また外務省は同年7月11日,南方地域や台湾には自己の意志に基づいて残留した邦人が相当数いることから,これら残留者で正式な残留許可を取り付けていない者に対しては,当該国の対日感情や国内法との関係を十分に勘案しつつ,漸次正式残留の許可を得るべく斡旋していく方針とし,関係公館へその旨を訓令しました。

(採録文書数97文書)

2 ソ連軍占領地域

 ソ連軍が占領した満州および朝鮮半島北部では,昭和20年8月下旬以降,日本軍の武装解除や従来の行政・警察機関の機能喪失によって治安の悪化が深刻となりました。ソ連は「日本のポツダム宣言受諾と同時に朝鮮における日本の統治権は消滅した」との解釈によって,朝鮮総督府の行政権を朝鮮民族執行委員会へ引き渡すよう命じ,行政機関の日本人官吏や警察官を多数抑留しました。
 日本政府は朝鮮北部の事態改善をGHQへ要請するとともに,利益保護国であるスウェーデンを通じて,ソ連政府に対し,ソ連軍占領地域における一般邦人保護や邦人官吏・警察官の抑留解除を要請しました。しかしソ連は9月8日,「日本の降伏により日本の国際的地位は完全に変更したので,ソ連における日本の利益保護に関する問題は根拠を失った」との見解を示して,スウェーデンの仲介を受け付けず,これを受けてスウェーデン政府も利益保護事務は終了した旨を日本に回答しました。
 9月13日,重光外相はサザーランド参謀長に面会し,人道的見地より邦人保護・引揚げについてソ連当局への斡旋を要請しました。しかしGHQを通じた日本側申し入れに対してソ連は回答をせず,GHQも好意的態度は示しましたが,単に取り次ぎのみで影響力を及ぼすことは困難との立場でした。また日本政府は現地ソ連官憲と折衝するため,亀山一二参事官の平壌派遣をGHQへ要請しましたが,ソ連が応じず,派遣は認められませんでした。
 昭和21年4月末にソ連軍が全満州から撤退し,重慶政権と中国共産党の両軍が抗争しながら満州へ進出すると,5月以降,重慶政権軍の勢力下(瀋陽,長春地区)では還送業務が開始されました(10月完了)。また同年12月19日,ソ連地区引揚げに関する協定が米ソ間に成立し,12月以降,ソ連地区からの引揚げが開始されました。しかし,冬季の中断や米ソ対立の影響もあって帰還事業は順調には進みませんでした。その間,日本政府はGHQ,赤十字国際委員会,ローマ法王庁など,様々なルートを通じて帰還促進を模索しましたが,昭和24年末に至っても相当数の邦人が未帰還のままとなっていました。
 昭和25年4月22日,タス通信がソ連地区からの送還業務の完了を突如報道すると,日本政府はこれを反駁する声明を発表し,ソ連政府に生存残留者の引揚促進を求めるとともに,ソ連領土内での邦人抑留者の死亡情報につき正式回答を求めました。その後,対日講和が進むと,日本政府は昭和26年6月19日,国連総会議長宛て吉田外相書簡をもって,未帰還邦人の帰還促進につき国連の斡旋を要請しました。しかし,昭和26年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約にソ連が署名しなかったため,ソ連地区の未帰還邦人帰還問題は講和後も引き続き懸案事項となりました。
 本小項目では,これらソ連軍が占領した地域(満州・北緯38度線以北の朝鮮)における邦人の引揚げに関する文書を採録しています。なお,項目末尾に参考として「満洲国の終焉と在満邦人の状況」を収録しました。

(採録文書数86文書)

