外交史料館

概説と主な展示史料

平成27年5月18日
吉田正春言上に対するペルシャ国王の返答の勅語

 1878年(明治11年)、榎本武揚(えのもと・たけあき)駐ロシア公使が、ロシアでペルシャ国王(ガージャール朝の第四代ナーセロッディーン・シャー)および総理大臣と会見したことが、明治の日本とペルシャとの交流のきっかけとなりました。特使派遣を知らせる井上馨(いのうえ・かおる)外務卿からペルシャ外務卿への通牒(1880年4月1日付)によれば、この榎本公使とペルシャ国王との会見をきっかけとして、両国間に通商協定を結ぶ機運が生まれ、交易の準備として、まずは商況調査のための使節団が派遣されることとなりました。
 特使に選ばれたのは、外務省御用掛の吉田正春(よしだ・まさはる)でした。吉田は幕末の動乱に際して土佐藩の改革にあたった吉田東洋(よしだ・とうよう)の息子で、東洋が土佐勤王党によって暗殺された後は後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)(明治政府で官僚・政治家として活躍)のもとで育てられた経歴をもっており、幕末から明治初期にかけての動乱を体感してきた人物でした。使節団には、吉田を団長として、参謀本部から派遣された古川宣譽(ふるかわ・のぶよし)陸軍工兵大尉、大倉組副社長の横山孫一郎(よこやま・まごいちろう)や同社員の土田政次郎(つちだ・まさじろう)、七宝焼陶器や小間物、金銀細工の商人が参加していました。
 一行は1880年4月に、インド洋での演習に向かう軍艦「比叡」で東京湾から出発し、5月にはペルシャ湾岸のブーシェフルに到着しました。その後吉田と横山はバグダッドへと旅行した後、再びブーシェフルに戻って古川らと合流し、7月の下旬から9月にかけてシーラーズ、イスファハンを経てテヘランへと北上の旅を続けました。
 吉田使節団の道中はまさに冒険というべき苦労の旅でした。途次、砂漠で遭難しそうになったり、現地人に医者と間違えられたり、険しい崖道を夜闇の中命からがら進んだり、といった稀有な体験をしながら、テヘランに到達したようです。
 一行は同年9月27日、ペルシャ国王ナーセロッディーン・シャーに謁見しました。この時に国王が吉田に与えた言上は、国書として日本側に渡されました。その国書には、両国はお互いに「亜細亜州」の国として、その心情は一致すると述べられていました。
 この時の会見の模様は、吉田が帰国後に提出した「謁見始末」に詳しく報告されています。吉田はまた、政府に提出した報告書に基づき『回疆探検 波斯之旅』(1894年発行)という書籍を著しました。国王はアジアでともに近代化をめざす国として日本に強い関心を示し、日本の政体・徴兵制度・鉄道建設など様々な問題についての詳細な質問を行ったことが「謁見始末」に記されています。この会見は、外国からの訪問者に対する会見としては異例の長時間に及んだということです。

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