平成17年5月11日
おはようございます。
マックリン・デイトン市長閣下を始めとする名誉あるデイトン市議会議員の皆様、市庁職員の皆様、そして親愛なるデイトン市民の皆様、本日はこのような素晴らしい演説の機会をいただきまして、心から感謝いたしております。一昨日まではブラジルのイグアスで行われた「米州議員連盟」総会に出席し、日本政府を代表して基調講演を行いました。
本日は、このスピーチを終えた後ただちにニュー・ヨークに向かいます。ニュー・ヨーク訪問の目的の一つは、国連本部で開催中の「核兵器不拡散条約」運用検討会議に参加しているNGOや報道機関を対象にしたレセプションを私自身が主催することであります。もう一つの目的は、日本が目指している国連安保理常任理事国入りへの支持取り付けを行うことであります。今回のデイトン訪問は、私自身の強い希望で実現できた、いわば“米国のふるさと”への感謝と日米関係発展の誓いの旅といえるでしょう。
私は外務大臣政務官に就任して約7ヶ月が過ぎました。今回が8度目の海外出張、訪れた国は25をこえました。外務省における所掌は、北米、中東・アフリカ、経済協力、軍縮不拡散・科学です。今年1月にはアラファト氏亡き後のパレスチナ暫定自治政府長官選挙に日本政府が派遣した選挙監視団長として赴きましたし、国連安保理常任理事国入りを果たすべく政府特使として中東やアフリカの国を訪れ首脳に直接支持要請を行っております。また今夏英国で開かれる先進国首脳会議(G8)の環境・開発大臣会議やケニア・ナイロビで開かれた「対人地雷禁止条約」第一回締約国検討会議など幾たびの国際会議で日本政府を代表して演説を行いました。
私の外交活動の原点、政治を志した原点はここデイトンでの1年間の経験であります。
17年前の1月のある夜、20歳代半ばの一人の青年がデイトン空港に降り立ちました。彼を待っていたのは、凍てつくような寒さだけではありませんでした。彼を待っていたのは、デイトン市庁舎、特に行政管理予算局の職員の方々の温かい握手であり、彼を国際行政研究員として受け入れてくれました。
米国での一年間の経験により、「民主主義は与えられるものではなく、住民・有権者の不断の努力によって勝ちとるものだ」という米国人の信条を深く心に刻み込むことができました。また、海外から眺めることにより、日本がいかに平和と繁栄を満喫しているかを改めて実感すると同時に、優れた政治家が指導力を発揮しない限り、平和と繁栄は容易に崩れてしまうと認識できました。当時、私は米国の国家としての器の大きさ、米国人の懐の深さに感銘を受けました。日本の目指すべき国家像について大いに示唆を受けたことは言うまでもありません。デイトンでの経験がなければ、今の私はないのです。
日本に戻った私は、1990年春に松下政経塾を卒塾しました。その後、広島県議会議員を経て、現在は米国下院に相当する衆議院にて2期目を迎えております。
私の家族の紹介をしますと、4年前に妻の案里と結婚しました。案里は2年前より、私がかつて選出された同じ選挙区で広島県議会議員となっております。こどもは犬のタローが一匹いるだけです、今のところは。
1988年以降の日米関係史を簡単に振り返ってみると、世界第1位及び第2位の規模の経済関係は言うまでもなく、政治、安全保障、文化、観光、草の根交流を含む様々な面において、両国の絆は年々強くなるという顕著な傾向が見られます。現在、日米間の姉妹・友好都市は約430を数えます。年間約350万人の日本人が米国を訪れ、約68万人の米国人が日本を訪れています。デイトン市は1968年より神奈川県大磯町と姉妹都市関係を持っていると聞いていますし、デイトン市にあるライト州立大学と岡山理科大学との教育交流も続いているとのことです。
日米両国は車の両輪のように世界の平和と繁栄のためにこれからも協力関係を維持していかなければなりません。私は生涯を通じて、政治家として、日本国民として、また米国の友人の一人として、活発な日米関係の深化に力を尽くすことを誓います。
1988年のあの寒い冬の夜に始まった物語はまだこれからも続いていきます。
御清聴、本当に有難うございます。皆様の御健勝と御活躍をお祈りいたします。皆様、有難うございます。