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第1章 モンゴルの社会経済概況


1.1 モンゴルの政治情勢

 21年の建国以来、旧ソ連邦の政治・経済圏内に組み込まれたモンゴルは、旧ソ連に次ぐ世界で2番目に古い社会主義国として知られてきた。しかし、1980年代末、旧ソ連邦や東欧諸国の変革の影響を受け、同国においても民主化運動が高まり、90年以降は社会主義体制から議会制民主主義・市場経済化への体制移行が進むと同時に、旧ソ連への全面的依存体質からの脱却を実現するなど、内政・外交政策の両面において大きな変化に遭遇することとなった。

 内政面では、1990年3月に、社会主義時代の支配政党であった人民革命党が一党独裁を放棄した後、同年7月に初の自由選挙が実施され、複数政党制の採用、並びに大統領制への移行が行われた。92年には新憲法が施行されたのに伴い社会主義は名実ともに放棄され、国名も「モンゴル人民共和国」から「モンゴル国」へと変更された。また、大統領の選出も国民の直接選挙により行われることになった。その後、96年6月の第2回総選挙では、支配政党であった人民革命党が敗北、結果として急進的改革を主張する野党連合「民主連合」の初勝利となり、建国後初の非社会主義政権となるエンフサイハン政権の発足を受け政治体制面での体制移行は完了した。

 議会制民主主義への体制移行は完了したものの、モンゴルの内政はその後も不安定な状況が続いている。エンフサイハン政権は、市場経済化を強力に推進するために、徹底した民営化推進、小さな政府を目指す行政改革、財政引締めと公共料金の値上げ、貿易自由化の推進と外資導入の促進などの改革を実施した。しかし、市場経済化・民主化の負の影響として貧富の差が拡大するとともに、国営工場の操業停止などにより失業率が上昇し国民の生活不安が高まった。加えて開発利権をめぐる政争が頻発し政治腐敗が蔓延した。その結果、1997年5月の第2回大統領選挙では、「一歩一歩確実な改革」を訴えた人民革命党党首のN. バガバンディが初代大統領のチオルバトを破って圧勝した。同大統領の勝利により、政府と議会は「民主連合」、また大統領は「人民革命党」といったネジレ現象が生じることになった。さらに、98年4月には、その急進的かつ独断専行的なやり方に対し、基盤政党である民主連合内部からも強い反発を招いていたエンフサイハン政権が総辞職に追い込まれ、代わって連立与党最大会派の民族民主党のエルベグドルジ党首が新首相に選出された。しかしながら、同政権は翌月、国有銀行と民間銀行の合併を断行したことで野党である人民革命党から強い反発を受け、結果として内閣不信任案決議が可決され、発足以来わずか三ヶ月で崩壊した。以後、与野党の対立や連立与党内の亀裂で、内閣不在という異常事態が続き、さらに、次期有力首相候補として浮上していた元民主化指導者のゾリグ社会基盤開発相代行が暗殺されるなど、モンゴルの政局は混迷を極めた。そのような状況の中、98年12月9日、モンゴル議会は、連立与党である民主連合のナランツァツラルト(Narantsatsralt)ウランバートル市長(民族民主党)を新首相に選出した。新首相は、新内閣の優先課題として汚職防止と行政機関数の削減を挙げ、また大手国営企業の民営化を加速させることにより国家の財政負担を軽減させる考えを提示している。

