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第2章 パラグアイの政治・経済・社会の動向


1 政治動向

(1) 長期独裁政権から民主化へ

 1989年、アルフレド・ストロエスネル政権が、ロドリゲス将軍率いるクーデターによって倒壊した。強い大統領を軸に、政府、国民共和協会(コロラド党)、軍部と一体化し、安定を誇ってきた家父長的な独裁体制は35年の幕を閉じたのである。

 長期の権威主義体制が崩壊し、民主化が開始されたわけであるが、他のラテンアメリカ諸国とパラグアイが異なる点は、あまりに長期にわたり独裁体制がつづいたために、参考としうる過去の民主的経験や制度をもたないということであろう。困難な課題を抱える民主化という未経験の過程に踏み出したといえるのであり、これまでその過程は、軍との対立をはらむ不安定なものであった。歴史的にみても、長期の権威主義体制下での安定と、短期の自由民主体制下での不安定を繰り返してきた国において、民主化、市場化、経済統合といった内外情勢の激変に対応しつつ、民主体制を確立させていくことが重要な課題となっている。まさにパラグアイは今、歴史的転換点に立っているのであり、今日ほど国際協力が必要とされている時はない。

 
 パラグアイ:政治過程

1954年 ストロエスネル将軍、政権樹立
1989年2月 クーデターでストロエスネル体制崩壊
1989年5月 ロドリゲス将軍、総選挙を経て大統領就任
1991年3月 メルコスール、アスンシオン条約署名
1992年6月 新憲法公布
1993年5月 総選挙(県知事、県議会選挙含む)
1993年5月 総選挙(県知事、県議会選挙含む)
1993年8月 ワスモシ文民政権発足
1995年1月 メルコスール発足
1995年4月 最高裁判事任命、司法権発足
1996年4月 オビエド将軍のクーデター未遂事件
1998年5月 総選挙予定
1998年8月 新政権発足予定
 

(2) 民主化の推進

 クーデターを指導したアンドレス・ロドリゲス将軍は、軍とコロラド党の支持を固め、選挙を実施して当選し、1989年5月大統領に就任した。自らの任期を「民主体制への移行期」と位置づけ(任期4年)、経済の自由化とともに、政治犯の釈放、言論・表現の自由など人権尊重、政党の公認、労組の団結権の容認など政治的自由化、国際社会への復帰など諸改革を進め、制憲議会を招集して92年には新憲法を公布した。

 1992年新憲法は、67年憲法を全面的に改正したもので、民主化の成果を採り込み、パラグアイ共和国史上初の近代的民主憲法となった。大統領の再選禁止、行政権による議会解散権の廃止など大統領権限を大幅に弱めて立法府に権限を委譲し、司法権の独立性を確保するなど、三権分立の確立を目指している。副大統領職を創設した他、県知事、県議会の直接投票による地方政府創設が盛り込まれた。

 1993年には新憲法に沿って、公約通り大統領選挙が行われた。与党の予備選や選挙期間中に不正規な事象があり、与野党内部から選挙に対する疑義が生じたものの、コロラド党予備選を僅差で勝ちぬいたフアン・カルロス・ワスモシ候補が当選し、約40年ぶりに文民大統領に政権が移譲された。ワスモシ政権では、前政権の経済自由化と民主化推進路線が継承された。民主国家のイメージを国際的に高める努力がなされた他、政治面においては、新憲法に基づき裁判制度が再構築され、1995年には最高裁判事が任命されて、独立した司法権が発足したことは特筆に値する。また教育改革など近代化や地方分権に向けた諸改革が進められた。

(3) 政治構図の変化

 1993年選挙は、パラグアイの政治構図に構造的変化が決定的となった選挙である。第1に、コロラド党(ANR)は議会で過半数をとれず、長期にわたった一党支配体制が崩れたことである(表1-1参照)。第2に、支配政党コロラド党とそれと対立してきた野党の急進自由党(PLRA)という伝統的な二大政党システムが変容したと考えられる。都市部の中間層・知識人に基盤をもつ国民会合運動(エンクエントロ:EN)が、変革と近代化、公正をスローガンに第三勢力として登場したからである(表1-2参照)。都市化、教育の普及、マスメディアの浸透は、主に都市青年層の中に、伝統的な政党政治に批判的な流れを生み出している。第3に、コロラド党内に分裂の兆しが明らかになり、政治的流動化を加速させたことである。大統領候補選出をめぐる党内分裂の結果生れたコロラド党の批判派は、野党の自由党とエンクエントロが結成した野党連合に結集した。

 こうした政治変化の中で、ワスモシ政権は少数与党政権として野党との調整が不可避となったのであり、政権が議会との調整を経ながら、民主化を推進しえたことの意義は大きかったといえる。それは議会の多数派を制し、上下両院の議長団を独占した野党連合にとっても、民主体制維持の観点からして挑戦的課題であり、野党連合は政府与党との間に「統治のための合意」(pacto de gobemabilidad)を結んだのである。この協調路線は、野党にとっては最高裁判事の任命や軍の再組織化において譲歩を迫られるというコストを生むこととなり、他方、与党内の党人派による政府批判を強めたが、民主化の定着に果たした意味は大きかったといえよう。

