外交史料館
『日本外交文書』昭和期III第1巻
(昭和十二-十六年 外交政策・外交関係)
『日本外交文書』昭和期III第2巻
(昭和十二-十六年 欧州政情・通商問題)
昭和期III第1巻,第2巻の採録文書数は計1028文書,総ページ数は1360頁です。この2冊の刊行により『日本外交文書』の通算刊行冊数は214冊となりました。なお,当該期の外務省記録は戦災等によって多くが消失しているため,本巻の編纂に当たっては,東京大学社会科学研究所,首都大学東京図書情報センター,国立公文書館および「極東国際軍事裁判関係文書(米国議会図書館作成マイクロフィルム)」から文書を補填・採録しました。ご協力をいただいた各機関には謝意を表します。
「昭和期III」第1巻,第2巻の構成
本巻の掲載事項(目次)は次のとおりです。
- 一 外交政策一般
- 二 諸外国との外交関係
- 三 ソ連邦との関係
- 1 日ソ諸案件交渉
- (1)一般問題
- (2)在ソ日本領事館閉鎖問題
- (3)北樺太利権および漁業権益に対するソ連の圧迫
- 2 満ソ・満外蒙国境紛争
- (1)乾岔子島事件
- (2)張鼓峰事件
- (3)ノモンハン事件
- 1 日ソ諸案件交渉
- 四 枢軸国との関係
- 1 一般問題
- 2 秩父宮訪独問題
- 3 独国の旧植民地回復要求問題
- 4 貿易協定をめぐる交渉
- (1)日独貿易協定
- (2)日満伊貿易協定
- 5 文化協定をめぐる交渉
(以上,第一巻)
- 五 欧州政情
- 1 一般政情
- 2 スペイン内乱
- 3 ドイツによるオーストリア併合
- 4 ドイツによるチェコスロバキア解体
- (1)ズデーテン地方をめぐるドイツの要求
- (2)ミュンヘン会談
- (3)チェコ併合とスロバキアの保護国化
- 5 イタリアによるアルバニア併合
- 六 国際連盟との諸問題
- 付 国際会議への参加協力
- 七 諸外国との通商問題
- 1 日米通商問題
- 2 日印・日緬会商
- 3 日蘭会商
- 4 日豪通商問題
(以上,第二巻)
「昭和期III」第1巻,第2巻の概要
一 外交政策一般
本項目では,当該期における日本外交の基本方針や方向性を示す文書として,帝国議会などにおける外務大臣の演説や答弁,その海外での反響,日本の内閣・内政に関する海外での論調などを示す文書を採録しています。
具体的には,日英関係の好転を熱望した佐藤尚武外相の外国通信員に対する会見録(昭和12(1937)年5月6日),防共協定強化問題に関連して英米仏諸国が示した「日独伊の防共提携は民主主義に対立する全体主義国家の結合である」という見解を全面的に否定した有田八郎外相の議会答弁(昭和14年3月6日),「力の伴わない外交は何事もなし得ない」と述べて大東亜共栄圏確立のためには国民の団結が不可欠であると説いた松岡洋右外相の議会答弁(昭和16年2月17日)などの関係文書を採録しています。
なお,昭和期IIIにおける外務大臣の議会演説で,特集「日中戦争」などで既に採録したものについては,本冊では重複して採録せず,採録した既刊名を編注で示しました。また,昭和16年12月8日以降の太平洋戦争期の主要関係文書は,原則として特集「太平洋戦争」に採録しましたが,外務大臣の主要な議会演説については本巻の本項目に収録しました。
(採録文書数36文書)
二 諸外国との外交関係
本項目では,昭和12~16 (1937~41)年における諸外国との様々な外交関係を示す文書を採録しています(項目三および四で採録したソ連邦および枢軸国との関係は除く)。
昭和12年5月14日,豪州首相が英帝国会議における演説で太平洋不可侵条約の必要性を訴えると,関係国会議が開催されるのではないかとの風説が流れるなど,各方面で大きな反響を呼びました。吉田茂駐英大使は豪州首相と接触してその真意を質すとともに,英国首相に会見し,関係国間の関係改善を図らずして会議を招集すれば危険があると指摘しました。これに対し英国首相は,吉田の指摘を多とし,豪州首相の提案は事前の協議なく唐突に出されたもので,専門家の十分な研究が必要であるが,研究の結果,何らかの結論に達した場合にも,日本側と協議なく一方的に条約案を提示するようなことはしないと回答しました。
また日本は,昭和13年12月にリマで開催予定の汎米会議において,中南米諸国の対日態度が悪化することを懸念し,会議の数か月前から外交工作を進めました。その背景には日中戦争の中南米諸国に与える悪影響に加え,独伊両国が中南米への政治運動を強化しつつある中で,中南米諸国の反独風潮が独国と防共提携している日本にも向けられることへの危惧がありました。日本の外交官はブラジルやペルーの会議代表と接触し,南米での独国の運動に日本は全然関与していない旨を説明して,対日空気の悪化防止に努めました。さらに日本は,米国による汎米主義運動の激化にも留意し,米国大統領の米州共同防衛提案への各国反響など,汎米会議および汎米主義の方向性に関する情報収集に努めました。
このほかの主な問題として,在ギリシャ日本公使館の閉鎖問題(昭和12年5月),日本側からポーランドに対し防共を目的とする協定締結を内々に打診し,同国が婉曲に拒絶した問題(昭和13年5月),日米不可侵条約を広田弘毅外相が提案したとの誤報をめぐる米国の対日論調(昭和13年5月),谷正之大使のアグレマンを仏国が拒絶したことに対する情報部長談話(昭和14年1月),ブルガリアおよびイラクへの日本公使館設置に関する枢密院審査委員会議事要録(昭和14年6月),日豪間における公使交換の実現(昭和15年8月~16年2月)などの関係文書を採録しています。
(採録文書数66文書)
三 ソ連邦との関係
本項目では,昭和12~16 (1937~41)年におけるソ連邦との様々な外交関係を示す文書を,「日ソ諸案件交渉」と「満ソ・満外蒙国境紛争」の二つの小項目を設けて採録しています。