 外交面においても、体制移行後その政策に大きな変化が生じている。1960年代の中ソ対立期以後一貫してきた旧ソ連一辺倒の外交政策から、自国のアイデンティティーと主権の確保に向けた主体的外交への転換がその最大のものである。94年にモンゴル政府により打出された「対外政策指針」によると、第一に、ロシア・中国との協力と善隣友好関係の発展、第二に、日本・米国・ドイツ等西側先進諸国との友好関係構築が挙げられている。さらにアジア諸国との関係強化、CIS諸国、旧社会主義国ならびに開発途上国との友好関係の保持に努めるとともに、国際金融機関との協力を図る等の目標が掲げられており、国家安全保障の確立を多角的全方位外交によって得ようという狙いがみてとれる。96年6月に発足したエンフサイハン政権は、民主化支援を継続してきた米国の共和党との関係が深かったこともあり、ロシア、中国、米国を第一グループに位置づけ、モンゴルへの最大援助国であった日本を「その次」とした。しかし、翌97年5月に選出されたバガバンディ大統領は親日派であり、98年5月の来日の際には日・モンゴル共同声明を発表するなど、モンゴルがそれまで重視していた中国、ロシア、米国の大国と同レベル以上に日本を重視する姿勢を表明している。

 その後、現在に至るまでモンゴルの対外関係は平穏に推移し、むしろその積極的な外交努力により同国の国際的地位は向上しつつある。1998年7月にはASEAN地域フォーラム(ARF)へのモンゴルの加盟が承認された。92年の社会主義放棄に伴う民主主義体制への移行後、モンゴルが特定の地域機構に参加するのは初めてのことであり、ARFへの加盟は国際社会との連携強化に向けての第一歩と言える。さらに、98年12月には、モンゴルの「非核兵器国の地位」が国連総会決議で承認されている。国連総会が1カ国を対象に承認を行ったのは前例がなく、また、同承認については中国とロシアの支持を得たことで、モンゴル政府にとっては独自の安全保障と外交政策に弾みをつける意義深いものとなっている。


1.2 モンゴルの社会経済の現状と課題

 建国以来ソ連及びコメコンの分業・貿易体制と旧ソ連の大規模な援助により支えられてきたモンゴル経済は、1980年代のGDPの実質年間平均成長率が6.2%と順調に推移していた。その後、80年代半ばより旧ソ連・コメコン体制が揺らぎ始め、それまでGDPの約15%に相当する財政赤字を補填していた対モンゴル援助が激減したことから、モンゴル政府は経済改革を余儀なくされ、90年には市場経済システムを導入することとなった。しかし、翌年91年の旧ソ連の崩壊並びにコメコン体制の終焉、並びに急進的な市場経済システムへの移行は、モンゴル経済に大きな試練を与えることとなった。

表1-1 モンゴル主要経済指標(1988~97年)
  1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年
人口(百万人) 2.02 2.07 2.12 2.17 2.18 2.22 2.26 2.29 2.33 2.39
GDP成長率(%) 5.1 4.2 -2.5 -9.2 -9.5 -3.0 2.3 6.3 2.4 3.3
一人当たりGDP(トゥグルク) 5,100 5,184 4,936 8,714 21.696 74,873 125,338 187,427 251,729 308,385
消費者物価上昇率(%) 0.2 0.2 - 20.2 202.6 268.4 87.6 56.8 49.3 36.9
輸出(POB、百万ドル) 739.1 721.5 660.7 348.0 388.4 382.6 356.1 473.3 424.3 418.0
輸入(CIF、百万ドル) 113.6 963.0 924.0 360.9 418.3 379.0 258.4 415.3 450.9 443.4
貿易収支(百万ドル) -374.5 -241.5 -263.3 -12.9 -29.9 3.6 97.7 58.0 -26.6 -25.4
対外債務残高(百万ドル) 15.0 15.4 50.7 360.4 350.2 373.6 447.2 512.4 524.4 -
対ドル為替レート(トゥグルク) 2.89 3.00 14.00 9.52 42.56 396.51 412.72 448.61 548.40 789.99
注1:88、89年におけるGDP成長率および消費者物価上昇率の値は、80年代平均値
注2:対ドル為替レートは年平均値。但し、90年、93年は年末時点のレート
出典:Key Indicators of Developing Asian and Pacific Countries 98, ADB(GDP成長率はMongolian Statistical Yearbook 97, National Statictical Office of Mongolia、消費者物価上昇率はWorld Economic Outlook: May 98, IMF)


