4.1.1 総括的所見
モンゴルにおいて、1980年代後半から始まった民主化への国民的支持と、これを受けて始まった市場経済への移行のための初期条件は決して恵まれた状況ではなかった。従って、その後の改革の道のりは、他の同様な改革を目指す旧社会主義諸国に比べて険しい状況であったと言えよう。
1921年の建国以来、旧ソ連邦の枠組みの中でのモンゴル社会経済運営は、人民革命党独裁と中央計画経済、そしてコメコン体制の枠組み下において、国際的比較優位に立脚しない産業分業体制を取らざるを得ない状況にあった。このソ連邦の枠組みの中で、自国経済の運営や技術の自立化を、モンゴル人自身の手によって行われる機会が少なかったことは、モンゴル建国以来の近代化過程における最も不幸な出来事であった。即ち、モンゴル人自身による経済統治力や技術自立化の能力(キャパシティ)が十分に育まれてこなかったのである。21年から80年代後半までの期間に、ロシアからの借款は120億ドル、グラントは20億ドルとも言われており、この援助額はモンゴル経済のGDPの約60%に達するものとも言われている。
この一般的状況は、インフラ(社会経済基盤)部門でも例外ではなく、インフラ事業への投資の多くは、中央計画経済の下でのロシアや東欧共産主義国からの援助に頼ったものであった。
1990年以降のコメコン市場の崩壊、国家財政の危機、そしてロシア人経営専門家や技術者の本国への引き上げ(合計約10万人と推計されている)などは国家経済の基幹産業であるインフラ部門を直撃した。結果として、生活基盤や産業基盤分野での急激なサービスの低下を招いた。インフラ部門の崩壊は、直ちに国民生活のライフラインを脅かし、社会不安を増大させた。これらインフラ部門のサービスの低下は連鎖的に波及し、国家全体の経済活動は急速に低下した。93年のGDPは88年時点の約70%にまで落ち込んだのである。94年になって初めてGDPの低下傾向は歯止めがかかり、この年以降はプラスの局面に推移している。しかしこの回復傾向は海外からの援助による投資の増大を反映しているに過ぎず、生産部門が持続的回復基調に至るにはなお時間がかかるであろう。
第2章で述べた様に、モンゴル政府の政策課題と我が国の援助対応は概ねその規模と質(内容)において整合性が図られていたと言えよう。この総括的所見は日本のインフラ部門への援助について概ね当てはまる。即ち、モンゴル社会経済の緊急政策課題を踏まえて、援助優先分野を迅速かつ適切に選択し、いくつかの今後解決するべき重要課題を残しているとはいえ、その効果を十分に発揮してきたと言える。
4.1.2 個別インフラプロジェクトの評価概要
(1)通信施設整備計画(1991年~92年、無償:15億円)
1991年~93年のモンゴル社会経済の緊急事態に呼応する緊急支援(ノンプロ無償・食糧援助・食糧増産援助)に加えて、日本のインフラ部門への援助は通信施設整備計画から始まった。 民主化・市場経済移行を進めるうえで、海外との通信手段の確保とその整備・改善は非常に重要である。この援助は、90年以降、モンゴルが国際社会の新しい一員として参加するために必要なコミュニケーションの手段を迅速にかつ効率的に確保せしめた。この援助効果には最大限の評価を与えるべきであろう。
この国際通信施設整備改善の援助は極めてタイムリーで、このプロジェクトによって改善された施設の機能により、国際通信量(通話回数・利用時間)はわずか10年足らずの間に10倍近くに増大した。この様に、インフラ事業に対する援助では需要予測が非常に重要である。援助効果は既に顕在化している需要と、設備の供給によって喚起される需要をどれだけ正確に予見できるかにかかっている。この事例で見られるごとく、増大する需要に見合うインフラ事業への援助は、その事業主体(本件の場合はMTC:Mongol Telecommunications Company)の経営を急速に改善・安定化させ、収益の向上をもたらした。国営企業であったMTCは95年にMCACとMTCに分割された。前者は国営で公共の利益を守るために約30数名のスタッフで運営される政策・監督官庁である。後者は約5,000人の職員を擁する株式会社でその40%の株式はKorea Telecomに売却された。 この経過を経て、モンゴルの通信部門は民営化を迅速に達成した。
この通信施設整備計画への無償資金援助は、日本のインフラ援助の今後のあり方にとって、以下に示すように、多くの教訓を示唆している:(1)新技術の導入を通してのサービスの改善が直接的に需要を喚起するものでなければならないこと;(2)サービス改善によってのみ需要者にとっても事業体にとっても適正な価格の導入が可能となること;(3)技術革新はサービス向上の必要条件であり、その事業経営の財務的健全化は事業の持続性を担保する十分条件であること;(4)事業経営の適正な利潤確保こそがインフラ事業民営化の必要条件であること;(5)技術の保守と経営の節度ある統治管理システムが健全な経営の持続性を保証すること;(6)これらの健全性が組織とスタッフのモラルの向上をもたらし、民間資本のインフラ事業参加を促進する必要条件が形成されること;さらに、(7)以上の事業体レベルでの健全性を保全するべきセクター政策立案・監督業務が、政策・監督官庁に移譲され、民間の事業参加意欲を促す法的・制度的環境整備が導入されたこと。
本案件は、上述した条件を試行錯誤ではあるがほぼ満たしており、今後のモンゴルでの公共インフラ案件援助のモデルとして認識されるべきであろう。すなわち、適切な資金援助・技術協力によってインフラ施設と技術の改善・革新を行いつつ、事業経営そのものの安定化とその経営の健全化を戦略的に志向する一方、政府部門は民間が活動しやすい政策環境整備(透明性の高い政策・法律などの整備)づくりに専念し、事業体を先ずモラルの高い自己統治能力のある組織として自立化させ、その上で、直接民間に売却するか、あるいはワンステップおいて、政府所有の株式会社にしてからその株式を公開し、民間に売却することにより民営化することである。この売却益はもちろん政府の貴重な財源となる。
この様なモデルが今後考えられる日本の援助案件としては、ウランバートル市公共輸送力(第一バス公社)改善計画、鉄道施設改善計画、第4火力発電所、および上水設備改善計画などの援助プロジェクトであろう。公共事業サービスの民営化の実現は、日本援助の総体的効率性を測る目安の一つとして考えておくことも必要であり、戦略的援助の必要性が問われる所以である。このような政策的・戦略的視点からのインフラ部門への援助を今後期待したい。
(2)第4火力発電所(1992年~93年無償:12億円、95年有償45億円)
第4火力発電所(以下第4火力と称す)に対する援助は、1990年代初頭からの国家緊急事態における国民生活のライフラインの確保と経済活動維持の為に大きな効果を発揮しつつあると言える。無償と有償資金による老朽化した設備の更新と長期専門家派遣による技術的指導は、本件プロジェクトの目的である電力の効率的安定供給を達成しつつある。例えば、停電回数は92年の200回/年から98年には10回以下に低減した。発電効率も新しいボイラーの導入により10%~20%向上している。このプロジェクトの問題点は発電量と売電量(収入を得ることのできる電力量)のギャップ、即ち電力ロスの大きさである。正確なロスとその根拠はまだ明確ではないが、世銀のレポートによると、発電量の約30%に近いロスがあると報告されている。 第4火力のチーフエンジニアによれば、技術的送配電ロスは10%程度であろうとのことである。残りの20%は制度的ロス(盗電や未収入電力量)である。もしこのロス率が正しいものであれば、問題は単に技術的効率性ではなく、まさに制度的・経営上の課題である。多くの途上国においてもロスは15%以内に抑えられていることから、電力の安定供給のみならず、むしろロス率の減少も第一の目的とするべきである。さもなければ、日本の援助による発電効率と安定供給の目的は、よしんばそれ自体の目的が達成されたとしても、ロス率の分だけ経営上の無駄が増加することを意味する。
