(1) 我が国の援助の流れ
我が国の援助対象国のなかで、フィリピンはこれまで国別研究事業が繰り返されてきた国である。1986~87年に第1次の国別援助研究会がもたれ、さらに1993年に第2次、そして現在第3次のそれが進行中である。
第1次報告書においては政変直後の新中期開発政策(1987~92年)に示された雇用創出・貧困対策・公平な配分・持続的成長を評価し、その目標を支援する方向で援助を実施すべきだとしている。そして、社会経済基盤整備援助に加えて、貧困層を目標に定めた農地改革などの分野への協力が強調された。それなくしては国内治安も持続的成長もあり得ないという認識だったのである。
第2次報告書においては持続的な成長の実現のために、公共部門での適正なマクロ経済運営・インフラ整備・環境保全、民間部門では輸出振興・民間投資促進・国内産業の体質改善のための政府の主導的役割、農地改革とBHNを通じる貧困対策、農林水産業開発と産業の地域分散による地域格差是正、そして産業ニーズにあった人材育成・基礎教育充実・行政能力の向上などの人的資源開発を課題としている。そこで基本方針として、地域間格差の是正、人的資源開発、フィリピン側の自助努力の促進をあげ、重点項目としてインフラ整備支援、国際競争力強化支援、地方産業開発、農地改革支援、地方社会開発、自然資源の持続的利用援助、農業開発を可能にする環境対策、自然災害対策の8点を数えている。
この時期からの我が国のフィリピン援助は、おおむねこの基本方向に沿って進められたといえるのであり、正当であったと評価しうる。
(2) 対フィリピン援助の継続
先にもふれたように、フィリピンは我が国の援助対象国のなかで、早くから長期にわたり主要な地位を占めてきた国の一つである。
この国は独立当初、東南アジアのなかで比較的高い水準の経済をもっていた。1950年の国連統計によれば、一人当たり所得は日本より24%も高かったほどなのであった。それが当時の対米通商協定のもとで固定されていたペソの為替レートの不当な高さのためであったことは言うまでもないが、そればかりではなく、アメリカ植民地以来の地場企業グループの成長、経済的社会的インフラ等の蓄積、戦後に残された復興資金の移転や軍事援助などによって、他の諸国が独立時に直面しなければならなかった困難とは無縁の有利な出発が可能だったのである。
だが、独立が恩恵的にあたえられたことは、19世紀以来の階層構造を温存することになった。典型的な2階層型社会の固定化がみられたのである。エリート層への政治権力と経済力の集中が著しく、その一方、前近代的な土地制度のもとの大衆の貧困は国内市場の拡大を阻み、政治不安が農村部を中心に繰り返された。さらに、工業化の開始は早かったものの、1930年代に始まる国内産業保護政策が長く続いて、他の東南アジア諸国に比べてアメリカを別にすれば外国投資の積極的導入は早かったわけではない。
1970年代の開発の推進のもとで経済の拡大が図られ、輸出商品が一次産業中心から非伝統的製品へ転換するなどの展開はみられたが、全体としては経済は伸びなかった。農地改革や末端の地方自治などポピュリズム的な施策のある程度の前進はあったものの、左翼運動やイスラーム教徒の分離要求などの反体制運動と体制内エリート層市民層による民主化要求が高まって、激しい政治混乱が続き、他の東南アジア諸国が高い成長を実現した1980年代において多くの経済的困難に直面したのであった。
1986年の政変によって民主体制が回復された後も、政治的安定は遅れ、しかも自然災害に繰り返し襲われるという状況が続き、電力をはじめとするインフラ投資の不足や石油価格の上昇などによって産業の回復は進まなかった。経済成長率が5%台に戻ったのは、90年代半ばになってからだった。アキノ・ラモス両政権のイスラーム教徒や左翼との宥和政策、地方分権化、民衆への権限付与、NGOの活用などによる政治不安の沈静化がその背景にある。
1997年の東南アジアの通貨危機はフィリピンにも打撃をもたらしたが・その直接的衝撃は近隣諸国に比べて強いものではなくペソ価も比較的安定していた。だが、これからの日本や東南アジアの経済の冷え込みはフィリピン経済の今後の動向にとって強いインパクトを与えることになりかねない。とりわけ、フィリピンは中東をはじめとする海外諸国への70万人に近い出稼ぎ労働者を送り出しているが彼らの40億ドル(1995)に及ぶ巨額の送金がフィリピン経済を支えるうえで大きな意味をもっていた。東南アジアや韓国の経済的沈黙や外国人労働者から排斥傾向が進めばその影響が出稼ぎ労働者を通じて波及してくることは避けられまい。以上からもフィリピン経済の自立的持続的成長は当面、容易に好転すると見ることは難しい。また、直接投資受入額はまだ小さく、失業率は8~9%に及んでいる。
