外交史料館
外務省外交史料館 特別展示
日本とポーランド 国交樹立100周年
1918(大正7)年、第一次世界大戦が終結し、ポーランドは独立を回復しました。そして、翌1919年3月22日、日本政府はポーランドを独立国として承認し、外交関係を樹立しました。
2019(令和元)年は、日本とポーランドの国交樹立100周年の節目の年にあたります。
本展示では、親日国として知られるポーランドと日本の交流の歴史を、国交樹立以前の日露戦争時やポーランド孤児のエピソードなども含め、外務省所蔵史料によってご紹介します。
本展示が日本とポーランドの相互理解を促進し、友好関係発展の一助となれば幸いです。
- 場所:外務省外交史料館別館展示室(地図)
- 開催期間:令和元年10月16日(水曜日)~令和2年1月31日(金曜日)
- 開館時間:10時~17時30分(土曜日・日曜日・祝日・年末年始を除く)
(注)10月26日、11月9日、11月23日、12月14日、12月21日、1月11日、1月25日の各土曜は開館します。 - 入場無料
本展示の概要は、リーフレット(PDF)でもご覧いただくことができます。
主な展示史料
1904(明治37)年7月20日
ポーランドの状況に関するドモフスキの意見書
日露戦争当時、ロシアの支配下にあったポーランドでは、独立運動家が日本政府に連絡を取り、ロシアの情報を提供するなどして、日本と協力関係を持ちました。後にポーランド建国の父と呼ばれ、ポーランド独立後に国家元首に就任したピウスツキもこの時、来日しています。ピウスツキは、日本から資金援助を得て、ポーランドで武装蜂起を起こすことを計画しましたが、武力ではない方法で独立運動を進めようとしたドモフスキ(後に、ヴェルサイユ講和会議のポーランド代表となる人物)は、ピウスツキに先んじて来日し、蜂起の援助をしないように日本政府に訴えました。
本史料は小村寿太郎外務大臣に提出されたドモフスキの意見書で、武装蜂起の無謀さが綴られています。
1919(大正8)年3月6日
ポーランド国家承認に関する閣議決定書
1918年、第一次世界大戦が終結し、ポーランドは独立を回復しました。翌1919年3月6日、日本政府は、ポーランドを国家として承認することを決定しました。本史料はその閣議決定書です。原敬総理大臣や、内田康哉外務大臣、高橋是清大蔵大臣の花押が見られます。
本決定は、同年3月22日、松井慶四郎駐仏大使を通じて、ヴェルサイユ講和会議のポーランド代表となったドモフスキに通告されました。これにより、両国の国交が樹立しました(3月22日が国交樹立日)。
1925(大正14)年1月8日批准書交換
日本国波蘭国間通商航海条約(批准書)
1920年、駐日ポーランド公使館が設置され、翌年には駐ポーランド日本公使館が設置されました。そして、1922年には日本国波蘭国間通商航海条約が調印され、1925年に批准書が交換されました。本条約は、日本とポーランドの二国間で結ばれた初めての条約で、これにより、両国間の貿易、経済協力、文化交流が拡大する基礎が整えられました。
批准書の表紙に見られる図柄は、第二次世界大戦前のポーランドの国章(白鷲)に装飾が施されたものです。
(注1)波蘭=ポーランド
1938(昭和13)年5月12日
野口外務書記生帰国に際しての極東青年会の陳情書
ポーランド独立以前、シベリアには、政治犯として流刑になったポーランド人やその子孫が住んでいました。1917年にロシア革命が起こると、混乱の中、多くのポーランド人の子ども達が孤児となって極寒のシベリアを流浪することとなりました。ポーランド児童救済会から孤児救済の援助を求められた日本政府は、日本赤十字社協力のもと、孤児たちを保護し、日本で手厚く看護したのち、ポーランドへ送り届けました。
孤児達は帰国後、極東青年会という団体を組織し、両国の親善活動に努めました。本史料は、彼らの活動を熱心に支援した野口芳雄外務書記生の日本帰国に際し、野口書記生を再びポーランドに戻してほしいとして孤児たちが提出した陳情書です。陳情は受け入れられませんでしたが、彼らは生涯日本を愛し、両国をつなぐ架け橋となりました。
なお、阪神・淡路大震災、東日本大震災が発生した際には、ポーランド孤児救済の恩返しとして、被災児童がポーランドに招待されています。
(注1)ポーランド孤児については、外交史料Q&Aでも紹介しています。
1957(昭和32)年2月8日調印、同年5月18日発効
日本国とポーランド人民共和国との間の国交回復に関する協定(調印書)
日本とポーランドの国交は太平洋戦争により断絶しました。戦後、ソ連の影響下におかれたポーランドは、サンフランシスコ平和条約に調印しませんでしたが、日ソ共同宣言調印により、日本とソ連が国交回復するとすぐに、ポーランド側から国交回復の申入れがありました。そして、本条約の発効により、日本とポーランドは国交を回復しました。東欧諸国との間では、最も早い国交回復でした。
その後、1958年に「日本国とポーランド人民共和国との間の通商に関する条約」が調印され(翌年発効)、1950年代後半には、戦争により断絶した外交関係が正常化しました。
1994(平成6)年12月7日
ワレサ大統領(国賓)訪日記念アルバム
1980年代にポーランドで始まった「連帯」運動は、ポーランドに民主化をもたらし、中・東欧諸国の変革へとつながりました。この「連帯」運動を指導したのは、グダンスクの造船所で電気工として働いていたレフ・ワレサでした。ワレサは、1980年のストライキの際、労働者側のリーダーとして、政府との交渉にあたり、その後「連帯」の委員長に就任しました。1981年の戒厳令の際に拘束されましたが、信念を曲げず、1989年の自由選挙で「連帯」を圧勝に導き、1990年に大統領に就任しました。
本写真は1994年のワレサ大統領訪日時に作成された記念アルバムに収録された写真です。右は村山富市総理大臣(当時)です。