1 日ソ諸案件交渉
(1)一般問題
昭和11(1936)年11月に日独防共協定が締結されると,ソ連政府は対日態度を著しく硬化させ,北樺太利権会社の社員など多数邦人の組織的拘引や,ソ連領近海に出漁中の邦船拿捕などが相次ぎました。日本政府はその都度抗議を行うとともに,迅速な解放を求め,ソ連側は一旦,国外追放処分の形で,釈放に応じる姿勢を示しました。しかし,樺太において昭和12年11月に日本側が拘留したソ連船ウィンペル号の乗組員釈放交渉が停滞し,また,満州国内に同年12月に不時着したソ連飛行機の解放斡旋を日本側が拒絶すると,ソ連側は被抑留 邦人の釈放を中止し,昭和13年1月には日ソ間小包郵便交換を停止しました。
こうしたなか,昭和13年3月,広田弘毅外務大臣が在本邦ソ連大使と他用会談の際,日ソ間における諸懸案を一括解決し,両国一般関係を正常化したいと提案すると,4月4日,ソ連側より諸懸案調整のための諸条件が示されました。これには日本側が実施すべき事項として,(ア)北満に不時着したソ連飛行機の即時返還,(イ)ウィンペル号の即時釈放,(ウ)函館に抑留中のソ連汽船の即時釈放,(エ)黒河付近で満州国官憲に抑留された汽艇乗組員の釈放,(オ)北鉄代償最終割賦金の即時支払いの5項目,ソ連側が実行すべき事項として,(ア)ソ連当局が国外追放を中止した利権会社社員等8名の即時釈放,(イ)スパイ容疑で抑留中の朝鮮漁船およびその乗組員の釈放,(ウ)坂井組合アグネオ石炭利権取り消し通告の撤回,(エ)北樺太両利権事業関係諸問題に対する好意的審議,(オ)日ソ小包郵便物交換の復活,(カ)在オハ日本領事館閉鎖要求の撤回の6項目が挙げられていました。
当初,日本側は提示条件の一部が満ソ間で解決すべき事項であるとして難色を示しましたが,その後,各種交渉の閉塞状態打開のため,ソ連側提案の範囲内で諸問題の解決を図ることとし,満州国側にも協力を要請しました。日ソ間の交渉を経て,昭和13年11月,ウィンペル号は樺太安別沖合でソ連側へと引き渡され,ソ連側は前記邦人8名のうちハバロフスクに拘留中の6名および朝鮮漁船乗組員17名をウラジオストク沖合で日本側に引き渡しました。
(採録文書数48文書)
(2) 在ソ日本領事館閉鎖問題
昭和12(1937)年5月,在本邦ソ連大使館は,在東京ソ連総領事館の閉鎖を通報するとともに,この結果,日ソ両国の領事館数が不均衡になるとして,ソ連国内にある日本領事館2館(在ノヴォシビルスク,オデッサ)の閉鎖を要求しました。日本側はこれを拒否しましたが,同年8月,ソ連政府は在ソ連邦日本大使館に対し,9月15日以降,両領事館に対して職務執行の権限を否認することに決定した旨通告を行いました。度重なる日本側抗議にもかかわらず,外務人民委員部はその抗議の受理を拒み,2領事館に対しては,暗号電報の取り扱いを拒否,電気水道の供給を制限し,外国郵便物の配達を停止,公館の使用人を逮捕するなど種々の圧迫を加えて,9月末,両館は事実上の閉鎖を余儀なくされました。
さらに昭和13年2月,在本邦ソ連大使は堀内謙介外務次官に対し,ソ連側領事館6館中,神戸,小樽および大連の3館閉鎖の決定を通報し,相互同数主義の見地から日本政府においても3公館(在ハバロフスクと在ブラゴヴェシチェンスクの2公館および在アレクサンドロフスクないしは在オハのいずれか1館)を閉鎖するよう要求しました。これに対して日本政府は,当該領事館閉鎖は北樺太利権事業の継続を不可能とするものであり,また対ソ情報収集の足場を失うことになるとして対処方針を検討,日本国内に駐在するソ連通商代表部の減員を示唆するなど,要求撤回に向けた交渉を重ねましたが,ソ連政府は在ハバロフスク総領事館および在ブラゴヴェシチェンスク領事館の閉鎖を強く主張して譲りませんでした。電報の取り扱いその他,公館の執務に必要な機能を全て停止するとともに,張鼓峰事件勃発後の8月2日には,両公館員に対して48時間以内の国外退去を強く命じ,在ハバロフスク総領事館員は同4日,在ブラゴヴェシチェンスク領事館員は6日に,一時引揚げとしてそれぞれ任地を出発,帰国しました。
(採録文書数42文書)
(3) 北樺太利権および漁業権益に対するソ連の圧迫
北樺太石油・石炭利権および漁業権益は,日ソ基本条約(大正14(1925)年)によって承認された日本にとって重要な権益でしたが,日独防共協定の締結を契機としてソ連の対日態度が著しく悪化すると,石油・石炭利権事業に対する圧迫は顕著となり,従業員の拘留・不当裁判,邦人労働者入国不許可問題,物資輸入制限問題等により,利権事業遂行に重大な支障が生じました。日本側は外務人民委員部に対して度々改善を申し入れましたが,他官庁の主管であるとして斡旋には容易に応じませんでした。昭和14年5月には,東郷茂徳大使が外務人民委員に着任したばかりのモロトフを往訪,再度申し入れを行いましたが,モロトフは条約上の義務は履行すると述べるにとどまりました。同年6月には日本海軍が利権擁護の目的で北樺太東西両海域に相当数の軍艦を出動させましたが,こうした措置も根本的な事態改善には結びつきませんでした。
一方,漁業条約の改訂交渉は,昭和11(1936)年11月に条文案の合意を見ましたが,調印間際に至ってソ連側が調印に応じず,差し当たっての措置として1年有効の暫定協定を結び漁業条約を延長しました。その後も日本政府は,機会あるごとに長期漁業条約への調印を求めましたが,ソ連側は少なくとも北鉄関係支払い義務の履行までは長期漁業条約の締結交渉に入ることはできないと主張しました。昭和14年12月,次年度の出漁を保証する第5次暫定協定が締結されるにあたり,日本側は北鉄代償金の支払いに応じました。(しかし,実際に長期漁業条約が成立したのは昭和19年3月のことでした。)
(採録文書数43文書)
2 満ソ・満外蒙国境紛争
(1) 乾岔子島事件
