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第3章 ODAプロジェクト:研究協カ「バングラデシュ農村開発実験」(Joint Study on Rural Development Experiment: JSRDE)


1) 事業の概要

 本事業(以下JSRDE)は、国際協力事業団(JICA)の個別専門家派遣の枠組みの中で、京都大学東南アジア研究センターが参加して実施された研究協力事業のアクション・リサーチ・プロジェクトである。事業地として選ばれたのは、ダッカの南西に位置するコミラ県とチャンドプール県のそれぞれ2カ村(パンチキッタ、オストドナ)と1カ村(フォニシャイル)、同じく北西部のボグラ県と中央部のタンガイル県のそれぞれ1カ村ずつ(アイラおよびドッキンチャムリア)である。事業実施期間は、1992年1月から1995年12月である。

 JSRDEは、それに先立つ1986年から1990年の4年間、同じ京都大学東南アジア研究センターが中心になって実施した「バングラデシュ農業・農村開発研究」(Joint Study on Agricultural and Rural Development in Bangladesh:以下JSARD)の続編ともいうべき事業である。JSARDは、バングラデシュの5地域7カ村での参与観察を通してそこにおける農業および農村の発展を促進あるいは阻害する問題を特定し、さらにそこからアクション・リサーチにつながるような問題を選定するということを目的としていた。JSRDEは、そのようにしてJSARDの下で特定・選定された問題をもとに計画されたアクション・リサーチである。JSRDEでバングラデシュ側でのカウンターパート組織となったのは、バングラデシュ農村開発研究所(Bangladesh Academy for Rural Development:以下BARD)、バングラデシュ農業大学(Bangladesh Agricultural University)、ボグラ農村開発研究所(Rural Development Academy, Bogra)、そしてバングラデシュ農村開発公社(Bangladesh Rural Development Board)であった。中でも最も中心的なカウンターパートは、バングラデシュ農村開発研究所であった。

 JSARDで特定された問題に基づき、JSRDEは以下の目的を設定した。

A.「伝統的」リーダーシップによる村落開発委員会の創設

 JSARDの関係者は、農村での参与観察を通して、バングラデシュの農村が、村人間の争い事の調停を主な役割とし、伝統的リーダー(「マタボール」と呼ばれる)によって主導されている「ビチャール」(村の評定)という「堂々たる自治機能を備えた固い組織をもっている」という結論を得た。JSRDEの目的の一つは、にれの(ビチャールの)装いを改めて、農村開発の受け皿にすること」である。より具体的には、バリ(家屋敷)、パラ(集落)あるいはグスティ(父系血縁集団)などの最も小さいまとまりのある村落社会単位から代表を選出し、村落開発委員会を設立させる。これは原則的に一村(グラム)一組織で、村の家族全部が参加する。そして、その委員会を通じて村全体の意思決定を行い、地方行政と提携して下記のB、C、Dにあげたような活動を行っていくのである。これは、バングラデシュで活動しているNGOやグラミーン銀行などがとっており貧困層のみの組織化をおこなう「ターゲット・グループ・アプローチ」に対する「別のアプローチ」(an alternative approach)として位置づけられている。

B.行政サービスと村開発委員会とのリンク

 JSARDの関係者は、現在タナ(郡)やそれ以下の行政レベルで農業普及、水産・畜産指導、保健衛生など様々な行政サービスを提供している政府の技術員(フィールド・アシスタントと呼ばれる)のカバー範囲が小さく、さらに彼らのサービスから利益を受けるのは非常に少数の有力者であるということを確認した。これを受けてJSRDEでは、そうした細いサービスの糸をタナ農村開発課長(Thana Rural Development Officer:TRDO)の下に束ね、それと村落委員会との協力を促進することにより限りある行政サービス・マンパワーをより村全体のために利用しようとした。より具体的には、タナレベルにおける調整会議、ユニオンレベルでの新しい調整機能の創設、フィールド・アシスタントと村落開発委員会との合同会議、掲示板、ニューズリーフ、回覧板の利用、村の内部での情報流通のための組織作りなど様々な試みを実施し、政府のプログラム・サービスに関する情報の共有と調整を促進しようとした。

C.小規模かつ「共有財産」的な農村インフラストラクチュアの創出

 JSRDEでは、「希少な資源の奪い合い」(competition for scarce resources)という言葉に代表される農村の競争的な側面よりも、村の構成員全ての共通利益(common interest)の実現という、農村の調和的側面を強調している。より具体的には、パラやバリなどのコミュニティを主要道路に結びつけるための小道の整備、主要道路の修築と街路樹の植栽、モスクや定期市へのアクセス道の整備、道路脇の水溜まりを利用した協同養魚、ホテイアオイの流入を防いで洪水の被害を軽減する試み、簡単な河岸浸食防止工事など、小規模かつ村全体の共通利益に資すると思われる土木事業を、村落開発委員会のリーダーシップのもとに行うことを目的の一つとした。