このロス問題は、第4火力の所有者であるEA(Energy Authority)の健全な経営を脅かすものであることは自明である。即ち、ロス問題は経営の健全性と持続性に直接大きな影響を与えている。この点に関し、現在世銀による総配電網のロス率改善や電力セクターの制度改善を含む支援が実施予定となっており、今後より一層の協調、調整が必要とされている。ロス問題は緊急かつ重大な問題であるので、エネルギー部門におけるトップドナーである日本が、関係当局や他の援助機関との政策対話を通じて、積極的に問題解決のイニシアティブを取ることが肝要であろう。
(3)ザミンウード駅貨物積替施設整備計画(1993年~94年無償21億円)、鉄道輸送力整備計画(93年~94年有償80億円)
これらの援助案件は民生安定と経済活動の基本的ニーズ、即ち、前者は中国とモンゴルを結ぶ生命線である国境における鉄道貨物積み替え施設改善による輸送力保全・改良を目的としたものである。また後者は機関車・車両購入や車両整備工場の改善による国全体の鉄道輸送力強化を目的としたものである。輸送力強化はとりわけ主要貨物である国内産石炭の輸送力増強を意図し、ウランバートル市民の唯一の一次エネルギー源である石炭の確保と、電力の安定した供給との連携を念頭においている。従って、このプロジェクトは輸送力保全・強化とともに、市民の生活と生産活動に必要な食糧・エネルギーという基本的ニーズへの緊急対応プロジェクトとも言えるものである。
しかしながら、鉄道公社の取り扱い貨物量は1990年以降の国内総生産の急激な減少に伴って、97年までは低下傾向を示していた。94年以降のGDPの増加とともに貨物量も旅客も増加傾向にあり、今後の国内経済の回復に伴って、本件プロジェクトの効果が次第に発揮されるものと期待されている。
その一方で、道路輸送との競合問題を真剣に検討する必要がある。これには国全体の産業立地や国土利用計画を念頭に置いた全国的・包括的運輸基盤整備計画を描くことが必要になってくることを認識しなければならない。このような上位計画が不備では、鉄道部門と道路部門への重複投資を招く危険性が多いにあることを肝に命じておくべきであり、既に鉄道セクターと道路セクターへの二重投資の危険性が高いように思われる。鉄道と道路への二重投資を避け、両者が相互に補完するような調整システムの制度を早急に創る必要がある。1999年初頭に行われたインフラ開発省の機構改革は、この調整機能を十分発揮することができるような組織になっていることは大いに評価できる。しかし、今後運輸部門において、多くの援助プロジェクトが計画・実施されるにあたり、改組されたインフラ省のスタッフの計画管理能力には明らかに限界がある。彼らの能力強化のための技術的援助(政策立案・調整中枢部への専門家派遣)が今後極めて重要になってくるであろう。日本のインフラ部門全体への援助効率向上のためにも、同援助は必要不可欠である。
鉄道部門では路線基盤の改修が緊急課題であると既に指摘されているが、上述したように、道路との競合性・補完性を充分念頭に置いた上で、鉄道路線基盤改修区間の優先ルートを決定すべきであることは言うまでもない。
さらに、鉄道公社の財務状況の分析を踏まえての経営管理分野への援助が肝要である。この分野への支援なくしては、経営の合理化・健全化は望めない。経営の健全化なくしては鉄道事業の持続的発展は望めない。日本の今までの鉄道分野における援助の目的である技術的改善に伴う効率化の向上は、経営の合理化・効率化が伴わない限り、その効果は持続しないことを認識するべきである。
(4)ウランバートル市公共輸送力改善計画(1994~95年無償24億円)
無償資金によって供与されたバス100台は現在市内で走行中のバス全体の約20%を占めている。冬期(11月~3月)の平均最高気温が零下12度のウランバートル市民にとって、日本の援助による快適なバスの供給は市民の目に見える形で援助効果を上げていることに疑いの余地はない。機材供与と併せて、バス整備工場の供与と日本の整備技術者(協力隊員)による技術移転指導、さらには運営管理部門担当の長期専門家派遣とバランスの取れた援助は極めて高い効果を上げている。とりわけ専門家によるバス運転管理ノウハウの指導は特筆に価する。ウランバートル市では他に3つのバス公社が事業を行っているが、日本の援助を受けている第一バス公社は、バス運用効率、経営効率が他と比較して極めて高い。更なる効率向上と経営の安定化のためには、様々な工夫改善が必要であり、長期専門家の提言に基づいて改革を進めている。しかし運転管理向上だけでは解決できない上位政策と関連する様々な経営上の問題が存在することも事実である。日本人長期専門家はこのような課題を十分認識しており、更なる改善が図られるであろう。
今後の最重要課題は、技術分野よりも政策分野にあると言える。その一つは、民間のミニバスサービス会社との競合である。正確にその数は把握されていないが、市内では既に数十社の民営によるミニバスサービスが行われている。この民営バスサービスの影響は甚大で、政府所有のバス公社の乗客は減少傾向にある。現在の公営バス会社の民営化を一挙に図るのか、あるいは赤字経営のバス公社と民営バスとの共存を図るのかなど、その政策課題は重い。少なくとも日本の援助は技術的改善と経営改善を同等な目的として、今後の適切な公と民の共存体制を図るのか、あるいは全面的な民営化の足がかりとするのかという政策課題解決のための支援を要求されるであろう。
(5)ロックアスファルト舗装道路計画(1994~98年無償27億円)
地元産出のロックアスファルトを原料にして、ウランバートルから東部方面道路の約40キロメートル区間で道路の舗装化が行われた。これは混乱した経済の安定化から成長への支援を目的とした道路部門への最初の援助であり、国内産の原料を最大限に利用した道路建設技術移転を目指したものである。しかし、建設区間の選択に多少の疑問が残り、このルートが将来的に中国への代替ルートの一つになるとの可能性に基づいていたものなのか、あるいは目下検討中のロシアと中国を結ぶパイプラインのルートを見据えて選択されたのかは不明確である。
技術移転の目的自体は健全であるが、原材料が道路建設サイトから120キロメートルも離れていること、さらに路盤骨材も200キロメートル離れた北部ダルハンから供給しなければならないこと、規格水準が高いことなど、単位キロ当たりの工事費が他の道路建設費と比べてはるかに高く、この技術がすぐに他の道路建設に技術移転される機会は今のところ少ないと思われる。他の援助機関の道路建設費がキロ当たり2万~3万ドル程度であることを考えると、この技術が実際に応用されるのはかなり先の話になるであろう。
供与された建設機械が道路建設公社に移管されたが、政府が道路建設業の民営化を中長期の政策目標にしている現状に鑑み、必ずしも適切な処置とは言い難いと言う批判もある。無償で供与された資機材をプロジェクト完了後どのように移管するかは、今後の無償援助における日本側の一つの課題であろう。とりわけ移行経済国においては極めて重要な政策課題である。
(6)ウランバートル給水施設改善計画(1996年~97年無償12億円)
本案件は老朽化した水道水供給用井戸設備を改善し効率化を図り、消費電力を削減することによる支出の削減ならびに経営の改善と、安全な水道水の安定供給を目的としたプロジェクトである。また水需要抑制に必要なメーターの導入を図り、水料金の従量制料金導入の糸口にすることも目的としている。