昭和12(1937)年6月19日,満州国とソ連の国境河川黒竜江上の乾岔子島と金阿穆河島にソ連兵が上陸,20日には乾岔子島北方付近において満州国部隊がソ連砲艦からの射撃を受け同島より撤退することとなりました。その後,ソ連側は両島に50名ほどの兵力を留め,乾岔子島上流および下流の水道閉鎖の目的で砲艦約20隻を集結して日本側船舶の航行阻止の措置に出ました。
同月28,29日,在ソ連邦重光葵大使とリトビノフ外務人民委員の間で事変不拡大のための協議が行われ,リトビノフがソ連軍の撤兵に同意し,事件は解決するかに見えました。しかし翌30日,満州国側江岸で警備に当たる日満軍が,乾岔子島南側水路に進入したソ連軍艦3隻と交戦,内1隻を撃沈し,もう1隻にも多大な損害を与えたため,現地の情勢は緊迫しました。その後,原状回復をめぐってリトビノフは江岸警備の日満軍とソ連軍の同時撤兵を主張しましたが,現地日本軍は,今次の事件は満州国領である乾岔子島と金阿穆河島に対するソ連軍の不法占拠によって惹起されたのであるから同時撤退案は容認できないと反発しました。
7月2日の会談において,重光大使が満州国の艦隊はすでに乾岔子島付近から撤退済みであるとの情報を伝え,あらためてソ連軍および砲艦の引揚げを要求したところ,リトビノフはこれに同意し,同月5日,ソ連軍の撤退は完了しました。
(採録文書数25文書)
(2) 張鼓峰事件
昭和13(1938)年7月11日,満州国東南端,図們江下流に位置する張鼓峰に十数名のソ連兵が進出し,東北側斜面に陣地構築を開始しました。14日には40名まで兵員が増加し,占拠が続けられたため,同15日,日本政府はソ連軍の即時撤退を要求しましたが,ソ連側は「琿春界約」付属地図を示して同地がソ連領であると主張し,日本側の要求を拒絶しました。
さらに7月29日,ソ連兵約10名が張鼓峰の北方2キロ,沙草坪南方の国境線を越えて陣地構築を開始したため,朝鮮軍国境監視部隊(第19師団)がこれを撃退しましたが,同日午後4時半頃,ソ連兵は戦車数台を加えてふたたび同高地に進出,占拠しました。その後,両軍対峙が続きましたが,30日夜半,「ソ連軍の猛襲」を口実に第19師団が夜襲を敢行,31日早朝に沙草峰南方高地と張鼓峰をそれぞれ占拠,以後5日間にわたり同地では激戦が続きました。
8月3日,日本政府は重光大使に戦闘停止の提議およびその具体的方法につき協議を開始するよう訓令しました。同4日,重光大使が上記訓令に基づき申し入れを行ったところ,リトビノフは日本軍が「琿春界約」付属地図による線外へ撤退して攻撃を停止するのであれば,ソ連政府としても戦闘停止を約束し得ると回答しました。重光大使は同7日,両軍が相対峙する線から適当な距離だけ後退して戦闘行為を停止し,国境問題は後日の代表者交渉で決定する案を提議しましたが,リトビノフは7月29日の原状回復を主張してこれに応じませんでした。その後,重光大使は,同時撤退の合意は不可能であり,停戦のためには日本側が一方的に撤兵し事態の平静化をはかるべきとの意見を東京へ具申しました。
そして8月10日,重光・リトビノフ間に,(ア)双方の軍隊は11日正午,戦闘行為をやめること,(イ)日本軍は11日午前0時現在の線より1キロ後退し,ソ連軍は同時刻の位置を維持すること,(ウ)右協定は現地における双方軍隊の代表者において実行にあたること,という条件で停戦合意が成立しました。その後,リトビノフは上記(イ)について,公正の観念から日本軍のみの後退は必要ないとして,日ソ両軍ともに8月11日午前0時現在の線にとどまるとの提案をし,日本側がこれに同意して,停戦協定が成立しました。
(採録文書数50文書)
(3) ノモンハン事件
満州国と外蒙古との国境には境界の不明確な箇所も多く,国境線に関する紛争が絶えませんでした。昭和14(1939)年5月11日,ノモンハン西南方約15キロ附近で発生した満州国軍と外蒙軍との軍事衝突を発端に,外蒙軍とソ連軍がこの地域の占拠を試みたため,事態は日ソ両軍の大規模な軍事衝突へと発展し,重大化しました。
日本政府は当初,本事件を満外蒙間の局地的問題として処理し,また,本事件によってソ蒙相互援助条約を事実上認めることとなって,ソ連の外蒙に対する支配権を容認する結果には陥らないよう注意する方針でした。しかし7月16日のソ連機によるフラルジ爆撃を契機として紛争拡大の兆候があらわれると,なるべく速やかに事件の収束をはかることが有利との見地から,同17日の五相会議においては,不拡大方針を堅持しつつ,適当な機会に在ソ連邦東郷茂徳大使に訓令して,切迫した空気の緩和と国境の平静化をはかるために外交交渉を行う方針が決定されました。ただし,東郷大使や関東軍は,戦況の好転前に停戦交渉を申し入れることには否定的で,交渉はなかなか開始されませんでした。
しかし,8月末に阿部信行新内閣が成立すると,同内閣はその対外政策の中心を日中戦争の処理に置き,東亜新秩序建設の既定方針遂行に同調させるよう第三国との関係を調整するとして,対ソ関係についても右の趣旨で調整することになりました。そして,第二次欧州大戦勃発後の9月6日および8日には,東郷大使に対して,第1案「国境画定までノモンハン付近の係争地域を非武装地帯とする」,第2案「国境画定まで係争地域内においては両軍共に停戦時の第一線を連ねる線を越えない」,第3案「国境画定まで両軍共に外蒙側の主張する国境線を越えない」の停戦案を訓電しました。
9月9日,東郷大使はモロトフに対して第1案を提示しましたが,モロトフが国境線内への両軍撤退を行うべきであると主張したため,同14日の会談において東郷大使は第2案を提出,翌15日の会談でモロトフがこれを受諾しました。その結果,15日午後1時の現在線に両軍はとどまり,16日午前2時をもって一切の軍事行動を停止すること,国境確定委員会を設置することなどを条件とする停戦合意が成立し,16日には共同声明が発表されました。
