外交史料館

令和3年5月20日

 『日本外交文書』は、戦後期について、「サンフランシスコ平和条約」シリーズ(全3巻)、「占領期」シリーズ(全三巻及び関係調書集)、「国際連合への加盟」を刊行済みです。これらの既刊につづく本書は、外交史料館が所蔵する「特定歴史公文書等」から、日華平和条約の締結交渉および同条約に関連した実務協定交渉に関する主要な関係文書を選定し、編纂・刊行しました。
 本書の採録文書数は計330文書、本文627頁、日付索引を含めた総ページ数は677頁です。本書の刊行で『日本外交文書』の通算刊行冊数は222冊となりました。

本巻の構成

 本巻の掲載事項(目次)は次のとおりです。

  • 一 中国問題に関する吉田書簡
  • 二 河田全権委員の派遣をめぐる折衝
  • 三 双方による条約案の提示(2月18日~3月19日)
  • 四 条文をめぐる応酬(3月19日~4月17日)
  • 五 最終合意の成立(4月17日~28日)
  • 六 調印・発効
  • 七 平和条約に関連した実務協定交渉
    • 1 通商関係
    • 2 海運問題
    • 3 漁業問題
    • 4 航空連絡問題
  • 日本外交文書 日華平和条約 日付索引

本巻の概要

一 中国問題に関する吉田書簡

 1951年(昭和26年)12月に来日したダレス米国特使の主任務は、米国議会における対日平和条約の批准を促進するため、日本政府が中国との講和問題に関して、当時国連に議席を有していた中華民国政府(台湾)と交渉する意思があるかを確認することでした。ダレスの打診に対し、吉田総理は原則として異存はないと回答し、協議の結果、吉田総理からダレス特使宛の書簡(いわゆる「吉田書簡」)が作成され、12月24日付で発出されました。
 吉田書簡には、「わが政府は、法律的に可能となり次第、中国国民政府が希望するならば、これとの間に、かの多数国間平和条約に示された諸原則に従って両政府の間に正常な関係を再建する条約を締結する用意があります。この条約の条項は、中華民国に関しては、中華民国国民政府の現実の支配下に現にあり又は今後入るべき領域について適用あるものであります。われわれは、中国国民政府とこの問題をすみやかに探究する所存であります」と記されていました。
 この書簡は、米国上院外交委員会における対日平和条約の審議開始にあわせて、1952年1月15日(日本時間では16日正午)に公表されました。
 なお、日本政府はサンフランシスコでの平和会議直後の1951年9月19日、駐日中国代表団に対し書面をもって台北への在外事務所設置につき了承を求め、同27日にその同意を得ました。同年11月17日、台北に在外事務所が開設され、12月上旬、初代事務所長として木村四郎七が着任しました。
 (採録文書数18文書)

二 河田全権委員の派遣をめぐる折衝

 台湾の中華民国政府は、吉田書簡を歓迎し、直ちに条約締結交渉を開始したいと日本政府に申し入れてきました。日本側は1952年1月26日、条約交渉の全権として河田烈の派遣を同政府へ内報しました。日本側は全権派遣の目的を「桑港平和条約の諸原則に基づき国民政府との間に戦争状態を終結し、懸案を解決するための条約締結交渉」にあると説明しましたが、中国側は、吉田総理が1月下旬、議会答弁で上海への在外事務所設立などについて言及したことに不満感を示し、結ばれる条約の名称は「平和条約」でなければならないと主張しました。
 日本側には「平和」という字句を使用すれば中国全般の関係に及ぶと解され、吉田書簡と異なる性質となるとの懸念があり、中国側へ河田全権派遣の了解を正式に求めた吉田総理から駐日中国代表への書簡(1月31日付)にも「平和条約」の名称は明示しませんでした。中国側は2月4日付の返書において河田全権の派遣を応諾しましたが、その後も「平和条約」という名称に固執したため、2月13日に木村事務所長が葉外交部長と会談し、河田全権には平和条約の交渉権限がある旨を口頭で説明しました。
 これに対し中国側は2月14日、交渉権限を示す書面を河田全権が台北に携行し、全権委任状の認証の際に提示するよう求めました。日本側はそのような要求には応じがたいと回答しましたが、河田全権の出発ぎりぎりまで検討を重ねました。その一方でシーボルド米国大使を通じて米国に事情を通報し、些細な点に拘泥せずに交渉を開始するよう中国側への仲介を依頼しました。ランキン駐華公使が葉外交部長と会談したことが、米国側から2月16日午後5時30分に伝えられると、同日午後9時、河田全権は台北へ向け出発しました。
 (採録文書数43文書)

