外務本省

外交史料 Q&A
大正期

1920年代(大正9年~大正15年頃)

Question
 1920年(大正9年)、ロシア革命勃発後、革命政権に反対の立場をとるロザノフ将軍以下ロシア軍兵士多数が日本に亡命しましたが、関係記録はありますか。

Answer

 彼ら兵士達に関する記録は、主として外務省記録「露国革命一件 出兵関係 反過激派関係」(第6~8巻)の中にあります。特に、ロザノフ将軍に関しては、来日からフランスを目指して離日するまでの動向に関する詳細な記録が残っています。

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Question
 在米日系移民の「写真結婚」について教えてください。

Answer

 「写真結婚」とは、在米日系移民の独身男性と日本在住の女性との間で行われた見合い結婚の一種です。通常の見合いと異なるのは、結婚する二人が直接顔を合わせずに婚姻に合意し、女性は夫となる男性の写真をたよりに海を渡ったという点です。彼女たちを「写真花嫁」と呼びました。

 「写真結婚」が行われた背景には、1908年(明治41年)に結ばれた日米紳士協約があります。これは当時、米国で日本人移民の排斥が活発化していたため、日本政府が米国政府と協議し、自主的に移民を制限したもので、労働移民の渡航が停止され、渡航者は観光客、学生、米国在留者の家族に限られました。こうして新たな移民が制限された結果、日本に一時帰国する時間と費用がない在米日系移民の男性は、知りあいに写真を送り、写真による見合いを依頼しました。日本で縁談成立・入籍が行われ、戸籍上の家族となれば、女性は米国に渡航することが可能となったためです。

 しかし、この「写真結婚」という方法は移民排斥運動において激しい非難を受けました。道徳上問題であるという他に、「写真花嫁」が出産する子供が年々増加し、米国籍を持つ子供名義で土地を購入する日系移民が増えたためです。移民排斥論者は、「写真結婚」を禁止しなければ、将来白人は駆逐されてしまうと危機感を煽りました。こうした状況を受け、日米政府間で協議した結果、日本政府は米国政府による排日運動抑制及び排日的立法の阻止と引き換えに「写真結婚」を禁止し、1920年(大正9年)2月末をもって「写真花嫁」への渡米旅券発給を停止しました。しかし、日本政府の期待に反し、米国では1924年にいわゆる排日移民法が成立し、以後1950年代に法規が改正されるまで、新たな移民は全面的に禁止されるに至りました。

 「写真結婚」に関する史料には、外務省記録「米国ニ於ケル排日問題雑件 写真結婚廃止問題」があり、このうち主要なものは『日本外交文書』大正8年第一冊に採録されています。

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Question
 1917年(大正6年)のロシア革命時に、シベリアに在留していたポーランド孤児を日本政府が救済したことについて調べています。

Answer

 関係史料として、外務省記録「変災及救済関係雑件 波蘭孤児救済方ノ件」があります。
 1917年のロシア革命当時のシベリアには、政治犯として流刑になったポーランド人の子孫など、多くのポーランド系住民がいました。彼らはこの革命に伴う内戦の際、祖国の独立を目指して戦いましたが、多数の犠牲者を出し、その子供達の多くは孤児となって極寒のシベリアを流浪することとなりました。加えて、1918年(大正7年)11月に独立を得たポーランドが、間もなくソビエト政府と戦争を開始したことが、これら孤児の救済を更に困難にしました。
 1920年(大正9年)6月、ポーランド児童救済会のビルケウイッチ(Anna Bielkievitch)会長が、日本の外務省を訪れて上記のようなポーランド孤児の惨状を訴え、援助を求めました。外務省は直ちにこの救済事業を日本赤十字社に打診し、同社の快諾を得ました。そして、申し出のあった翌月には、シベリア出兵中の日本軍によって第1次救済活動が開始されました。第1次救済活動では孤児375名が、1922年(大正11年)の第2次救済活動では390名がシベリアより移送され、日本で手厚く看護された後、ポーランドへと送り届けられました。
 なお、当時の救済孤児によって後年組織され、日本・ポーランドの交流に役割を果たした「極東青年会」は、現在も両国親善の象徴とされています。