 野党連合「民主連盟」は、1998年選挙に対しても連合を崩さず、統一リストで臨むことになっている。98年選挙の動向については、後に述べるようにオビエド将軍(退役)をめぐり流動的であるが、コロラド党の分裂化傾向は変っていない。コロラド党の政権支配が崩れ、民政下で野党への政権交代というパラグアイの政党史において画期的な転換が実現する可能性が出てきたことは注目に値する。

 もっとも、1993年の大統領選挙において、軍とコロラド党の同盟による「永久的な共同統治」の必要性をオビエド将軍が発言してきており、コロラド党支配の終焉が軍との関係にどのような影響をもたらすのかは予断を許さない。(注:その後98年5月10日の大統領選挙ではコロラド党のクーバス候補が当選したが、オビエド退役将軍はクーデター未遂の罪で有罪が確定したために候補者資格を失っている)

表1-1 1993年大統領選の結果
候補者政党 投票数 得票率(%) 1989年選挙得票率(%)
ワスモシANR 473,176 40.09 74.2
ライノPLRA 378,353 32.06 20.3
カバジェロ・バルガスEN 271,905 23.04 ----
その他 8,198 0.66
ANR:コロラド党、PLRA:自由党、EN:エンクエントロ(国民会合運動)
(出所)Abente Brun, Diego, "Paraguay: Transition from Caudillo Rule, "in J.I.Dominguez and A.F. Lowenthal,eds.,Constructing Democratic Govemance, Johns Hopkins University Press, 1996, chap.7.

表1-2 1993年選挙後の国会の勢力分布
  ANR  PLRA EN
上院 20(12) 17 8 45
下院 38(32) 33 9 80
  58(44) 50 17 125
(注)カッコ内は、政府支持のコロラド党員、それ以外は野党との連合を組んだ批判派
(出所)表1-1に同じ
 

(4) 軍との関係

 独裁体制崩壊ののちも軍人出身大統領のもとでコロラド党支配が継続されたため、軍部はその影響力を保持しつづけた。このため民主化の推進において軍の影響力をいかに抑えるかが文民政権の重要な課題であったが、この点においても、ワスモシ政権は、国際社会の支援を受けつつ、一定の成果を上げたといえる。

 軍の最高実力者で将来に政治的野心をもつリノ・オビエド将軍とワスモシ大統領との対立は、1994年頃から表面化した。将軍はストロエスネル体制崩壊の功績で将軍に昇進し、その後、陸軍司令官として政治に公然と介入し影響力を行使してきた。転機は、96年4月、大統領がオビエド司令官の解任に踏み切ったことである。将軍はこの決定に反発して、軍を動員し陸軍司令部に立てこもったことから、クーデターの危機と受けとられた。大統領は将軍を国防大臣に任命することで事態を収拾しようとしたが、青年層を中心とした反オビエド世論もあり、この任命は撤回された。クーデターの危機は、なによりも大統領の側に立って動いたアメリカ政府の断固たる姿勢、またブラジルなどのメルコスール加盟国の支援で克服され、その結果、ワスモシ政権はオビエド派軍人を排除し、軍の影響力を削ぐことに成功したのである。

(5) 選挙をめぐる政治情勢

 だが、こうした政治面で一定の成果を上げたワスモシ政権も、社会経済情勢の好転を導くにはいたらず、支持を低下させた。むしろ、あまりに激しい内外の環境変化に対し、民営化など経済自由化政策も党内の保守派や労組の反発があり、基盤の弱い政権のもとで一貫性を欠き、経済は停滞をみせた。民主化により国民の権利意識は高まりをみせ、各セクターは長らく抑え込まれてきた要求を行うようになったが、それは同時に、労組のゼネスト、土地なし農民による不法土地占拠、道路占拠など抗議行動をエスカレートさせる結果となった。農村でも階層分化が進み、秩序の悪化など社会問題はかってない水準まで悪化し、不安を高めている。

 独裁時代の安定と秩序への郷愁や「強い大統領」の出現を待ち望む声が出てきたのは、そうした全般的な社会情勢の悪化を背景にしている。その中で、軍とコロラド党内に影響力を残すオビエド将軍をめぐる動静がにわかに注目を集めてきた。今年5月に予定されている大統領選を前に、選挙裁判所への訴訟を交え、し烈な予備選挙を繰り広げた与党コロラド党は、皮肉にもクーデター未遂で退いたオビエド将軍を候補者とせざるをえない状況となったのである。強いカリスマをもち、土着のグアラニー語で演説して、民衆の心を巧みにつかむ将軍は、地方を中心に支持を集め、一部では危機収拾の救世主とならんとしている。この矛盾した状況が、疑いなくパラグアイの民主化の一面でもある。その後、将軍はクーデター未遂の罪で軍事法廷での有罪が確定し、大統領候補者としての資格を喪失している。

(6) 国際社会への復帰

 1970年代半ばまでは、冷戦下アメリカの反共政策のもとで、ストロエスネル政権はアメリカの安全保障政策に適合した安定した反共主義政権として重視され、警察・軍事・経済援助によって厚く保護されてきた。ストロエスネル政権はまた米州機構(OAS)など国際舞台において最も忠実にアメリカ政府の冷戦政策を支持してきたのである。