フィリピンの一人当たり国内総生産は1995年に1,000ドルを超えるに至った。これは発展途上国としては経済自立の水準に近づいたものといえなくはない。だが、上記のように見るとき、フィリピン経済はいまも重大な構造的課題を残し、脆弱性を脱していないのであって、今後もなお援助の手をさしのべていくことが必要だといわねばならない。
だが、援助継続に当たっては、これまで以上に、この国の自助努力の強化と国内資源の動員推進を支援する方向が求められるべきであろう。フィリピンは貧しい人が多い国ではあっても、貧しい国ではないからである。
(3) 社会的格差是正の支援
近年、フィリピン経済が全体としてある程度の成長を取り戻したとしても、依然として深刻な問題が残されている。フィリピンの経済と社会の最大の問題であるところの国内の不平等、つまり貧困層の大きさである。
政府の全国生計調査によっても1994年に所得3万ペソ(1,150ドル)以下の世帯は都市部に65万、農村部に207万あったとされる。それぞれ、総世帯数の10%と32%を占めている。一方、上位10%の世帯が所得総額に占める比率は36%に及んでいる。研究者の推計などによれば所得や経済力の格差が政府統計の示すものよりもはるかに著しいものであることはいうまでもない。
元来この国は100ないし200のエリート家族が支配してきたといわれていたが、経済成長の過程が巨大なビジネス・ファミリーの成長過程であったことは他の発展途上国の場合と同様である。オリガーギー廃絶を言匿ったマルコス支配期には、クローニ一・グループは別として、特権層は雌伏していたが、民主体制の復活は彼らの支配力回復の過程でもあった。
1970年代からの開発の推進のもとの経済成長期にマニラなど大都市を中心に中間層が成長したことは事実である。そしてマルコス大統領の農地改革政策の実施は決して徹底したものとはいえなかったにしても、少なくとも中部ルソンや西ビサヤなどの米作地帯ではそれまでの不在大地主層の土地は分配され、定額小作農家や自作農家が創出されたことは事実である。しかし、人口の増大を背景とする土地なし労働者層の増大は新たな小作関係の出現をもたらしている。そして従来の地主小作関係に残されていた温情的側面が風化し、他面、農業経営の現金経済化の推進のもとで農業投入材や農産物を扱う商業資本による利益の独占が強まり、農村の階層構成は基本的には以前はそれほど違ったものとはならなかった。農村貧困層の堆積はむしろ大きくなる一方だといわねばならない。そしてこのような農村の状況が都市インフォーマル部門の膨張、そして都市貧困層の窮乏の背景をなしている。
ところが、1987年の総合農地改革令と総合農地改革法の制定の過程は、マルコス期に消極的な姿勢をとることを余儀なくされていた地主層に威勢回復の希望を与えるものであった。アキノ政権がマルコス以上に「純正な」農地改革を調い、1972年以降のマルコス農地改革政策が形式的には継続されたとはいえ、農地改革開運の政令公布、法制定、農地改革相任命などにあたって、大統領の選巡や後退的態度が明らかになったことは、土地所有層の反撃を醸成することになった。水田地帯ではある程度の進展が続けられたにせよ、サトウキビやココナッツの地帯においては法の施工は行き悩んだ。とりわけ、コホアンコ家の拠点の一つであるルイシータ農園で企業方式の温存に成功したことは、社会政策としての農地改革の流れを大きく滞らせることになった。一方、工業団地の造成をめぐっての工業省と農地改革省とのあいだの確執も少なくなかった。問題は社会改革の気運をもたらすこと、公正な社会を生み出すための決断と合意をどう示すかであった。
生産意欲の振興、農民のイニシアチブ、生活水準の引き上げ、貧困問題の解消、社会的公正の推進と治安の回復、社会的流動性向上による閉塞感打破と社会の活性化など、農地改革が問いかける課題は多い。新大統領が農地改革を政策目標の一つに掲げ、異質の農地改革相を選んだこの時期は、我が国の協力のなかに「農業開発の一部として」ばかりではなく、経済と社会の発展のために不可欠な農地改革のための支援を自国の経験に照らして本格的に行うことが、もっと検討されるべきであろう。
(4) 助ける援助と苦しめる援助
援助というものは、本来、国民経済面での生産力の向上と分配の公正の実現とともに、災害や貧困に苦しむ人々の自立を助けるために救いの手をさしのべるもののはずである。しかし、全階層に利益をもたらすはずのインフラ建設の場合にさえ、それによって苦しむものが生まれることが少なくない。まして住民のあいだの権利関係が錯綜している農業分野などでは、援助のもたらす利得が階層によって多様な意味を持つのは当然のことである。
