外務省では、昭和戦後期への関心の高まりや同時期に関する研究の進展を受けて、戦前期『日本外交文書』の編纂と並行して、2002年度(平成14年度)より戦後期『日本外交文書』の編纂に着手しました。
本巻は、『日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 準備対策』として、1945年(昭和20年)10月から1950年(昭和25年)9月まで、来るべき平和条約締結に向けて外務省が行なった各種準備研究や、陳述書の作成、連合国との折衝などにかかわる外務省記録を編纂・刊行するもので、通算195冊目の『日本外交文書』になります。
1945年(昭和20年)11月、来るべき平和条約締結に向け、想定される条約内容の検討を目的として、外務省においては、条約局長を長とする「平和条約問題研究幹事会」が省内に設置され、「第一次研究報告」など各種調書が作成されました。
その後、「早期対日講和」を提唱するマッカーサー声明(1947年3月)や、対日講和予備会議の開催が提唱される(1947年7月)など対日講和促進の機運の高まりを背景に、幹事会による作業に代え、新たに「各省連絡幹事会」を設置し、講和に向けての各種研究を行いました。
また、朝海浩一郎(終戦連絡中央事務局総務部長)がアチソン(対日理事会米国代表)やマクマホン・ボール(対日理事会英連邦代表)などの連合国側代表と会談を重ねる一方、萩原徹(条約局長)を中心に、「平和条約に対する日本政府の一般的見解」が作成されました。
本節では、平和条約問題研究幹事会・各省連絡幹事会の設置及びこれらの機関による講和準備のための研究文書、並びに領土問題、安全保障、国際機関参加などに関する陳述書など全49文書を採録しています。
1947年(昭和22年)7月、米国による対日講和予備会議開催の提唱を受け、日本は、平和条約の基礎、その自主的履行、国連への早期加盟、領土問題、賠償問題など9項目にわたる希望条項を記した非公式文書を作成しました。その後、芦田をはじめ朝海、鈴木九萬(横浜終戦連絡事務局長)などが各国の代表と会談し、覚書を手交して日本側の希望事項を伝えるとの形式で連合国との接触を続けました。
その後、ソ連が対日講和予備会議招請に対し再度拒絶の意を明らかにし、さらにアイケルバーガー(在日第8軍司令官)と会談した鈴木が日本の安全保障の方針を質されたことを受けて、日本は、それまでの国連を中心とした安全保障構想の修正を迫られました。この時期から、日米同盟を主軸とする安全保障形態が本格的に議論されることになります。
本節では、連合国との折衝関係記録及びソ連除外の講和方式を視野に入れた安全保障形態の模索に関する文書を中心に、全20文書を採録しています。
1948年(昭和23年)に入り、日本は、ソ連や中国を当事国として含めた「全面講和」方式とするか、あるいはそれらを除外した「多数講和(マジョリティ・ピース)」方式を採択するかについて検討を加えるとともに、「戦争状態終了宣言」を行って平和条約は締結しない「事実上の講和」構想も討議されるなど、講和方式をめぐって模索を続けていました。
こうした状況下で、外務省は「政策審議委員会」を設置し、同委員会に主要な政策部分の審議を担当させるなどの体制を敷き、内外情勢の正確な判断の上に外交政策の基本方針を樹立すべく、具体的な審議研究に着手しました。
本節では、この時期の国際情勢の変化を見据えながら、平和条約締結の実現に向けて進められた基本的な外交政策方針の模索に関わる文書を中心に、全11文書を採録しています。
1949年(昭和24年)10月末から11月初旬にかけて、米国主導で対日平和条約草案が提示される見込みとの情報がもたらされました。これを受けて外務省は、11月4日、各連絡調整地方事務局長宛に電報を発電し、平和条約が米国主導のもとソ連除外の形式で締結される見込みであることを伝えました。
その後外務省内では、「多数講和」方式による条約締結を想定し、その利害得失や日本の取るべき方針、安全保障問題・経済問題に関する特別陳述などを議論しました。これらの作業は、1950年(昭和25年)9月、「対日平和条約想定大綱」の最終稿として結実しました。
本節では、多数講和を選択しその実現に邁進する時期の文書を中心に、全21文書を採録しています。