D.農耕の「在地技術」の積極的利用

 JSRDEは、それに先立つJSARDの経験から、バングラデシュの農村において安定しかつ時間の淘汰を経た在地技術が多数存在していることを確認した。JSRDEは、そうした有用な在地技術を特定、保存、改良し、普及させることを目的の一つとした。

2) 現地での観察

 合同学習チームは1997年11月2日の夜、コミラにあるバングラデシュ農村開発研究所に到着し、同研究所のショポン・クマール・ダスグプタ氏(Deputy Director)、ミザヌール・ラーマン氏(Assistant Director)、A.K.M.オバイドゥラ氏(Ex-Director-in-Charge)、および同行したバングラデシュ農村開発公社のマザルル・イスラム氏(Joint Director:かつてのバングラデシュ側のアクション・チームに出向していたフルタイムのメンバー2人のうちの1人)の四氏からJSRDEについての説明を受け、また短い質疑応答の時間を持った。そして3日一日および4日の午前中にそれぞれオストドナ村とパンチキッタ村を訪れ、関係者とのインタビューおよび関係施設・活動の観察を行った。以下は、その記述である。

(1) オストドナ村

オストドナはコミラ県の南部、バルラ・タナ(郡)の南パヤラガチャ・ユニオン(行政村)にある戸数76戸、人口507人(1995年現在)の村である。76戸のうち、土地無し農民世帯(0~0.5エーカー)は29(38パーセント)、小農世帯(0.51~2.50エーカー)が39(51パーセント)、中農世帯(2.51~5.00エーカー)が5(7パーセント)、大農世帯(5.01エーカーかそれ以上)が3(4パーセント)という割合である。11月3日朝、合同学習チームはこの村を訪れ、村民および当該地域担当の政府の農村レベル職員とミーティングを持った。ミーティングの参加者は、以下の通りである。

  • 村落開発委員会の委員長(アリ・アーメド氏)、副委員長および委員7人
  • 村落開発委員会のマネージャー
  • バングラデシュ農村開発公社(BRDB)の農村開発官(Rural Development Officer
  • かつてJSRDEに雇われていたフィールドスタッフ
  • 農業普及員
  • 公衆保健技術者
  • 村落防衛クラブのメンバー(Village Defense Policeと呼ばれる組織で、成人識字教室などの活動を行っている)
  • 保健ワーカー

 オストドナ村では、JSRDEの開始と共に、1992年7月に農業協同組合が設立・登録された。現在同組合の組合員は、男性95人、女性34人、未成年者13人(準組合員)の計142人である。この組合は、前述したJSRDEの「コミュニティ・アプローチ」のモデルを踏襲し、全ての家族・社会層を包含する村でただ一つの組合となっている。村落開発委員会の運営委員会は9人のメンバーによって構成される(うち1人が女性)。また日常の事務は、マネージャーと呼ばれる組合から手当てを支給されたパートタイムのスタッフによって行われる。

 村落開発委員会の会合場所として使われている建物は、土地は村の有志の一人によって寄付され、建物のコスト(75,000タカ)はJSRDEが3分の2を負担し、残りを村が支出した。村落開発委員会は、この建物で週一回ミーティングを持つことになっている。またこの建物は、政府の様々な機関のフィールド・アシスタントが村にやってきた時に村人と会うサービス・センターとしても使われるよう意図されている。上述したように、オストドナ村の農業協同組合は、貯蓄・クレジットグループを設立し、組合員に貯蓄を勧め、またクレジットを供与した。合同チームが村を訪れた段階で、このグループの総資金額は以下の通りであった。


払込済出資金       28,790タカ

貯蓄             40,021タカ

利益および利子      76,733タカ

JSRDEからの助成金  37,070タカ


  合計             182,614タカ


 合計額のうち、37,070タカ(約20パーセント)はJSRDEから供与されたものだが、残りは全てグループの組合員による積立金である。この点で、オストドナの貯蓄・クレジットグループは、自己資金を利用した頼母子講的性格を持つものである。JSRDEはオストドナ村で活動を始めるに当たり、協同組合が経営主体になった企業的事業の促進を意図していた。しかしその後のそうした事業の失敗、および村人の意向により、結果的には個人ベースでの貯蓄・クレジット活動が推進されることとなった。利子はクレジットヘの需要の多寡によって変動するが、通常半年で20パーセントから40パーセントとされた。以前は月10パーセントを越える利子で高利貸しからお金を借りねばならなかったことと比べれば、これは相対的に低い率である。個々のローンの額は、これまで最低で300タカ、最高で40,000タカほどである。貸し付けの対象となった活動は、リキシャの賃借と運用、養鶏、魚の網作り、マット編み、竹細工、土地担保融資(農業活動)、分益小作(share-cropping)、行商などである。これまで計213件、総額445,470タカのローンが貸し出された。ローンの額は当初少なかったが、後に平均して1,000タカから2,000タカくらいになった。借り手の45パーセントは女性で、全体の返済率は100パーセントであるという。ローンの成功例として参加者は、以前リキシャを賃借していた13人の人々がリキシャのオーナーになれた、また7人が外国に出稼ぎに行った、などの例に言及した。