ウランバートル市における現在の1人当たりの日水消費量は450リットルと記録されている。これは途上国としては極めて高い値であり、日本においては200~300リットルのレベルに留まっている。従って、供給サイドへの援助よりも需要サイドをコントロールするための援助が緊急課題であったと思われる。もちろん本案件の実施に際してはこの点を十分認識しており、基本設計調査の段階でこのための政策提言をしていることは高く評価されるべきである。残念ながらそれら政策課題克服のための手段の執行が充分監理されていないと思われる。2国間援助の限界とも思われるが、政策改善条件を明示的に掲げ、その実行を実施機関に強く迫ることが今後の無償援助において必要である考えられる。無償資金援助案件でどれだけ日本側が条件をつけることができるかは、日本側の今後の政策課題である。十分な政策分析に基づく被援助国との十分な対話と理解があれば、政策変更を援助実施の条件とすることは、それが中長期的には被援助国の利益になることである限り、決して内政干渉ではないと考えられる。
4.1.3 インフラ部門援助からの教訓と提言
上述したように、我が国の1990年からのインフラ部門への援助の軌跡は、緊急度の高い分野から的確な優先順位を踏まえて実施してきたものであると評価できる。支援分野の的確さに加えて、スコープにおいても、技術移転と人材の育成にも目配りした内容であったと評価できる。インフラ部門への援助は多様ではあるが、基本的には民生の安定に最大限貢献するべきであるという政策目的が十分理解できる援助であった。
これらの支援に共通する特徴は、技術移転への配慮である。インフラの持続的管理と発展には技術移転-技術保守-技術の自立が必要条件である。そして適切な技術移転が、これらインフラ設備の効率的サービスの向上を可能にするのである。
今回レビューしたプロジェクトは、ほとんどのケースにおいてモンゴル側の技術受容能力は他の途上国と比較して、かなり高いことが分かった。今後は持続的発展のための十分条件となる財務・マネジメントの移転に最大限の支援をすることが肝要であろう。
上記の視点を踏まえ、今後の日本のインフラ部門への援助は、マクロ経済政策・セクター開発政策・戦略・改革、とりわけ、中長期的な視野での民営化を目的とした援助を目指すことが必要になってくるであろう。このことから、今後、ますますマクロ計画・改革との整合性のある援助プロジェクトの選択と援助内容の高度化が要請されるであろう。
上述の全体的所見と個別プロジェクトのレビューを踏まえて、インフラ部門への教訓と提言は以下のようにまとめられる。
(1)マクロレベルでの開発戦略との整合性を十分考慮した支援体制が望まれる。具体的には、今後の財政上の制約から、政府からの補助金の低下は避けがたいものと考え、インフラサービスの向上と事業の財務的自立化の両方を目的とした総合的な視点からの援助タイプの組み合わせを考えるべきである。
(2)マクロ計画・戦略と整合的なセクター政策・計画・戦略を充分認識理解することが、インフラ支援分野の選択、スコープ、支援形態の組み合わせなどを検討する際に極めて肝要である。そして個々のインフラプロジェクト案件の優先順位はこの上位計画との整合性の視点から評価されるべきである。
(3)個別のインフラ案件評価に当たっては、需要分析に最大限の考慮を払うべきである。この場合、想定するサービス価格は政府補助金を除外した価格を用いるべきである。即ち事業実施主体の財務的収益の視点から算出される価格を想定して、需要予測を行い、これに基づいて施設規模を決定するべきである。
(4)インフラ事業援助においては、技術援助、資金援助、そして経営改善指導は三位一体と考えるべきである。この3点がバランス良く組み合わされなければ持続的自立化は不可能である。
(5)インフラ部門で技術移転を主目的とする援助においては、その普及可能性を基準としてプロジェクトを選択するべきである。移転されるべき技術を選択する際に最も重要な評価基準は、長期的な経済的効率性である。これによって、新しい技術は自立的普及が可能となる。長期的・経済的合理性が受容する側の動機の原動力である。
(6)日本が援助を行っている全てのインフラ援助案件について経営上の管理運営指導を行う必要がある。
(7)日本のインフラ部門への援助の規模の圧倒的大きさに鑑み、セクター政策・戦略・計画・調整の分野と全体的インフラ投資の整合性、およびインフラ事業経営の財務的健全性の確保のための法律や制度改革を見据える専門家を政策立案・調整レベルの部署(例えばインフラ大臣官房)に派遣するべきと思われる。
4.2.1 総括的所見
我が国の政策支援・人材育成には基本的に2つのチャネルがある。1つは、開発途上国の総合的開発政策の立案・実施・監察・評価をマクロ・部門・地域の立場で支援し、それに必要な人材の育成と制度開発を支援すること、もう1つは、途上国の主要な開発部門での開発プロジェクトの立案・実施・監察・評価を支援し、それに必要な人材の育成とシステム開発を支援することである。
我が国は、モンゴル政府からの要請を受け、世界のどの国よりも早くからこの両チャネルを通じた政策支援・人材育成支援を行い、特に市場経済移行に対する政策支援に重点を置いてきた。1990年7月にモンゴルの歴史始まって以来最初の民主的総選挙が実施され、9月には総選挙によって選出されたモンゴル政府が誕生したが、その後91年にモンゴルへの緊急援助のために「モンゴル支援国会合」が設置されたことをうけ、我が国においてもモンゴルへの政策支援のために「モンゴル開発政策支援グループ」が同年結成された。モンゴル開発政策支援グループは、当初3年間(91~94年)は外務省の協力により、その後3年間(94~97年)は国際協力事業団(JICA)の研究協力計画の下で、対モンゴル政策支援を実施した。その主要な目的は、一方でモンゴル政府の市場経済移行促進のためのマクロ政策、産業政策の立案・実施への政策支援であり、他方ではかかる政策支援を通じてマクロ・産業政策の立案・実施能力をもった人材の育成と政策立案・実施体制の強化と国際援助受入能力・体制の強化にあった1。
日本政府の対モンゴル政策支援は、「モンゴルにおける開発の現状と問題、開発計画等に関する調査・研究および1997年3月に派遣した経済協力総合調査団等によるモンゴル側との政策対話を踏まえ」2、97~98年のモンゴル国別援助研究および98年度からの国際協力事業団の「モンゴル市場経済化支援調査」へ引き継がれている。98年4月の事前調査団派遣に始まったこの政策支援は、現在「モンゴルの市場経済体制への移行と持続的成長を目指した経済改革を支援するために中期開発戦略及び公共投資計画を策定するとともに、政府収入の安定的な確保と公平な租税制度の確立を支援するため、現行の徴税制度システムを分析し、徴税システムの強化等の提言を行い」、さらに「モンゴルにおける経済政策立案者の人材育成」3を主眼としており、本年(99年)6月ウランバートルで開催される第7回モンゴル支援国会合へ提出される中期開発戦略・公共投資計画(99~2000年)の策定を現在急いでいる4。
1 詳しくは、Hirono, R, "Mongolia's Struggle to Create a Market Economy," JAPAN REVIEW OF INTERNATIONAL AFFAIRS, Vol.6, No.2, Summer 1992、廣野良吉編、「モンゴルの市場経済移行への支援:産業政策を中心に」、国際開発高等教育機構、平成7年度開発援助研究セミナー報告書別冊1、平成8年3月、Hirono, R, ed., TOWARD ANEFFECTIVE USE OF ODA IN MONGOLIA, MOF/GOM & JICA/GOJ, 1997及びHirono, R., "Role of Official Development Assistance to Mongolia in Creating a Favourable Domestic Environment for Sutainable Human Development Consistent with Moderate Economic Grouth, 1997‐2010, "SEIKEI JOURNAL OF ECONOMICS AND BUSINESS, Vol.28, No.2, March1998を参照。
2 外務省経済協力局、政策課、対モンゴル経済協力、平成11年3月、1頁。