一般的にいえば、社会的弱者が苦しむことになるような状況を作り出さないように配慮することに今後いっそう留意するべきであろう。我が国の農業分野の援助においてこれまで少なからず見られたのは、農業基盤の改善がもたらされたり、単位面積当たりの収量の増大が実現すれば、それで地域の農業への寄与が達成されたとする例が多かったことである。その開発事業の果実が実際に誰の手に入ったのかまでは問おうとせず、それは受取国の国内問題だとして近づかないという状況が珍しくなかった、そのため、灌漑事業が実施されても、地主は喜ぶが直接耕作に従事する農民からはかえって恨まれるという例さえあり、誰をターゲットとした開発協力がということを明瞭に認識する視点が欠けている場合もあった。
もちろん援助供与国が受取国の内政に干渉したり、方向性を与えすぎたりすることは戒められねばならない。だが逆に、開発協力がもたらす開発利得の公正な社会的分配を実現して、弱者が苦しむような状況を作り出さないように配慮するようもっと留意すべきだと感じられたことが少なくなかったことも事実である。
とにかく援助はすべてがよいものなのではない。援助のもたらす効果が階層によって異なっているものであることを我々ははっきりと認識すべきなのである。そして、不完全な計画だから苦しむ人が生じるというのではなく、援助というものは本来その事業によって影響を受ける人がでてくるものなのだという発想に立って、そのような集団や個人を見いだし、適切に対応することに十分な注意を今後とも払わねばならないのであろう。
5.2 提言
(1) 民間活力導入との整合性
収益性の高いODA案件は内外の民間資本によって整備することも可能で、実際にBOT(Build-Operate-Transfer)方式、BOO(Build-0wn-Operate)方式を利用してのインフラ整備が進展している。実際、フィリピンでは、製造業の他にも、エネルギー、インフラ、公益事業で顕著にみられ、インフラの分野では多額の外国投資を受け入れている。そこで、これらの民活導入を進めている分野ではODAとの補完関係をいかに形成するかが課題となっているのである。つまり、公共性はあっても収益性の高いインフラの分野もあり、そこでは外資を含む民活導入の対象となって、ODA案件と競合している。例えば、フィリピンの場合、エネルギー関連分野への外国からの直接投資の受入額は1994年には217億ペソと製造業(全体の54.0%)の次に多く、直接投資全体の31.6%に相当し、バタンガス州、ハンガシナン州の石炭火力発電所の建設など経済インフラ整備が進んだのである。ODAに民間企業の呼び水、触媒としての機能は期待できるが、この場合でも、計画、コンサルティング段階での技術協力の方が高いかもしれない。また、高度な医療機材を備えた病院も、高額の診察料を徴収すれば民間によって営業することも可能であり、ODA案件としては貧困者、弱者向けの診療所の方が妥当であるとも考えられる。
つまり、貧困対策は、購買力が低く、労働力としての質も当面は期待できない弱者が多く、民活による開発の対象とはなりにくい。また、環境保全の分野も、エコビジネスの興隆は期待できても、廃棄物処理・リサイクル関連を除くと、収益性は必ずしも高くなく、やはり公的資金の導入が不可欠であろう。つまり、貧困対策、環境保全は民活導入によっても大きく進展することはない分野である。したがって、ODAという公的資金による貧困対策、環境保全は依然として重要な分野である。ODA案件を進めるに際しては、民間部門や民営化との調整が必要である。
(2) 環境保全と平和・人権への配慮
1989年12月のDACの政策ステートメントでは1990年代の開発協力の目標として、環境面での持続性を強調しているし、(1)持続的な経済成長の促進、(2)公平な分配と参加型の開発の促進、(3)環境面での持続性を確保し、人口増加を減速すること、の3点を指摘した。また、我が国も1992年6月に閣議決定したODA大網ではODA実施の四原則として、(1)環境と開発を両立させる、(2)軍事的用途・紛争助長への使用を回避する、(3)国際平和・社会経済開発の観点から軍事支出、大量殺薮兵器、武器の輸出入などの動向に配慮する、(4)民主化、市場経済化、人権・自由の保障の状況に配慮する、としており、ODA供与に当たって今後は、持続可能な開発、平和・人権の確保が大きな課題となることが窺われる。さらに1997年、我が国は21世紀に向けた環境開発支援構想」(ISD)の行動計画を公表した。そこでは、ODAを中心とした我が国の国際環境協力とその目標として、(1)大気汚染・水質汚濁・廃棄物対策、(2)地球温暖化対策、(3)自然環境保全、植林、(4)浄水場・上下水道・井戸の整備、(5)環境意識の向上、を具体的に掲げている。そこで、フィリピンにあっても、今後は環境面での日本との国際協力が進展するように、環境案件が要請される必要が強まっているといえる。我が国のODAは内政不干渉を徹底し、要請主義を掲げ、被援助国の自助努力を尊重するが、従来より、大気汚染、水質汚染等の公害対策など環境問題への取り組みについては開発途上国側にも大きなニーズがあり、ODAにおいても多くの協力実績がある。