(採録文書数13文書)
四 枢軸国との関係
本項目では,昭和12~16 (1937~41)年における枢軸国との様々な外交関係を示す文書を,「一般問題」,「秩父宮訪独問題」,「独国の旧植民地回復要求問題」,「貿易協定をめぐる交渉」,「文化協定をめぐる交渉」の五つの小項目を設けて採録しています。
1 一般問題
本項目では,枢軸国との外交関係のうち,「2」以下で小項目を設定した問題を除いた,各種問題を対象としています。
昭和13(1938)年3~4月,パウルッチを団長とする伊国ファシスト党の使節団が日伊交歓のために訪日し,日本は便宜供与に努めてこれを歓迎しました。伊国政府は日本側の歓待に感謝の意を表し,訪日使節団と同一種類の日本側使節団の派遣を要望しました。これに対し日本は,人選や経費の関係から伊国訪問後に独国も訪問する使節団派遣を計画しましたが,東郷茂徳駐独大使は,使節団が伊国訪問のついでに独国を訪問するような形は独国の感情を害するとして強く反対しました。また堀田正昭駐伊大使も,答礼使節団は伊国のみを訪問し,独国へは別途の使節を派遣すべきとの意見を具申しました。このような経緯もあり,昭和15年5~6月,ようやく佐藤尚武元外相を団長とする使節団の伊国訪問が実現しました。佐藤使節団は各地で熱烈な歓迎を受けましたが,6月10日に伊国が欧州大戦に参戦すると,その後の日程を切り上げて任務を完了しました。なお,佐藤団長は伊国訪問後,非公式に独国を訪問しました(佐藤使節団については『日本外交文書 第二次欧州大戦と日本』第一冊にも関係文書を採録)。
このほか,ナチス党大会に招待されて訪独した寺内寿一陸軍大将とヒトラーとの会談内容(昭和14年9月),皇紀2600年を祝う日本大使館の午餐会に出席したヒトラーの祝賀メッセージ(昭和15年11月),日独伊三国同盟条約締結1周年記念日における外務大臣午餐会での豊田貞次郎外相の挨拶(昭和16年9月)などの関係文書を採録しています。
(採録文書数42文書)
2 秩父宮訪独問題
本項目では,昭和天皇の名代として英国皇帝ジョージ六世の戴冠式(昭和12(1937)年5月)に参列した秩父宮雍仁親王が,戴冠式終了後,独国を訪問した経緯に関する文書を採録しています。
昭和11年11月に日本との間に防共協定を締結した独国は,訪英する秩父宮が独国へも訪問することを強く要望しました。秩父宮が昭和12年5月に英国に到着した後,戴冠式後に独国を含む欧州各国を巡歴する計画が立案されましたが,秩父宮の体調不良により,欧州巡歴はすべて取り止めとなりました。8月に至り,秩父宮の体調が回復に向かうと,ベルリンの駐在武官や大使館側から独国の要望に応えて訪独すべきとの議論が起こり,その結果,静養地のスイスからロンドン経由で帰国する途次に,順路として独国を通過するという名目で,健康に差し支えのない範囲で訪独することとなりました。
ベルリンの日本大使館は,秩父宮訪独の日程を組むにあたり,ヒトラー総統との会見を重視し,独国側の強い要望も踏まえて,ナチス党大会開催中のニュルンベルグでヒトラーと会見する案を作成しました。この日程案を受け取った外務本省では,宮内省などとも協議した結果,国家的式典と位置づけられる党大会の開催地に秩父宮が赴いてヒトラーと会見することは,ソ連など関係国を刺激するおそれがあるとの配慮から,取り止めも視野に入れた日程の再調整を訓令しました。
結局,調整がここまで進みながら訪独を取り止めることは対独関係上影響が多大であるとの観点から,党大会終了直後に秩父宮がニュルンベルグを訪問してヒトラーと会見するという日程案に改められました。こうして9月上旬に訪独が実現し,9月13日にはニュルンベルグで秩父宮とヒトラーら独国要路との会見が行われました。
(採録文書数17文書)
3 独国の旧植民地回復要求問題
本項目では,独国の旧植民地回復要求に関するわが国の情報収集や対応振りを示す文書を採録しています。
独国のヒトラー総統やリッベントロップ駐英大使らが演説等を通じて,旧植民地の回復を要求すると,日本は独国が国際連盟の委任統治制度を否認して旧独領植民地の返還を要求するのではないかとの懸念を持ち,植民地問題に関する英独間交渉を中心に情報収集に努めました。
昭和13(1938)年2月22日,東郷茂徳駐独大使はリッベントロップ独国外相と会見し,前日のヒトラー演説で言及された旧植民地回復問題に触れて,日本は南洋委任統治区域を保有する必要があり,日独関係を強化する方法で問題を解決したいと考えている旨を申入れました。リッベントロップは日本の好意的考慮を感謝し,今後も密接な連絡を保持したいと述べました。
その後,日独伊三国同盟条約の成立と同時に,日本の委任統治地域は引き続き日本の属地であることを独国が承認し,それに対し独国が「何らかの代償」(例えば「コーヒー6袋」というような実質的に極めて軽微な代償)を受けるとの公文が日独間に交換されました(同交換公文は『日本外交文書 第二次欧州大戦と日本』第一冊に採録)。しかし日本が昭和16年12月に英米と開戦すると,この交換公文は,成立時の基礎となる事情が全く変更されたため廃止されたとの見解がとられることとなりました。
(採録文書数15文書)
4 貿易協定をめぐる交渉
本項目では,日独貿易協定および日満伊貿易協定に関する文書を採録しています。
(1) 日独貿易協定
昭和12(1937)年10月以降,日本政府は独国との間で新たな貿易協定締結の方針を固め,翌昭和13年1月から本格的な日独協議が開始されました。日本側には,独国から軍需品や機械類など重工業品の供給を期待し,英米等からの買い付けを独国に転換したいという思惑がありました。
当初,日本側は満州国を含めた日満対独国の貿易協定締結を目指しましたが,独国側がこれに難色を示し,満州国も既存の満独協定の改訂を希望したために,日独二国間で交渉が行われました。