三 双方による条約案の提示(2月18日~3月19日)

 条約交渉は2月18日の第1回非公式会議から始まりました。2月19日、全権委任状の認証に際して、全権の権限に関する双方の立場を示した合意文書を取り交わし、権限問題は決着をみました。
 2月20日の第1回正式会議において中国側は条約案を提起しました。この第1次中国案は22条からなる長文のもので、サンフランシスコ平和条約にならって、中国に直接関係ない条項や賠償、戦争犯罪人等に関する条項を含んでいました。日本側は、用意していた簡潔な6条案に比して懸隔があまりに大きいことから、まずは非公式会談を重ね、意見交換に努めることとしました。
 非公式会談では、日本側は基本的立場として、(1)条約は両国の戦争状態を終結して国交を回復することを目的とする簡潔なものであること、(2)双務的であること、(3)吉田書簡の線に沿うべきこと、の3点を堅持し、台湾の中華民国政府を一つの政府として取扱い、大陸関係問題を明示しないという方針で臨みました。一方、中国側は、(1)国民政府が中国の正統政府であること、(2)サンフランシスコ平和条約の連合国と同等の待遇を受けること、(3)条約の名称を平和条約とすべきこと等の立場を主張しました。
 第2回正式会議は、日本側が平和条約の名称使用を暫定的に認めることで、ようやく3月1日に開催されました。ここで日本側は全六条の条約案を提出し、その後、双方は条約案の逐条審議に入りました。逐条審議は3月7日午後に終了しました。
 日本政府は3月7日、吉田書簡に基づくわが方立場にもとらぬ限り中国側の意向を充分織り込んで円満妥結に到達するよう努力すべき旨を河田全権に訓令しました。この訓令を受けた河田全権は3月10日、平和条約の名称使用を正式に認める旨を葉部長に通報しました。
 また倭島英二アジア局長が台湾に赴き、日本政府の意向を全権団に伝達した上で、3月12日、日本側は13条の条約案と交換公文案からなる第2次提案を行いました。新提案の主眼点は、(1)中華民国は賠償請求権をすべて放棄すること、(2)戦争犯罪条項は削除すること、(3)適用範囲については中華民国政府が現に支配し、又は今後支配すべき地域に限る旨の規定を交換公文に入れること、(4)両国間の問題でサンフランシスコ平和条約の諸原則を適用することによって解決可能なものは、右原則に沿って処理する旨の規定を交換公文に入れること等でした。
 中国側は、十分研究した上で回答すると答え、(1)賠償は他の連合国並みの待遇を得たいこと、(2)適用範囲の規定のワーディングに不満なこと、(3)中国案第21条(将来日本が他の連合国に与える待遇に均霑しうるとの規定)を条約の本条として認めること、の3点を申し述べました。
 (採録文書数33文書)
 なお、本項目の末尾に参考として、在台北在外事務所が作成した「日華条約交渉日誌(3月17日まで)」を採録しました。

四 条文をめぐる応酬(3月19日~4月17日)