 しかしカーター政権誕生以降、独裁体制に対するアメリカ政府の支援は後退し、民主化への要求が強まってくるが、1987年には労組の団結権を拒絶したことに対し、レーガン政権はパラグアイに対する最恵国待遇を撤回している。

 こうした1970、80年代の対米関係の悪化や国際的な孤立とは対照的に、日本や台湾、韓国など東アジア諸国との関係が強化されていった。とくに日本は、1976年以来最大の援助国となり、ストロエスネル体制を結果として支えることになった。

 1989年以降の民主化の過程で、アメリカとの関係も修復改善し、また政府の外交努力もあり、国際社会への復帰が進んだ。いまだ中国、キューバ、ベトナムとは外交関係を有していないものの(台湾との外交関係を維持)、かつての反共主義は影を潜め、多角的な外交関係を展開している。

 域内では、リオ・グループに加盟し、1997年には首脳会議の開催国となった。ちなみに同年8月アスンシオンで開催された第11回首脳会議では、「民主教育と行動原則」を採択したほか、グループ内で立憲秩序に侵害のあった場合には外相会議を招集して「民主主義の防衛」に当たることを取り決めている。

 また地域統合へ向けた周辺諸国との協力関係が重要である。とくに1991年のアスンシオン条約に基づき設立されたメルコスールは、95年から関税同盟として発足したが、内政面にも影響を及ぼしはじめた点を指摘する必要がある。96年4月のクーデター未遂事件の克服には、メルコスールの支援が重要であったが、この教訓を生かしてメルコスール加盟国は、事件直後の6月アルゼンチンのサンルイスデメンドサで開いた第10回首脳会議において、加盟国の立憲体制が倒れた場合、その国は経済統合の恩典を失うとするいわゆる「民主主義条項」の協定導入に署名した。

 パラグアイにとって地域統合への参加は、市場改革を進め、集団的な交渉能力の強化を保証するとともに、民主主義維持の担保となってきたことも疑いないところである。

(7) 国家行政の近代化

 以上のように、パラグアイは内外状況において大きな転換を迫られている。重要なことは、その中で行政のあり方も根本的な転換を迫られ、近代化が急務となっているという点である。

 パラグアイの公務員は、従来、特殊個人的関係に基づくパトロネージ(情実)や党への忠誠を基準に採用されることが多く、行政に関わる専門的技術的な能力の基準は二の次であった。とくに独裁体制下では、公務員はすべてコロラド党への強制的な加入を義務づけられていたのである。これは、パラグアイの政治文化や伝統的な政府のあり方と関係し、腐敗の風土を作り上げてきたわけであるが、政府の政策立案や調整・運営の能力など行政全般の能力を阻害する要因となってきたことは否めない。民主化にともない、政治面での新たな制度構築の努力が行われ、近代化、分権化が進められているが、長期的な転換を担い効率的な公共サービスを提供するに足る行政機構とはなっておらず、いぜんとして行政は、旧態依然とした状態が続いている。エステ市に代表されるように密輸や武器、麻薬、麻薬資金などの非合法取り引きが横行し、マフィアの暗躍や暴力を許す環境がつくりだされている。法制度の整備確立と法の支配を保証する、司法権の強化を含めた行政機構の再構築は、地域統合を通じてグローバル化の波が押し寄せようとする中で、喫欽の課題といえよう。

 合理化、民営化等を通じて、小さな国家、効率的な行政機構の構築がラテンアメリカにおいて進められているが、パラグアイでは民主化にともない公務員の数が増加しているという逆の現象が見られる。いぜんとして政府は雇用創出の源泉でありつづけており、.独裁体制崩壊後7年間で、政府関係職員のポストは2万3,749、16%の増加をみた(表1-3)。人事・給与体系、評価昇進の体制は恣意的かつ複雑であり、監督体制、能力開発等の内部体制も不備である。分権化の作業が進められているが、各省庁の地方出先機関の体制にも問題があり、国際協力の実行度を弱める結果となっている。

 まさに人的資源の開発形成という点においても、政府部門の刷新が急務となっているのである。

表1-3 公共部門の職員数(1989~95年)
  1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 増加数
中央政府 118,308 122,147 124,200 128,875 135,095 133,833 136,916 18,608
公社 33,956 36,668 34,920 37,063 38,185 37,665 38,249 4,293
県政府1) 400 720 848 848
公共部門総計 152,264 158,815 159.120 165,938 173,680 172,218 176,013 23,749 
(注1):1991年に創設されたが、1993年の総選挙で選出。
Borda, Dionisio, "Economia y estado en la transicion, "en Mercosur:Integracion e Identidad, APEP, Asuncion, 1997, p.88.