昭和13年に入ると,独国側は,日中戦争の勃発や対中国武器禁輸,そして満州国承認に伴って独国の対中国貿易が多大な損失を被っている事実を貿易協定交渉と関連づけ,独国の対中国貿易と独国企業の利益増進を図るためにも,中国における包括的な日独経済提携が必要と主張しました。日本側はこれに難色を示すとともに,対独支払い能力などとも関係する貿易額や貿易品(特に不要不急品の輸入)に関して企画院が策定した物動計画との整合性を重視して臨んだために,交渉は難航しました。また,日本側には,貿易協定締結が防共陣営の強化に資するという大局に立つものにもかかわらず,独国側が経済上の利害打算に拘泥しているという不満もありました。
結局,昭和14年7月29日に日独貿易協定は仮調印されましたが,同年9月1日の第二次欧州大戦の勃発に伴い,正式調印には至りませんでした。
(採録文書数69文書)
(2) 日満伊貿易協定
昭和13(1938)年5月,伊国より日満伊間の貿易協定の協議のため使節団が来日しました。協議は,日本側が清算協定方式を求めたのに対して,同方式の運用の困難さを過去の経験から熟知する伊国側が求償協定方式の採用を主張したため,鋭く対立しました。伊国側は,日伊の政治関係を顧慮し,大局的見地から日本側の希望する清算協定方式を一旦は受け入れました。しかし同時期に進行していた日独間の貿易協定交渉で日本が求償協定方式を認めていたことを知り,独伊間での差別的扱いに強い不満を抱いて強硬な態度を取ったため,結局,求償協定方式にて妥協が成立し,7月5日に日満伊貿易協定が調印されました。
第二次欧州大戦が勃発すると,貿易協定の延長をめぐって品目表の改訂協議が行われ,昭和15年6月,佐藤尚武使節団の訪伊時に合意に達しました。
(採録文書数29文書)
5 文化協定をめぐる交渉
昭和12(1937)年10月,ハンガリーの谷正之公使(オーストリア兼任)から,ソ連に対する文化合同戦線確立の第一歩として,ハンガリーとの間に文化協定を締結すべきであるとの意見具申がありました。これを受けた外務本省では,昭和13年に入ると,できるだけ「政治的臭味」を排除し,幅広く大小の諸外国に協力関係を呼びかけることが可能な文化協定を活用して日本外交の政策遂行に有利な下地とすること,また文化協定は枢軸強化を意味するものとして捉えるべきであるという考え方が浮上しました。その後,オランダをはじめ,ベルギー,ポーランド,アルゼンチン,ルーマニア,ポルトガル,スペインなどとの文化協定締結が検討されましたが,いずれも立ち消えとなり,戦前期においては結局,ハンガリーと独国(共に昭和13年11月),伊国(昭和14年3月),ブラジル(昭和15年9月)の4か国との間でのみ文化協定が成立しました。なお,太平洋戦争中には,さらにタイ及びブルガリアとも協定を締結しています。
(採録文書数15文書)
五 欧州政情
1 一般政情
本項目では,「2」以下で小項目を設定した問題を除いた,欧州政情に関する一般的な報告を採録しています。
昭和13(1938)年4月16日,チアノ伊国外相は堀田正昭駐伊大使と会見の際,英伊両国間に地中海の現状維持やスペイン問題・エチオピア問題で合意が成立し,協定に調印した旨を内報し,同協定が成立しても伊国の対日態度には何らの変化もないと明言しました。
英伊協定成立直後には,仏伊および英仏首脳会談が相次いで行われることとなり,外務本省は4月21日,吉田茂駐英大使をはじめ,在欧各大使に対して,首脳会談を踏まえた欧州政局の見通しを報告するよう求めました。これに対し各大使からは,欧州の平和確立に向け英国が積極的政策を進めていること,これによる西欧全般のデタント傾向,ソ連がますます孤立するとの見通し,伊国の対独従属が強まっているとの観測などが報告されました。
また,ミュンヘン会談後の12月にはイーデン前英国外相が訪米し,米国の有力者と会談しました。イーデンはワシントンで演説し,英国は民主主義の諸制度を維持・助長する努力と確信を失っておらず,民主主義のクラブを作り,他国が進んで加入するようクラブを価値あるものとしなければならないと訴えました。イーデン訪米に関し斎藤博駐米大使は,米国の一部にチェンバレン英国首相の対独政策に反感や疑惑の念を抱く者がある一方で,イーデンの理想主義的平和政策には米国一般が多大の期待をかけており,イーデン訪米は英米親善関係増進に貢献したと報告しました。(なお,第二次欧州大戦をめぐる欧州政情については,特集「第二次欧州大戦と日本」第二冊の項目四「大戦をめぐる諸情報」を参照してください。)
(採録文書数35文書)
2 スペイン内乱
本項目では,昭和11(1936)年7月に勃発したスペイン内乱に関する日本の情報収集や対応振りを示す文書を採録しています。なお,昭和11年の関係文書は昭和期II第二部第五巻に採録済みであり,本巻では昭和12年以降の関係文書を採録しています。
昭和12年1月7日,外務本省は欧州の関係公館に対して,スペイン情勢に関する見通しを報告するよう訓令しました。しかし,明確な見通しを示す情報は乏しく,戦況はフランコ政権に有利だが,関係国がスペインへの関与を直ちに止めるとは考えにくいので,マドリードが陥落しない限り,当面は膠着状態が続くとの見方が有力でした。しかしその後,フランコ政権の軍事的優勢が明確となり,戦争の終局が観測されるようになると,11月12日,矢野真駐スペイン公使は,フランコ政権承認は日本が防共の精神を内外に宣揚する絶好の機会で,将来の通商上から見ても有利であり,日中戦争に際して日本国民の士気高揚にも効果があるなどの理由を挙げて,至急承認すべき旨の意見を,避難先であるフランスのサンジャンドリューズから具申しました。そして12月1日,日本はフランコ政権を承認しました。