3 外務省経済協力局・開発協力課、モンゴル市場経済化支援調査、平成11年3月、1頁。
4 詳しくは、Ministry of Finance, GOM and JICA, WORKING PAPER V: MEDIUM TERM SECTOR STRATEGY FOR 2000-2002 IN MONGOLIA, DIR & NRI, March 1999を参照。
日本政府によるモンゴルの人材育成は、1990年のモンゴルの民主化、市場経済化以前から毎年少数であったが、文部省国費留学制度による学部・大学院留学や国際協力事業団の研修コースへの参加という形で進められてきた。しかし、90年を境に、民主化・市場経済化支援の一環として多数の行政官、管理者、専門家、科学者、技術者、大学教授、小中高校教員、幼稚園教諭がJICA集団・個別研修コースへ数週間参加(97年度は68名、98年度は92名計画)したり、各省の個別指導者招聘という形で、中央・地方の政治家、裁判官、団体役員等多岐に亘る各界指導者が短期間来日しており、また青年招聘計画の一環として若手行政官やNGO指導者も毎年多数短期間訪日してる(97、98年は各10名)。
さらに、文部省国費留学制度、各種財団・企業支援留学制度や私費留学による長期の在日モンゴル留学生は毎年増加傾向にある。90年以前は、モンゴル留学生の大半は理科系学部学生であり、日本の無償資金協力で設立されたゴビ・カシミヤ工場に勤務する者が多かったが、90年以降は日本語・日本文化の習得、経済・経営・法律等社会科学を勉強するための留学生が増えている。99年5月現在、理科系及び文科系の学部学生は83名、大学院生は169名で、このうち文部省国費留学生は151名となっている5。
この他、プロジェクト方式技術協力(既に本年3月完了した「地質鉱物資源研究所」、現在進行中の「母と子の健康プロジェクト」および「家畜感染症診断技術改善計画」)や、海外経済協力基金の円借款プロジェクトに付随したモンゴル行政官、管理者、専門家、技術者事前研修や事後研修による人材育成も、これらの協力案件数が増大するにつれて量的に増えており、協力範囲が多様化するにつれて多岐に亘っている。また、これら有償・無償協力プロジェクトの一環として日本からモンゴルへ派遣される日本人管理者、学者、医者、研究者、技術者等、派遣専門家によるモンゴル人材育成も多岐多数に及んでいる(1997年度は44名、98年度は25名を計画)。このことは、先に述べた日本のモンゴル開発政策支援グループによる支援(91~94年)、対モンゴル研究協力(94~97年)、モンゴル市場経済化支援調査(98~現在)プロジェクトについても同様である。これらの専門家派遣、研修事業による対モンゴル技術協力の実施体制を整備するために、97年1月にはウランバートルの青年海外協力隊事務所を格上げし、JICA事務所が開設されたが、これは「モンゴルにおける人造りの重要性の観点から、今後とも我が国のノウ・ハウの移転等ソフト面での協力を中心として、同国の改革を支援するとともに効果的な援助を実施」するためである6。また、91年3月に締結された青年海外協力隊派遣取り決めの下で、99年2月末現在27名の協力隊員がモンゴルへ派遣されている。
近年では、上記の日本政府によるモンゴル人材育成以外に、地方公共団体、民間企業、財団、市民団体、NGO等による人材育成も急速に盛んになっている。1990年民主化・市場経済移行過程でのモンゴル国民の経済的困苦救済・医療支援、子供たちの教育環境の整備、森林火災による被害農牧民の救済等のために、我が国の国民大衆が至る所で市民団体やNGOを結成して、対モンゴル緊急支援をしてきているが、それだけではなく、地方公共団体もより長期的な観点に立ち開発人材育成にも参加している。近年民間企業でのモンゴル研修生の増加、私費留学によるモンゴルからの学部・大学院留学生、専門学校留学生の増加や地方公共団体でのモンゴル行政官、専門家、技術者の体験研修訓練機会の提供等は真にこれである。NGOや地方公共団体にはモンゴルへ専門家を短期ないし長期に派遣して、そのパートナーのプロジェクト開発・形成・実施・評価能力の向上に努めているところも出てきた。
5 文部省学術国際局留学生課による。
6 外務省経済協力局、技術協力局、対モンゴル技術協力、平成11年2月。
上述したように、1991年に始まったモンゴルに対する日本の政治支援・人材育成支援は、諸外国やUNDPを除いた国際機関に比べると、最も早く実施されており、このことは特記すべきことである。特に、日本の開発途上国に対するマクロ開発政策支援・人材育成支援(開発政策支援型技術協力)は、かつて70年代にインドネシア共和国とタイ王国の経済企画庁への専門家派遣という形で実施されたが、大変残念ながらその成果はこれら当事国でも、諸外国でも、また国際機関でも殆ど語られることがなかった。そのこともあって、我が国はそれ以降、開発政策支援型技術協力を途上国へ供与することはなかった。その意味で、対モンゴル開発政策支援型技術協力は、時期的にも、内容的にも、広報的にも多大な成果を得たものとして特記できる。その背後では、今後日本のODA政策の実施において民主化・市場経済化を促進するという92年に我が国政府が発表したODA大綱が、我が国の対モンゴル政策支援活動に対する大きな支えとなったことは疑いようのない事実である。
我が国の対モンゴル開発政策支援型技術協力は少なくとも1991~97年期においては、次の点でそれまでの日本の政策支援型技術協力とは異なった特徴をもっており、それらがモンゴルにおける日本の権威と名誉を勝ち得たと考えられる。
(1)モンゴル政府、議会、NGO等の要請により実施されたこと。3年間にわたる研究協力RDの締結時にモンゴル政府から要請を受け、合意したテーマ以外にその時々の緊急要請テーマの研究・提言政策にも協力したこと。
(2)モンゴル政府とともに、対モンゴル政策支援をしている国々、国際機関および国際・国内NGOと協力して実施したこと。このためには和文はモンゴル語に翻訳し、英語でも原稿、報告書を書いたこと。
(3)モンゴル政府の政策、議会やNGOの意見、主張に耳を傾けながら、同時に学問的な中立性と脱イデオロギーを常に基礎において実施したこと。すなわち、キリスト教の聖書による"Christ is on the earth but not of the earth"を忠実に守ったこと。
(4)モンゴル経済社会の現実を直視し、モンゴル国民の大半が持つ価値観、願望と希求を大切にしたこと。
(5)モンゴルが直面している国際社会の厳しい現実と視点を反映したこと。
(6)モンゴル政府官僚、学者、研究者と共同研究し、その成果を出来るだけ早く、幅広く討議し、各自国チーム内および両者間の合意を図ったこと。そのために、対モンゴル研究協力では、ウランバートルに常駐代表を置き、現地事務所の現地スタッフを強化できた。さらに、モンゴル側の共同研究者や関係者の人材育成、研究体制の整備を図り、具体的な政策研修のために3年間で22名の共同研究者や関係者の訪日研修計画が研究協力の中で取り入れられた。
(7)我が国のみならず、モンゴル国内においてシンポジウムを開催し、モンゴル政府、議会、NGO、学者、研究者、援助供与国、国際機関の代表を広く招待して、事前に準備した原稿、報告書を基礎に討論へ参加してもらい、意志・見解の疎通を図ったこと。
(8)モンゴルのマスコミ関係者のためにプレス・インタビューの機会を必ず設定し、彼らの質問に真っ正面から応答したこと。
(9)モンゴルにおける開発政策支援活動を、常に論理的にも情報的にも絶大な支援をしてくれた「モンゴル開発政策支援グループ」が日本国内にあり、常時連携をとってくれたこと。さらに、訪日したモンゴル政府大臣、高官、議会指導者、大学教授、研究者等を「モンゴル開発政策支援グループ」へ招待し、その時々のモンゴル政治・経済・社会の情勢や課題についての講義を行い、グループの成員と討議してくれたことは、両者にとって大変有益であり、対モンゴル政策支援の内容をより現実に合致した、有意義なものにすることができた。