2 経済動向

(1) 経済の現状

 パラグアイは、人口約480万人(1995年央、なお、その後の人口増加により1997年の人口は490万人程度と推定される)の低位中所得国であり、1997年世界開発報告によれば、一人当たり国内総生産(GNP)は1,690ドルとなっている。

 経済成長率は「失われた10年」と言われた1980年代においては、平均年成長率3.0%でラテンアメリカ諸国の平均を上回った。しかしながら、90年代においてはラテンアメリカの主要国が顕著な経済の回復を示したのに対し、パラグアイの場合比較的低い成長率で推移し、1991年から97年までの平均成長率は2.7%にとどまった。

 しかもパラグアイでは、人口増加率が1980年代年3.0%、1990年代(1990~95年の平均)2.7%とラテンアメリカ諸国の中で比較的高い水準にあり、このため、一人当たり国内総生産で見ると、1980年代から90年代において殆ど成長が見られていない。(表1-4参照)

表1-4 パラグアイの長期的な経済発展の動向
  1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1981~90
平均
1991~97
平均
 国内総生産成長率
  パラグアイ
2.4 1.6 4.1 2.9 4.5 1.0 2.5 3.0 2.7
  ラテンアメリカ・カリブ地域平均 3.5 3.0 3.9 5.4 0.2 3.5 5.3 1.0 3.5
 一人当たり国内総生産成長率
  パラグアイ
-0.5 -1.1 1.3 0.2 1.8 -1.6 -0,1 0.0 0.0
  ラテンアメリカ・カリブ地域平均 1.7 1.2 2.1 3.7 -1.5 1.9 3.6 -1.0 1.8
 消費者物価上昇率
  パラグアイ
11.8 17.8 20.4 18.3 10.5 8.2 5.4    
 都市失業率(アスンシオン首都圏)
   パラグアイ
5.1 5.3 5.1 4.4 5.3 8.2 ・・・    
 平均実質賃金(1990年を100とする)
  パラグアイ
104.7 103.6 104.5 106.1 114.2 117.7 115.7    
 公共部門の赤字(GDPに対する比率)
  パラグアイ
0.8 -1.4 -0.7 1.0 -0.3 -0.8 -1.5    
 実質有効為替レート
 (輸入レート:1990年を100とする)
  パラグアイ
93.2 98.7 105.7 105.5 108.5 103.6 99.5    
 交易条件(1990年を100とする)
  パラグアイ
99.5 98.6 103.5 108.1 111.1 109.8 113.1    
 直接外国投資(FDI)(100万ドル)
   パラグアイ
84 137 119 164 157 225 250    
 対外累積債務総額(100万ドル)
   パラグアイ
1,637 1,249 1,218 1,240 1,328 1,366 1,475    
 外国資本純移転額(100万ドル)
  パラグアイ
617 225 456 1,035 622 650 720    
出所:ECLAC, Preliminary Overview of the Economy of Latin America and the Caribbean 1997,1997

 一方、消費者物価上昇率は、政変直後の1990年に年間44.0%の高い水準となったが、その後91年11.8%と低下した後、92年17.8%、93年20.4%に上昇した。その後は次第に低下してきており、1996年には8.2%とはじめて一桁のインフレ率となり、97年には5.4%(97年10月の前年同月比)に低下した(表1-5参照)。

 国内総生産の産業部門別構成比は、1997年の世界開発報告によれば、第一次産業は、1980年の29%から90年代には24%に低下している。なお、この24%の内農業は16%、牧畜業が約8%となっている。一方、第二次産業(広義の工業)は同じ時期に27%から22%に低下した。ただし、製造業の割合は、この間16%と変わっていない。また、サービス業は、この間に44%から54%に増加している。

 パラグアイの経済において、最も重要な産業部門は農牧業であり、上にも述べたようにGDPの約24%を占めるだけでなく、就業者数の37%を占め、また輸出額の約90%を占めている(なお、パラグアイにおいてはいわゆるインフォーマルセクターの生産活動や正式に登録が行われていない貿易額がかなり高い水準となっている。それらについは後に言及するが、ここで一般に用いる数字は全てフォーマルセクターの生産および正式に登録の行われた貿易額である)。

 1989年の政変によって政権に就いたロドリゲス政権は、健全なマクロ経済運営を目標とするとともに、一連の重要な経済改革を実施した。とりわけ従来複数為替レートであった為替制度を単一為替レートとし、金利の自由化を行い、税制改革および徴税制度の改革を行うとともに、対外債務については、債務交渉によって延滞債務の解消を行った。またMERCOSURに加盟し、GATTへの加盟も行っている。

 これら一連の改革によって、長期にわたる独裁政権下で生じていたマクロ経済運営の諸問題の一部が、かなりの改善を見たと言うことが出来る。すなわち財政収支の改善や、インフレの抑制が次第に進み、また、国際収支も改善された。すなわち、金利の自由化が行われたことから、内外金利差によって外国からの資本が流入し、またイタイプ・ダムが稼働することにより、電力部門の収入が増加したこともあり、外貨準備は6億ドルを超え、対外債務も削減された。