 表1-1に示すように年間GDP成長率は1989年の4.2%から、90年には-2.5%とマイナス成長に転じ、さらに91年、92年においてはそれぞれ-9.2%、-9.5%と大幅なマイナス成長を記録するなど、94年のプラス成長への転換までの4年間、経済は悪化を続けた。GDP水準(93年価格)は90年の2,086億トゥグルクから93年には1,662億トゥグルクへと90年の約80%の水準へと低下した。

 その後、経済安定化政策、IMF主導の緊縮財政政策が実施されたことにより、1994年以降、モンゴル経済は一応安定し、徐々に回復の兆しを見せ始めた。94年にGDP成長率が2.3%とプラスに転じた後、95年にはGDP成長率は6.3%に達した。特に96年に誕生したエンフサイハン政権がそれまでの経済政策や市場経済化路線の大幅な見直しを図り、徹底した民営化推進、財政引締めと公共料金の値上げ、貿易自由化の推進と外資導入、行政改革等の急進的政策を断行したことにより、モンゴル経済はより安定的に推移することとなり、96、97年の年間GDP成長率はそれぞれ2.4%と3.3%と低成長率ではあるもののプラス成長を維持している1 。また、92年、93年には、それぞれ202.6%、268.4%であった消費者物価上昇率も94年以降は徐々に低下し、97年には40%を切るなど、沈静化の傾向にある。

 このように回復傾向にあるモンゴル経済であるが、カシミヤや金・銅など一次産品に依存した産業構造は国際市場価格の動向に大きく左右されるなど、経済基盤は脆弱なままである。最近ではアジア経済危機の影響によるアジア市場でのモンゴル主要産品の需要減少、あるいはそれに伴う世界市場での一次産品の価格低下により政府財源の大部分を占める主要輸出企業からの税収が減少するなど、経済への悪影響も生じ始めている。銅の輸出に限って見れば、1997年には211.4百万ドルであった輸出額は98年には119百万ドルへと43.7%減少している2 。結果として、98年の実質GDP成長率は3.5%3 となり、当初目標であった4.5%を下回ることとなった。また、上述の銅輸出額の減少に伴う税収減に加え、公務員の給与支払を増額したことから、98年のモンゴルの財政赤字は97年の681億トゥグルクから975億トゥグルクへと増加し、対GDP比11.6%に達している。99年度暫定予算4では、状況はさらに悪化し、歳入2,274億トゥグルクに対し歳出は3,389億トゥグルクで1,114億トゥグルクの赤字が見込まれており、援助依存体質に改善は見られない(表1-2参照)。モンゴル政府は税制の更なる整備、歳入源の多様化を図るとともに、歳出削減努力を講じる必要がある。

表1-2 モンゴルの1999年度暫定予算
(単位:億トゥグルク)

歳入 2,274

 税収 1,588
 民営化 140
 外国援助 80
 その他 465

歳出 3,389

収支 -1,115

出典:the UB Post


1 しかし、1997年のGDPは93年価格で1,911億トゥグルクであり、90年の水準までは回復していない。
2 モンゴルの銅の輸出価格は1997年は453ドル/トンであったものが、98年には259ドル/トンへと約43%下落している。
3 National Statistical Bureau of Mongoliaによる
4 1998年12月に国会にて承認



 また、個別産業分野においても依然として多くの課題を抱えている。農業部門においては、国内食肉価格の低下と国際市場におけるカシミア価格の低迷により、家畜数の増加とカシミア製品の増産効果が低減されている。また、農業部門への投資促進、あるいは農地管理に不可欠となる農牧草地の私的所有権の問題も未解決のままである。工業部門は政府の民営化プログラムにより活性化された民間セクターの先導により、1997年は前年比約2.3%の成長を達成したものの、銅生産、金採掘など鉱物生産への依存度が依然として高く、他の製造業部門の多くは低迷している5。また、金融部門は未だ未整備であり、モンゴルにおける経済成長の足枷となっている。金融セクターにおけるさらなる改革、強化、キャパシティー・ビルディングが必要であり、特にモンゴル中央銀行の機能強化はモンゴル経済の発展に向け不可欠である。