 貯蓄の方では、毎週の貯金額の最低が2タカ、また出資金は1口10タカである。一人当たりの出資口数は、最低で10口、最高で790口である。こうした個人ベースの経済活動とともに、協同組合が直接経営主体となり、収入増加によって組合の経営基盤の強化を目的としていくつかの企業的事業も行われた。例えば、耕運機賃耕、養魚、植林などである。これらの事業は、プロジェクトから現物もしくは資金的援助を受けて始められたが、協同組合リーダーの経理の杜撰さやフォローアップの不足などでいずれも失敗に終わった。そのためオストドナ村の組合は、1995年7月の臨時組合総会で、今後この種の企業的事業を行わないことを決定した。

 チームは参加者に対して、JSRDEの前後でどのような変化が村にあったかを聞いた。参加者からの回答は、以下の通りであった。

  • a. 村落開発委員会の組織化
  • b. 協同組合集会所の建設
  • C. 村レベルでの貯蓄・クレジット組合の組織化のおかげで、高利貸しに頼る度合いが減った。
  • d. 村に電気が引かれ、テレビなどが購入されるようになった。
  • e. 米の生産が倍増した。
  • f. 地下水をペダルポンプでくみ上げて、それを農業目的に使うことができるようになった。
  • g. 村でトイレを持つ家の割合が、以前の5パーセントから55パーセントに増えた。
  • h. 村で安全な水を手に入れられる家の割合が、以前の13パーセントから100パーセントになった。
  • i. バナナや野菜の栽培、手工芸品作り、小規模の商売などを通じて、農閑期の雇用が創出された。
  • j. ユニオンや村レベルで、政府の開発ワーカーとの調整ミーティングが行われるようになり、ワーカーの村への訪問が以前より定期的になった。また、政府のプログラムに関する人々の知識のレベルが上がった。

 運営委員会でただ一人女性の委員は、JSRDEの後で女性の生活の何が変わったかという質問に対し、家族計画の知識が広まった、養鶏や手工芸品作り、家庭菜園などの活動が盛んになった、などの例を挙げた。

 プロジェクトに関わった日本人の果たした役割について、参加者は以下のものを挙げている。

  • a. タナおよびユニオン・レベルとのリンケージの強化
  • b. 植林や野菜作りなどの農業関係活動の指導
  • c. 保健衛生に関する知識の普及

 政府のフィールド・ワーカーとの接触について、出席していた保健ワーカーは、「月2、3回村を訪れ予防接種などのサービスを提供しているが、それらの日にちが村内に設置された村落掲示板(Village Information Board)に毎月掲示されているので、村人はいつ私がここに来るのかを知っている」と答えた。

 この全体会合の後、チームは村の中を回り、運営委員会の男性委員と女性委員一人づつにインタビューした。以下はそのうち、男性委員とのインタビューの記録である。

 土地無し農民。2.5エーカーの土地を借りて分益小作を行っている。彼の取り分は収穫の50パーセント。4人の息子と2人の娘がいる。息子はいずれも小学校5年まで教育を受け、現在3人は村内で、1人は村外で働いている。娘のうち長女はまったく学校へ行かず、次女は3年生まで学校に通った。

 最初に村落開発委員会ができた時、ミーティングに参加した。その時は男だけ40人から50人が参加し、皆週に最低2タカは貯金すること、耕運機、トラックの運用や植林などの活動を村単位で行うことなどを話し合った。また、話し合いで運営委員会のメンバーを選んだ。運営委員会のメンバーは3年で改選される。9人のうち4人は、委員会発足以来のメンバーだ。女性の委員が加わったのは2年ほど前のことだ。運営委員会では、自分は土地無し農民を代表している。委員会の議長は村で一番の金持ちで、土地持ち(8エーカー)だ。村で金持ちと思うのは、大体12世帯くらいだ。うち4世帯が、委員会の議長および委員に選ばれている。前回の村落開発委員会のミーティングは流れた。前々回のミーティングの出席者は、12人から15人くらいだっただろう。議題は、貯金を定期的にしていない人たちをいかにそうさせるかということだった。自分自身は、これまで3回ローンを借りた。一度目はリキシャを購入するのに3,000タカ、2度目と3度目は服の行商をするのに、それぞれ2,000タカと6,000タカ借りた。昔は高利貸しに頼らなければならなかったけど、今は貯蓄・クレジットグループがあるので、そこから金を借りることができる。それから井戸とトイレを、それぞれ1,500タカと120タカ使って作った。今後は、孫の教育と収入向上のために稼ぎたい。