 ロドリゲス政権に続いて、1993年8月に発足した現ワスモシ政権は、経済自由化政策を継続し、マクロ経済の安定、国営企業の民営化、税制改革、金融改革などの実施に努めた。とりわけ国営航空会社の民営化や、中央銀行に関する規則および新銀行法の制定などを行うとともに、財政運営の改善をはかるなどの成果を挙げてきている。しかしながら、パラグアイはさらなる経済構造改革を必要としているにも関わらず、民主主義の枠組みのもとで、様々なグループからの強い抵抗もあって、改革は期待されたようにははかどっていないといわざるを得ない。しかるにパラグアイはMERCOSURに参加したことから、アルゼンチン、ブラジルおよびウルグアイとの自由貿易を進めることを約束しており、MERCOSURの枠組み下での競争を追られることから、経済改革の必要性はますます高まっている。

(2) パラグアイのマクロ経済の課題

 上にも述べたようにパラグアイは、1989年の政変以降、経済改革を行って来ているが、90年代に入って金融機関が多数設立されたものの、適切な監督が行われなかったことや、金融機関の経営が不適切であったことなどから、1995年半ばに銀行危機、または金融危機と呼ばれる状況が発生した。これに対処するため中央銀行は、銀行システム全体の総資産の約11%を保有する4つの銀行に介入を行わざるを得なくなり、結局これらの銀行および10の金融会社が破綻し閉鎖されるに至った。中央銀行が銀行システム全体に対して行った金融支援は、約4億5,600万ドル、GDPの5%に達すると言われている。また1997年にはさらに二つの銀行と一つの金融会社が合併や債務の繰り延べ等の方法で救済された。さらに中央銀行は銀行に対し、多額の融資を行っている。

 一方、パラグアイにおける財政政策は、従来一般的に保守的な方針が取られてきたが、最近になって財政収支が次第に悪化してきている。1992年に税制改革が行われ、10%の付加価値税制度が導入された。財政支出の大部分は、公務員の賃金および年金の支払いにあてられており、1995年その額はGDPの約9%に当たっている。政府の経常支出はGDPの13%であり、1990年以降教育や医療に対する財政支出の増加が見られている。しかしながら、この増加分の多くは、教員等の賃金支払いの調整によって生じたものであるとされる。

 中央政府の財政収支は、こうした公務員の賃金支払いなどの増加や財政収入の伸び悩みから96年悪化し、この年には財政赤字がGDPの0.8%となったとされている(ただし、公営企業の黒字から、公共部門全体としてはGDPの1.8%の黒字となっている)。1997年の財政赤字は、前年の約倍の規模となり、GDPの1.5%に増加した。政府は財政支出の管理をより効果的に行う努力をしてきており、また、石油製品に対する課税の増加や税関の運営の改革などを行ってきている。しかしながら、今後も財政状況が悪化していく場合には、政府は公共投資の縮小等の手段をとらなければならないと考えられる。1997年においては、国債の発行や海外からの借人によって公共投資を行っている。

 一方、国際収支の内、経常収支の赤字が1990年代に入って増加してきており(GDPに対する比率では1988年から91年の平均3%から92年から96年の平均9.3%に増加してきている)、赤字額は1995年の4億9,500万ドルから、96年の6億3,500万ドル、97年の8億2,000万ドル(推定値)へと一貫して増加してきている。しかしながら、海外からの直接投資やその他の外国資金の流入が増加したことにより、資本収支が大幅な黒字(1995年5億6,200万ドル、96年5億8,600万ドル、97年6億7,000万ドル)となっており、経常収支の赤字に概ね見合う形となっている。(表1-5参照)

表1-5 パラグアイの最近の主要経済指標
  1995 1996 1997(a)
年変化率
 国内総生産(GDP)
 消費者物価
 実質賃金
 実質為替レート(b)
 交易条件


 GDPに対する財政赤字の比率
 実質預金金利
 実質貸付金利


 財サービスの輸出額
 財サービスの輸入額
 経常収支
 資本・金融収支
 総合収支
4.5
10.5
7.7
2.8
2.8
1.0
8.2
3.1
4.5
-1.1
2.5
5.4
-1.7
-4.0
3.0
-0.3
11.1
22.1
-0.8
9.8
22.2
-1.5
7.3
20.5
100万ドル
4,578
5,225
-495
562
67
4,145
4,878
-635
586
-49
4,130
5,045
-820
670
-150
出所:表-1に同じ
(a)暫定的推定値
(b)マイナスは実質での通貨の切り上げを示す

 以上のように、パラグアイのマクロ経済においては、1995年以降の金融危機、特に銀行システムの危機への対応、次第に悪化しつつある財政収支の問題および国際収支、特に経常収支の問題などが、当面取り組まなければならない重要な課題となっている。ただし、パラグアイの統計においては、この国で大きな比重を占めるインフォーマルセクターの状況が十分に反映されていないことや、登録されていない貿易額、特に輸入額が大きいことから、公式の統計数字が必ずしも正確に経済の状況を反映するとは言えないことに留意する必要がある。例えばパラグアイでは、家庭用の電気製品の大量の輸出入が行われており、これに関わる経済活動の規模は、少なく見積もってもGDPの3ないし4%に達することが明らかであり、さらにGDPの10%程度にまで達するとの見方もある。また、登録されていない貿易規模もかなり大きく、政府の推定によれば、1996年の再輸出額の総額は、正式に登録された輸出額と同じ規模から1.5倍に達するとされる。

