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カンボジアの復興は“日本橋”から

 豊かな穀倉地帯を、3千tクラスの船が通れる大きな河が、ゆったりと流れている。しかし、そこに架かっている橋は、中ほどで途切れている。それがカンボジア・トンレサップ河に架かる通称“日本橋”の姿だった。
 実はこの橋、日本の協力で1966年に完成したもの。プノンペン市の中心部からやや北側に位置し、緑豊かな対岸とを結ぶ主要な道として活躍していたのを、大事な輸送路ゆえに内戦時に爆破された。以来、悲しい姿をさらし続けてきた。
 この橋を毎日王宮から眺めて胸を痛めていた一人に、当時SNC議長だったシアヌーク殿下がいた。現在のシアヌーク国王だ。人々の記憶から辛い戦争の記憶を遠ざけ、新しい国を造っていこう、それには戦争の象徴たるあの橋を作り直すことだ、と意志を固めた殿下は、復興支援を協議する初の会合で「日本橋をまず修復したい」と、日本側に要請した。カンボジア駐在の今川大使(当時)は即座にこれに応じた。こうして日本の無償資金協力が始まったのである。


”日本橋”は新婚カップルの撮影名所になっている。

 修復といっても、従来の素材は使えない。一からの作業だ。受注した日本の企業はカンボジアの人々のニーズを感じ、この国の真の復興を願いつつ一日も早い開通を目指した。こうして約1年半後の94年2月26日、橋は開通、新憲法で王位に就いたシアヌーク国王によって「日本カンボジア友好橋」と命名された。
 開通式の当日、橋の入り口には日本とカンボジアの国旗が、現地の人々自らの手によって掲げられた。人々は新しい時代の到来を肌で感じ、いさんで開通式に出掛けた。そして国王は、出来上がった橋を前に「日本の善意によって架けられた橋なのだから、この橋を通る者はきちんと交通道徳を守ろう」と、国民に呼び掛けたのである。鶴の一声というべきか、もともとあまり交通規則を守らないカンボジア人ではあるが、徐々に交通道徳は守られてゆき、開通3日目には、中央2車線は車、両横はモーターバイク、両端は人と水牛用、という交通規則が出来上がった。
 続いて対岸では、やはり日本の無償協力によって修復された、コンポンチャムに通じる国道A6号線が、橋の入り口まで延び、カンボジアの大動脈となった。道路1本、橋1本がカンボジアを大きく変えた。プノンペン市民と対岸の村人とが頻繁に往来、経済活動が活発になったのである。治安はすっかり良くなり、ベッド・タウンとなった村には多くの市民が移り住んだ。そして、対岸の村に出没していたクメール・ルージュのゲリラがすっかり影を潜めた。「武器をもってゲリラを退けるのではなく、経済協力をすることで国を再生し平和を得るのは、日本ならではの協力の在り方」と、他国の大使たちは口を揃えて賞讃した。
 予想外な成果もある。国道A6号線沿いに200軒以上のレストランが軒を連ねるようになったことだ。高級な店は華やかな趣向を凝らした明りをつけてアピールする。星を眺めながらの露店式の庶民的な店は、愛想の良い笑顔と音楽とで客を呼び込む。実に多様な店が競うように建ち並び、毎晩プノンペン市民も村人も賑やかに繰り出しているのである。戦争が終わったばかりの国では、こうした健全な楽しみを持つことはとても大切である。人々の気持ちが安定するからだ。
 現地の人の雇用を生んだことも、大きな効果である。1軒当り平均5人雇ったと計算しても、農業以外これといった産業がないカンボジアでは、大変な数である。
 あるレストランのオーナーはこう語る。「もう治安に不安はない。ここで遅くまで飲んだり食べたり踊ったりする人が多いのが、その証しですよ。平和になった幸せを皆感じているんです」
 的を得たインフラの整備は、確実に国を復興させるのである。今も橋のたもとに翻る両国の国旗が、カンボジアの人々の日本への気持ちを表してくれている。

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