外交史料館
国際連合への加盟
『日本外交文書』は、戦後期について、「サンフランシスコ平和条約」シリーズ(全3巻)および「占領期」(全3巻及び関係調書集)を刊行済みです。上記シリーズにつづく本書は、外交史料館が所蔵する「特定歴史公文書等」から、1951年(昭和26年)の対日平和条約調印以後、1956年に日本の国連加盟が実現するまでの主要な関係文書を選定し、編纂・刊行しました。
本書の採録文書数は計521文書、本文614頁、日付索引を含めた総ページ数は666頁です。本書の刊行で『日本外交文書』の通算刊行冊数は221冊となりました。
本巻の構成
本巻の掲載事項(目次)は次のとおりです。
- 一 平和条約調印後における国連加盟問題
- 1 第六回総会へのオブザーバー参加
- 2 第七回総会における加盟申請
- 3 第八回・第九回総会と新たな加盟方式の検討
- 二 第十回総会における国連加盟問題
- 1 AA会議決議を受けた関係諸国との連携
- 2 十八国一括加盟案をめぐる米ソ等の動向
- 3 一括加盟の成立に向けた諸措置
- 4 総会・安保理における審議
- (1)総会
- (2)安全保障理事会
- 三 第十一回総会における国連加盟の実現
- 1 第十一回総会に向けた活動
- (1)AA諸国および英連邦諸国への働きかけ
- (2)安保理における単独加盟の検討
- 2 日ソ交渉の妥結による加盟問題の進展
- 3 加盟の実現
- 1 第十一回総会に向けた活動
日付索引
本巻の概要
一 平和条約調印後における国連加盟問題
本項目では、1951年9月の対日平和条約調印以後、第6回~第9回国連総会を機会として行われた、国連への加盟申請および加盟実現に向けての各国への働きかけや加盟方式をめぐる各種検討につき、三つの項目を設定して関連文書を採録しています。
1 第6回総会へのオブザーバー参加
1951年9月8日に調印された平和条約の前文において、日本国は国際連合に加盟を申請する意思を宣言し、連合国はその意思を歓迎することが謳われました。しかし、同様の平和条約をもって加盟申請を行ったイタリアやフィンランド等が「平和条約が効力を生じていない」ことを理由にソ連の拒否権に阻まれ未だ加盟を果たせずにいたことから、日本の加盟もまた容易ではないことが予想されました。このため、同年11月より開催された第6回国連総会には萩原徹在パリ在外事務所長をオブザーバーとして出席させると共に、同年末より、常時国連との連絡を行うため国連代表部事務所開設に向けた活動に着手、翌年10月9日、ニューヨークに仮事務所を開設して武内龍次公使を国際連合日本政府代表に任命しました。
本小項目では、第6回総会へのオブザーバー派遣および代表部事務所の設置をめぐる総司令部外交局や国連事務局とのやりとりに関する文書を採録しました。 (採録文書数23文書)
なお、本小項目の末尾に参考として、1951年末頃に「平和条約調印後の外交政策審議要項」の一部として作成されたものと思われる「国際連合に関する外交」を採録しました。
2 第7回総会における加盟申請
1952年4月28日に平和条約が発効したことを受けて、6月16日、日本政府は正式に国連への加盟申請書を国連事務総長に提出し、ソ連等共産圏の5国を除く国連加盟諸国(55国)に対して申請支持を求める申し入れを行いました。
9月2日、安保理においてソ連の一括加盟提案(日本は含まれず)の討議が行われ8日に否決、12日には日本の単独加盟申請を審議することが決定されました。同審議においてはソ連を除く10国の賛成発言がありましたが、ソ連は時期尚早として日米を激しく攻撃しました。18日の採決では10国が賛成、しかしソ連の拒否権行使により日本の加盟勧告決議案は否決されました。
この結果を受けて、今後も米ソ間で妥協が成立しない限り正式加盟は困難と見た日本は、米国提案の「準加盟方式」の検討に着手、非公式な「技術的研究の成果」であることを強調しつつ、具体案の骨子を米側に提示しました。他方、日本と同様に国連加盟を目指すイタリア・ドイツ両代表は本方式に対して極めて冷淡な反応を示しました。
こうした中、11月25日、岡崎外務大臣は在米国新木大使に対し、日本政府として、国連総会に日本の国連加盟資格を承認する決議案が提出されることを期待している旨、米国側に伝えるよう訓令しました。同決議案は、12月15日米国より正式に提出され、21日の総会において可決されました。
本小項目では、1952年6月の加盟申請、加盟各国に対する支持取り付けのための働きかけ、加盟勧告決議案の提出からソ連の拒否権発動に至るまでの各種情報の収集、国連加盟承認決議案をめぐる国連内外での様々な動きに関わる文書を採録しました。
(採録文書数67文書)
3 第8回・第9回総会と新たな加盟方式の検討