 上記のインタビューが終わった後、チームの一部はJSRDEの下で導入された村の掲示板を見に行った。この掲示板には、村にいつどの政府機関のワーカーが何をしに来るかということが書かれてある。その目的は、サービスの提供の情報をより広く共有することにより、より多くの村人がそれを利用できるようにすることである。ちなみに、チームが訪れたときには、以下のような情報が掲示されていた。

  • 畜産普及員、農業普及員、手押しポンプのメカニック、BRDBの視察員、保健ワーカーらの訪問の場所と 時間
  • 高収量種の導入についての情報
  • 我々合同学習チームの訪問について

(2) ユニオン・パリシャドの訪問

 オストドナ村でのミーティング後、合同学習チームは、この村が位置している南ポイヤルガッチャ・ユニオンのユニオン・パリシャドを訪ね、同パリシャドの議長、議員(全9人/うち女性3人)、およびそこに配属されている様々な政府のワーカーとのミーティングに出席した。JSRDEの下で始められたユニオン・レベルでの調整会議には、これらのメンバーの他JSRDEが実施されている村の村落開発委員会の委員長およびマネージャーも参加する。JSRDEが実施されていた頃は毎月行われていたが、プロジェクト期間が終わった後は、資金面での制約から3ヵ月に一度の頻度となっている。前回のミーティングは7月に行われた。毎回のミーティングでは、各ワーカーが前月までの活動の成果と、向こう3ヶ月間の活動予定を報告することになっている。

 村落掲示板はこの地区の25の村のうち18カ村にあり、3ヵ月に1度更新されている。ワーカーがきちんと村に来ない場合にはこの調整ミーティングで話し合われ、それに基づいて関係のワーカーに対して処分がなされたこともある。識字率が低い中で、掲示板の情報がどれほど伝わるのかという質問に対しては、掲示板の情報は大きな字でやさしく書いてあり、非識字者も字の読める人に聞いて内容を知ろうとしているとの返答を得た。ユニオン・パリシャドの議長は、JSRDEのもたらした成果の一つとして、政府のフィールド・レベルのワーカーが村の人々の「顔」をより良く知るようになったと述べた。また、この地区で始まったユニオン・レベルでの調整ミーティングは、他のユニオンにも広まったと述べた。

(3) パンチキッタ村

 翌11月4日、評価チームはパンチキッタ村を訪れた。パンチキッタは、戸数292、人口2,426人の村である。ここでは初めに、同村の農業協同組合の組合長、マネージャー、および村落開発委員会のメンバー二人の計4人とミーティングを持った。パンチキッタ村の農業協同組合は、もともと総合農村開発プログラム(Comprehensive Village Development Programme:以下CVDP)というBARDによって行われたもう一つのプログラムの下で1985年に組織された。全部で627人の組合員がいる。村の家族の70パーセントは同組合の組合員であるという。この組合のマネージャーは非常に活発な人物で、先ごろ組合活動に関する全国レベルでの優秀賞を受賞した。組合活動の分野では有名な人物である。彼はCVDP組合のマネージャーであるとともに、村落委員会の議長でもある。

 この村の村落開発委員会は、設立当初それ以前から存在していたCVDPの組合員と非組合員の間でメンバーシップに関して対立があり、それをおさめるために3人のCVDP組合員と2人の非組合員をもって構成したという経緯がある。村落開発委員会の下には、耕運機、稲作、養魚、やぎの飼育、乳牛の飼育、育種、野菜の共同出荷、トイレ、道路・排水路建設などの活動について小委員会が設けられ、それぞれに3人から5人のメンバーがいる。これら小委員会も、委員会と同じようにCVDP組合の組合員と非組合員により構成されている。

 パンチキッタには、JSARD期から始まって1986年から日本人が出入りしている。JSRDEによって何が変わったかという質問に対し、彼らは以下のように答えた。

  • a. お役所との付き合い方、また必要なサービスを得るのにどこに行ったら良いかがわかるようになった。
  • b. 野菜を高く売るためのマーケッティングの仕方を、共同出荷を通じて学んだ。
  • c. 合鴨農法や乳牛/やぎの飼育などについて、進んだ技術を学んだ。
  • d. 保健や衛生について学んだ。また、便器(一つ219タカ)を自分たちで作り、村人に売って12回の月賦で返済してもらうというスキームを運営した。
  • e. 水はけをよくするための排水路を、JSRDEの支援と自分たちの労働奉仕によって作った。
  • f. 種の生産を行った。
  • g. 村の調査の仕方を学んだ。