(10)日本政府、特に外務省、国際協力事業団へのブリーフィングを頻繁に実施して、政策支援プロジェクトの進捗状況の現状について意見交換を図り、その精神的、財政的支援を確保できたこと。
4.2.2 政策<知的>支援・人材育成支援からの教訓と提言
以上の特徴を持ってモンゴルの知的基盤の強化に大いに貢献してきた我が国の支援であるが、各々常に100点満点ではなく、改善すべきことが多々あった。また、我が国の対モンゴル「開発政策支援型技術協力」にもいくつかの限界が見られた。その主要な事項は以下の通りである7。
(1)欧米諸国の開発政策支援によく見られるような大型の現地常駐顧問団とは異なり、日本の現地常駐の政策顧問はたった一人であり、モンゴル側の多種多様かつ緊急な要請に対応し得る能力・体制は極端に欠けていた。複数の長期専門家が政策顧問として、ウランバートルに滞在し、必要に応じて国内出張により地方政府の政策要請にも答えるべきであった。このようなよりよい政策支援方式を採れなかったのは、1991~97年の我が国の対モンゴル政策支援が基本的には本来の意味での開発政策支援型技術協力ではなく、対モンゴル研究協力という形をとったからである。外務省の委託研究方式やJICAの研究協力方式では、予算的にも、制度的にも大きな制約・限界があった。前者は当時予算的には500~600万円が限度であり、後者はJICA研究協力方式に付随する所々の制度的制約があった。もちろん、日本人学者、研究者が余りにも忙しいという理由と、所属大学、研究機関の許可を得る事が困難なために、長期的な海外滞在をすることが殆ど不可能に近かったことに加えて、長期専門家は研究協力推進のためのコーディネーターであり、ましてや複数の長期専門家を政策顧問としてモンゴルへ派遣できる制度的仕組がなかったことによる。これを毎年3~4回短期(一週間)の4~5名からなるモンゴル開発政策調査団の派遣という形で処理してきたが、このような支援方式が不適切であるのは当然であった。日本国内における「モンゴル開発政策支援グループ」による研究・助言活動は、このようなギャップを曲がりなりにも埋めるためでもあったが、それでもかかる政策支援方式が不適切であったのは当然である。このような理解に立って、外務省に対して早くから導入を働きかけてきた「<開発>政策支援型技術協力方式」が、97年度から認められたことを多いに歓迎する。
(2)欧米諸国の開発政策支援によく見られるような後方支援グループとは異なって、日本の場合には「モンゴル開発政策支援グループ」という、善意とボランティア精神に基づく経済学者、社会学者、大学院生、研究者、シンクタンク企業関係者から成る研究者集団の協力に依存した。JICAの研究協力プロジェクトの範囲内で実施する限り、一人の現地常駐経済顧問を除けば、現地派遣個別専門家に対する謝礼は皆無、その現地共同研究者に対する委託調査費も皆無であるのみならず、モンゴル開発政策支援グループの研究会の全ての経費が、若干の事務経費を除けば、グループ成員の自己負担で実施されてきた。1997年漸く誕生した「<開発>政策支援型技術協力」は、これらの問題の解決を可能にしたが、研究協力という94~97年の対モンゴル政策支援活動には適用できなかった。
(3)欧米諸国の開発政策支援プロジェクトとは異なり、1991~97年の日本の対モンゴル政策支援・研究協力計画ではモンゴル側の共同研究者に対する委託調査費が皆無のため、共同研究者の能力と意欲にも拘らず、日本側が期待したような良質な論文が見られなかった。日本側の共同研究者に対しても、その論文投稿に対する謝礼は一切無かったが、モンゴル市場経済移行をより円滑にして、モンゴル国民の経済的・精神的苦痛を少しでも和らげたいという崇高な強い意志と学者・研究者によくみられる「良い仕事をしたい」という職人気質に助けられて、論理的かつ比較的優れた論文、報告、政策提案があった。さらに前述したように、毎年最終発表のためウランバートルの政府庁舎でシンポジウムを持ったが、研究協力予算が限られていたために、中間発表という形の合同シンポジウムを、当初日モ両側が希望していたようにウランバートルあるいは東京で持てなかったのは残念であった。このような方式が採れれば、共同研究者の論文・報告の質を高めるうえで、若干のインセンティブになったかも知れない。
(4)欧米諸国とは異なり、日本の対モンゴル開発政策支援プロジェクトの場合にはモンゴル人学者、研究者、大学院生あるいは行政官を日本の大学院へ長期に留学させて、修士号や博士号を取得するというプログラムを導入することができなかった。対モンゴル研究協力計画を策定し、RDを締結する以前から、この可能性について、外務省、文部省、国際協力事業団と協議したが、「現段階では認められない」ということであった。この種の長期留学制度の導入は、短期研修計画への参加とは異なり、モンゴル側の開発政策立案・実施・観察・評価能力の基本的かつ総合的向上に役立つのみならず、モンゴルにおける知日派ないし親日派の養成にも多いに貢献すると考えられた。モンゴルからの国費留学生を増員することは、日モ関係の強化のために必要であることは当然であるが、単独に増員するよりも、このような開発政策支援型技術協力の一環として増員するほうが、政策支援、人材育成両面からより効果的であるというのが当時対モンゴル開発政策支援に携わっていた研究者の主張であった。さらに、欧米諸国で従来から見られるように、文部省の国費留学生とは別に、JICAで長期留学制度を導入することも一案であると考えたが、いずれの考えも時期尚早のようであった。
現在進行中の「モンゴル市場経済化支援調査」においては、上記の(1)~(4)の問題がいずれも十分に認識され、円滑に処理、解決済みであることを願うものである。特にに関しては、本年度から新たに外務省の予算措置が講じられ、開発関連事業に従事している外国の中央・地方公務員、研究者、専門家がJICA長期研修員として2年間我が国の大学院にて研究し、場合によっては修士号を取得することが可能となったことは大変歓迎すべきことである。
開発政策支援型技術協力と同様に、数多くのプロジェクト型技術協力、円借款プロジェクトにおいても、それぞれ個別専門家が派遣されて、モンゴル政府による特定部門の開発計画・戦略の立案を支援しているのみならず、その実施・観察・評価能力・体制の強化にも多大の貢献をしてきている。しかし、ここでも諸々の予算的・制度的制約のために、我が国の政策支援・人材育成が本来理想的には果たすべき成果が出てきていない。もし成果がでてきていても、それは現行の制度の下ではかなりの無理を日本側およびモンゴル側の専門家に強いているところがあるように見受けられる。
7 詳細は、廣野良吉編、対モンゴル研究協力最終報告書、国際協力事業団、平成9年9月。
上述の全体的所見、並びにこれまでの支援における問題点を鑑みると、今後の我が国の対モンゴル政策<知的>支援・人材育成支援への提言は以下のようにまとめられる。
(1)協力プロジェクト発案・形成・実施・監察・評価のあらゆる段階でモンゴル側の主体性(ownership)がもっとあるべきであり、日本側もモンゴル側が主体性をもっと持つように指導することが望ましい。そのためにもモンゴル国の開発人材育成支援や開発体制整備支援が強化されるべきである。
(2)協力プロジェクトのあらゆる段階で、モンゴル政府部内・実施機関の間での情報交換・調整・協力が一層望まれる。モンゴル政府は外務省と大蔵省を軸として、このような援助調整委員会を昨年ようやく設置したが、この委員会の権限とスタッフを一層強化することが、諸外国・国際機関の開発協力の目的合理性、効率性、効果、持続性、自立性を高める上で不可欠である。そのためにも、モンゴル政府の援助関係者の専門的能力、組織管理能力等の向上を目的とした人材育成支援が緊急課題である。