日本はフランコ政権を承認すると,同政権の根拠地であるブルゴスに近いサラマンカに高岡禎一郎書記官を代理公使として派遣し,同政権との連絡に当たらせました。昭和13年1月末,高岡臨時代理公使と会見したフランコは,日本は「東洋ノ灯台」として東洋文化や日本的精神を表徴しており,日本を尊敬していると述べました。3月には,フランコ政権は日本政府に対し駆逐艦2隻の譲渡を申し入れましたが,日本はスペインの内政や軍事に深入りすることを避け,軍事上の機密保持も考慮して,これに応じませんでした。また,フランコ政権は人民戦線政府に信任状を提出した矢野公使に対し,改めてフランコ側に信任状を提出するよう求めました。11月23日,矢野公使はブルゴスに赴き,信任状を提出しましたが,その際,矢野と会見したフランコは,日西両国が防共の共同戦線において奮闘している点を強調し,共同の敵に対して精神的に結合した両国関係が益々緊密となることを切望すると述べました。
昭和14年3月28日にマドリードが陥落し,4月1日にはフランコ政権によって内戦終結宣言が出されました。内戦が激化して以来,閉鎖されていたマドリードの日本公使館は,同年10月に館員が帰還し,館務を再開しました。
(採録文書数43文書)
3 ドイツによるオーストリア併合
本項目では,昭和13(1938)年3月に起こった独国によるオーストリア併合に関して,日本が行った情報収集や対応振りを示す文書を採録しています。
昭和13年2月12日,独国内のベルヒテスガーデンでオーストリア首相のシュシュニックと会談したヒトラーは,外交政策で独国と協議すること,オーストリア国内のナチ運動を認めること,ナチ党員であるインクバルトの内相起用などを要求しました。オーストリア国内では,オーストリア・ナチスが独国との合邦を公然と要求しており,一方で合邦に反対する国民世論も高まりを見せていました。オーストリア政府は3月9日,独国との合邦問題を国民投票にかけると決定しましたが,これに対し独国は翌日,国民投票の中止などを要求する最後通牒を発出し,シュシュニック首相は辞職に追い込まれました。替わって組閣したインクバルト首相は13日,独国軍が進駐する中で,独墺合邦を決議しました。この結果,オーストリアという国家は消滅し,独国の一州となりました。
日本政府は合邦が実現するとこれを支持し,直ちに独国政府へ祝意を表明しました。近衛首相もヒトラーに個人的な祝意電報を発出しました。さらに,ウィーンの在オーストリア公使館を閉鎖し,替わって総領事館を開設しました。英仏両国は独国のオーストリア圧迫を不当であると抗議しましたが,独国は全く取り合いませんでした。他方,伊国は「オーストリアはドイツ系国家であり合邦は自然の形勢」として独国軍の進駐を黙認しました。堀田正昭駐伊大使は,この情勢から独伊枢軸が強固なものとなりつつあるとの観測を報告しました。
(採録文書数28文書)
4 ドイツによるチェコスロバキア解体
本項目では,ドイツによるチェコスロバキア解体に関して,日本が行った情報収集や対応振りを示す文書を三つの時期区分に分けて採録しています。
(1)ズデーテン地方をめぐるドイツの要求
オーストリアが合邦された後,焦点はチェコスロバキア西部のズデーテン地方へと移りました。多くのドイツ系住民が居住する同地方では,ドイツ人政党が待遇改善や自治を要求し,ヒトラーも同地方のドイツ民族に対する保護の義務を高唱しました。自治をめぐるチェコスロバキア政府とドイツ人政党との交渉は停滞していましたが,事態を大きく動かしたのは,昭和13(1938)年9月12日のヒトラー演説でした。ヒトラーはチェコスロバキア政府の圧政を強く非難して,ズデーテン地方のドイツ民族解放を要求し,この演説をきっかけにズデーテンの自治運動は激化しました。
日本ではこの演説に対し14日,外務省情報部長談話をもって「ズデーテン問題紛糾の責任はコミンテルンにあり,日本は防共協定の精神に従い,独伊と提携してコミンテルンの世界策動を排撃する」と発表しました。この談話について吉田茂駐英大使は,ロイター通信の報道振りを報告し,日本があたかも英米仏に対抗して独を支持している印象を各方面に与えており,内容の是正や説明が必要であると意見具申しました。しかし外務本省は,談話発表の席上で武力行使の必要を差し当たり認めないと表明しており,今さら修正や説明を加えるのはかえって好ましくないと回答しました。なお,独伊両国はこの談話に対する謝意を日本側へ伝えました。
一方,ズデーテンの事態を重く見たチェンバレン英国首相は,9月15日,訪独してヒトラーと首脳会談を行いました。会談の結果,英仏両国は共同でチェコスロバキア政府に対し,戦争回避のためズデーテンを独国に割譲するよう勧告しました。同政府は一旦これを拒絶したものの,同 21日に全面受諾しました。チェンバレンは直ちにヒトラーと会談してチェコスロバキアの回答を伝えましたが,ヒトラーは独国軍のズデーテン進駐を要求し,さらにハンガリーやポーランドの要求も認めるべきと主張したため,会談は決裂しました。この結果,チェコスロバキア政府は総動員を布告し,仏国も動員を開始しました。英国は開戦の場合,仏国を全面的に支援することを確認し,伊国も盟邦である独国のため参戦する決意を明らかにしました。
独国はチェコスロバキアに最後通牒を発し,ズデーテン即時割譲と軍隊撤退を要求しましたが,9月25日,チェコスロバキアはこれを拒絶しました。ルーズベルト米国大統領は独国とチェコスロバキアの両政府に自重を求めるメッセージを発出し,日本政府にも同様のメッセージ発出を求めましたが,日本は9月28日,米国の措置には敬意と賛意を表するが,日本は独自の立場で対処する旨を回答しました。
(採録文書数46文書)
(2) ミュンヘン会談
最後通牒の期限である昭和13(1938)9月28日午後2時が迫る中,同日午前に至り,ムッソリーニ伊国首相の仲介で,英仏独伊四国首脳の会談がミュンヘンで開催されることとなりました。ミュンヘン会談は9月29,30日の両日にわたり行われ,独国へのズデーテン割譲など,独国の要求が全面的に容認される形でミュンヘン協定が成立しました。チェコスロバキアは同協定を受諾するしかなく,この結果,欧州戦争の危機は回避されました。
