演説

河井外務大臣政務官演説

河井政務官スピーチ(仮訳)
「日本のポロロッカ:日本人のブラジル移住と日本への逆流現象」

平成17年5月9日
於:米州議員連盟総会(ブラジル・イグアス)

(英語版はこちら)

1. 冒頭

 本日、多くのご出席の皆様に対しお話しする機会を頂き、大変光栄です。このような機会を与えて下さいましたマリア・ジョゼ・マニーニャ米州議員連盟総会(COPA)事務局長に感謝致します。彼女は、この会議に出席するように私と妻を説得するため、私の地元広島まで来たのです。また、イグアスのような美しい場所を訪問することができ、大変嬉しく思います。

 グローバリゼーションの進展により、今日、世界中で人の移動や移住が増大しています。このような人の流れは、様々な分野で新たな機会を生むとともに、様々な課題も作り出しています。したがいまして、今次会合のテーマである「移住」はまさに時宜を得たものであります。本日は、こうした人の移動や移住の一つの事例として、日本の経験と取組みをご紹介させて頂きます。

2. 日本人のブラジル移住

(1)日本人の移住の歴史

 日本人の組織的な移住が開始されたのは、日本が約2世紀半の鎖国を経て開国をした明治元年(1868年)のことでした。ハワイに渡った約150名の農業移住者が嚆矢です。今世紀に入る頃から、日本人の移住の流れは米国本土に向かい、その後、中南米諸国に展開されていきました。戦前の移住者数は約78万人、その約4分の1がブラジルに行き、戦後の移住者数は約26万人、うち約7万人がブラジルに向かいました。

 現在、移住者の子孫の方々(日系人)は約260万人と推定され、その大半はアメリカ大陸におられます。約140万人の日系人の方々がおられるブラジルが一番多く、それに次ぐのが約100万人の米国です。今日では、6世も誕生する時代が到来しつつあります。

(2)日本人のブラジル移住

 1908年、笠戸丸に乗った日本人移住者がサンパウロ州のサントス港に到着して、日本人のブラジル移住が始まりました。一般的に、移住の動機には「抑圧からの自由」、「欠乏からの自由」がありますが、日本人の移住は後者にあてはまります。歴史的に見て、日本からブラジルへの移住の理由は双方の国に関係していました。ブラジルにおいては、コーヒーの生産と輸出による経済ブームの中で、アフリカからの奴隷解放によりコーヒー農園における労働力が不足していました。また、日本は、当時はまだ農業中心の途上国であり、国内に過剰な労働力を抱えていました。特に、農地を相続できない次男、三男等の方々が移住する例が多くみられました。

 第2次世界大戦後、1952年のアマゾンの移住地を皮切りに組織的移住が再開しました。当時(1951年)の一人当たり所得水準はブラジルが日本の約1.7倍でした。

 日系移住者とその子孫の方々は、特に農業分野においてブラジルの発展に大きく貢献しました。日系人の方々が懸命に開発に取り組んだ結果、セラードは世界第一の大豆生産の拠点となったことは良く知られています。現在では、農産物に関する日本語がブラジルの現地語になった例がいくつもあります。「カキ」などがそうです。

 今日、ブラジルの日系人は海外で最大の日系社会を形成し、日系人の美点である勤勉性や忍耐強さもあって、日本・ブラジル友好関係の礎となっています。特に、2008年は日本人のブラジル移住100周年という記念すべき年であり、両国で祝うことになっています。

3. 在日ブラジル人

 次に在日ブラジル人の話に移りたいと思います。今や、日本からブラジルへの移住者の子孫が父祖の地である日本に大規模に戻ってきております。私はこの逆移住の流れを「日本のポロロッカ」と呼びたいと思います。「ポロロッカ」とは、アマゾン川の大きな逆流現象を意味します。

 1980年代後半以降、日本の好調な経済、ブラジル経済の低迷を背景に、待遇の良い職を求めて日本に行くブラジル人の数が急激に増加しました。2003年の日本の1人当り所得水準は、ブラジルの約13倍となっており、1950年代とは移住の流れが逆になりました。特に1989年の入管法改正により、日系3世の日本における滞在条件が緩和されました。その結果、就労目的で日本に入国する日系ブラジル人が急増しました。

 2003年には約3万人のブラジル人が日本に移住し、現在、約27万5千人のブラジル人が日本で生活しています。その多くは、自動車、電気機器の工場で働いています。そうした方々のブラジルへの送金は年間約22億ドルで、ブラジルの対日輸出額にほぼ匹敵します。

 当初は、日本に来た日系ブラジル人の方々の多くは、単身で来て、2~3年の短期滞在を予定していました。しかし、その後、日本滞在期間は年々延期され、あるいは、家族を日本呼び寄せるようになりました。永住ビザ取得者数は、日本に来るブラジル人数の約3分の1に相当します。