(3) 今後の経済発展の目標

 既に述べたようにパラグアイは、1980年代以降一人当たりのGDP成長率は殆ど上昇しておらず、今後の主要な開発目標は、経済制度の近代化を行い、市場経済を十分に機能するように促すとともに、投資・輸出を推進することによって、国民の生活水準を着実に向上することを可能にするような持続的成長のための条件を作り出すことにあると考えられる。このことはパラグアイの経済計画などにおいて強調されている。しかも先に述べたようにパラグアイはMERCOSURに参加したが、MERCOSUR域内の自由化が迫っており、このため、パラグアイにおける改革を行うことは緊要である。しかし、MERCOSURはまた、パラグアイにとっての市場が拡大することも意味している。この機会にいかに対応するかが重要な課題である。

 また、成長率を高めることにより、雇用の機会を改善するとともに、基礎的社会サービスの改善等により貧困層に向けての支援を行うことも重要である。

 より具体的には、パラグアイ政府は中期的に5ないし6%の成長率の達成を目標としている。これはパラグアイの急速に増加する人口に対して雇用機会を提供するために必要な水準であり、また、そのためには次のような課題に優先的に取り組む必要があるとされる。金融セクターの改革、公営企業の民営化、中小企業の振興、基本的なインフラの整備を通じての民間部門の開発、基礎教育、医療、住宅の改善による社会開発および公共部門の運営の改善や地方分権化、民営化および司法の改革を通じての国家の改革がそれである。


3 社会事情

(1) パラグアイの誕生とバイリンガル社会

 パラグアイの歴史は、1537年にブエノスアイレスからラプラタ河、パラナ河を経て、パラグアイ川を溯ってきたスペイン人征服者フアン・デ・サラサル・イ・エスニノサがアスンシオンに砦を建てたことにはじまる。

 その後、16世紀をとおしてほとんど男性によって構成された三千人という少数のスペイン人征服者・定住者がパラグアイにわたり、トゥピー・グアラニー語系先住民女性と婚姻関係に入ったことにより、今日のパラグアイ国民の原形が形成された。一般に家庭では母親の言語と文化が父親のそれに優る影響力をもつといわれるが、パラグアイの場合も母親側のグアラニー語が優勢となり、その文化も今日まで残ることになった。このような人種・民族関係がその後の「パラグアイ人・民族」の形成と発展をかなりの程度規定したということができよう。

 1608年からはパラグアイの東部、南東部および南部地域にカトリック教伝導のためイエズス会士が、16世紀はじめごろからはアスンシオンとその隣接諸村に同じくフランシスコ会士が先住民教化コミュニティーを形成した。これによってそれまで半定住生活を行っていたグアラニー先住民を半ば強制的に定住させて、カトリック教に改宗し、西洋的な「文明化・近代化」を行おうとした。教化コミュニティーは、多いときでパラグアイ東部地方の先住民人口の半分にあたる15万人をも擁したとされる。しかも、イエズス会コミュニティーではグアラニー語を使用し、その普及にも努めた。

 その影響もあって、今日では、グアラニー語を話す人口がスペイン語人口を上回るにいたっている。1992年の国勢調査によると、全人口411万人が家庭で使用している言語は、グアラニー語とスペイン語を混ぜながら同時に使用する者は49%、グアラニー語のみを使用するいわゆるグアラニー語のモノリンガルは39%となっている。これに対してスペイン語のみを使用するスペイン語のモノリンガルは僅か6%にとどまっている。しかも、スペイン語モノリンガルのほとんどが70年代以降にチリやアルゼンチンから移住してきた移住者であることを考えると、パラグアイが今日もなおグアラニー語優勢のバイリンガル社会であることがわかる。

 1967年にスペイン語に並んでグアラニー語が公用語に指定された背景にはこうした事情がある。それ以後、政府はグアラニー語の普及に努め、ついに1990年代なかばに全国の小・中学校で教えられるようになった。ただし、小・中学校で教えられるグアラニー語は従来パラグアイ、特に首都アスンシオンで使用されていたジョパラーと呼ばれるスペイン語混じりのグアラニー語ではなく、ニェエンガトゥーと呼ばれる純粋なグアラニー語であるため、パラグアイ人にとっても学習が困難を極めるといわれている。今日の教育現場では、このようにスペイン語とグアラニー・ニェエンガトゥーのいわば二つの「外国語」(母語以外の言語の意味)が教えられ、パラグアイの小・中学生はこれを学ばなければならず、他の教科を学習するための道具ともいえる語学の学習が負担になっていることは明らかな事実といえよう。

(2) パラグアイの社会・経済と国民アイデンティティ

 パラグアイ国は1537年以降、内陸部に位置するという地理的特徴から植民地期をとおして他のスペイン系アメリカから隔絶され、宗主国スペインからも遠いため、早い時期から独立した地域として発展してきた。さらに、他のスペイン系アメリカ諸国とは異なり、大土地所有制もみられず、チャクラ(chacra)と呼ばれた中小の独立農牧業を基本に発展した。その後、19世紀においてもやはりチャクラと小規模な荘園(アシエンダ)が発展しただけであった。19世紀後半の三国同盟戦争によって戦勝国に占領された後も、経済生産構造には基本的には大きな変化はみられなかった。このため、20世紀に入ってから近年まで貧富の格差もそれほど大きくはなかった。したがってパラグアイ社会では相対的な貧困状況は見られたものの、絶対的な貧困層はほとんどみられなかった。

