本巻は、『日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 調印・発効』として、サンフランシスコ平和条約の調印から発効までの外務省記録(1951年9月~1952年4月)を編纂・刊行するもので、通算202冊目の『日本外交文書』になります。(A5判、本文678頁、索引44頁、総頁数722頁、採録文書総数123文書)。
なお、「サンフランシスコ平和条約シリーズ」としては、2006年(平成18年)に第1巻目となる「準備対策」を、2007年(平成19年)に第2巻目となる「対米交渉」を刊行しており、本巻「調印・発効」がシリーズ第3巻目となり、本巻をもってシリーズ全3巻は完結します。
I 平和会議に向けた準備
II サンフランシスコ平和会議
III 平和会議後の対米協議
IV 中国問題に関する吉田書簡
V 日米行政協定締結交渉
VI 平和条約の批准・発効
<索引>
1951年7月11日、米国政府より平和会議出席の確約を求められた日本は、13日、応諾の旨を通報しました。これにより20日、平和会議への招請状が日本に届けられ、日本は欣然出席することを24日米国側へ回答しました。ダレス米国務長官顧問は吉田茂総理自身の会議出席を強く要望し、その旨を繰り返し吉田総理に伝えました。日本側は全権団構成の調整を進め、8月20日、吉田総理を首席全権とする日本側全権団リストを米国側に通報しました。
8月12日、事前の予想に反してソ連は会議への参加を表明し、日本政府はこれに対していかに対応すべきかを米国側と協議しました。また、インド・ビルマ・ユーゴスラビアは、講和後における外国軍隊の駐兵を予見するような平和条約の規定や賠償問題への不満などを理由に会議への不参加を表明しました。会議に参加しないイタリアとの間では、外交関係の再開をどのように進めるべきか協議を行いました。そのほか、日米安全保障条約案の確定と平和条約最終案の公表に向けた日米交渉と並行して(「対米交渉」参照)、日本政府は会議に向けての各種準備に追われました。
本項目では、平和会議招請をめぐる日米間のやり取りをはじめ、日本の平和条約締結権の問題や対日講和をめぐる情勢判断文書など全14文書を採録しています。
1951年9月4日より8日まで、サンフランシスコにおいて52カ国の代表参加のもと、平和会議が開催されました。アチソン米国務長官は9月2日、会談に先立って行われた吉田全権との会談の席で、平和条約調印に対する態度未決定の諸国に対して日本が外交力を発揮して調印を促すよう求めました。これを踏まえて吉田全権は、賠償問題などに関してインドネシアやフィリピンなどと議場外で個別協議を行いました。
平和会議では、9月5日より7日まで8回にわたり全体会議が行われました。全体会議では、米英両国全権による条約案の説明に続き、各国全権が意見陳述を行いました。7日夜の第8回全体会議では吉田全権が受諾演説を行い、8日午前に平和条約署名式が行われました。会議参加国のうちソ連、ポーランド、チェコスロバキアの3カ国を除く49カ国が平和条約に署名しました。また、議定書には27カ国が署名し、日本は国際条約の加入等に関する宣言と戦死者の墳墓に関する宣言にも署名しました。
8日午後には、サンフランシスコ米陸軍第六司令部にて日米安全保障条約の調印が行われ、日本側は吉田全権のみが署名しました。また、吉田全権とアチソン国務長官との間で日本の国際連合に対する協力に関する交換公文が取り交わされました。
本項目では、全体会議における主要国全権の意見陳述や吉田全権の平和条約受諾演説、議場外における各国との協議に関する文書などを中心に、全18文書を採録しています。
平和会議の終了後、わが国外交当局は平和条約の解釈について米国側に確認を求めるとともに、日米安全保障条約や日米行政協定案についても、国会答弁を準備するため、条文解釈などに関して米国側と事務レベル協議を重ねました。また、1951年12月のダレス大使来日にあたっては、日本側では中国問題のみならず、賠償問題や南西諸島問題などに関する資料を作成し、それらはダレス大使へ提出されました。
また、平和条約第15条(a)に基づいて生じる紛争解決のための協定の締結に向けても米英両国との間で協議が行われ、1952年1月25日に締結に関する閣議決定がなされた後、6月12日、ワシントンにて署名されました。
本項目では、平和会議後の日米協議に関する文書を中心に、全19文書を採録しています。
1951年12月に来日したダレス大使の主な任務は、米国議会における平和条約の批准促進のため、中国との講和問題に関して、日本政府が中華民国と交渉する意思があるかを確認することにありました。この米国側の打診に対し、吉田総理は原則として異存はないと回答し、吉田総理からダレス大使宛の書簡(いわゆる「吉田書簡」)が協議・作成され、12月24日付で発出されました。
この「吉田書簡」の内容は、米上院外交委員会における平和条約の審議開始にあわせて、1952年1月15日(日本時間では16日正午)に公表されました。
本項目では、ダレス訪日中に2度行われた吉田・ダレス会談の記録や「吉田書簡」の公表に関する文書を中心に、全13文書を採録しています。
日米安全保障条約に基づいて日本に駐屯する米軍の法的地位を規定する日米行政協定の締結交渉は、平和条約調印後の1952年1月下旬より東京にて、岡崎勝男国務大臣とラスク大使との間で開始されました。
これに先立つ1951年11月、日本側はNATO加盟国間の軍隊の地位協定を模範とした協定案を米国側に提案し、米国側はこれを踏まえた新たな協定案(12月21日付)を提示、同案が日米交渉の基礎案となりました。
交渉は、全11回の全体会議と全16回の非公式会談を中心に行われ、「施設及び区域」や「防衛措置」に関する規定をはじめ協定案をめぐって逐条討議が重ねられました。その結果、1952年2月28日に日米行政協定の署名が行われ、同時に岡崎国務大臣とラスク大使との間で協定第2条(施設及び区域の決定)に関する交換公文が取り交わされました。
本項目では、全体会議および非公式会談の記録のほか、米国案に対する日本側の意見および要請文書など全39文書を採録しています。
平和条約調印直後の1951年9月13日、外務次官から日本政府在外事務所長に宛てて、各国による条約批准の見通しを把握するため、調査訓令が発せられました。これに対して、ほとんどの国からは批准に向けて順調に手続きが進められている旨の回答が寄せられましたが、インドネシアやオランダなど賠償問題を抱える国では手続きが難航していることが報告されました。
日本側は11月18日に平和条約を批准し、28日に批准書を米国に寄託しました。特に日本側は、米国議会における批准審議の動向を注視しましたが、上院本会議での可決後、トルーマン米国大統領は1952年4月15日に批准書に署名しました。そして4月28日、米国の批准書寄託が完了することによって発効条件が満たされ、同日、平和条約は日米安全保障条約とともに発効しました。
本項目では、各国の批准状況を伝える文書や条約発効に際するわが国の対応振りに関する文書などを中心に、全20文書を採録しています。
巻末に、サンフランシスコ平和条約シリーズ全3巻(「準備対策」「対米交渉」「調印・発効」)を通じた日付索引・主要人名索引・主要事項索引を収録しています。