 この全体会合の後、チームは村の中を回り、CVDP組合員と非組合員1人づつにインタビューした。以下は、その記録である。

アブドゥル・マレック(男性、40歳)

 妻と娘4人がいる(うち一人は、既に結婚)。夫婦ともに学校教育を受けたことが無く、長女も未就学だった。下の3人の娘は、現在就学中である。家の敷地以外には土地を持っていない。リキシャ引きを生業とし、日に40から100タカを得ている。その他、0.35エーカーの土地を借りて耕作したり、魚獲りの網を作ったり、養鶏(8羽程度)なども行っている。CVDPの組合員ではない。JSRDEが村に来てからの変化については、(1)CVDPが借りた土地のうち0.36エーカーをまた借りて、米を作るようになった。そこからの収入で、2~3ヶ月分の生活費を賄えるようになった、(2)道が良くなったので、リキシャの仕事が増えた、(3)子供3人がCVDPの子供会員になって、貯金をしている、(4)組合から簡易トイレ3基を手に入れた、などをあげた。娘の結婚のときには、1万タカ相当の持参金を払った。

ティトゥ・ミア(男性、50歳)

 妻と娘5人がいる。うち3人は結婚したが、一人が夫と死別し、もう一人が離婚して家に戻ってきている。夫婦ともに非識字者。次女は小学校5年まで学校に行き、四女、五女は小学校に就学中である。土地無しで、財産といえるものはない。わずかに、生産財としては、アヒルと鶏が二羽づつあるだけである。竹細工を生業としている。一日の収入は20~30タカほど。病気がちなので、他の仕事ができない。夫と死別した長女が村でお手伝いの仕事をし、離婚して戻った三女がダッカで女中奉公して、送金してきてくれている。CVDPの組合員ではない。その場に居合わせた5人の土地無し農民も、皆非組合員だった。理由は、貯蓄のための積立金が出せないということである。JSRDEが来てからの変化については、牛を一頭CVDPから借りるようになったことをあげた。年間で、千タカの収入になる。村落開発委員会については、JSRDEが続いていた間は、年に1~2回、村人全員のミーティングをやっていたが、今はやっていない。最近は、村落開発委員会から月5パーセントの利子でお金を借りるようになった(村全体で6名)。その他、牛ややぎの貸し出しシステムもあるが、まだまだ利益を受ける土地無しは少数であるとのことである。

 パンチキッタ村では、政府のフィールドワーカーとの定期的調整ミーティング、村の全世帯を構成する委員会の組織、村落掲示板の設置など、前述のオストドナ村を特徴づける種々の活動は行われていない。この点については、後日プロジェクト関係者から、オストドナ村がJSRDEの掲げる「主要モデル」に近いのに対し、パンチキッタ村は野菜の共同出荷などの村レベルでの共同活動の試行を主たる目的とした村であったためとの説明を受けた。


3) 考察

 合同学習チームがJSRDEのプロジェクト地域を訪れた1日半という時間は、小規模といえども1つの農村開発プロジェクトを総合的に観察するためには非常に限られた時間であった。また、往々にしてミーティングのセッティングは非常にオフィシャルなものとならざるを得ず、参加者がどこまで率直に意見を述べられたかはわからない。さらに、今回短時間と言えども視察できたのはJSRDEの5つのプロジェクト村のうちオストドナとパンチキッタだけであり、他の3村については情報を得ることができなかった。本章で述べられた観察およびそれに基づく考察は、そうした様々な制約の限界を免れないことを最初に断っておきたい。

 さて、以下では合同学習チームが採択した共通の分析フレームワークにもとづいて、チームとしてのJSRDEに関する考察を述べたい。

(1) 持続性

 (1) 効果の持続性:本プロジェクトは1995年12月に終了しているが、プロジェクトの活動および効果の一部は持続している。オストドナ村における貯蓄・クレジット活動、村内掲示板などは、その例である。また、ユニオン・レベルでの調整ミーティングは、頻度を毎月から3ヶ月に一度に落としたものの、いまだ続いている。ただ、JSRDEの目的の1つであった村落開発委員会を通じた開発への「全村的取り組み」の継続に関しては、様々な難しさがあったようである。オストドナ村でのインタビューでは、140人ほどいる組合員のうち、最近のミーティングに参加しているのは12人から15人くらい、年次総会に出ているのも推定36人くらいであった。またパンチキッタ村でも、以前は全村的ミーティングが年に1~2回開かれていたが、現在は行われていない。

 (2) 能力育成度:能力育成度については、米の収量の増加、品種交配による乳牛の質の向上などの形で技術・知識レベルの向上があった。経済的能力に関しては、貯蓄・クレジット活動を通じて、村レベルでの組織にある程度の資金が蓄積された。

