「マラソンコースの道になった」
ところで、ここで思いがけない“いい話”がある。専門家は訓練センターを任務上行き来する必要があるので、各センターを結ぶ農道のような道を日本政府が造ったのであるが、これがたまたま42km。フルマラソンとほゞ同じ距離なのである。建設中からそのことが話題になり、「それじゃ、マラソンをやってみよう」ということにトントン拍子に話がまとまった。賞は、1等、2等者は広島で開催されるアジア大会に参加できること。カンボジア人は「日本に行けるぞ」と張り切った。
センター開所式から約半月後の7月3日早朝、椰子の木が生え、田園風景が広がる気持ちの良い道を数百人が「プローム・ピアップ(ヨーイ、ドン)」の合図と共に一斉に走り出した。10km付近で半分が脱落したが、3分の1が完走。めでたく2人が広島に行き、市民から大変な歓迎を受けたのだった。その後このうちの一人はマラソン選手として、アトランタ・オリンピックにも参加し、見事に完走したのである。
「内戦の時からいい物食べてこなかったからね、早くは走れないけど、楽しいよ」と、その日参加した農民が、ヨーイ・ドンの合図をした今川大使(当時)に語った。
たとえタイムは遅くとも、国際舞台に登場することは、カンボジアのプレゼンスを高めるよい機会だ。命の安全を確保する時代から食べられる時代へ、そして体躯・知力の向上を図る時代へ。カンボジアの復興は日本の温かい支援のもと、着実に進んでいる。
特許権、商標権の出願情報をいかに処理するか――。工業国にとっては産業界全体に関わる大事な問題である。
新興工業国を目指すタイも、例外ではない。タイは第7次国家経済社会発展計画をまとめたとき、工業所有権の保護強化を重要政策の一つとして位置付けた。工業化を目指すなかで、工業所有権を保護しなければ、海外からの技術移転も自国内の技術開発も促進できない、と痛感してのことだった。
ところが、実態が追い付いていないのである。なにせ、94年の特許出願数は4千件。20人あまりの担当官の手作業で対応していたが、とても間に合わない。そこで、93年に日本に本格的に技術協力を要請したのだった。
これに対して日本が持ち込んだのが、特許庁が世界に誇る最先端の特許情報システム。ペーパーレスでオフィス・オートメーション化しているノウハウと特許情報を、世界で初めて、タイに供与しようというのである。
プロジェクトは95年7月から始まった。場所は、15階建ての真新しいオフィスビル。ここには工業所有権行政全般を所管している商務省知的財産局が入居している。その中に、コンピューター化された情報システムを持つ工業所有権情報センターを設置したのだった。
そして、ここにタイ国内だけではなく、世界中の重要な特許情報を集める。これを電子データの形で蓄積して、端末を使って誰もがオンラインでアクセスできるようにする。特許情報は知的財産局の職員だけではなく、科学技術環境省、商務省地方支所の閲覧室に置かれた端末も利用可能にする。これが計画だ。
現在、センターには、日本から5人の専門家が長期派遣され、タイ人スタッフにシステム開発を指導中だ。専門家たちはオフィスにばかり籠ってはいない。カウンターパート側の要望を適時把握しようと、様々な会合や打ち合わせに直接出向いている。タイの実情にあった、効果的な技術移転を行うには、こうした日々のやり取りが大事だからである。
センターの存在は、タイ国内でも徐々に知られつつある。そのきっかけは、95年12月に開催した、工業所有権に関するセミナーだった。政府関係者、企業、大学、放送、メディア関係者など広い分野の有識者が定員オーバーで参加。「わが国もこうした環境を整備していく段階に入ったのか」「できあがると、タイが誇れる情報センターになる」と、大反響であった。
ホントン・バンボット知的財産局長は、こう語る。「コンピューターシステムの導入だけでは、すべて解決できない。このプロジェクトで我が国の人材育成ができるのが大切。日本にもっと技術協力をしてもらいたい」
タイはアセアン諸国の中でも工業化が進み、かつ、知的財産の保護については牽引役を務めている国だ。このプロジェクトが、タイをインドシナ半島を含めた周辺地域のモデル国に高めるのは間違いがない。
計画では2000年までに、システムの導入と人材育成を終えることになっているが、その後もまだまだ人材育成は続く見込みだ。 日本にとっても、事務処理・審査処理の効率化を図ってきた経験を生かす好機でもある。日本の国際協力も、物的インフラ整備から知的協力へと、明らかに転換しているのである。