 植民地期に建設されたイエズス会の教化コミュニティーにおいては集団での共同生活、一般言語としてのグアラニー語の普及、カトリック教をとおしての新思想の定着がはかられた。その過程で、コミュニティー内では改宗した先住民がグアラニー語の讃美歌をつくり、宗教劇を演じるにいたった。さらに、ポルトガル人による先住民狩り遠征隊バンディランチの度重なる攻撃から防衛を重ねることによって、パラグアイ人の間に連帯感が生まれたものと考えられる。このようにして普及したグアラニー語は、まずパラグアイ人の民族アイデンティティの基礎となり、その後次第に国民アイデンティティ形成の素地となった。

 1864年から1870年までの三国同盟戦争では、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの三国を相手に戦い、60万人いた国民が20万人に激減(内男性は2万人弱)するという悲惨な結果がもたらされた。同戦争では、グアラニー語の軍歌がつくられ、グアラニー語の前線新聞が発行された。さらに、この戦争によって戦勝国となったブラジルとアルゼンチンに領土の40%ほどを割譲し、経済状況および政治が両国によって翻弄されるなか、これらの大国に対持しうるアイデンティティの象徴としてグアラニー語の役割は重要性を増していった。さらに、1932年から34年までボリビアと戦ったチャコ戦争に際しては、グアラニー語の無線交信を行い、同じスペイン語国のボリビアの通信傍受も功を奏さなかったといわれ、グアラニー語をとおしての民族アイデンティティは一層強化されたといえる。

 今日においてはグアラニー語の聖書、農業指導書、詩歌集などが次々と発表されるにいたった。さらに、地名、動植物名など身近なものはグアラニー語がほとんどであり、国民的音楽である音楽はグアラニアとよばれるものであり、国花もグアラニー語でいうタジュー(tajy)(スペイン語ではラパチョlapacho)になっている。このように、グアラニー語を基礎とした文化が、今日のパラグアイ人の国民的アイデンティティの核を形成しているといえるだろう。しかも大国ブラジルとアルゼンチンに挟まれ、両国に経済的に依存し、政治的にも影響を受けやすいパラグアイにとって、こうした言語による国民的連帯意識は、両国に自国を対侍して差異化をはかる上で、重要な役割を果たしているといえる。

(3) 日本人移住者・日系人の役割・評価

 パラグアイヘの日本人の移住は、1937年にラコルメナヘの移住によって始まった。当初は隣接諸国からの転住者であったが、その後は二国間協定による移住が開始され、他の集団移住地に入植した。現在は、ラコルメナ、イグアス、ラパス、フラムの集団移住地以外にもペドロ・フアン・カバジェロやアスンシオンにも日系人(日本人移住者およびその子孫)が定住し、活躍するようになった。なかでも首都アスンシオンには、ラコルメナ出身の2世や3世を中心に、約2千人がホワイト・カラー(専門職業、自由業、頭脳労働)として働くか、または商業活動を行うにいたっている。

 このような日系人の目覚しい活躍もあり、今日、パラグアイ政府は、日系人の勤勉さ、誠実さおよびパラグアイ農業分野における功績を称えている。ただし、これはあくまでも日本人移住者と関係のあるとみられる政府関係者あるいは日本人と直接的に接触のあるパラグアイ人の言説であって、はたして広く国民がそのように評価しているかどうかには疑問の余地がある。とはいえ、日系人に対するネガティヴな評価はほとんどないといえる。いずれにせよ、パラグアイ人は押並べて日本人を肯定的に評価していると推測されることについて、過大評価は避けるべきであろう。

 現在、日系人人口は総計約7千人と、全人口比率ではわずか0.17%を占めるにすぎないが、パラグアイ国政府関係者等が彼らに対して高い期待をもっていることは否定できない。特に、南米共同市場内におけるパ国の農業の発展に大きく寄与するものと期待されているようにみられる。 今後とも日本との経済・技術協力を実施するに際しては、引き続き日系人の存在を考慮にいれて行う必要があろう。

(4) ブラジル人の増加と経済効果1970年代から80年代に経済状況が悪化したピノチェット政権時代のチリから移住してきた者と、同じ時期に経済不況下にあったアルゼンチンから移住してきた人々は、総計5万7千人以上いる。なかでもアルゼンチン出身者が4万9千人であり、スペイン語圏外国人出身者では最も多い。しかし、パラグアイの社会・経済に大きな影響を与えている外国人は、やはりブラジル人であろう。

