グローカル外交ネット
福島を見て、来て、味わって
福島県郡山市国際政策課
ヨースト・クラルト
自己紹介
オランダ出身のヨースト・クラルトと申します。2015年から福島県郡山市の国際交流員(CIR)として勤めています。翻訳・通訳、出前講座の開催、多文化共生事業のサポート、情報発信などに力を入れながら、オランダと郡山の絆をより深めようと活動しています。
私と日本
昭和後半に生まれ、いわゆる「ゼロ年代」(2000年代)に青春時代を過ごした私の世代にはよくある話だと思いますが、日本に初めて興味を持ったのは、アニメやゲームがきっかけでした。高校生の頃、日本のアニメが大好きだった友達が当時一番流行っていたアニメを紹介してくれました。そのアニメに私も興味を持ちましたが、具体的に興味を持った対象は友達とは異なり、アニメそのものより、日本語の響きと文字でした。いつの間にか、高校の授業中、こっそりひらがなとカタカナの練習をするようになりました。
大学ではやはり自分のモチベーションで続けられる学問にしたいと思い、日本語を専攻しました。オランダ国内のマーストリヒト市の大学に入学し、課程の一環で京都外国語大学に半年間留学し、大阪にある日本国際交流基金関西国際センターで4か月間語学研修を行いました。卒業論文の代わりに、日立建機株式会社のアムステルダム支店でインターンシップをしましたが、さらに進学したいという希望がありましたので、オランダ最古の大学ライデン大学にある、ヨーロッパ最古の日本学科の修士課程に入学しました。その課程の中、長崎の出島の復元を担当する「出島復元整備室」で3か月間のインターンシップを終えて卒業しました。
大学院の卒業論文に取り組んでいる中、在オランダ日本国大使館のウェブサイトにおいて私の人生を大きく左右する求人を見つけました。それは、郡山市に国際交流員の採用枠ができたというものでした。オランダは非英語圏の国であるため、JETプログラムにおいてもオランダ人は全体で4~5人程度で非常に少ないです。あえてオランダ人を募集する自治体には、おそらくオランダとの何らかのつながりがあるでしょうし、郡山市在住オランダ人は自分を含めて数えるほどしかおりませんが、それでも日本の中でも有数の「親蘭」な町とは言えるでしょう。その理由は、明治初期にあります。
明治初期まで水に恵まれず農業に不向きだった「安積平野」(現在の郡山市一帯)に、猪苗代湖から奥羽山脈を通して水路を拓く計画「安積開拓と安積疏水開さく事業」が実施されました。この明治政府初の国営農業水利事業のおかげで、1万ヘクタールの農地が栄えました。かつてない事業の監修に務めたのは、水管理技術で有名なオランダ出身のファン・ドールン技師でした。今でも郡山ではレジェンドな存在で、小中学校を訪問する時にこの技師の写真を見せたり、オランダ人として自己紹介したりすると、子どもたちから自発的に「ファン・ドールン」という声が上がります。ファン・ドールンの出身地であるブルメン市は現在郡山市の姉妹都市であり、そのつながりから、郡山市が東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会においてオランダのホストタウンにも登録されました。
ファン・ドールンが監修した安積疏水のおかげで、現在、郡山市は約33万人の東北地方で第3位の人口を有する大都市となっています。小さな町出身の私にとって十分都会的で、新幹線で東京まで一時間半もかからない一方、自然環境にとても恵まれリフレッシュできます。例えば、市街地よりも2~3百メートル標高が高いところに位置する猪苗代湖。平野の広がるオランダには考えられませんが、その猪苗代湖では四季折々の楽しみ方があります。夏には、湖水浴やSUP(スタンドアップパドルボード)ができます。冬には、猪苗代湖の景色を楽しみながらスノーボードができます。春と秋は、沿岸をローラースケートで楽しめます。また、そのほかには、郡山市は昔から音楽活動が盛んな都市で、市のイメージキャラクター「がくとくん」までもが音楽バンドを結成しています。音楽が好きでボーカル経験があった私は、何度もそのバンドに参加させていただいて、本当に郡山市で働くことができてラッキーだと感じます。
震災と復興
正直なところ、大使館のウェブサイトで求人をみて、福島県だということがわかった時の第一印象は、猪苗代湖やファン・ドールンなどではありませんでした。まずは、「大丈夫なのかな?」という思いでした。なぜならば、福島について初めて知ったのは震災の時で、福島についてまだ何もわからない自分にとって、「福島」は「場所」というより「事故」の印象が強かったからです。
東日本大震災の時、私は大阪に留学中でした。約600キロ離れた東北で起きた震災、そして福島第一原子力発電所で起きた災害の様子をみて、クラスメート一同、とても心配していました。そのとき、担当の先生に言われたことは、今でもよく覚えています。「いくら大変で、心配でも、日本の様々な面を見ることができるのは、ある意味貴重な機会でもある」と。確かに、日本のこれまでに見たことのない側面を知ることができました。それは、自然災害の脅威と、災害から立ち直る日本人の姿でした。
震災直後、あらゆる場所で募金箱が設置されました。私も何度もクラスメートと一緒に近所の日曜日朝市で募金活動をしました。東京スカイツリーや大阪の道頓堀などの有名なイルミネーションが節電のため消されました。本当に日本がひとつになって、被災された方々を助けようとしていました。その一体感と人々の優しさを私は一生忘れないと思います。郡山市に住み始めてから、異常気象を原因とした自然災害が起きたときも、その同じ精神を再確認できました。
この一体感と優しさは特に地方でよく感じられます。福島県内のメジャーな観光地「大内宿」に行ったとき、知らない男性の方に話しかけられました。郡山市在住オランダ人として自己紹介をすると、その方も同じく郡山市出身でした。そして、郡山市民としてもちろんのこと、オランダとの歴史的なつながりについてもよく知っていました。楽しい会話が終わった後、お別れの挨拶をして、観光地を歩き続けた5分後、後ろからまたその方の声が聞こえてきました。彼は「オランダ人に会えて、郡山の話ができたことが嬉しかった」との言葉とともに、日本酒をプレゼントしてくれました。この優しさを受けて、本当に感動しました。福島に住み始めた時から、このような恩を受けることが何度もあり、私はその恩に本当に応えているだろうかと常に自問自答しています。
この7年間を通して、ますます郡山、そして福島全体の元気な姿が強く見えてきた気がします。まだ、原発の廃炉、処理水の対処方法、避難区域の復興など、様々な困難が残っています。しかし、福島県は不幸を復興に変える力を持っていることを強く実感してきました。多様性があり素晴らしい文化の再発掘、昔から大切に守られてきた豊かな自然の維持、そして水素などの再生可能エネルギー技術開発などを通じて、今後福島県は自然と人間の関係について考えさせられる場所となるのでしょう。
今年3月をもって、私は郡山市役所を退職しますが、これからも郡山市に残って、その魅力をより一層発信する仕事に就く予定です。私も直接経験しましたが、福島の印象を変える最善のツールは、自分で来て、見て、味わって、とにかく体験することです。皆さんも、実際に福島県に来ていただいたら、「福島」という言葉に対するイメージが「災害」から「また行きたい場所」に変わると私は確信しています。