更に1997年9月及び12月に、地球環境問題対策案件及び公害対策案件に対して最優遇条件の下で円借款を供与するとの施策の導入・拡充が発表された。本施策は、環境問題に取り組む上で、開発途上国にとっても一層のインセンティブ付与となり、環境面でのODAによる支援のより一層の充実が望まれるところである。こうした点を踏まえ、わが国ではこれまで環境案件に適用される金利引き下げを実施し、その結果環境案件の実績も伸びている。
平和に関しては、フィリピンでは軍事支出が抑制され、大最殺戮兵器の開発についても問題はない。また、民主主義国として大規模な人権侵害のような事件は生じていない。したがって、おおむね平和・人権に関しては問題はないといえるが、インフラ整備に係わる用地買収、住民移転については今後も人権への配慮が十分に必要である。経済発展につれて中間所得層が増加すれば、国民のニーズも多様化するから、公益、国益の名の下に人権問題を無視することはできない。開発独裁、権威主義的開発はフィリピンでは不可能であり、所得向上、教育充実、情報ネットワークの形成をふまえれば、中間層の育成・成長によってますます人権重視の開発が望まれると考えられる。そして、このためには情報公開を中心として開発をプロセスを含めて開かれたものとし、参加型の開発が指向されなくてはならないのである。
(3) 地方、草の根援助の強化
我が国のODAはメトロマニラとその近郊、あるいは島嶼部の主要都市を中心に供与されてきた。これは、経済、人口のうえからは当然のことともいえるが、このままでは都市と農村の経済格差は縮小しないであろう。そこで、地域格差の縮小、貧困対策の進展のためには、地域開発がいっそう重視されるべき段階にきているといえる。また、都市、地方を問わず農家、漁民、小規模な製造業者、個人商店、ジプニーなどの個人経営体は弱者として、貧困対策や教育普及の対象としてのみ扱われてきたが、個人経営体のもつ現地の実状に見合った中間技術、労働集約的技術、旺盛な雇用吸収力は地域コミュニティの安全に大きな役割を果たしている。したがって、個人経営体を中間層、開発の担い手として育成すれば、その中から有望な起業家を輩出できる可能性もある。したがって、草の根援助に関しても、地域開発、個人経営体の人材育成といった経済効果や効率性にも考慮して供与すべきであろう。また、個人経営体など草の根無償の援助は小規模で膨大な案件に上がるから、それを審査する専門官の配置も増やす必要があると考えられる。
しかしながら、草の根無償の案件に関する情報を詳細に集め、審査する時間、マンパワーは限られており、情報も不十分なものとならざる得ない。そこで、中間技術、高い雇用吸収力をもつ個人経営体とそれを取り持つNGO、事業者の能力をふまえれば、分権化、自助努力支援を進めるためには、村落開発金融のようなマイクロクレジットを拡張すべきであろう。また、インフラ整備についても、メトロマニラや地方の主要都市だけではなく、辺地や草の根レベルの援助がいっそう推進されるべきで、バランガイ・レベルでの運輸・通信、エネルギー、上下水道、学校の充実など草の根インフラヘの支援が強化される必要があろう。
(4) 開かれた援助一情報公開
我が国のODAの原資は、一般会計の税金と特別会計(財政投融資)の郵便貯金、年金掛け金が中心で、資金負担者である日本市民の支持が不可欠である。しかし、このように市民の支持が求められるにも拘わらず、ODAの対象をどの分野にすべきかについて市民参加が図られてきたとはいいがたい。国内であれば公共事業の対象に市民、企業地方自治体の要請が反映するが、ODAの場合には資金負担者が国内に、受益者が外国にあるために、要請主義によっては受益者の視点のみが配慮さることはあっても、援助関係省庁(外務省、通産省、大蔵省など)や援助機関(海外経済協力基金、国際協力事業団など)は資金負担者よりも圧倒的に情報優位にあり、専門的見地からODAの対象分野を選択する傾向にある。つまり、受益者が国外にあるために、援助の資金負担者が援助対象分野に対して援助関係省庁や援助機関へ要請したり、意思を伝えたりすることは少なくならざるをえない。