ミュンヘン協定成立の報に接すると,近衛文麿総理はヒトラー総統に宛てて祝意を表明した電報を発出しました(9月30日)。東郷茂徳駐独大使は,ミュンヘン会談を分析して,協定成立に導いたヒトラーの手腕を評価し,独伊枢軸の緊密化を改めて指摘するとともに,日本は欧州問題に介入しても何ら決定的要素とはなり得ないので,欧州問題には介入せずとの従来の方針を堅持すべきであるとの意見を具申しました。また東郷大使は,防共協定強化の必要は認めつつも,仮想敵国を厳密に限定しておかなければ欧州問題を起因とする戦争に巻き込まれる懸念があることも具申しました。
(採録文書数23文書)
(3) チェコ併合とスロバキアの保護国化
ミュンヘン会談の結果,チェコスロバキア国内のスロバキアとカルパト・ウクライナには自治が認められましたが,その後の関係国協議によって,南部スロバキアとカルパト・ウクライナはハンガリーへ割譲されることが決まりました。これに対しスロバキアとカルパト・ウクライナの両自治政府は強く反発し,チェコスロバキアからの独立気運が高まりました。
スロバキアは昭和14(1939)年3月14日,独国の支援下に独立を宣言しました。同日,カルパト・ウクライナも独立を宣言しましたが,ハンガリーは即座にカルパト・ウクライナへ兵を進め,16日にはほぼ全域を制圧し,同地方はハンガリー領となりました。カルパト・ウクライナ政府は3月16日,藤井啓之助駐チェコスロバキア公使に対して,ハンガリーへ調停交渉を行ってほしいと2度にわたり電報で要請しましたが,藤井公使は,これは日本の関与すべき事項ではなく,しかもハンガリー軍の活動は独国の了解の下に行われたものと判断されることから,カルパト・ウクライナ政府の要請には黙して応じませんでした。
一方,チェコスロバキア政府はスロバキア独立,カルパト・ウクライナへのハンガリー侵攻という事態を打開するため,大統領ハーハが訪独してヒトラーとの会談に臨みました(3月15日)。ヒトラーはチェコスロバキアの残部であるボヘミアとモラビアを独国へ割譲するよう要求しました。ハーハはこれを受諾せざるを得ず,「チェコの運命を独国総統の手中に委ねる」との声明書に署名し,ボヘミアとモラビアは独領に併合されました。英仏両国はこの併合に対して独国に抗議を行いましたが,独国はそのような抗議は政治的,法律的及び道義的に何ら根拠のないものと一蹴しました。日本は独国からの在チェコスロバキア公使館閉鎖要求に直ちに応じ,プラハに公使館に替えて総領事館を開設しました。また,6月1日にはスロバキアを独立国家として承認しました。
(採録文書数29文書)
5 イタリアによるアルバニア併合
本項目では,イタリアによるアルバニア併合に関して,日本が行った情報収集や対応振りを示す文書を採録しています。
昭和14(1939)年4月6日,チアノ伊国外相はアルバニアに対して近く軍事行動を起こす旨を白鳥敏夫駐伊大使に内報しました。伊国の軍事行動は同日夜半から開始され,瞬く間にアルバニア全土を占領しました。アルバニア国王は国外へ脱出し,アルバニアは伊国の同君連合となり,伊国王がアルバニア国王に即位しました。当初,チアノ外相は白鳥大使に,アルバニアの地位を「日本ノ満州国ナリ」と説明しましたが,6月3日には,伊国はアルバニアとの間に外交一元化を律する条約を締結し,広範囲にわたり国政を代行することとなりました。これにより日本は,アルバニアを依然独立国と認めるものの,外交関係は終止することを決定し,7月28日には在アルバニア日本公使館の廃止が裁可されました。
(採録文書数16文書)
六 国際連盟との諸問題
本項目では,昭和12(1937)年から,日本が国際連盟への協力を終止する昭和13年12月2日までの間における連盟諸機関との関係を示す文書を採録しています。
具体的には,(1)独国ヒトラー総統らによる旧独領植民地回復要求に対し,英国の提案で,各国の資源開発調査のため連盟に設置された原料品問題調査委員会への日本の参加に関する文書,(2)昭和13年6月,連盟阿片諮問委員会において中国,米国及びカナダ代表などによってなされた極東阿片政策批判に対する日本の反駁に関する文書,(3)同年の国際労働機関総会に対して,日本は国内からの代表派遣を止め,ジュネーブの北岡寿逸国際労働機関日本事務所長だけを参加させた「暫定措置」に関する文書,(4)連盟との協力終止通告後における常設国際司法裁判所の分担金及び裁判官選挙への参加に関する文書,(5)昭和9年以来,休会となっていたジュネーブ一般軍縮会議幹部会への参加(昭和12年)に関する文書,(6)連盟との協力終止後もその地位を堅持した南洋群島委任統治の年報提出及び同地域への国家総動員法適用に関する文書などを採録しています。
(採録文書数45文書)
付 国際会議への参加協力
本項目では,上記連盟諸機関以外の国際会議への参加協力に関する文書を採録しています。具体的には,(1)昭和13(1938)年2月開催の移民問題専門家会議へは「成ル可ク消極的、控へ目ノ態度」をもって参加し,(2)同年6月の国際赤十字会議へも,日中戦争に関する討議を懸念して,消極的態度を以て参加した関係文書,(3)日本のオットセイ保護条約廃棄通告(昭和15年10月)をめぐり米国などと協議の結果,翌年10月,失効に至った関係文書を採録しています。
(採録文書数9文書)
七 諸外国との通商問題
1 日米通商問題
本項目では,対フィリピン日本綿布輸出問題を中心とした昭和12(1937)年以降の日米間での綿業協定に関する交渉,および互恵通商協定をはじめとする通商政策一般をめぐる問題に関わる文書などを採録しています。