(3)上記協力プロジェクトのあらゆる段階で、モンゴル側各省庁・機関の間で、また援助供与国間・機関間で、さらに一層の援助調整・協力が不可欠である。このような援助調整・協力は、本国・本部間は勿論のこと、モンゴルにおいて、さらに実際の協力現場においても強化することが必須である。かかる援助調整・協力は定期的に実施するのは勿論のこと、必要に応じて不定期の会合も必要となるであろう。この援助調整・協力会合の司会ないし進行係は、全体的政策分野ではUNDP・世界銀行が、部門別の場合は、各部門の国連機関、専門機関が受け持つことが望ましい。わが国は最大の対モンゴル支援国として、その方向で他のモンゴル支援諸国を指導していく様に努めるべきである。
(4)わが国の対モンゴル専門家派遣については、可能な限り、下記の条件を満たしていることが不可欠である。
(5)上記のような条件にかなう適切かつ有能な専門家を派遣するためには、日本政府、外務省、国際協力事業団による下記の施策が不可欠である。
(6)JICA等で計画・実施されている研修プログラムは従来から質的にムラがあり、必ずしも研修員の要望に合致していないことが少なくない。そこで、下記のような改善が緊急且つ不可欠である。
4.3.1 総括的所見
モンゴルの伝統産業は遊牧形態に基づく牧畜業であった。1921年の建国以後も産業経済の大部分はこの牧畜産業によって占められていた。しかし、第二次世界大戦の終結後、社会主義的近代化路線が次第に強化され、工業化が進められるとともに、農業面においても、牧畜部門の協同組合(ネグデル)化、国営農場による小麦生産の強化、及び畜産・農耕業の生産物を原材料とする加工産業部門(ウール、カシミア、皮革、毛皮、製粉など)の育成政策がとられた。
また、1980年代中頃になると、計画経済が農牧民の労働インセンティブを弱め、ことに家畜頭数の伸び悩み現象などが顕著となったことから、社会主義体制内での改革(家畜の一部私有化など)が着手された。またこの改革は、旧ソ連におけるゴルバチョフ政権によるペレストロイカ路線とほぼ並行して進められた。
しかし1980年代後半になると、旧コメコン体制が崩壊のプロセスに入り、90年にはこの体制が実質的に消滅したことから(旧ソ連の正式崩壊は91年)、モンゴル経済は大きな試練に晒されることになった。
旧ソ連・東欧向けの食肉、皮革・毛皮などの輸出は急激に減少し、旧ソ連東欧からの部品・投入財輸入も大きく落ち込むことになった。また、民主主義体制への移行後に取られた急激な市場経済化政策によって旧国営農場が解体され、潅漑、機械設備などの管理機構が崩壊した。これに加えて、前述の機械設備部品などの輸入困難という現象が相乗的に作用した結果、農耕関連のほとんどの資本設備が稼働できない状態となり、ことに小麦生産は大きく落ち込むことになった。さらに牧畜部門においても、家畜私有化政策によって家畜頭数は増加したとはいえ、ネグデルの解体により、関連加工産業向けの原材料供給体制が崩壊し、さらに国有企業の民営化政策によって、これら産業の企業間リンケージが断たれたことから、関連加工産業も大きな打撃を受けることになった。
日本の対モンゴル援助は1977年のカシミア工場(ゴビ・コンビナート)の無償供与をその嚆矢としていた。この工場はモンゴルの輸出総額の約12%を稼ぎ出し、大きな成果を上げた。しかし市場経済化の開始とともに本格化した新たな農業面における援助は、食糧緊急輸入などを通じて、モンゴル国民の生存水準確保に大きな成果を上げたとはいえ、現在、特に後述の無償プロジェクト3件おいて様々な問題に直面していることも事実である。
我が国の対モンゴル農業部門援助は、牧畜業がモンゴルの基本産業であるとの観点が重視され、我が国にはなじみの薄い遊牧形態の家畜生産部門については大きな介入は行わず、食肉加工、乳製品などの加工部門と農耕業に関する食糧増産型援助が重視された。我が国の対応は、一応合理的な方向性を持つものではあったが、各々のプロジェクトにおける需要予測、コスト計算予測などの精度が十分ではなかった面は否めない。但し、これらの課題はその後のフォローアップ調査に基づいた柔軟な対応策により、改善されつつある兆候が見られることは指摘しておくべきであろう。
4.3.2 個別プロジェクトの評価概要
1991年~93年の食糧援助、食糧増産のための緊急支援に加えて、日本の農業部門への援助は以下の3つのプロジェクトがその中心となった。
(1)ダルハン市食肉加工施設整備計画(1期1994~95年、2期95~97年無償:9.27億円+10.13億円=計19.40億円)
1970年代前半に設立され、老朽化していた工場を将来の食糧需要増加に備えて、近代化するために、冷凍冷蔵設備の改修が行われた。
この工場は年間約1.5万トンの食肉加工能力をもつが、完成後初年度の1997年度においては能力の1%程度の稼働率を達成したに過ぎなかった。この背景には市場経済化による産業不況の影響をまともに受けたという問題とともに、以下のような要因もあった。すなわち、第1期の冷蔵施設(骨付き肉)建設が完了したものの、モンゴル側が設置するはずであった付随コンプレッサーが資金不足から設置されず、これを利用できなかったこと、また、その結果として第2期の冷凍冷蔵施設(骨無し肉)が使用できなかったという点である。さらには、食肉原料買い付けのための運転資金が不足したことも大きな影響を与えた。
このために日本政府は、食糧援助の見返り資金を運転資金とコンプレッサー購入資金に活用するように促し、ようやく第1期工程に付随すべきコンプレッサー(ドイツ製)が設置された。これによって、この工場はモンゴル最良の食肉加工工場となり、1998年には自らの資金で約450トン、また他の工場からの委託生産によっても多量の食肉生産を果たし、さらに99年現在、同工場は大きな環境変化の中で、稼働率を高めるべく努力を展開している。環境変化の要因は以下のようなものである。
第一はモンゴル国の対ロシア債務(電気料金)などの返済を現物供与によって進めるという政府の決定により、この工場の生産物が政府に買い上げられることになり、販売面での困難が減少したことである。
第二は、運転資金の返済とそれ以後の新規運転資金の借入をどうするかという問題に決着がついていないことである。但し工場の品質が飛躍的に向上したことから、委託加工生産が拡大する見通しであり、被委託先も前年の4社から7社に増加している。第三は、1999年初頭、この工場がイルクーツクの商工会議所とのバーター契約により内蔵肉の輸出(黒テンの食糧)、石油(約350トン)の輸入を行い、それを転売するという試みを実施し成功を収めたことにより、新たな販路が開拓される可能性が生じたことである。
(2)ウランバートル市乳製品加工施設整備計画(1995年無償:14.29億円)
モンゴル国民の主要栄養源が、食肉と乳製品であることに鑑み、老朽化した工場の近代化のために、新たな設備(冷凍施設)、機材(原料調達のための車両20台)が供与された。この工場は牛乳、アイスクリームを主要産品としているが、日本の無償供与は牛乳生産工程に限定されたものであった。
同工場の牛乳の年産能力は6.6万トンであるが、1997年度においては、その稼働率は1%程度であった。不振の要因は以下のようなものであった。
第一は、高金利政策のもとで、銀行融資が困難であったために運転資金が不足し原料調達に大きな支障が生じたこと。第二は、コストがかかり他の民間業者の製品よりも1.5倍ほど高い価格設定が必要であったこと。第三は、品質は他の民間業者の製品よりもかなり高いものであるとはいえ、消費者に品質重視の観点が欠如する傾向があったこと、などである。
こうした背景から、1998年に我が国は食糧増産援助の見返り資金を運転資金として活用するものとし、これによって98年度は稼働率は改善に向った。さらに99年度は、政府が乳製品の品質重視のキャンペーンに取り組み、消費者に健康の重要性を認識させることや衛生状態が劣悪な製品については排除する方針を掲げるなどの政策を実施することになっている。この追い風を受け、稼働率を大幅に回復させることを目標としている。