しかし、援助のためには日本市民の理解と負担が必要なこと、フィードバックによりプロジェクトサイクルを形成してODAの効率性を高めること、贈収賄、不正蓄財など援助に関連する疑惑を払拭すること、の3点をふまえれば援助国と被援助国の双方で広くODAとその案件に関する情報公開をおこない、「開かれた援助」を進めるべきであろう。
(5) 参加型の開発
援助国、民間事業者、被援助国、地方自治体、NGO、現地住民など様々な主体が開発に参加することで、個人のニーズに即した開発を進めることができる。つまり、多数の主体が開発の様々な段階に参加することで、コンセンサスが得られれば、効率的に民主的開発を進めることができる。換言すれば、参加型開発を進めるには、計画段階から様々な主体の参加を促すことが必要で、これによってニーズの把握、計画参加へのインセンティブの向上、満足度の高まりが期待でき、それがよりよい計画を順調に進めることを助けるのである。
このような参加型の開発は、1989年12月のDACの政策ステートメントでも指摘されていた。そこでは1990年代の開発協力の目標として、(1)持続的な経済成長の促進、(2)公平な分配と参加型の開発の促進、(3)環境面での持続性を確保し、人口増加を減速すること、の3点を指摘し、開発の必要性をふまえて、成長、人々の参加および環壌面での持続性を重視することを強調している。また、近年では開発に地方自治体NGOを積極的に取り組み、地方自治や住民自治を開発にも取り入れようとする動きが活発化している。そこで、ここでは参加型の開発を支えるための課題として、情報公開、分権化、評価方法を検討しておこう。
参加型開発を進めるに際しての第一の課題は、ODAの資金負担者(日本市民)と受益者(フィリピン市民)の支持をえるために、援助国政府、援助機関、被援助国政府、事業者と資金負担者・受益者の間の情報格差を解消する必要性である。援助国と被援助国、援助機関や事業者はODAの計画、実施、事後評価まで把握できる立場にあるが、このODAに関する情報公開がまず必要である。事前、事後の情報を公開して、広く市民の理解を得るよう努めることで、援助が密室で決定されるという批判を修めないと、援助の資金負担者の支持はえられない。他方、参加型の開発を情報公開によって後押しすることは、1998年度ODA予算10%削減の方針や援助疲れの状況にあっても、ODA拡大のインセンティブを維持することにつながる。つまり、公開される情報の範囲は、計画と実施については援助国、被援助国双方の情報公開が求められる。また、地方自治体に事業の遂行能力があるかどうかを見分けるためにも必要である。さらに基本的人権や自由への配慮がODA案件について強く求められるが、住民への計画の説明会や資料の提供、公聴会の開催などによって、参加の範囲が拡大し、情報公開が進展することで人権侵害のような問題は抑制されるという利点がある。
参加の開発のための第二の課題は、分権化で、従来は開発に参加できなかったり、開発の請負機関であった地方自治体やNGOに対して、権限を委譲していくことである。これは、受益者に接近している地方自治体やNGOに開発の権限を委譲し、受益者のニーズを把握しつつ適切な計画を実施することを促し、情報公開も併せて進めることで、開かれた開発を指向するものである。膨大な案件を援助機関や中央政府がすべて審査、把握することは困難であるから、情報を入手しやすい地方自治体やNGOを開発に参加させることで、効率的で公平な開発を実施できると考えられる。
第三の課題は、情報の質の向上で、特にODA評価については、情報優位にある援助機関や援助受入国の事後評価を実施し、詳細な評価報告書を実施することが望まれる。ただし、評価報告を援助機関や援助受入国のみが作成することは、計画の自画自賛の傾向のために、公正の観点から問題が残る。そこで、中立性、公正の観点からは第三国や援助機関に属さない専門家、NGO、有識者などの第三者評価が重要になる。つまり、ODAをより有効なものとするためには、ODA評価について、第三者評価を含む公正な開発プロセスを導入することである。しかし、第三者はODA案件の視察はしても、基本的には計画当事者から提供される情報をもとに評価を行わざるをえない場合が多い。したがって、第三者評価であるからといって、限られた情報をもとにした評価であるという限界をふまえる必要がある。また、第三者評価のために大量の情報が提供されてはいるが、膨大な案件、金額のODA案件を評価する時間、資金、マンパワーを確保することは困難であり、基本的には計画当事者の情報を公開して、評価可能な状況を維持するべきであろう。