3 中国

 本小項目では,満州を除く中国における邦人の引揚げに関する文書を採録しています。
 日本がポツダム宣言を受諾すると,中国では重慶政権と中国共産党の両軍が相競って日本の勢力圏内に進駐し,各個に武装解除を要求する事態となりました。日本政府は昭和20年8月20日,連合国最高司令官総司令部に対し「日本はポツダム宣言履行の意志はあるが,作戦行動停止後の中国情勢に鑑み,秩序維持・一般民衆保護のため日本軍は適宜の措置をとる意向である」と通報しました。
 8月21日,湖南省芷江で重慶政権側と会談した今井支那派遣軍総参謀副長は,先方から岡村同軍総司令官宛ての「備忘録第一号」を手交されました。この命令書には,中国戦区,台湾および北部仏印の日本軍人・官民すべての還送と善後処理の責任者を岡村とすること,蒋介石あるいは何応欽の指定する部隊以外に日本軍は投降せず,武装解除を受けてはならないこと,重慶政権の責任者が到着するまでは日本軍は原駐地の治安を維持すべきことなどが指示されていました。
 外務省では8月29日,管理局において方針案「在支居留民利益保全対策ノ件」が作成され,「居留民はなるべく中国に帰化するよう取計うこと」,「現地本邦系事業は賠償の一部として中国側が接収後,本邦人企業者及び従業員等はこれをそのまま中国側で使傭するよう取計うこと」との方針が策定されました。
 重光外相は9月1日,南京の谷大使へ訓令電報を発し,近く予定される岡村・何応欽会談において,在留邦人を差別待遇せず定住させること(「帰化」は省内に反対があり訓令から削除),総領事館等の存続を認めること,日本資本の事業を賠償の一部とし,本邦人の技術・経営技能を活用することなどにつき,中国側の了解を取り付けるよう措置を命じました。
 本省の現地定住方針に対しては,中国各地在勤の外交官から,資金,住宅,食糧,治安などの観点から定住困難者が多数に上る見込みが具申されました。本省側は9月3日,現地事情は十分了解するが,長年の地盤を有する者や技術を有する者は可及的定住を切望すると回電しました。一方で南京では,9月4日に大使館と軍が協議した結果,岡村司令官から何応欽総司令宛ての覚書をもって在留邦人の定住や総領事館等の存続を要請することとしましたが,中国側から「日本側の苦衷は了解するが,正式書面による要望提出は中国側の立場を困難にし,かえって日本側のためにならない」との内意が示されたため,覚書の提出を見合わせることとしました。
 9月9日,南京で岡村・何応欽間に降伏文書が調印され,翌10日には岡村・何応欽会談が実施されました。同会談で何応欽は,技術者の残留については中国側の命に従えば問題ないと答えました。またその後の折衝において中国側は,領事館等を正式に承認することはできないが,外部に然るべき説明が付くのであれば従来どおりの機構を保持して差し支えないと回答しました。
 邦人の還送事業は11月から始まり,翌21年6月末までに中国からの計画輸送は完了となりました。ただし,中国には技術者を中心に多くの残留者がありました。昭和22年4月段階での中国残留邦人は,中国本土約8000名,台湾約4000名と推定され,それらの大部分は技術者としての留用で,そのほかに約1000名の戦犯容疑者が残留するとされました。
 なお,南京の日本大使館は昭和20年10月22日,外交部によって接収されましたが,これに先立つ10月19,20の両日,宋子文行政院長と会談した堀内干城臨時代理大使(谷大使の活動は中国側に認められなかった)は,接収された日本人経営工場の再開が中国の経済復興にとって有益であるとの意見を示しました。その後,堀内は大使館閉鎖後も上海に留まり,技術者を中心とする残留邦人の保護と将来の日中関係に向けた基礎作りのため,中国側との折衝に当たり,昭和23年末,中国の内争が激しさを増す中,主立った居留民と共に日本へ引揚げました。

(採録文書数103文書)

4 南方地域

 昭和20年9月2日にGHQが発出した一般命令第一号では,東南アジア・太平洋地域の降伏は,以下のとおりと定められ,それに基づいて各地域で降伏文書が調印されました。

  • アンダマン諸島,ニコバル諸島,ビルマ,タイ国,北緯16度以南の仏印,マレー,スマトラ,ジャワ,アラフラ海の諸島,セレベス諸島,蘭領ニューギニアなど→東南アジア軍司令部最高司令官
  • ボルネオ,英領ニューギニア,ビスマルク諸島,ソロモン諸島→濠洲陸軍最高司令官
  • 日本国委任統治諸島,小笠原諸島及他の太平洋諸島→合衆国太平洋艦隊最高司令官
  • フィリピン→合衆国太平洋陸軍部隊最高司令官

 終戦直後の動向としては,タイにおいて9月8日に連合軍の命令が発せられ,その中で日本人居留民は軍人軍属とは別に抑留される旨の指示があり,また9月11日にはタイ政府から大使館機能の即時停止が通知されました。仏領インドシナでは9月中旬,現地公館の検討で,在留邦人に対しては引揚げを原則としつつも,軍進駐以前から在留する邦人などには残留を積極的に勧告すべきとの指導原則が立案されました。一方,北部仏印では政治情勢が緊迫化したため,ハノイの小長谷総領事は9月23日,近い将来に海防へ引揚げ船を回航するよう要請しましたが,外務本省は輸送船の不足から相当期間の待機を要する旨を回訓しました。
 昭和21年1月から2月にかけてタイ・ビルマを除く南方地域を視察した沼田南方軍総参謀長は,帰還準備が進捗しつつあった3月3日,南方各地における一般邦人の残留希望者が少なくない点を指摘し,希望者の残留実現に向けた政府の尽力を要請しました。
 その後,一般邦人の引揚げが進む中で,東南アジア地域で特に問題となったのは,イギリス軍など連合国軍の管下で降伏した日本軍部隊が作業隊として徴用され,帰還が遅れていたことでした。日本政府はGHQを通じて帰還の促進を要請し,昭和22年7月15日,英国側から同年末までに帰還を完了する旨が通報されました。
 本小項目では,これら南方地域における邦人の引揚げに関する文書を採録しています。なお,項目末尾に参考として「終戦前後に於ける南洋群島概況」を収録しました。

(採録文書数34文書)


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