1953年3月にスターリンが死去し、冷戦緩和の兆しが見られるようになると、国連加盟問題好転への期待も高まっていきました。「準加盟方式」については、米国側が積極的な姿勢を見せたのに対し、日本は、依然として正式加盟を第一希望とし、これが到底困難との見通しとなった場合にのみ準加盟の方針に切り換えるとの立場を堅持していました。
同年9月より開催された第8回総会では、各国代表が日本の加盟問題について言及し、中でも注目されたのが、日本加盟に反対の立場にあるソ連のマリク代表が第7回総会時の攻撃的な発言振りに比べて「著しい態度緩和」を見せたことでした。
また、第9回国連総会開催を控えた1954年5月、日米両国は国連加盟促進のための新たな検討を開始、日本側が共産圏諸国を含めた一括加盟案の受入れ可能性を打診したのに対し、一括案には応じられないとする米国側からは新たにResident Representativeという方式が提案されました。しかし同方式の内容は「準加盟方式」と大差ないものであったことから、未加盟国・加盟国からの十分な賛意を得られず、総会において多数の賛成を得られる見込みなしとして米国が提出を見合わせる結果となりました。
本小項目では、米国提案による準加盟方式の検討、加盟をめぐるソ連代表団との応酬、ソ連の一括加盟案に対する各国の動向等に関する文書を採録しました。
(採録文書数62文書)
二 第10回総会における国連加盟問題
本項目では、第10回国連総会において加盟に向けて日本がとった措置について、四つの小項目を設定して関連文書を収録しています。
1 AA会議決議を受けた関係諸国との連携
1955年4月に開催された第1回アジア・アフリカ会議(AA会議)の最終コミュニケ(4月24日付)において、AA諸国のうち日本その他の国連未加盟国に関する加盟促進が決議されました。また、6月にサンフランシスコで開かれた国連10周年記念総会でも、AA会議参加国を中心とする29の国々が祝賀演説に加盟問題の解決を盛り込み、うち5国は日本にも言及しました。
第10回国連総会は同年9月20日から開催され、多くの国が一般演説で新規加盟問題に言及するなど、問題解決の気運が高まりつつありました。そのなかでソ連は、加盟問題打開策として、西欧諸国に共産圏諸国とモンゴルを加えた16国の一括加盟案を提示しました。しかしそこに日本は含まれておらず、ソ連は日本側に対し、加盟のためには日ソ国交正常化交渉妥結が先決であると言明しました。また、米国は、一括加盟には応じられないとの態度を維持していました。
そうしたなか、国連カナダ代表は、米ソの融和と国連の普遍的な加盟をともに満たす案として、ソ連案に日本とスペインを合わせた18国一括加盟案を提議しました。しかし、米国は一括加盟に反対であり、ソ連も日ソ交渉を優先する立場を崩しませんでした。
本項目では、AA会議決議を背景とした支持取り付けに向けての動き、日本の加盟を実現するための情報収集や関係各国への働きかけについての文書を収録しました。
(採録文書数46文書)
なお、本小項目の末尾に参考として、1955年6月に欧米局第六課が作成した「ソ連関係執務報告」から、日ソ国交正常化交渉開始に至る経緯を抜粋収録しました。
2 18国一括加盟案をめぐる米ソ等の動向
1955年10月27日から始まったジュネーブでの米英仏ソ外相会談では、国連加盟問題も協議される可能性があったため、日本側も事態の推移を注視しました。加盟問題は同会談の機会に非公式に話題となり、特にカナダが提案した18国加盟案に注目が集まりました。
18国案は、国連への普遍的加盟を唱える多数の国々によって支持を獲得していました。日本としても18国案によって加盟を成し遂げることを目指し、その成立に向けて、提案国のカナダと緊密な連絡をとりつつ、同案の支持取り付けのため様々な働きかけを行いました。
18国案においては、モンゴルの加盟をめぐる対立があらわになりました。米国は、18国のうちモンゴルを除く17国を支持するとの声明を発表するなどしてソ連を牽制しましたが、ソ連はこれに反発し、18国が例外なく加盟すべき立場を堅持すると宣言しました。また、中国(当時国連に議席を有していた中華民国政府(台湾))は、モンゴルについては加盟を認めないとの態度を明確にしていました。
そうした状況の下で11月16日、カナダをはじめとする25の国々によって、総会に18国一括加盟案が提出されました。
本小項目では、ジュネーブ外相会談での加盟問題関係の情報収集や、米ソ説得のための日本及び各国の働きかけに関する文書のほか、棄権方針をとるフィリピンから支持を得るため日本側が同国に賠償問題解決の保証を与えた経緯についての文書も収録しました。
(採録文書数70文書)
3 一括加盟の成立に向けた諸措置
