外交史料館

コラム 平沢和重 嘉納治五郎を看取った外交官

令和3年7月12日
(画像1)平沢和重 平沢和重

 オリンピックの東京開催を訴えるため、1938(昭和13)年にカイロで行われたIOC総会に出席した嘉納治五郎は、帰国途中の船内で死去しました。同じ船に乗り合わせ、嘉納の最期を看取ったとされるのが、外交官の平沢和重(ひらさわ・かずしげ)でした。平沢は戦後NHKの解説委員に転身し、1959(昭和34)年のIOC総会で1964(昭和39)年東京オリンピック開催立候補趣意説明を行いました。趣意説明の中で、平沢は、日本の小学6年生の教科書に『五輪の旗』というエッセイが掲載されていることを紹介し、日本では、小学校の時からオリンピック精神やオリンピック・ムーブメントについて学習し、深く理解していることをアピールしました。平沢の簡潔でわかりやすいメッセージはIOC委員たちの心を動かし、オリンピックの東京招致に大きく貢献しました。
 1940(昭和15)年の東京オリンピックは幻に終わりましたが、彼らの思いは受け継がれ、1964(昭和39)年の東京オリンピック開催へとつながっていきました。

外交史料館へ戻る