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Question
 大正期にヨーロッパを外遊した裕仁皇太子(後の昭和天皇)が、エジプトにも立ち寄ったというのは本当ですか。

Answer

 本当です。
 裕仁皇太子の渡欧は、イギリス王室訪問を主目的として、原敬首相や、山県有朋・松方正義・西園寺公望ら元老が推進したものでした。宮内省御用掛であった珍田捨巳(ちんだ・すてみ)を長とする14名(後に15名)の供奉員と、語学の堪能な閑院宮載仁(かんいんのみや・ことひと)親王が随伴し、1921年(大正10年)3月3日に横浜を出港、香港、シンガポール、コロンボに寄港した後、4月15日、エジプト(当時はイギリス領)のポートサイドに到着しました。
 同年4月18日カイロに入った皇太子は、現地イギリス総督の案内でピラミッドを見物し、翌日は宮殿でスルタン(国王)と会見しています。
 裕仁皇太子訪欧については、外務省記録「皇太子裕仁親王殿下御渡欧一件」として関係文書が残っているほか、外務省百年史編纂委員会編『外務省の百年』上巻にも経緯が書かれています。また、関係文書のうち主要なものは、『日本外交文書』大正10年第一冊上巻に採録されています。

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Question
 戦前期における委任統治領に関して日本政府が作成し国際連盟に提出した年次報告書(年報)を探しています。

Answer

 第一次世界大戦後、日本が委任統治を行った赤道以北の旧ドイツ領太平洋諸島に関する年次報告書(「日本帝国委任統治(地域)行政年報」)は、外務省記録「委任統治 行政年報(日本年報)」、「国際連盟委任統治問題一件 帝国年報関係」等に含まれています。
 この年報は、国際連盟規約第22条に定められた「受任国は其の委任地域に関する年報を連盟理事会に提出すべし」という規定に基づき、1921年(大正10年)6月連盟理事会において採択された決議によって各受任国が作成を義務づけられたものです。連盟理事会に提出された年報は委任統治委員会において審査され、この審査結果に基づいて同委員会は理事会に対して委任統治の実施に関する意見具申を行いました。年報の内容は、該当地域における行政一般や財政、教育、産業、労働、貿易など広範囲にわたり、対象となった地域の当時の様子を伝える史料として興味深いものです。
 なお、日本政府による年報の作成は、国際連盟脱退後の1938年(昭和13年)に連盟諸機関との協力を終止するまで継続されました。

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Question
 大正期に日本でアルメニア難民の救済活動を行ったアプカーという女性に関する記録はありますか。

Answer

 関係文書が外務省記録「アルメニア問題」の中にあります。

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Question
 大正時代に来日した産児制限論者のマーガレット・サンガー(Margaret Sanger)に関する記録はありますか。

Answer

 マーガレット・サンガー(1883~1966)の来日経緯や滞在中の動向に関する文書は、外務省記録「外国人渡来関係雑件」に残されています。
 公衆衛生の観点から産児制限を説いたアメリカのマーガレット・サンガーは、1922年(大正11年)3月10日に来日しました。前年に翻訳されたサンガーの著書『産児調節論』は、キリスト教社会主義者の安部磯雄をはじめ日本国内にも影響を与えており、彼女の来日は新聞・雑誌にも大きく取り上げられました。
 サンガー来日の報に接した外務省は、内務省が作成した「我国内ニ此種ノ宣伝ヲ為スヲ禁ズルノ方針」にもとづき、査証を発給しない方針をとりましたが、サンガー乗船の大洋丸が横浜に入港後、産児制限宣伝のための公開講演をしないことを条件に入国が許可されました。その後サンガーは同年4月7日まで日本に滞在しました。

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Question
 大正から昭和初期にかけて英国皇太子が来日していますか。もし来日しているならば、名前と滞在年月日を教えてください。