(3)穀物貯蔵庫建設計画(1995~96年無償:10.55億円)
市場経済移行プロセスの中で、製粉工場の原料保管施設が不足し、原材の散逸、劣化などが発生しているとのモンゴル政府からの要請に基づき、ハラホリンに貯蔵能力1万トンの貯蔵庫を建設した。モンゴル国の小麦生産が、国営農場の解体によって、資本財が分散したり、メンテナンスが困難になったこと、また新たな市場経済下において生産コストが割高であったこと、さらに天候(4年にわたる干ばつと雪害)等の要因によって急激に減少したことから、このプロジェクトは、農業関連無償協力の中で、現在その当初の目的効果を発揮していないものとなっている。なお、この貯蔵庫は現在は食料援助物資の保管倉庫として利用されている。
(4)その他の援助項目
その他の主要農業関連援助項目は以下のようになものである。
(技術協力)
4.3.3 農業部門援助からの教訓と提言
我が国の1990年以後の農業部門への援助は、緊急度の高い食糧援助から農牧業関連加工部門へと推移してきた。農業部門への援助内容は多様ではあるが、基本的には民生の安定に貢献したことは確かであり、評価できるように思われる。但し、前述のプロジェクトには共通の問題点が残されていることも事実であり、それらの反省を踏まえ新たな援助の方策を探るべきであろう。これまでの農業部門への援助からの教訓と今後に向けての提言は以下のようにまとめられる。
(1)援助は設備、機材中心のものであるが、それを稼働させるための十分な運転資金をモンゴル側が確保したとは言えない。そのために原料調達が停滞、生産が遅延し、結果として日本供与の設備の能力を発揮できないことが多かった。幸いにも、その後の見返り資金の活用によって、こうした局面は改善されつつあるが、事前に、「もの」と「かね」とのリンケージに大きな注意を払うべきであった。
(2)無償資金供与において、モンゴル側が設置すべき設備・機材が設置されなかったために、日本側が設置した他の設備・機材が充分な能力を発揮することができないことが多かった。これもモンゴル側の責任ではあるとはいえ、そうした事態をある程度見通すことも必要であったように思われる。例えば、ダルハン食肉加工工場では、第1期工程のコンプレッサーはモンゴル側、第2期工程のそれは日本側が供与することになっていた。しかし、工程の順序関係からいえば、この逆の設定が望ましいものであったと言えよう。また自助努力を育成するために、モンゴル側に設備設置に関して一定の役割を担わせるという方式は、他の有償案件などで実施すべきであり、無償については、ことにその第一段階においては、今後は総てを日本側が設置するという考え方も必要である。
(3)総じて設備、機材供与が極めて限定された対象において実施されており、そのために援助がその能力を発揮できないことが多かった。例えばウランバートル乳製品加工工場では、牛乳生産ラインのみを援助の対象としたが、旧工場の過大な家屋、設備がそのまま残されたために、それらのメインテナンスのための出費(例えば、暖房費)が、経営を圧迫させた一つの要因となった。既存の施設を利用するよりは、小規模でも新規の施設を建設した方が、結果として効率的な場合もあると言える。
(4)これらはまた、各プロジェクトの将来性予測が、当初あまり正確なものではなかったことを示している。旧コメコン体制の崩壊と市場経済移行という特殊な条件があったとはいえ、それでも客観的な分析能力が不十分であったことは否めない。例えば前述の諸要因により、全国小麦生産の水準は1994年の時点ではすでに85年の46.8%に落ち込んでいた。また利益を縮小させて、国際価格とほぼ同水準の価格設定がかろうじて可能であったとしても、中国、カザフスタン、ロシアなどの小麦価格設定はさらに2割前後低い水準にあり、モンゴルがこれらの輸入圧力にさらされることも明らかになっていた。さらに強調すべきは、当時のモンゴル政府には確固とした小麦生産強化に係る政策が存在しなかったことである。このような状況を勘案すると、ハラホリンにおける穀物貯蔵施設案件には更なる慎重さが必要であったように思われる。
数量 | 1980年 | 1985年 | 1990年 | 1991年 | 1992年 | 1993年 | 1994年 | 1995年 | 1996年 | 1997年 |
家畜(千頭) | 23.771 | 22,486 | 25,857 | 25.528 | 25,694 | 25,175 | 26,808 | 28,572 | 29,300 | 31,292 |
食肉(千トン) | 226.8 | 225.9 | 248.9 | 281.2 | 251.2 | 216.1 | 203.9 | 211.7 | 259.9 | 252.7 |
牛乳(千トン) | 225.7 | 269.4 | 315.7 | 311.3 | 308.1 | 292.9 | 312.5 | 369.6 | 369.8 | 409.4 |
小麦(千トン) | 229.8 | 688.5 | 596.2 | 538.3 | 453.2 | 450.2 | 321.9 | 256.78 | 215.3 | 237.7 |
カシミア(トン) | 198.5 | 240.1 | 190.7 | 97.6 | 121.5 | 232.1 | 420.8 | 517 | 330.8 | |
食肉輸出(千トン) | 45.9 | 36.8 | 24.3 | 21.8 | 11 | 7.1 | 5.4 | 2.2 | 3.6 | 7.1 |
カシミア輸出(トン) | 1,200 | 600 | 400 | 600 | 1,700 | 1,400 | 600 | 600 | 1,100 | 1,400 |
指数 | 1980年 | 1985年 | 1990年 | 1991年 | 1992年 | 1993年 | 1994年 | 1995年 | 1996年 | 1997年 |
家畜 | 105.7 | 100.0 | 115.0 | 113.5 | 114.3 | 112.0 | 119.2 | 127.1 | 130.3 | 139.2 |
食肉 | 100.4 | 100.0 | 110.2 | 124.5 | 111.2 | 95.7 | 90.3 | 93.7 | 115.1 | 111.9 |
牛乳 | 83.8 | 100.0 | 117.2 | 115.6 | 114.4 | 108.7 | 116.0 | 137.2 | 137.3 | 152.0 |
小麦 | 33.4 | 100.0 | 86.6 | 78.2 | 65.8 | 65.4 | 46.8 | 37.3 | 31.3 | 34.5 |
カシミア | 100.0 | 121.0 | 96.1 | 49.2 | 61.2 | 116.9 | 212.0 | 260.5 | 166.6 | |
食肉輸出 | 124.7 | 100.0 | 66.0 | 59.2 | 29.9 | 19.3 | 14.7 | 6.0 | 9.81 | 19.3 |
カシミア輸出 | 200.0 | 100.0 | 66.7 | 100.0 | 283.3 | 233.3 | 100.0 | 100.0 | 83.3 | 233.3 |
4.4.1 総括的所見
モンゴルでは、1990年当時、国家総資産を約500億トゥグルクと査定し、その後、その44%にあたる220億トゥグルク分の国有企業の民営化が進められた。この第一次民営化プロセスは、95年にはほぼ終了し、この年の8月には証券流通市場が開設され、その後も残された国有部門の民営化政策が継続されている。しかし、民営化された多くの企業が国有企業時代の債務をそのまま引き継いだことが、これら企業の大きな負担を与えた。また一方で、輸出市場としての旧コメコン体制の崩壊、旧コメコンからの機械、部品供給の途絶、本来老朽化していた機械・設備、などの要因も加わって、多くの民営企業の経営は悪化しており、この傾向は現在も続いている。
