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2.2 社会経済開発の経緯  

 独立以降、初代大統領となったニエレレの下で社会主義政策を進めたタンザニアは、当初は年平均6%を越える成長を遂げたが、計画経済の行き詰まりとともにその転換点を迎え、国際的な支援を得つつ民主化と経済構造改革を進める体制に移行した。タンザニアにおけるこのような社会経済発展の経緯は大まかに4つの局面に分けることができる。

(1) 植民地経済から社会主義計画経済への移行期

 1961年にイギリスから独立したタンザニアは、強い規制と統制を基盤とするそれまでの植民地経済から、初代大統領ニエレレの下でアフリカ型社会主義による発展をめざした。ニエレレは、タンザニアが社会主義路線を歩むことを明示した「アルーシャ宣言」を1967年に発表した。この宣言は、工業中心・外資依存型の開発が、都市と農村の所得格差をもたらし、貧困を生み出す原因となってきたとの認識から、アフリカ古来の共有財産制と共同労働を基盤とする家族的共同体「ウジャマー」の精神に基づく社会主義と計画経済の建設を標榜したものである。この宣言により、金融、商業、農業が政府の管理下に置かれ、主要企業は国有化される一方で、公社・公団が市場に参入した。

 アルーシャ宣言とこれに続く社会主義的国家主導型の経済開発は、1960年代から1970年代前半にかけて軌道に乗り、1967年から73年の年平均GDP成長率は5.6%、一人あたりGNPは2.5%、輸入・輸出もそれぞれ年平均6%で増加し、タンザニア経済は比較的順調な成長を遂げた。この背景として、この時期の世界経済が、第2次世界大戦後の黄金的拡張過程にあり、ニエレレ大統領の開発理念に対する世界的共感から、世銀や先進諸国から多額の援助を得ていたことがある。このような状況下で、タンザニア政府は社会サービスに重点を置く政策をとり、教育や飲料水供給等が大きく改善された。

(2) 社会主義計画経済の疲弊期

 「ウジャマー」と呼ばれる社会主義政策のもとで、タンザニア国内の250世帯以上の集落はすべて村として認定され、食糧作物生産地域では生産効率向上のため大規模な移住による集村化が実施された。しかし、この計画的・強制的集村化は、大規模移住によって農村に混乱を引き起こし、生産力の低下や部族の伝統文化の喪失をもたらし、農村経済の疲弊を生じる結果となった。また、基幹産業の国有化政策と輸入代替工業化の失敗が明らかになったほか、2度にわたるオイルショックの影響や先進国経済の不況による輸出不振、世界的な一次産品交易条件の悪化、大規模な旱魃といった外的要因が重なり、タンザニアのGDP成長率はマイナスに転じることとなった。

 1974年から78年の年平均GDP成長率はマイナス0.9%、1979年から81年はマイナス1.1%、1982年から84年はマイナス2.9%と成長はしだいに減速した。この期間のインフレ率は、15%から31%へと高騰し、実質家計所得は1970年代初めと比較して1984年には半減したといわれている。

 こうした中で、1981年ニエレレ政権は、疲弊した経済からの脱出を目的とした国家経済救済計画(NESP: National Economic Salvation Programme)と呼ばれる構造調整計画を発表し、伝統的および非伝統的産品の輸出促進や政府支出の削減、公営企業の能率改善、農産物の域内取引の自由化等をめざしたが、実施内容が不十分なこともあり解決には至らなかった。1983年には、政府が闇市場の取り締まりを強化したが、その結果、ますます民間部門の商業活動意欲を減退させ、深刻な物資の不足を招いた。政府の機能低下も著しく、経済問題に対する政府の取り組み姿勢がドナーに不評となって、援助量は1980年代前半に急速に減少した。1983年、政府はさらに3年間をカバーする構造調整計画を取り入れ、国内生産を1978年のレベルに回復することや、公共投資の改善、インフレ率の低下、財政収支の改善、政府支出の合理化、生産者へのインセンティブの賦与等多くの改革目標が立てられた。しかし、為替レート政策の失敗からドナーからの援助を引き出すことができず、経済収支に大きな改善は見られなかった。

(3) 市場経済への移行期

 1986年に誕生したムウィニ新政権は、疲弊した社会主義計画経済の打開を図り、経済構造調整を政策の中心に置いた。政府は、社会主義政策に起因する経済構造からの脱却を図り、民間部門が経済活動に積極的に参入することを促進する目的で、1986年から88年までの経済復興計画(ERP: Economic Recovery Programme)を実施した。改革の目標は、為替レート調整、輸入の自由化、農業流通の改善、規制緩和、農業生産増大のための生産者へのインセンティブ賦与、財政・通貨・金融制度改革、国内資源配分の改善を組み合わせたものであった。当初は、保守派の抵抗や経済自由化への認識不足から改革の進行は遅かったものの、改革意識の高いテクノクラートや学者の出現により、マクロ経済指標に改善が見られるようになった。この時期には、GDPに占める財政収支赤字の比率が1980年の11.4%から1988年の6%にまで減少し、1980年代後半にはGDPもわずかながらプラスに転じている。ERPは、世銀やIMF、他のドナーとの合意に基づいたもので、これによる改革が進むにつれて各ドナーの経済援助も再開された。

 1989年から93年には、食糧作物と輸出作物の生産増大、国内資源の利用と人的動員の効率化、生産力強化のためのインフラ整備、国際収支不均衡の改善等を柱としたERPIIによる構造調整がかなりの成果をあげ、タンザニアは経済構造改革の成功例として世界から賞賛された。GNP成長率は1993年時点で約6%にまで回復し、インフレ率も20%程度に低下した。

(4) 市場経済・民主化の進展期

 二つのERPによる経済改革が一定の効果をもたらした後の1992年、事実上ERPに代わる経済計画として3年間の経済政策の基本方針を示す経済政策大綱(PFP: Policy Framework Paper)が、タンザニア政府と世銀、IMFの間で策定された。PFPは、ERP導入以来進められてきた経済改革を継続して実施することを主眼としたものである。この翌年の1993年には、中期開発・予算計画を毎年見直すという新たな計画・予算手法に基づいたローリング・プラン(RPFB)を導入し、いっそうの経済構造改革を進めることになった。

 また、1992年は、国民議会が複数政党制移行のための憲法改正を決議し、経済構造調整とあいまって、タンザニアにおいて民主化と市場経済が進展する転機となった年でもある。しかし、1995年の複数政党制による初めての大統領選挙や、2000年の大統領選挙で、不正や違反を原因としてやりなおし選挙が行われる等、この国の民主化は依然として形成途上といわれている。今後、民主化を一層進めるには、政治の透明性の確保、不正・腐敗・汚職の追放、法による支配、機会均等といった政治・行政上の制度改革や運用の改善が必要である。また、同時に、「下からの民主化」を進める市民層の育成や、政権に干渉されない多様なマスメディアの形成といった社会組織の醸成が期待されている。



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