Answer

 エドワード皇太子が、1922年(大正11年)4月12日に来日、5月9日まで滞在しました。この関係文書は外務省記録「外国貴賓ノ来朝関係雑件 英国之部」にあります。

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Question
 1922年(大正11年)に設置された国際連盟知的協力委員会について教えてください。

Answer

 国際連盟知的協力委員会(Committee on Intellectual Co-operation)は、国際的な輿論を構成する要素である教育、科学、哲学の研究制度及び研究設備を探求し、また国際関係改善のために各国間における思想や知識の交換を図る方途を審議することを目的に、国際連盟の諮問委員会として設置され、1922年8月1日に第1回委員会が開催されました。
 委員会設立に際して、国際連盟事務局次長であった新渡戸稲造が幹事長に就任し、哲学者ベルグソン(M.H.Bergson)や、物理学者のアインシュタイン(M.A.Einstein)、キュリー夫人(Mme. Curie-Sklodowska)などが委員を務めました。委員会は、第1次世界大戦後に困窮が著しかった各国の知的生活水準の調査や、知的財産権に関する国際条約案の検討、各国大学間の協力などを進めました。また、知的協力委員会に対応する国内組織として、1926年(大正15年)には、学術協力国内委員会が創立されました(委員長には東京帝国大学教授の山田三良博士が就任)。
 国際連盟知的協力委員会については、外務省記録「智的労働委員会」、「国際連盟学芸協力国際委員会及国際学院関係一件」、「国際連盟学芸協力国際委員会及国際学院関係一件 学芸協力国内委員会関係」に関係史料が収められています。

(写真)新渡戸 稲造
新渡戸 稲造

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Question
 1922年(大正11年)、相対性理論で知られるアインシュタイン博士が来日したそうですが、同博士の日本での足跡がわかる記録はありますか。

Answer

 外務省記録「外国人動静関係雑纂 府県報告之部」に、来日したアインシュタイン博士の動向を政府に知らせる各府県からの報告書が綴られており、これによって、日本での同博士の足跡を追うことができます。

 この記録によれば、同博士は1922年11月17日午後に汽船「北野丸」で神戸に入港し、夕刻に列車で京都に至り、翌朝列車で東京に向かいました。

 これに引き続く12月6日付の宮城県からの報告によれば、12月2日の朝、東京から仙台に到着したアインシュタインは、翌日午前10時から午後2時にかけて、学生や大学教授約350名を相手にした仙台公会堂での講演会に臨みました。この報告は、同博士が「何ら事故無く歓喜の裡に」仙台を去ったと伝えています。

 その後アインシュタインは、12月8日に再び京都に戻って相対性理論に関する講演会を行い、翌日大阪でも同様の講演会を行いました。同博士は、12月23日には福岡県に入り、博多での講演会や九州帝国大学での歓迎会に臨んだ後、29日に門司港から日本を去り、43日間の多忙な日本滞在を終えました。

 なお、アインシュタインはこの訪日時、日本に向かう船上でノーベル物理学賞受賞の知らせを受けたことが知られています。

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Question
 太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官として有名な山本五十六は、在米大使館付武官をしていたそうですが、その際の関連記録がありますか。

Answer

 山本五十六は、1925年(大正14年)に在米大使館付武官に任ぜられています。外交史料館には大公使館付武官の任免関係記録が残っていて、山本五十六の場合にも外務省記録「各国駐在帝国大使館附武官任免雑件 米国之部」の中に大使館付武官就任にあたって海軍省と外務省とのやりとり、および外務省と在米大使館とのやりとりに関する記録があります。

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Question
 日本と中米のドミニカ共和国とは戦前から何らかの交流があったのでしょうか。

Answer

 戦前期日本とドミニカ共和国との間には互いに名誉領事を任命する関係がありました。ドミニカ共和国は1925年(大正14年)、日本の神戸に名誉領事を任命しました。日本も1934年(昭和9年)にドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴに名誉領事を任命しました。

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