(2) 妥当性

 (1) 女性への配慮:バングラデシュにおける一般的な状況を反映して、オストドナ村でもパンチキッタ村でも、村落委員会の活動への女性の参加レベルは低かった。この国における女性の地位の低さ、およびそれが社会発展全般に及ぼしている多大な影響を考えた場合、女性の参加をより積極的に促す試みがあるべきではなかったかと思われる。貯蓄・クレジット活動や収入向上などのプロジェクトの具体的な活動については女性の参加者もあったが、マイナー・パートナーに止まった。

 (2) 最貧困層への配慮:上述したように、JSRDEの最大の特徴は、最貧困層のみを対象とするこれまでの「ターゲット・アプローチ」に対し、村落コミュニティ全体を相手とし、コミュニティの構成員全体が参加して村の発展を考えるというアプローチにあった。したがって、最貧困層のみを対象とした特別のプロジェクト・コンポーネントは存在しない。また、JSRDEの前後、あるいはJSRDEの実施地域とそれ以外の地域で、最貧層の置かれた社会経済的立場に違いがあるかを見るためには、貧困/所得のレベルや所得分配の変化、様々なサービスのカバレッジの変化などに関するシステマティックな基礎データが必要と思われるが、そうしたデータは無いとの回答を得た。表1は、JSRDEの最終レポートに載せられたデータをもとに、パンチキッタ村におけるJSRDE下の諸活動(総経費207,246タカ:1ドル40タカとして約5,200ドル)の受益者数を、土地の保有サイズ別に見たものである。同村に住む家族のうち94パーセントは2.5エーカー以下の零細農家だが、これら零細農家がJSRDEの受益者数に占める割合は、50パーセントであった。土地無し農民の受益者はある程度多いが、零細農家全体のプロジェクト活動への参加度は限定されている。

 (3) 自然環境への配慮:JSRDE下における、いわゆる「持続可能な」農業の試みとしては、オストドナ村におけるペダルポンプの灌漑への利用(深井戸ポンプの代わり)、農作物の多様化などの例をあげることができる。

 (4) 住民参加:前述したように、女性の参加は、特にマネジメントの部分で十分ではなかった。また、いわゆる「全村的取り組み」については、それを促そうとする関係者の努力はあったが、チームが訪問した時点で定期的にミーティング等に参加している人々の数は限られているようである。

 (5) 行政やNGOとの整合性・補完性:JSRDEの目的の一つは、行政サービスと農村開発委員会とのリンクであった。後述するように、ユニオン調整会議や村落掲示板に代表されるJSRDEのこの点での試みは評価できる。


表1:土地の保有サイズ別に見たパンチキッタ村におけるJSRDE下のプロジェクト活動への参加の度合い
土地のサイズ 戸数 % JSRDE下の活動に参加(人数) %
5.1エーカーかそれ以上 4 1.4% 4 5.6%
2.51~5エーカー 12 4.1% 32 44.4%
0.51~2,5エーカー 254 87.3% 20 27.8%
土地無し(0~0.5エーカー) 21 7.2% 16 22.2%
合計 291 100.0% 72 100.0%


表2:オストドナ村におけるJSRDE関係の各種ミーティングの推定平均参加者数(1992年12月から1995年12月)
目的 会合の種類 建物使用日数 参加者総数 一日(一回)当たりの平均参加者数
協同組合 毎週の会合 73 1,018 14
運営委員会会合 44 298 7
年次総会 1 36 36
リンケージ
プログラム
特別総会 2 101 51
村落調整会議 16 325 20
共同体活動 ビチャール
(村落裁判)
11 356 32


(3) 目標達成度

(1)「伝統的」リーダーシップによる村落開発委員会の創設:オストドナ、パンチキッタの両村とも、伝統的リーダーシップの下に村落開発委員会が組織された。しかし、前述した「効果の持続性」の個所でも述べたように、村落開発評議会を通じた開発への「全村的取り組み」が実質的にどれほど続いているのかは、今一つ明らかではなかった。表2は、JSRDEの最終レポートに載っているデータに基づいて計算した、1992年12月から1995年12月の間にオストドナ村の村落運営委員会事務所建物において開かれたJSRDE関係の各種ミーティングの推定平均参加者数である。

 毎週の会合の推定平均参加者数は14人、年次総会の場合は36人である。これに対して、組合員の総数は、1994年8月現在で66戸139名である(1997年現在は76の全世帯110名が組合員)。組合のコミュニティ単位の活動に対する参加の度合いの低さについては、JSRDEの最終レポートも指摘している。(2)行政サービスと村開発委員会とのリンク:JSRDEが、調整ミーティングや村落掲示板の利用などを通して行政サービスに関する情報をより広く人々の間に共有させ、人々と行政のつながりを強めようとしたこと、またそれを通して行政の人々に対するアカウンタビリティーを明確にしょうとしたことは評価できる。また、そうした行政との接触の中で村の「公」のリーダーシップが育成されてきたこと、村人がどのようにすれば目的のサービスを利用することができるかを知るようになってきたこと、ユニオンレベルでの調整ミーティングが他のユニオンでも行われるようになってきたことなども、ポジティブな点である。