モンゴルを除く17国案を追究する米国に対して、日本からも日本国民の対米感情などを材料として説得に努めたことから、1955年11月下旬に至って、米国にもモンゴルに対する棄権方針を示唆するなど、態度緩和の兆しがあらわれました。
そうしたなか、中国はモンゴルへの反対に固執し、11月29日にはモンゴルに対する拒否権行使を発表するとの行動に出ました。日本は中国に対して、東京・台北・国連代表部においてそれぞれ拒否権放棄を要請したが、中国はこれに応じませんでした。また、米国を通じて拒否権放棄に向けた善処を申し入れ、アイゼンハワー大統領から蒋介石総統宛に親書で翻意を促したが、中国側からは受け入れられないとの回答がありました。
本小項目では、中国に対し拒否権放棄を申し入れた様子を報告する来往電のほか、トルコやフランスなど18国加盟に微妙な立場をとっていた国々と協議した文書も収録しました。
(採録文書数31文書)
4 総会・安保理における審議
(1)総会
1955年12月1日より総会アドホック委員会が開催され、加盟問題が審議されました。その間、再びアイゼンハワー大統領より蒋介石総統に態度変更を慫慂する親書が発出されましたが、再度中国から拒否され、加盟問題の行き先は不透明になりました。
18国一括加盟案は12月7日の特別委員会、翌8日の総会にて賛成多数を得て採択されました(米国は棄権、中国は反対)。採択にあたっては、安保理での速やかな審議と、満足する結果を期待するとの議長声明がありました。また、米国が18国案を棄権し、賛成票を投じたソ連との事前了解が成立していないことや、モンゴルへの拒否権を明言する中国の最終的な態度が捉えがたいといった状況は、安保理での審議の前途を不透明にしていました。
本小項目では、12月上旬のアドホック委員会における国連加盟問題の審議状況、総会での18国案採択に関する報告電などを収録しました。
(採録文書数37文書)
(2)安全保障理事会
モンゴル拒否の態度を改めない中国に対しては、引き続き日本をはじめとする各国より、拒否権を行使することのデメリットを伝え、放棄を促すための説得が試みられました。
しかしこれは功を奏さず、1955年12月13日の安保理における18国加盟案表決の際に、中国がモンゴルに対して拒否権を行使する結果となりました。さらに、ソ連も自由陣営13国に対して拒否権を連発したため、18国案は否決されました。
ところが翌14日、ソ連は急遽安保理の開催を要求し、問題解決策として、日本とモンゴルを除く16国加盟案を提示しました。その際、日本の加盟については反対ではないので次回総会まで延期するに過ぎないと提案しました。これに対し米国から、日本を含めて17国とする修正案を提示したものの、ソ連の拒否権で否決され、一括加盟候補国の救済を優先する各国の心理をつき、一気呵成にソ連案(日本を除く16国加盟)が採択されました。
ソ連が上記提案の中で日本にしか言及しなかったことを捉え、米国は直ちに次回(第11回)総会において日本の加盟を勧告する決議案を提出しました。これに対して翌15日、ソ連はモンゴルと日本のパッケージを提示しました。採決の結果、米国案はソ連の拒否権により、ソ連案はソ連以外の各国の棄権により、ともに否決されました。こうして、日本がモンゴルとともに取り残されて加盟はかないませんでした。しかし、なるべく早期に日本が加盟すべきとの英国案が提出され、各国代表が日本とモンゴルの抱き合わせの不条理を指摘したこともあり、次期総会での日本の単独加盟への布石が打たれました。
本小項目では、安保理開催直前の各国の動向から、12月13日の安保理で中国とソ連が拒否権を発動して18国案が否決された経緯、15日に日本の加盟が完全に潰えるまでの様子を克明に記録した加瀬大使の報告電などを収録しました。
(採録文書数61文書)
三 第11回総会における国連加盟の実現
本項目では、第11回国連総会における加盟に向けて日本がとった措置と、日ソ国交正常化交渉が妥結して国連加盟が実現するまでの経緯について、三つの小項目を設定して関連文書を採録しています。
1 第11回総会に向けた活動
(1)AA諸国および英連邦諸国への働きかけ
1956年となり、日本が18国案から取り残されたことや、国連における中国代表権問題と日本の加盟が関連させられるとの懸念から、加盟問題の解決は遠のいたとの見解がありました。
また、多数国の国連代表から、日ソ交渉の成り行き次第ではモンゴルと日本の同時加盟を中国に説く必要があるとの意見があり、結局加盟は日ソ交渉次第との空気がありました。そうしたなか、日ソ国交回復が成ってもソ連が国連加盟を認めないおそれもあり、1956年3月、重光外相より加瀬大使に宛て、日ソ交渉と国連加盟を別問題として取り扱う旨の訓令を発出し、外務省としてはあくまで両問題を切り離す建前で臨むこととなりました。