 他方で、こうした動きに関連し、アイデンティティーの揺らぎ、言葉の問題、雇用、教育、地域社会との関係など、様々な課題が表面化しています。こうした問題を典型的に示す具体的な事例をいくつかご紹介させて頂きます。

 一つ目は、小学校低学年で訪日した少年(仮にアントニオ君と呼びます)の例です。彼は、日本に来てから日本語をよく学び、日本語能力がポルトガル語能力を上回るようになりました。そして、ついには、彼はポルトガル語を忘れ、両親は日本語が分からないといった状態になりました。その結果、家庭においてコミュニケーションの問題が生じるようになってしまいました。

 二つ目は、ある企業に就職した方(仮にスズキさんと呼びます)の例です。彼は、社会保険料を負担したがらず、社会保険に加入しませんでした、ある日、彼は病気になりました。彼は無保険であるため、医療費が高額になることから病院に行くことを諦めてしまいました。その結果、病気の治療が長引き、病欠が続いた結果、解雇されてしまいました。

 これまで在日ブラジル人の方が苦労している例を挙げてきましたが、そうした例ばかりではありません。それが日系ブラジル人3世のある女性(仮にシルバさんと呼びます)の例です。彼女は、10才のときに両親と来日し、地元の学校に通い始めましたが、授業についていけないために、落ち込んでしまい、学校に行かなくなってしまいました。しかし、彼女は、自治体の提供する学習サポート教室で、日本語・ポルトガル語による二ヶ国語教育の機会を得ることができ、ようやく笑顔を取り戻したそうです。

 日本のいくつかの自治体では、日系ブラジル人等外国人が住民の15%以上を占めます。ちなみに日本の総人口に占める外国人登録者数の割合は約1.5%です。

 私はこの会議に来る前に太田市を訪問しました。太田市は、東京から約100キロ離れ、人口は約21万人の自動車製造関連企業の多い工業都市です。太田市に在住する外国人は約8千人で、その割合は全国平均の約2.7倍、外国人の約半分が日系ブラジル人です。太田市長は特に教育を重視し、「外国人児童生徒教育特区」を設置しました。太田市は、ブラジル人教師を雇用し、今年の4月からポルトガル語と日本語による二ヶ国語教育を開始しました。私はこうした太田市の熱心な取り組み、また、日本人と外国人が共に課題の解決に向けて取り組んでいる様子に感銘を受けてきたところです。

 また、2001年より、外国人が多数居住する都市の行政府、国際交流協会等により「外国人集住都市会議」が開催されました。この会議には15の都市が参加しました。現在、これらの都市は、就労、教育等、外国人住民に係わる諸課題の解決に協力して取り組んでいます。

 地方自治体だけでなく、中央政府も外国人居住者のために様々な取り組みを進めています。例えば、内閣を中心として11の関係府省庁が連絡会議を開き、情報の共有や対応の調整を行っています。移住に関する多面的な課題に対処するためには、このような会議が必要です。しかし、改善の余地は大きいと言わざるを得ません。したがいまして、私個人としましては、将来、状況を変えるための効果的なメカニズムを創設すべく、取り組んでいきたいと考えております。

4.結語

 グローバル化が進む今日、人口移動は一層活発になっており、これからもこの傾向は続くことでしょう。こうした人口移動や移住の結果、教育、就労、文化の継承など様々な分野で課題が生じています。これは、移住の受け入れ国及び送り出し国の双方にとって、また、移住者本人とその家族の方にとって大きな挑戦です。日本は送り出し国と受け入れ国の双方を極めて短期間に経験した国です。他のアジア・中南米諸国も将来の経済発展により同様の状況に直面する可能性があります。日本の経験がご出席の皆様の参考になれば幸いです。

 私たちは「移住」がもたらす課題の解決から逃げるべきではありません。移住した人々と受け入れ国の人々が共に努力することにより、真の友情と相互理解が生まれるものと信じます。私は、海外の日系人の方々に配慮した外交政策を推進するとともに、日本にいる外国人の方々の問題についても真摯に取り組んでいく決意です。ブラジルが日本の移住者を暖かく受け入れてくれたことに恩返しするために、日本にいる日系ブラジル人の方々を最大限支援することが重要です。5月26日からルーラ大統領が日本を訪問します。大統領の小泉総理との会談では、在日ブラジル人の問題について取り上げられることでしょう。私は、日本とブラジルの両政府が協力して取り組んではじめて問題を解決することができると信じており、ブラジル政府の積極的な役割を歓迎します。移住した方々は、国境を越えた絆を作り、世界の国々をつなぐ貴重な架け橋であることを、我々は決して忘れるべきではありません。

 最後に、ご静聴頂きました皆様に感謝申し上げます。ムイト・オブリガード(Muito obrigado)。

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