昭和12年7月をもって対フィリピン日本綿布輸出に関する日米間の紳士協定が2年間の期間満了を迎えるにあたり,その協定更新に関する交渉が進められました。斎藤博駐米大使からは協定存続を危惧する観測も伝えられましたが,香港経由日本綿布の扱いなどの懸案事項をめぐる調整が行われ,同年8月から期間を1年延長することで合意が成立しました。この協定に関してはその後も日米間での交渉が進められ,内容の一部修正を含みながらも昭和13~15年にかけて連年再延長されていきました。しかし,昭和16年の日米間の情勢下では交渉成立は困難となり,協定延長は実現しませんでした。米本国向け綿布輸出に関しては,昭和12年1月に日米民間業者間での協定が成立し,これを好意的に受けとめる米国側の報道振りが報告されていました。この民間協定は,昭和13年12月,さらに2年間期間延長されることになりました。
一方,昭和12年には,英国バーンビー使節団および米国フォーブス使節団に対する答礼とベルリンでの国際商業会議所総会への出席を目的とした遣英米経済使節団が,日本経済連盟会により派遣されることになりました。外務省通商局はこの使節団に対し,わが方出先官憲との連携の上,当該国との親善増進に努めることなどの希望を伝えるとともに,当時の通商に関する諸問題を解説した参考資料を提示しました(参考資料は本小項目末尾に〈参考〉として収録)。使節団は,同年5月から米国や英国の各地を歴訪して官民関係者との交流を図り,8月に解団しました。さらに,この使節団の派遣を契機として,米国との互恵通商協定締結に関する問題の検討も進められました。
(採録文書数80文書)
2 日印・日緬会商
本項目では,昭和12(1937)年における第二次日印会商および日緬会商の経緯に関する文書を採録しています。なお,昭和14年10月から翌年3月にかけて行われた第三次日印会商の経緯については,通商局が作成した執務報告の抜粋を採録しています。
昭和11年末に開始された日緬会商は,翌年1月には交渉がやや停滞気味となりましたが,日印会商の再開や日英関係一般への影響を考慮する中で,妥結促進に向けた対応が図られていきました。2月半ばに至り綿布の品種別割当・移譲率問題などでの妥協が成立し,3月には現地で交渉代表者による議定書へのイニシアルが行われました。その後,日緬通商条約の締結交渉が進められ,6月,ロンドンにおいて吉田茂駐英大使と英国外相間で日緬通商条約および綿布輸出に関する議定書が調印されました。
一方,日緬会商が妥結に向かう中で,昭和11年11月以来中断していた日印会商も昭和12年2月半ばから再開されることになりました。再開後の日印会商においても双方の譲歩がみられ,3月末に交渉が妥結,4月に現地で交渉代表者による日印議定書へのイニシアルが完了しました。その後10月に至り,ロンドンで日印議定書の調印および日印通商条約の効力延長に関する公文が交換されました。
(採録文書数73文書)
3 日蘭会商
本項目では,日本・蘭印間の通商問題に関する昭和12(1937)年から14年夏(第二次欧州大戦勃発直前)までの時期の関係文書を採録しています。なお,昭和14年9月以降の蘭印問題に関しては,特集「第二次欧州大戦と日本」第二冊の項目五「蘭印問題」を参照してください。
昭和11年に再開された日本・蘭印間の通商問題に関する交渉は,昭和12年4月,妥結に至り,蘭印物産の輸入増進に関する日本側の努力や邦商取扱比率に関する蘭印側の配慮などをうたった日蘭印間覚書(石沢・ハルト覚書)が成立しました。さらに翌年1月には,小谷・ファンモーク覚書によって,在日蘭商と本邦輸出組合との関係調整が図られていきました。
一方,日中戦争勃発後における蘭印物資の対日輸出減少を背景に,昭和13年4月,蘭印側は馬瀬金太郎在バタビア総領事を通じ,日蘭印貿易増進のための協議を要請してきました。これに対し日本側は同年7月,蘭印側の抗議を退けつつも,蘭印物産の輸入増加努力などを回答しました。この日本側回答と前後して,在本邦パブスト蘭公使からも蘭印物産の輸入制限緩和などを求める覚書が松嶋鹿夫通商局長へ手交され,日本側も覚書をもって,石沢・ハルト覚書の記載事項を忠実に実行している旨を回答しました。その後同年12月には,再びパブスト公使から蘭印物産14品目の輸入斡旋を要請する覚書が手交されました。これに対しても日本側は,昭和14年3月,石沢・ハルト覚書の精神に従って対応する方針で回答しました。その後,蘭印側が対日通商制限措置を実施したことに対し,逆に日本側がその緩和を要請しました。
(採録文書数18文書)
4 日豪通商問題
本項目では,昭和12(1937)年から15年にかけての日豪間での通商問題に関わる文書を採録しています。
昭和12年2月,前年末に成立した日豪間の通商諒解を正式な条約とするための交渉が開始されました。しかし,満州での対豪州輸入制限問題,織物定義問題,羊毛輸入数量問題などをめぐり交渉は難航しました。若松虎雄在シドニー総領事からは妥協を求める意見具申も行われましたが,本省側は主張貫徹の方針を崩さず,特に羊毛輸入数量問題をめぐる日豪双方の意向相違から,8月に条約締結交渉は頓挫しました。また,通商条約交渉と並行して6月には豪州側から海運問題も提起されましたが,同問題に関し日本側は,当業者間での交渉で対処すべきとの立場をとりました。その後,昭和13年2月に日豪間の通商交渉が再開され,羊毛輸入数量問題や海運問題などでの調整が図られていく中で7月に交渉が妥結し,さらに1年間の日豪通商措置が成立しました。こうした日豪通商措置は,翌昭和14年においては日豪がその意向をお互いに通告しあう形で対応していくことになりました。
このほか,昭和13年からは豪州が実施した鉄鉱の輸出制限をめぐる交渉が行われ,また昭和14年には対日羊毛分譲問題,豪州での輸入制限問題などをめぐる交渉も行われました。
(採録文書数73文書)