 中国側は新提案を受領したまま、沈黙を守っていましたが、米国上院の対日平和条約批准の動き、日本側の態度などを勘案し、3月21日、条約本文と議定書1、交換公文1からなる中国側第2次提案を行いました。この提案は日本側第2次案を骨子とし、これに中国側第1次案第21条の受益規定を加え、役務賠償放棄の規定と通商条項を議定書に落し、適用範囲の規定を交換公文としたものでした。中国側は提案に当たり、これ以上の譲歩は行うことができない旨を示唆しました。その後、交渉を重ねた結果、妥結案ができあがり、日本側全権団は3月25日、政府に対して同案での妥結について請訓しました。
 日本政府はこの請訓案に関して検討したが、交渉の基調である吉田書簡の線をなお逸脱している規定(受益規定、賠償規定、適用範囲、戦争始期、協力政権財産及び在華日本外交機関財産等)があるため、3月27日、イギリスとの関係も顧慮して、大陸関係事項を排除するよう詳細な回訓を送りました。全権団は回訓に基づいて第3次案を作成し、中国側に手交しましたが、中国側は失望の色を示し、その後しばらく回答を返しませんでした。
 4月2日に至り、中国側は日本側提案に対する詳細な覚書を手交しました。日本政府はこの覚書に見られる先方の態度とそれまでの交渉経過とに鑑み、中国側が大陸関係事項の明示を依然として固執するのであれば、一切大陸事項に触れない案文を考慮せざるを得ないと考えました。そこで4月4日、新案文に関する訓令を送り、なおかつ新案文の重要性を考慮して、倭島局長を再度台北に派遣して政府の意向を伝達することとし、同局長は翌5日、台北に出発しました。
 全権団は倭島局長から政府の意向を聴取した結果、直ちに新案文に関する提案を行わず、従来の条約案を修正した案で中国側を納得させる方針を固め、交渉を継続しました。その結果、4月16日に14条の条約案、議定書1(受益規定の適用上の注意点及び通商条項)、交換公文4(適用範囲、航空暫定措置、拿捕船処分、協力政権財産処分)、4項目の議事録(役務賠償放棄、通商関係、在華日本外交機関財産処分)、及び戦争犯罪人に関する規定を除去することへの感謝表明等よりなる成案につき両全権間で非公式に了解点に到達しました。よって全権団はこの案で承認を得たき旨を政府に請訓しました。
 (採録文書数31文書)
 なお、本項目の末尾に参考として、在台北在外事務所が作成した「日華条約交渉日記」のうち、1952年3月17日から4月16日の部分を採録しました。

五 最終合意の成立(4月17日~28日)

 日本政府は、請訓案が最終案的な色彩が濃く、河田全権が内諾を与えている事情も考慮しましたが、(1)吉田書簡の文字を変更している部分があり、(2)交換公文及び議事録中になお大陸関係事項が明示してあり(協力政権及び在華外交機関関係の財産処分)、(3)一部に字句の修正又は追加の必要があることから、条約文と議定書はそのままで異存ないが、(1)と(2)については条文を日本側提案のとおりとし、議事録に双方の主張を留めおくことで妥結するよう回訓しました。
 その後の字句修正交渉で中国側が固執したのは次の3点でした。すなわち、第1は条約の適用範囲に関する交換公文中、「現に支配し又は今後支配する」の「又は」を「且つ」と変更すること、第2は議事録に満州国や汪政権などのいわゆる協力政権の在日財産を中華民国政府に引渡すと明記すること、第3は在華旧日本外交機関の財産をサンフランシスコ平和条約第14条(a)2の除外例としないことを議事録で明らかにすること、つまりこれら財産を中華民国政府に引渡すことの3点にありました。
 中国側は第1の問題については、「又は」という表現では将来中華民国政府が大陸に支配力を及ぼし台湾より離れた場合にこの条約が台湾に適用されなくなるのではないかとの懸念をもちましたが、日本側はその懸念が杞憂であることを縷々説明し、「又は」を「且つ」と変更することは、吉田書簡の文字の変更となり、日本として受け入れがたいとの立場を堅持しました。結局、交換公文では日本側の主張通り表現を変更せず、議事録の中で「又は」という字句を「且つ」の意味を有しうるものと述べることで了解が成立しました。
 第2の協力政権財産の処分については、中国側は正統政府としての立場を維持するため、右財産の承継者としてこれを自己に引渡すべき旨を議事録に明記することを強く要求し、交渉の最大難問となりました。日本側は財産処分そのものに関心があるのではなく、協力政権の問題は中国本土に関係した問題で、台湾のみに支配力を有する中華民国政府との間の条約で今日これを明記することは適当ではないとの観点から反対しました。結局、両当事国間の合意ができたときに引渡しうる旨を議事録中に陳述することで合意が成立しました。
 第3の在華外交機関の財産処分については、日本側は協力政権問題と同じく大陸関係事項として議事録中に右財産の処分に関する陳述を入れることに反対しました。しかし交渉の最終段階において、これは解釈に関する陳述であって、財産の処分に直接触れるものでないと考え方を整理し、条約締結を促進するため、議事録中に右解釈を述べることに同意を与えて了解が成立しました。
 (採録文書数33文書)
 なお、本項目の末尾に参考として、在台北在外事務所が作成した「日華条約交渉日記」のうち、1952年4月17日から4月28日の部分を採録しました。

