本巻は、『日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 対米交渉』として、1950年(昭和25年)9月から1951年(昭和26年)8月まで、サンフランシスコ平和条約の締結に向けて行なわれた対米交渉およびその準備作業に関する外務省記録を編纂・刊行するもので、通算198冊目の『日本外交文書』になります。(A5判、本文702頁、採録文書総数150文書)。
なお、「サンフランシスコ平和条約」シリーズとしては、2006年(平成18年)に第1巻目となる「準備対策」を刊行し、本巻「対米交渉」がシリーズ第2巻目となります(全3巻の予定)。
I 準備作業
II 第1次交渉
III 米国草案の提示
IV 第2次交渉
V 第3次交渉と平和条約案の公表
VI 日米安全保障条約案の確定と平和条約最終案の公表
<参考>「日本国との平和条約草案の解説」
1950年9月、米国は対日講和実現の意思を明確に示し、「対日講和七原則」に基づいて各国との協議を開始しました。
こうした動きを受けて外務省事務当局は、A~D作業と称する対応策の検討に着手しました。これらの作業では、講和後の米軍駐留を前提とする日米安全保障条約案と、非武装・軍備制限を根幹とする安全保障条約案の2つの条約案が作成され、対米交渉で提示する日本側見解がとりまとめられました。
また、目黒の外相官邸においては、有識者および旧軍関係者による会合がそれぞれ数回開かれ、安全保障や再軍備を中心に、講和に関する諸問題が検討されました。
本項目では、1950年(昭和25年)9月より翌年1月のダレス訪日直前までに行われた、対米交渉のための準備作業に関する文書を中心に、全28文書を採録しています。
1951年(昭和26年)1月25日、羽田に到着したダレス特使一行は、2月11日に離日するまで3度にわたって吉田総理と会談し、また事務レベル折衝において具体的問題を協議しました。
交渉の冒頭において、日本側は講和問題への基本姿勢を示した「わが方見解」を交付し、その中で沖縄・小笠原諸島の信託統治に関して再考を要望しました。しかし米国側は、「領土問題は解決済」との立場を崩しませんでした。
その後交渉は、日本の安全保障と再軍備を中心に進められました。安全保障問題については、事務レベル折衝において日本側が準備作業に基づく日米安全保障協定案を提案したことにより協議が進展し、平和条約とは別個に取極を結ぶこととなりました。また再軍備問題は、日本側が「再軍備の発足について」という文書を提出して譲歩を示しました。この間において、米国側は「仮覚書案」を交付して米国の平和条約構想を日本側に示しました。そして2月9日、日米合意の印として、関係5文書に両国間でイニシアルが行われました。
本項目では、第1次交渉における日米間の会談記録や双方が提出した文書を中心に、全29文書を採録しています。
3月27日、米国より平和条約草案(全22条)が提示され、日本側は4月4日付覚書をもって、案文への若干の修正意見を付しつつ、内容には異存のない旨を回答しました。
また、それより前の3月17日には、日本は「イニシアルされた文書に対する日本政府の意見および要請」を提出し、米国が日本防衛の責任に対し明確にコミットするよう日米安全保障協定案の修正を求めました。しかし米国側はこれに応じず、日本は自衛力がないので相互安全保障の取極をなしえないと回答しました。
本項目では、第1次交渉と第2次交渉の間に日米間でやりとりされた文書を中心に、全12文書を採録しています。
1951年4月16日に再来日したダレス特使は、マッカーサー連合国最高司令官の解任後も平和条約に関する米国政府の政策には変更がない旨を明らかにしました。
また、米国側が英国作成の平和条約案を内示して日本側意見の提出を求めたのに対し、日本側は、英国案は戦勝国が敗戦国に課する性格の条約であり、米国案の方がはるかに望ましいと回答しました。
さらに対比賠償問題では、米国側よりフィリピンの感情を考慮した対処が必要であるとの提言があり、日本側はフィリピン海域における沈船引揚を研究してみるとの趣旨の文書を提出しました。
なお、ダレス離日(4月23日)後の5月中旬、米国側より中国代表問題に関し日本側の意向を質すところがあり、日本側は国民政府が別個の儀式で別の謄本に署名する方法を最善とすると回答しました。
本項目では、第2次交渉における準備資料、会談記録および会談で提出された文書を中心に、全20文書を採録しています。
6月末に米国側より示された平和条約案は、在中立国・在独伊財産の国際赤十字委員会への引渡しをはじめ、いくつかの重要な修正が加えられていました。特に、対日賠償を強硬に主張する諸国の要求に応じるため、旧案文の賠償打ち切りが撤回され、各種条件を付しつつ平和条約成立後に二国間交渉で解決するとした第14条に日本側は強い懸念を表明し、関係国との交渉に際しての強力な支援を米国側に要望しました。
その後、平和条約案は米国側より細かな修正が加えられ、議定書案、宣言案とともに7月12日に公表されました。またこの間には、英国の要望に応えるため、保険業務再開問題や海洋漁業に関する声明の発出などが協議されました。
本項目では、6月下旬に訪日したアリソン公使が、米英が合同して作成した平和条約案を提示し、日米間の協議を経て、新条約案が公表されるまでの文書を中心に、全27文書を採録しています。
平和条約案の公表後、日本側は数度にわたって条文解釈に関する覚書を提出するなど、日米間において平和条約と日米安全保障条約の文言確定に向けた最終的な調整を行いました。その結果、8月16日には平和条約の最終案が確定し、宣言案とともに公表されました。また、7月30日、米国側より日米安全保障協定の新案文が交付され、いわゆる「極東条項」の規定が追加されました。日本はこの条項をそのまま受け容れ、8月20日、日米安全保障条約の最終案文が確定しました。
その他、平和条約後も日本が国連軍の通過を認め、日本における物資買付によって国連軍の行動を支援する趣旨を明らかにする交換公文案も作成され、日米安全保障条約の署名と同時に行われることとなりました。
本項目では、平和条約案の公表以後における講和会議直前までの日米(英)交渉に関する文書を中心に、全34文書を採録しています。
参考資料として、1951年8月4日付「日本国との平和条約草案の解説」を採録しています。本文書は、7月12日に公表された平和条約草案に基づいて外務省が作成したもので、国会議員に配布されるとともに、8月4日、報道機関に公表されました。