表1-3 モンゴルの部門別GDP(1988~97年)
(単位:億トゥグリク)
部門 1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年
農業・牧畜 602.9 649.1 640.5 612.4 599.6 583.4 599.1 624.5 687.1 705.0
鉱工業
 鉱業、製造業、エネルギー 655.8 691.1 693.4 607.0 548.1 513.1 521.7 599.1 600.3 617.1
 建設 91.4 94.8 71.4 59.7 32.5 27.2 30.1 33.3 35.0 32.9
サービス
 貿易 364.3 376.5 371.3 325.9 252.1 265.4 265.3 265.6 272.2 285.3
 運輸・通信 179.8 170.4 160.9 98.5 80.9 77.1 75.4 74.5 80.8 85.3
 金融、公的管理、その他 160.3 158.4 148.9 190.0 200.4 196.0 208.7 210.7 175.0 185.5
合計 2,054.5 2,140.3 2,086.4 1,893.5 1,713.6 1,662.2 1,700.3 1,807.7 1,850.4 1,911.1
出典:Key Indicators of Developing Asian and Pacific Countries 1998, ADB.


 以上、未だ改革路線が国民経済復興ニーズと直結せず、多くの問題を抱えるモンゴル経済の課題は、経済成長というよりも、むしろ経済後退の歯止めと社会混乱の解消であると言える。そのためには、1997年7月にIMFと合意した拡大構造調整融資(ESAF: Enhanced Structural Adjustment Facility)プログラムに基づき同年11月13日の国家大会議で決議された98年の社会・経済発展の基本指針の達成に向け、国民への負担を最小限に抑えつつ、可能なかぎり努力する必要がある6 。具体的には、GDPの実質成長率4.5%、インフレ率20%以下、鉱業総生産成長率4%以上、財政赤字のGDP比率8.8%以下、外貨準備高8,000万ドル、といった目標値達成であり、さらに、重点項目として、石油探査・採油の強化、農業部門の構造改革と穀物生産量の回復、民営化の促進、金融部門改革、民間投資の促進と国民生活の改善等が挙げられている。

 他方、市場経済化への移行に伴い社会面でも大きな問題が生じている。特に失業者の増加とそれに伴う貧困層の拡大が大きな問題となっている。国営企業の改革/閉鎖、穀物生産に係る雇用の減少、社会セクターの改革、公務員数の削減、などの要因により、公式失業者数は1996年の5万5,400人から97年には6万3,690人へと増加している。実状はさらにひどく、120万人の労働者人口のうち20万~30万人(17~25%)が失業者であると推測されている。また、モンゴル統計事務所によると、95年は15.6%であった貧困層の割合は、96年には19.2%、97年上四半期には23%へと増加しており、さらに世界銀行の推定によると貧困ライン以下の人口が全人口の36%を占めるとされている。これら貧困層のうち最貧困層の3分の2は地方の小都市に在住していると推測されている。モンゴル政府は21世紀までの初めまでに貧困家庭数を現在の半数にまで減少させることを目指しているが、その達成には年間5~6%の経済成長率を達成・維持し、さらに失業者あるいは年間10万人と予想される新規就業者の雇用吸収源を確保する必要がある。特に地方における貧困撲滅に向けては、経済成長のみならず、人材育成、専門技術付与、収入源の多様化も必要となる。


5 1991年に導入された小規模企業の民営化により、外国資本との合弁を含む多数の中小企業が設立され、ハム類、アルコール類などの加工食品や繊維、その他の国内消費財の生産は増加傾向にある。
6 政権の混迷により実施が遅れているが、99 年初旬よりIMF とモンゴル政府側との間で交渉が再開した。



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