六 調印・発効

 こうして交渉は意見が完全に一致し、4月28日、対日平和条約発効に先立つ午後3時30分、14条の条約、議定書1、交換公文3、合意議事録に対し署名が行われました。その後8月5日、台北において日華平和条約の批准書が交換され、ここに条約の発効に至りました。当初、中国側は批准書交換に際しては付属文書すべてを含むこととしたいとの希望を表明しましたが、日本側は先例に従い、条約と議定書のみ批准書の交換を行うべきと主張し、そのように執り行われました。
 また条約発効に伴い、日華双方は大使交換を行うこととなり、日本側は発効直後に政令により大使館を設置し、木村事務所長を臨時代理大使に任命することとしました。中国側は7月17日、初代大使として董顕光の任命内定とともに、張群総統府秘書長を蒋介石総統の個人的特使として日本へ派遣する旨を通報してきました。日本側が調べたところでは、蒋介石は再三にわたり張群に大使就任を慫慂したが、張が固辞したため、自由な立場から日本側と話し合いをする目的で渡日することとなったといいます。日本側では、平和条約で規定された実務協定に関する交渉の見通しや経済協力関係の樹立につき話し合いを行うべく準備を進めました(張群は8月2日~9月21日の間、日本滞在)。
 (採録文書数31文書)
 なお、本項目の末尾に参考として、外務省が作成した「日本国と中華民国との間の平和条約の説明書」を採録しました。

七 平和条約に関連した実務協定交渉

 日華平和条約では、調印後に締結に努めるものとして、第7条で通商条約または通商協定を、第8条で民間航空運送協定を、第9条で漁業協定がそれぞれ挙げられています。これら関連の諸交渉は平和条約締結後に行われました。このような日華平和条約に関連した実務協定交渉を4項目に分けて関係文書を採録しました。

1 通商関係

 日台間の通商関係は、占領下の1950年9月6日、GHQと中国代表間に貿易協定と支払い協定が成立し、これによって規定されていました。これら協定はサンフランシスコ平和条約の発効と同時に失効するため、1952年4月24日、日中間で書簡を交換し、将来新たな通商協定を締結するまで現行協定の規定に準拠して律すべきことで合意しました。
 日本側では協定そのものに大きな不満はありませんでしたが、貿易協定に付属する貿易計画については、台湾産品の輸入価格が国際価格よりもかなり割高であることや、輸出入の船積み指定権を事実上中国側が独占していることにつき、協定の改定交渉において是正を求めました。改定交渉は難航し、ようやく1953年6月13日、新しい貿易取極・支払い取極が成立し、新貿易計画の中で海運の契約自由が規定されました。しかし、実際にはその後も中国側による海運独占が継続されたため、日本側は1953年から54年にかけて、台湾糖や台湾米の輸入をめぐる交渉において、購入価格の引き下げとともに輸送における海運の平等を提起し、中国側が海運問題は貿易交渉と切り離して別途協議したいと申し出たことから、1954年12月から翌年1月にかけて台北で海運会議が開かれることとなりました(同会議を含む海運問題の関係文書は「2 海運問題」で採録)。
 一方、日華平和条約の不可分の一部をなす議定書の第2項では、平和条約発効後1年間、両国間の通商航海関係を規律すべき取極が定められましたが、1年後の期日が迫っても、これに代わるべき通商航海条約は締結交渉すら開始されませんでした。日本側では議定書の取極について著しく不便な点は認めませんでしたが、今後益々進展すべき日華経済関係一般を規定するためには簡略に過ぎるので、新たな通商航海条約の締結が必要であるとの意見でした。しかし新条約の締結交渉には相当な時日を要すべく、その間に議定書の取極が失効し、無協定状態となれば、日華経済関係に甚大な支障を生ずることを懸念し、中国政府に対し通商航海条約の締結交渉開始と、右条約締結まで現行取極を延長することを申入れました。交渉の結果、1953年7月18日、議定書第二項の効力延長に関する議定書が調印されました。
 (採録文書数56文書)

2 海運問題

 前述のように、日台間の海運は占領下で成立した貿易協定によって中国側の独占状態にありましたが、日華平和条約の成立を機に、日本側は対等な関係を求めてその是正に努めました。1953年3月の台湾糖の輸入交渉では、定期航路の砂糖積載船につき日本側40%で合意し、不定期船の比率でも日本側30%となりました。
 さらに1954年夏の台湾米の輸入交渉において、日本側は海運平等を提起し、中国側が海運問題は貿易交渉と切り離して別途協議したいと申し出たことから、1954年12月から翌年1月にかけて台北で海運会議が開かれました。その結果、1955年1月7日に日華海運に関する覚書が調印され、定期航路は原則平等、不定期船はコメ5対5、それ以外は4対6と取り決めました。
 (採録文書数33文書)