 ブラジル人は1950年代後半からパラグアイの東部地域に入植を始め、1960年代後半から1970年代にかけてパラグアイの安価な土地を求めて移住が加速し、1992年の国勢調査の統計では11万人に上ることがわかった。ブラジル側の推計によると、パラグアイ生まれの二世や二重国籍者を入れるとその数は40万人に上るという。しかも、東部および南東部3県(アルトパラナ県、アマンバイ県、イタプア県)に集中していることから、これらの県人口の1/3を占めるところもある。

 ブラジル人は小農民から大地主まで、幅広い社会・経済層を形成しているが、大豆を中心とする大規模農業経営者には大きな経済力をもっている者が少なくない。さらに、農業にとどまらず牧畜業などを営む者、都市部では飲食店や工業、金融業にも進出し、パラグアイ経済の幅広い分野で活動を展開している。

 農業分野に限ってみると、ブラジル人の存在によって農地の流動化も含めた農業の活性化が期待できるものと考えられる。もちろん、それは他方では伝統的な零細、小中農の農地喪失にもつながり、社会的な不安材料ともなりうる。いずれにしても彼らが近代的な企業家精神をもっており、しかもブラジルのパラナ州市場と連結しているため、これをパラグアイ側で有利に利用して開発に生かせるような可能性があることはまちがいないだろう。

(5) 貧困問題とパラグアイ人の近隣諸国への一時的人口移動

 現在、パラグアイから内国人口の1/4に相当する100万から120万人がアルゼンチンを中心に職を求めて一時的に出稼ぎに出ていると推計される。彼らは経済活動年齢層の者がほとんどであり、主にパラグアイ農村部から雇用の機会を求めて、唯一の都市アスンシオンに出てからアルゼンチンに渡る場合が多い。 一般的にアルゼンチンのブエノスアイレスを中心に、パラグアイ国境からブエノスアイレスに至る地域全般で未熟練労働に従事する低所得者層を形成している。具体的な職業は、女性だと主に家政婦、男性だとトラックの運転手などである。ブエノスアイレスでは、同市近郊の低所得者層地区に住むか、同市内の中流家庭以上で住み込みとして働く。職種と入国資格の関係から、アルゼンチンの経済・労働市場状況に大きく左右されやすい存在である。専門教育を受けていない彼らを、今後パラグアイにおいて労働市場に編入するためには、職業訓練的な教育が重要となってくる。しかも、今後南米共同市場で人的資源としてブラジルやアルゼンチンといったより先進的な国の労働者と競争するためには、なお訓練が必要となろう。

 また、国内の貧困層としては、職をもとめて家族ともども地方からアスンシオンに出て、パラグアイ川に沿うリバーベッド(riverbed)とよばれる貧民窟に住居をかまえるいわゆるカニリタがいて、その数は約100万人にのぼる。カニリタは職を求めて地方から都市部に出て来た人々が多く、都市近郊に住まわざるを得ないが、都市部では川沿いの土地しか定住可能でないため、止む無くそこで生活している。

 しかし、パラグアイ川は夏(11月~4月)の雨季になると上流のブラジル・マトグロッソ州から中流のパラグアイにかけて大雨が降るが、数年に一度その規模が大きくなると、増水してリバーベッドを飲み込み、カニリタは甚大な被害を被る。家が水没し、衛生状態を含め生活環境が悪化し、風土病や感染病が蔓延することになる。1997・98年はこの年にあたった。

(6) 政治文化と行政

 パラグアイでは、1870年に三国同盟戦争に敗れた後、二大政党が結成された。一つは、ブラジルの支援によって地方ボスを中心に結成されたコロラド党であり、もう一つはアルゼンチンを媒介してヨーロッパの自由主義思想に影響され結成された自由党である。それぞれ現在にいたるまでブラジルとアルゼンチンの強い影響を受けているが、自由党は1954年に発足したストロエスネル体制下で分裂を繰り返し、幾つかの少数党になった。

 1947年以来続いているコロラド党政権下、特にストロエスネル体制期に与党の基盤が整備された。パラグアイの全ての社会階層が参加し全国に250以上からなるセクシオナレスと呼ばれるコロラド党支部を中心に支持基盤が整えられているのに加え、軍がこれと連帯して党・軍・市民の3者の協力的関係構造を構築し、野党を寄せ付けない体制ができた。1993年の選挙で民政移管した今日も、なおこの構造は基本的には変っていない。軍の影響力はストロエスネル体制期よりは弱まったものの、パラグアイ国における最大の影響力を有する組織であることには変わりが無い。

 パラグアイは戦後の長い歴史の中でコロラド党のセクシオナレスを牛耳る地方ボスを中心に展開されてきた伝統があり、民政移管以降もこのような体制が継続し、市民の政治文化となっているのが現状である。その結果、選挙ごとに中央官庁の長を始め、地方政治の重要ポストが当選者の支持者と親類・縁者の登用によって入れ替わるだけでなく、地方行政機関職員のかなりの部分が交代するという縁故主義が横行している。そのため中央、地方の政治家を問わず、いかに選挙に勝利するかが最大の政治的課題となる。しかも、行政府が政治的に利用されるため、プロジェクトの継続性が危ぶまれることが多い。結局このような状況を打破するには、まず行政組織と政治を切り離して制度化し、有能なテクノクラート専門家集団を育成して行政に起用する必要があろう。


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