海を渡った日本の母子手帳 あるインドネシア人医師の願い
日本では、妊婦なら誰もが母子手帳をもらう。保健所、病院などで広く活用され、低い乳幼児死亡率の達成に一役買ってきた。そんな日本の母子手帳がインドネシアで導入され、大きな反響を呼んでいる。
ことの発端は、あるインドネシア人医師が、国際協力事業団(JICA)の研修で日本を訪れ、実際に使われていた母子手帳を見かけたことだった。医師はことのほか感動し「インドネシアにも導入したい」。そういう彼の願いに、JICAも突き動かされたのだ。
もちろん、インドネシアにもそれまで、日本の母子手帳と同じような役割を果たすものがあった。それがA4判3折カード。ところがこのカードは、妊婦期、家族計画、乳幼児の体重による成長曲線、予防接種、発育チェックなど、目的別に一枚一枚分かれていたために、母親が紛失したり、受診の際に忘れたりしがちだった。記入できるスペースにも限りがあって、母子の妊娠・出産・乳幼児の発達という一連の経過も確認できない。実質的にはあまり役立っていなかったのである。
インドネシアの乳児死亡率は6%(93年)、他のアジア諸国に比べても高い。インドネシア人医師は、高い乳児死亡率の改善を、日本の母子手帳に託したのだった。
ピンクの母子手帳
さて、インドネシア人医師の願いから始まった母子手帳導入計画は、JICAの『家族計画/母子保健』プロジェクトとして立ち上がり、1年間の企画・開発期間と、4カ月のトレーニング期間を経て、1994年2月、サラティガ市で配布されるようになった。
新装なった母子手帳は、日本にならって妊婦から5歳以下の幼児まで、6年間を通して使えるものになった。同時に、インドネシアの現状に合わせて、いくつかの工夫もなされている。
その第1は、語学が苦手な母親にも理解しやすいようにイラストを導入したこと。第2は、保健情報のエッセンスを詰め込んでいるので、妊婦向けの育児書としても役立つこと。第3は、一目で母子手帳とわかるように、子供を抱いた母親の写真を入れ、ピンク色の装丁にしたことだ。
一見奇抜に思えるこの装丁も、忘れたり、紛失したりしないために大いに役立った。現在、母子手帳の配布率は、このサラティガ市で90%。持参率も80%まで向上した。まだ配布されていない地域の住民から「お金を払ってでも手に入れたい」と、母子手帳を強く望む声が寄せられるほどである。
いまでは、母子手帳の普及に熱意のある現地スタッフが、独自に世界銀行のローンを活用して、中部ジャワ州の約740万人を対象に、母子手帳の普及拡大プログラムの実行に動き出すほどまでになった。
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インドネシアの人口は1億9000万人。1万7000余りの島嶼(とうしょ)からなるこの国は、地理的にも文化的にも多様性に富んでいる。全国一斉にこの母子手帳を導入することは困難だ。しかしサラティガ市の成功で、潜在的なニーズが高いことも明らかになった。ジャカルタの保健省も「いずれは自身の限られた財源の中で全国に広げたい」と考え始めているそうである。
JICAのこのプロジェクトは、94年4月に終了した。が、そのあとを引き継いで2人の日本人の専門家が、いまも母子手帳の普及活動に取り組んでいる。腰のすわった援助によって、日本から渡った母子手帳は、いずれインドネシアを席捲してしまうかも知れない。