(3) 小規模かつ「共有財産」的な農村インフラストラクチュアの創出:パンチキッタにおいては村落開発委員会から農道補修の要請が出てきたが、JSRDE側の活動費が限られていたため、とり上げることができなかった。JSRDE側から村落側に対する自己負担要請に対しては、委員会・農民からの呼応はなかったようである。

 オストドナ村では当初深管井戸掘削の要請が村民側から強く出されたが、環境的考慮(塩害)と高費用のためにとり上げられるに至らなかった。その後、耕運機の共同運用や養魚などの試みがコミュニティ全体を利するための活動として始められたが、いずれも組合の運営委員会リーダーの杜撰なマネジメントで成功せず、後に運営委員会は、組合としてこのような活動を行わないことを決定した。オストドナ村ではこの他、コミュニティ全体を利する活動として農道への植林、村の電化、および農道の壊れた排水渠の修理を行った。植林については、植えられた苗の世話が十分に行われず、成功しなかった。村の電化は実現したが、これはJSRDEがダッカの農村電化公社の会長に特別命令を出してもらって初めて可能となったという意味で、特殊な例と言うべきであろう。

 結論としては、JSRDE関係者も書いているように、またバングラデシュにおける他の例にも見られるように、「協同組合には、この種の事業で必要とされる強い責任感と企業的感覚が欠如している」と言えよう。これに対し、貯蓄・クレジット活動など、個人の経済的利益を主眼とした活動は、相対的に成功した。

 (4) 農耕の「在地技術」の積極的利用:今回のオストドナ村とパンチキッタ村への訪問では、「在地技術の積極的利用」の顕著な具体例を見るチャンスがなかった。

(4) 効率性

 (1) 資機材・施設等が効率的に使用されているか:オストドナ村における農業協同組合の事務所などは、比較的良く利用されていると思われる。

 (2) メインテナンス・コストは適切か:オストドナ村とパンチキッタ村におけるJSRDEの活動には、大きなインフラストラクチュア・コンポーネントは無かったので、この点での評価はできなかった。

(5) モデルとしての意味および一般化の可能性(Replicability

 JSRDEの特徴は、バングラデシュの多くのNGOやグラミーン銀行などによって行われている貧困層へのターゲット・アプローチをとらず、コミュニティ全体を相手にしょうとしたこと、また行政とコミュニティとのリンクを強めようとしたことである。すなわち一方で伝統的な村のリーダーを中心として村を組織し、「公」の意識を醸成することによって村全体に利益をもたらすと思われるイニシアティブを促進しようとするともに(コミュニティ・アプローチ)、他方で既存の行政サービスに関する情報を村落全体に広め、サービス提供の規則性とそれへのアクセス、および行政側の村に対するアカウンタビリティーの向上を目指した(リンケージ・アプローチ)。アクション・リサーチ・プロジェクトとしてのJSRDEの評価は、個々の活動の実践の成否に基づき、上記の目標を達成するためのモデルをどのように構築しえたかにかかっている。

 ターゲット・アプローチを通じた個人レベルでの収入向上努力に限界があること、またそれだけではカバーできない重要な「公共財」的開発インプットがあることについては、それを示す様々な証拠がある。JSRDEが、それらをコミュニティの参加および貢献、そしてそれへの行政からの支援を通じて解決していこうしたことは、既存の行政機構を避けるのではなくそれに積極的に働きかけ、ポジティブな役割を与え、さらにそれをより効果的なものとしようとしたという試みとして評価できる。

 と同時にこの試みは、特に「コミュニティ・アプローチ」を通じての公共財の実現という点において、いくつかの困難に直面した。組合のミーティングヘの低出席率、いくつかの公共事業的活動の不成功などは、その例である。特に後者のカテゴリーの活動については、「皆の責任は誰の責任でもない」という公共財の供給を巡る心理状況が、往々にして村の大勢となったように思われる。これに対し、オストドナにおける頼母子講的な貯蓄・クレジットグループの活動に見られるように、基本的に個人の経済的利益を直接的な目的としながら、その実現のために共同体の構成員が協力し合うというアプローチは、より成功したようである。村が村として「共同体」の意識を持っているとしても、そのことが即共通の利益促進のための行動には結びつかない。協力の可能性はイシューによっても違ってくるし、組織的セットアップのあり方によっても違ってくる。本事業のこれらの経験は、「共同体」というものと向き合い、それと協働していく際の難しさを教えるものである。