3 漁業問題

 1952年4月にマッカーサー・ラインが撤廃されると、日本の漁船による台湾近海への出漁が増大しました。これに対し中国外交部から、台湾沿海は軍事的理由から禁漁区域となっており、日本漁船の同区域への出漁は警戒中の中国海軍と問題を起すおそれがあるのみならず、触雷の危険もあるので、日本政府から当業者に注意ありたき旨申し越しがありました。
 日本側は5月19日、「国民政府が交戦権に基づいて台湾沿海に禁漁区域を設けることは、右区域が公海に及ぶものである限り、国際法上、わが国はこれを認めることはできないが、平和条約調印済みの今日でもあり、その軍事的要請も了解できるので、わが方としては法律上の問題は別として、関係の水域に出漁する漁船について事実上必要な自制措置をとる等を研究する用意がある。ただし中国側が、この種の区域を今後恣意的かつ無制限に拡大することは他国との関係悪化のみならず、わが国の重要産業たる漁業を著しく制限することにもなるから、右区域は軍事上の最小限度に限られるべきである」と回答しました。
 一方、1952年1月に吉田書簡が公表されると日華両政府間に経済合作の気運が醸成され、日本側では合作の最初の事例として漁業合作を重視し、関係省庁や当業者による準備委員会を立ち上げました。その上で1952年5月28日、岡崎外相から台北の木村事務所長に対し、中国側の意向を確認するよう訓令が出されました。この訓令では漁業合作と平行して漁業協定の締結も進める方針で、協定は漁業の制限よりも漁業発展を図るための合作を中核とし、これに公海漁業の自由原則や漁業資源の保存のための必要措置などを加えたものとしたいとの考えが示されました。
 この訓令に対する木村所長の報告によると、中国側には対日経済合作への懐疑心が強く、漁獲増産の観点から合作に積極的な米国側とも良好な関係にはなく、漁業協定については外交部がようやく検討を開始したばかりで、合作も協定も時期尚早との観測でした。7月には米国MSA使節団の来日を機に、日華双方の当業者が話し合いをもちましたが、実利の少ない合作に日本側当業者はあまり乗り気ではなく、その後、合作の話は立ち消えとなっていきました。また協定交渉についても、1953年6月、中国大使館員の内話から中国側に漁業協定を締結する意向が当面ないことが明らかとなりました。
 また、終戦後に中華民国当局が拿捕・抑留した日本の漁船は、1952年5月現在で合計53隻(4887トン)、うち返還されたもの22隻(2023トン)、未返還のもの29隻(2688トン)、沈没したもの2隻(176トン)と推定されていました。日本側は日華平和条約交渉の際にこれら漁船の返還・賠償を重視し、平和条約の付属交換公文において、これら漁船に関する日本側の請求権が、サンフランシスコ平和条約の締結前にGHQ及び日本政府を一方とし中華民国政府を他方とする交渉の主題となっていたことを確認し、今後もこの交渉を継続して、日華平和条約の規定とは無関係に解決することで合意をみていました。
 1953年8月27日、日本側は交渉開始を申し入れましたが、中国側は事実調査を行いたいとして直ちには交渉に応じず、日本側の再三の督促にも準備が整わないと回答しました。同年12月、日本側は口上書をもって交渉開始につき具体的討議を申し入れましたが、中国側はこれに何ら回答しませんでした。芳沢大使は1954年9月14日付の公信で、金門島での戦闘や逼迫する台湾財政に鑑み、当分の間、本件解決は困難との見通しを報告しました。
 (採録文書数31文書)

4 航空連絡問題

 1952年9月、日本は日華平和条約に基づき、航空協定の締結交渉開始を中国へ申し入れました。これに対し中国側は1953年2月、日本が希望するような詳細な規定を定めた正式協定ではなく、交換公文の形式による簡単な暫定取極としたいとの意向を内示してきました。日本側はこの希望を容れて、まずは簡単な暫定取極を結んで台湾乗り入れを可能にし、その後に正式協定の締結を図るとの方針で臨むこととし、同年8月27日に第1回の非公式交渉が東京で開催されました。その後、交渉が進められ、1954年秋にはほぼ合意に達し、さらに細部を詰めた上で、1955年3月15日、航空業務に関する交換公文が成立しました。
 (採録文書数21文書)


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