省内で国連加盟を担当していた国際協力局(第一課)が1956年5月に作成した方針では、AA諸国の強い支持を確保してソ連の反対を封じるとともに、日本の加盟が外蒙等の加盟や中国代表権問題に関連させられないよう単独無条件加盟を推進することとされました。米国もAA諸国への工作によって気運を高める必要性を説いており、AA各国への協力取り付けは漸次強化されました。日本はソ連に同調するインドの扱いに注意を払いつつ、セイロン、パキスタン等への個別の働きかけを行いました。
6月には国連AAグループへの参加を求め、歓迎ムードで迎えられました。また、7月に開催された英連邦首相会議の機会をとらえ、日本の加盟問題を議題にするよう、オーストラリアやニュージーランドといった参加国に働きかけが行われました。同会議においてニュージーランド首相が訪日の印象を好意的に語ったことは効果を上げました。
本小項目では、日ソ交渉と国連加盟問題を別個に取り扱うとの重光大臣の訓令や、AA諸国への支持要請と国連AAグループへの参加に関する文書、英連邦首相会議において日本の加盟支持を取り付けるための働きかけに関する文書などを収録しました。
(採録文書数51文書)
(2)安保理における単独加盟の検討
1956年7月にはモロッコやチュニジアの単独加盟が安全保障理事会で審議されることとなり、米国から日本に対し、この機会に日本の加盟も提議することの提案がありました。日本側は考慮の末、日ソ交渉の帰趨が明らかでないうちは成立の公算は少ないとの見通しのもと、米国の申し出に感謝しつつも、時期の見極めが必要として否定的な回答を行いました。
懸念された中国代表権問題との関係では、1956年7月の国際協力局の文書は、同問題と日本を結びつける議論は一部を除いてなくなっているとの見解をとっていました。また、モンゴルの加盟拒否の方針を崩さない中国に対しても、来会期以降も国連メンバーの地位を保証する旨の重光外務大臣の私信を発出するなど、引き続き説得が行われました。
本小項目では、モロッコやチュニジアの加盟審議に際して日本を提議するとの米国の申し出を謝絶しつつも、引き続きAAグループの気運醸成に努めるなど、日本がソ連との関係も考慮しながら単独加盟への道筋を整えていく経緯に関する文書を収録しました。
(採録文書数19文書)
2 日ソ交渉の妥結による加盟問題の進展
加盟問題に関するソ連への対応については、従前の方針通り日ソ国交正常化交渉の進展に関わらず外交努力を続ける建前がとられましたが、実質的には交渉の進展の種々の段階において加盟申請の可能性が探られ、外務省ではモスクワでの交渉妥結を見越し、第11回総会にて加盟を実現するための方策が検討されていました。
1956年10月19日に交渉が妥結し、調印された日ソ共同宣言には、日本の国連加盟申請をソ連が支持することが記されていました。これをうけて日本側では、共同宣言の国会承認直後に安保理を開催し、そこで単独加盟を提議すべしとの方針が立てられました。
他方、ソ連との国交回復により日本の国連加盟に反対論が出るなど関係悪化が懸念された中国に対し、日本側は国民政府支持が変わらない旨の説明に努めました。
本小項目では、ソ連との交渉妥結後の方針を検討する文書や、日ソ共同宣言、日ソ復交後の中国での印象悪化への対応に関する文書を収録しました。
(採録文書数23文書)
3 加盟の実現
1956年11月の一般討論演説に際して、多数友好国より日本の加盟に言及したいとの知らせを受けるなど、着実に日本の単独加盟に至る環境が整っていくなかで、なお日本が他国の加盟問題に影響されないよう、引き続きソ連への配慮と米国や中国への念押しが行われました。
1956年12月、AA諸国を代表してイランが日本の加盟申請審議のための安保理開催を要請し、加盟斡旋委員会議長であったペルー代表が日本の単独加盟決議案を提出することとなりました。
12月12日(日ソ共同宣言の批准書交換と同日)の安保理において日本の加盟が審議され、全会一致で採択された。これに引き続き、12月18日の総会でも、51国の共同提案による日本の単独加盟案が全会一致(欠席の南アフリカとハンガリーを除く77国)で可決されました。こうして日本の国連加盟が実現し、これに応える総会議場での演説において重光外務大臣が、「日本はある意味で東西の架け橋になり得る」と述べるとともに、国連の目的に誠実に奉仕するとの誓いを行いました。
本小項目では、第11回総会にて日本の国連加盟が実現した経緯を示す文書として、安保理審議の前の諸調整、安保理および総会での審議経緯の記録や、加盟決議を受けた重光外務大臣の演説文などを収録しました。
(採録文書数31文書)