 「コミュニティ・アプローチ」と関連してもう一つ重要なのは、いかにしてコミュニティの権力者による専横および「共通の利益」独占の可能性を排除し、構成員全ての参加を実質的なものとして、「全村的取り組み」を実現していくかということである。例えばオストドナ村では、ミーティングや掲示板などを使った情報の公開と共有というような手段によってこれを実現しようとした。これらは面白い試みである。と同時に、それらのみが上記のような危険に対する十分なセーフ・ガードたりうるかは、確認する必要があると思われる。

 村と行政とのリンケージの強化については、上記のコミュニティ・アプローチよりも困難は少なかったように思われる。例えば、オストドナ村と同村が位置するユニオンのユニオン・パリシャドでは、頻度を落としたとはいえ行政との調整ミーティングが行われていた。また、行政サービスに関する情報を広く一般に知らしめるための掲示板も使われていた。ただ、これらについては、それがこれまで同村がJSRDEに選ばれていたという特殊な環境がもたらした「パイロット・プロジェクト効果」の反映でないかどうか、注意して見守る必要がある。すなわち、少数の村で可能であることが、行政のサブ・システム全体(例えばタナ)で有効でありうるかどうかを検証することが必要であると思われる。


参考文献

 海田能宏、サレハ・ベガム(1995年)、「バングラデシュ農村開発研究」、『東南アジア研究』33巻1号合本別冊、京都大学東南アジア研究センター。

 Kaida,Yoshihiro,Saleha Begum,Haruo Nomaand AKM. Obaidullah(eds.(1996), Final Report on Joint Study on Rural Development (JSRDE) Project (JSRDE Publication No.8), Comila and Dhaka, Bangladesh Academy for Rural Development(BARD)and Japan International Cooperation Agency (JICA).

 矢嶋吉司、河合明宣、安藤和雄(1997年)、「バングラデシュにおける政府系協同組合の再生—A村の貯蓄・貸付組合の経験から」『農林問題研究』第127号。

<注釈>

1……海田・ベグーム(1995年)、5ページ。

2……バングラデシュの行政の単位。県(district)のすぐ下にあり、複数の村落の集合体であるユニオン(行政村)の上に位置する。現在バングラデシュ全体で、64の県、489のタナがある。

3……バングラデシュ農村開発公社(Bangladesh Rural Development Board:BRDB)というバングラデシュ全国で農村開発事業を実施する国家機関のタナにおける出先機関を統括し、タナ農協連合の理事長と連携していくことになっている。

4……この値段は、JSRDEからの補助が入っての値段であると思われる。

5……ユニオン(行政村)の評議会。普通選挙により選ばれた1人の議長と9人の議員からなる。

6……CVDPの組合員は、JSRDEの下で利益を得るのは同組合のメンバーだけであるべきとし、非組合員の村落開発委員会への参加を拒んだが、JSRDEの介入により、本文にあるような折衷案に落ち着いた。

7……しかし、評価基準のうち少数の小項目に関しては、「研究協力」という本事業の性格から評価が難しいこともあり、除外してある。

8……Kaida, Begum, Nomaand Obaidullah (eds.(1996), p.21, p35.同レポートで言及されているパンチキッタ村におけるJSRDE下の活動は、耕運機の共同運用、ヤギの飼育、養魚と米作、乳牛の飼育、育種、野菜の共同出荷、道路補修である。

9……Kaida, Begum, Nomaand Obaidullah (eds) (1996), p.68のデータより作成。

10……「リーダー達は、自分の最も近しい親類に、村レベルでの開発関係の活動への参加や施設利用のチャンスを与えようとする傾向があった……農業協同組合のミーティングの時でさえ、ほとんどの組合員は欠席で、出席者はいつも特定の人々に限られていた。例えば、ある活動の40人の受益者と関係の小委員会の組合員5人によるミーティングを口頭で招集した時、実際に集まったのは受益者9人と小委員会の組合員4人だけだった。この経験に鑑み、JSRDEは関係の人々に、ミーティングを招集する時には3日か4日前に文書で知らせを送ることを奨励した。彼らはそれが、有効なコミュニケーション手段であると理解した。しかしそれでもミーティングでは、参加者による質問や説明の無いまま、リーダー達が決定をとり続けた」(パンチキッタ村)。「共同体開発関係の活動や協同組合の活動に対する村人の参加のレベルは、低いままにとどまっている。村人達は、まだ協同組合を通じての共同体開発の重要性を良く理解していないようだ。問題は、協同組合が共同体開発のための村全体の組織として、経済活動だけでなく共同体全体の利益と関係した社会的活動のイニシアティブを取れるかいなかということである」(オストドナ村)。Kaida, Begum, Noma and Obaidullah (eds) (1996), p.50, p.98

11……矢嶋、河合、安藤(1997年)、78ページ。

12……この点に関しては、近年のグラミーン銀行型の小規模貯蓄・融資プログラムの限界に関する論考を参照。


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