注目すべきは、そうした現象と対局を成す形で、多くの新興中小企業が台頭し、活発な経済活動を展開しているという事実である。モンゴルでは現在約35,000社の登録企業があり、その約6割は雇用者数が5人以下であり、約2割が6~10人であると言われている。これら中小企業は、当初は、いわゆる「担ぎ屋」として中ロ間の中継貿易によって利益をあげるものも多かったとはいえ、その後、建設、正規の貿易、サービス業などの分野に経営の重点を移し経営規模を拡大させているものも多い。
このような背景の中で、新たな産業振興のための支援が求められているわけであるが、我が国は、インフラ部門、農牧業部門、保健医療分門を、いわば緊急の援助重点分野として展開してきたために、こうした分野からの要請に充分応えてきたとは言いがたい。今後のモンゴルにおける失業対策、新たな起業家の育成などを勘案すれば、この分野における援助を今後さらに拡充すべきであろう。
4.4.2 援助実績の評価概要
産業振興の視点から、これまでなされたきた我が国の援助スキームは以下の項目に要約されよう。
(1)外国直接投資導入政策立案に関する知的支援
(2)機材供与がなされた事業体へのフォローアップ調査と同時に進められた経営指導
(3)JICA開発投融資による馬肉生産輸出事業への融資
(4)農牧産業省への中小企業育成のための専門家の長期派遣及びこれに関連した専門家の短期派遣
(1)、(2)では、これまで的確な政策提言がかなりの具体性をもって実施されてきたとはいえ、産業、とくに中小企業振興策としては、その具体性に乏しいという制約があった。また(3)については、モンゴルの牧畜産業の発展に大きく貢献するものと期待されるものとはいえ、未だ比較的小規模の展開に止まっている。98年になってようやく(4)が実現されたが、この中小企業育成の専門家派遣は、現地での各種セミナーの開催などを通じて高い評価を受けている。
4.4.3 産業振興部門援助からの教訓と提言
(1)モンゴルでは高金利政策がなかなか是正されず、運転資金不足から原料調達が困難となって稼働率が10~20%台に落ち込んでいる企業が多い。これゆえ、今後は、こと中小企業支援のための新たな金融方式の構築を積極的に支援すべきものと思われる。いかに経営指導を強化しても、稼働率を引き上げない限り、経営効率の改善につながることは困難であるからである。その際、金融システム全般の再構築という長期的課題に関連する援助は国際金融機関が担当しており、我が国はそれを側面から支援すべきであろう。
(2)ツーステップ・ローンは中小企業向け融資形態として優れた面をもっており(KfWがすでに実施)、我が国の強化すべき支援項目として一考に値する。ただし、その場合は現行の金融機関の審査能力が問われることになろう。審査能力を高めるためのスキームを構築することも必要であるとはいえ、問題の緊要性からみて、少ない金額で大きな効果を生むような新たな中小企業向け融資制度を構築することも考えるべきであろう。このノンバンク方式は現在TACIS、GTZも検討している。
(3)我が国は中小企業育成に関して優れた人材を有しており、関連する専門家派遣をさらに拡充する必要がある。その際、いくつかのモデル企業を選択し、その経営建て直しを一つのモデルとして広報活動を強化するという方式も有益であろう。
(4)またより広い意味での産業政策に関する継続的支援が必要であり、税制、外資導入、新産業育成(ソフトウエア産業など)に関する専門家派遣、研修生受け入れなども充実させるべきであろう。
4.5.1 総括的所見
社会主義時代のモンゴルは旧ソ連・東欧圏からの援助供与を基礎として、発展途上国としては希有の優れた教育、保健・医療制度を維持育成してきた。しかし1990年になると、コメコン体制が実質的に崩壊したことから、そうした基盤は大きくゆらぎ、先進諸国、国際機関からの援助を元に、新たな制度構築を進めることになった。
我が国の教育、保健・医療部門に関する援助は機材供与を主とし、その後、留学生・研修生の受け入れなどを通じて、「もの」と「ひと」の面で大きな貢献を果たしてきた。また近年の草の根無償という援助スキームは地方の活性化の大きな原動力となっている。このような背景から、これらの分野は今後さらなる拡大を求められており、これまでの援助実績を踏まえて、より効率的、効果的、持続性のある援助形態を創出する必要がある。
4.5.2 個別プロジェクトの評価概要
(1)教育
教育分野に関する援助実績は以下のようなものである。
1)無償資金協力
機材供与に関しては、モンゴル側からおしなべて高い評価を受けている。またそれら機材も紛失したり、乱暴に扱われた形跡はなく、メインテナンスの水準は基本的には良好である。
近年の草の根無償に基づく地方学校の整備、ならびにソム(村)自体の電化計画は、地方自治体の熱意とニーズが直接的に反映されるスキームであり、熱狂的な支持を受けている。さらに青年海外協力隊に関する評価も高いものがあるが、一部には協力隊の投入が、機材供与等の他の比較的大きな規模の援助が開始される前兆ではないかという誤った理解があり障害となっている。
(2)医療・保健
1)無償資金協力
2)技術協力
3)草の根無償
モンゴルが大きな困難に直面した1990年に行われた基礎的医療機材供与は、その迅速性と的確な規模に関して高い評価を得ている。またその後の調査、研修生の受け入れなどの展開において、UNICEFなど、他のドナー機関との連携も良好である。但し、機材供与後の消耗品の補給については、モンゴル側の資金不足から問題が生じている。例えば、心電図用の記録用紙、眼科検査用の小型電球等であり、わずかな金額の欠如が供与機材の利用を妨げている。また機材を操作する現地技師が、給料の低水準を嫌って他の職業についてしまうということも大きな問題となっている。
4.5.3 教育・保健医療部門援助からの教訓と提言
教育
我が国の対モンゴル援助は、インフラ中心に推移し大きな成果をあげきたが、人材育成のための協力の潜在的ニーズは大きく、今後さらに充実すべき分野であると言える。
学校施設に関する機材供与などにおいては、モンゴル側は人口の一極集中を抑制するためにも、また地方の産業振興という観点からも、地方の各種学校を充実させたいという意向を強くもっており、この要請に応える必要がある。
また留学生の受け入れに対する要請も強いものがある。我が国の国費留学生の受け入れは、文部省所轄であるが、通常の試験を行った場合、我が国の歴史・文学などを専攻している該当者が留学資格を取得する可能性が高い。教育は広範な分野を対象としており、そうした留学生の受け入れに異議を唱えるものではないとはいえ、我が国のODAとの関連を重視した人選も必要であろう。例えば、供与機材などのメインテナンスに関連する人材を、日本の高専などで訓練するというスキームが考えられる。また日本の資金を用いて第3国研修を行うという手法も有益であろう。
保健医療
機材供与後に、モンゴル側の資金不足から消耗品が補給されないケースでは、いたずらにその責任を追及しても解決は困難であるように思われる。援助後の持続性を確保するためには、消耗品の数量を始めから増加させておくこと、また、すこし長いタイムスパンで消耗品の補給を日本側が受け持ち、次第にその補給水準を下げていくという方法が有効であろう。またこれら機材供与の複数の現場を、できれば青年海外協力隊などの専門家が担当し、巡回しながらその現状をモニタリングする制度も有効であろう。
また、日本が供与した機材を配置した一部の病院が、その後の行政改革によってその機材を用いた医療を停止し、その業務を他の病院に移すことになったという事例があった。今回の現地調査では、その際、最初に設置した機材を再配置するために日本側の了解が必要であるかのような誤った理解がなされていることが判明した。供与された機材はモンゴル側が積極的に自主性をもって利用するということが原則であるが、そうした原則がよく理解されていなかったことになる。これゆえ、今後はこれら援助のスキームに関する広報活動を強化し、理解をさらに促進する必要があると言えよう。